創世記10章

創世記10章には、「諸民族の起源」が記されてあります。それによると世界のすべての民族は、ノアの三人の息子セム・ハム・ヤペテから分かれ出ました。大洪水の時ノアの箱舟に乗ったのは、ノアとその妻、および彼らの息子セム・ハム・ヤペテとその妻たちの合計8人でした。ですから、現在の人類は、すべてノアの子孫であり、またすべての民族はセム、ハム、ヤペテの3人を先祖として、分かれ出たことになります。

1.ヤペテ(10:2-5)

まず取り上げられているのはヤペテです。兄弟の順序からすればセム、ヤペテ、ハムですからセムが取り上げられなければならないのですが、以後、セムの歴史が中心に記されていくので、その前にヤペテとハムの歴史をまず取り上げて、その後で中心のセムについて書き記すという書き方をしています。

「ヤペテ」という名前の意味は「広い」です。事実、ヤペテ系の民族はその名のとおり、非常に広い範囲に移り住みました。ヤペテから出た諸民族は、「白人」と呼ばれる欧米人やロシア人、ペルシャ人、インド人などになりまた。聖書によるとヤペテの子は、「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス」でした。まず「ゴメル」です。ゴメルの子孫は、「アシュケナズ、リファテ、トガルマ」(10:3)とあります。

「アシュケナズ」はおもに小アジア(今のトルコ)に移り住みましたが、さらに進んでヨーロッパに渡り、ドイツにも移り住んだようです。ユダヤ人はドイツ人を「アシュケナズ」という名で呼んできたのは、ここにその由来があるようです。

「リファテ」はパフレゴニヤ人、「トガルマ」はフルギヤ人のことです。(ヨセフスによると・・)今のアルメニア人の先祖です。彼らはいずれも小アジア(今のトルコ)に移り住みました。

次にヤペテの子「マゴグ」です。彼らはスキタイ人のことで、南ロシアの騎馬民族となりました。(ヨセフス「ユダヤ古代史1巻6:1)

ヤペテのもうひとりの子「マダイ」はメディア人のことです。彼らはメソポタミヤにメディア帝国を作り、のちに兄弟民族のペルシャ人と結託して、メディア・ペルシャ帝国を築き上げました。いわゆるアーリア人は、この「マダイ」の子孫です。アーリアの名は、メデア・ペルシャ帝国の人々が「アーリア人」と呼ばれたことから来ているのです。アーリア人はインド方面にも移り住み、インドの主要民族となりました。したがってインドの主要民族は、ヤペテ系です。

次に出てくるのは「ヤワン」です。「ヤワン」とは、ギリシャ人のことです。ギリシャは、ヘブル語で「ヤワン」なのです。ギリシャ人は自分たちのことを、イオニヤ人(ギリシャ語でイヤオ-ン)と呼んでいました。聖書にはヤワンの子は、「エリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人」(10:4)とあります。「エリシャ」はおそらくギリシャや、地中海のキプロス島に渡った人たちです。「タルシシュは、スペインに移り住んだ人たちです。スペインには、「タルテッソ」という港があります。(ヨナ1:3)キティム人は、キプロスに渡り、そこを占領した民族です。(ヨセフス、「ユダヤ古代史」1巻6:1)「ドニダム人は、おそらく北方ギリシャ人、タセルダネア人、ドーリア人、またはエーゲ海東のローデア人のことです。

次は「トバル」です。彼らは旧ソ連の中にあるグルジヤ共和国あたりに移り住みました。グルジヤ共和国の首都トビリシは、この「トバル」に由来しています。

ヤペテの子「メシェク」は、モスコイ人のことで、(ヘロドトス「歴史」3:94)旧ソ連のロシア共和国付近に移り住んだ民族です。モスクワの名は、この「メシェク」に由来しています。ヤペテの子「ティラス」は、エーゲ海周辺に移り住んだエトラシア人です。

このようにヤペテの子孫は、おもにヨーロッパ、ロシア方面に移り住み、インドにも移り住みました。ですからヤペテ系民族は、いわゆる「インド・ヨーロッパ語族」の人々と、ほぼ同じか、ほとんど重なるものです。

一般に言われている「インド・ヨーロッパ語族」というのは、

〔西方系〕スラブ系=ロシア人・ポーランド人・ユーゴスラビア人・ブルガリア人等 チュートン(ゲルマン)系=イギリス人・オランダ人・ドイツ人・ノルマン人 ラテン系=イタリア人・フランス人・スペイン人・ポルトガル人 ギリシャ系=ギリシャ人

〔東方系〕インド人(アーリア人)・イラン人(メデア・ペルシャ人)です。これまで見てきたことからを考えると、大まかに言って、スラブ系は、マゴグ・トバル・メシェク・ゴメル チュートン系(ゲルマン系)は、マダイ・ゴメル ラテン系・ギリシャ系は、ヤワン 東方系は、マダイの子孫ということになるでしょう。ヤペテ系の人々の肌は、大体において白色から、黄色かかったうすい褐色をしています。

2.ハムの子孫(6-20)

次にハムの子孫について見ていきましょう。10章6節には、「ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。」とあります。はじめに「クシュ」は、旧約聖書の古代訳であるアレキサンドリヤ・ギリシャ語訳では「エチオピア」です。この「クシュ」から、アフリカ大陸に住んだヌビア民族が生まれ出ました。クシュの子孫のひとり「セバ」(10:7)、エチエピアの町メロイの旧名でもあります。(ヨセフス「ユダヤ古代史」第二巻10:2)

次に、ハムの子「ミツライム」からは、エジプト人が出ました。ミツライムの子孫「パテロス人」(同10:13)などは、今日のエジプトに定住した民族です。同じくミツライムの子孫「レハビム」(10:13)は、アフリカ大陸の北部のリビアあたりに定住しました。(同ヨセフス)

次にハムの子「プテ」も、アフリカ北西岸リビア地方に移り住みました。ハムの子孫の多くは、アフリカ大陸に広がったのです。彼らはアフリカ北部から次第に南下して、やがてアフリカ全土に広がったのでしょう。

したがって、いわゆるニグロイド(黒人)はハムの子孫ということになります。しかしハムの子孫のすべてが、アフリカ大陸に移り住んだというわけではありません。また、ハムの子孫のすべてが黒人というわけでもないのです。

ここにハムの子クシュの子孫に「サブタ」(10:7)という人がいますが、彼はアラビア半島の南端のハドラマウトというところに定住しました。同じく「ラマ」は、ハドラマウト北方に住んだランマニテ人のことです。

またクシュの子孫「サブテカ」(10:7)は、ペルシャ湾東側の都サムダケを建設した民族であり、「シェバ」は、アラビア半島南西部のマリブを都とする商業国の建設者、「テダン」は、北方アラビア人となった人々です。ハムの子孫の中には、アラビア半島に移り住んだ人々もいました。またハムの子「クシュ」の子孫の中から「ニムロデ」という人物も出ました。彼はメソポタミヤ地方に強大な王国をつくり、地上最初の権力者となりました。 ニムロデの王国は、「シヌアルの地」(10:10)にありました。歴史学のうえで有名なシュメール地方(メソポタミヤ)のことです。彼は都市国家バベル、エレク、アカデ(アッカド)を征服して支配しました。ニムロデの名はその後も伝説的に語り継がれ、のちに神格化されて、バビロンの守護神メロダク(マルズク)として崇められました。有名なハムラビ王(B.C.2000年頃)の時代には、世界最高の神として祭られました。

このようにハム系の民族の中には、メソポタミヤ地方や、アラビア半島方面に広がった人々もいました。さらに次に見るように、パレスチナ地方に移り住んだ人たちもいました。ハムの子ミツライムの子孫「カスルヒム人」は、ペリシテ人の先祖で(10:14)、「バレスチナ」という名は、彼ら「ペリシテ」の名に由来するものです。彼らは、イスラエル人とたびたび戦闘を交えたので、旧約聖書にもよく出てきます。

またハムの子「カナン」から出た民族のほとんども、パレスチナ地方から小アジア地方(今のトルコ共和国)に移り住みました。たとえば、カナンの子孫の「シドン人」(10:15)は、フェニキヤ人となった人々です。フェニキヤ地方(今日のシリア)には、今もシドンという町があります。カナン人の子孫「ヘテ人」は、ハッティ人のことです。彼らはのちに他民族、おそらくヤペテ系民族に征服され、いわゆるヒッタイト王国の住民となりました。 カナンの子孫「エブス人」は(10:16)、エルサレムの先住民族であり、「エモリ人」(10:16)は、スリヤ(今日のシリヤ)に移り住んだ民族です。ヒビ人は、パレスチナに移り住みました。 またカナンの子孫「アルキ人」(10:17)は、レバノン山麓テル・アルカ近辺の住民、「アルワデ人」(10:17)は都市国家アルワデの住人、「ツェマリ人」(10:18)は都市国家ズムラの住人、「ハマテ人」(10:18)は都市国家ハマテの住人と言われています。彼らはいずれも、パレスチナ、レバノン、シリヤあたのり町々の住人となったのです。

結論としてハムの子孫は、アフリカ大陸や、アラビア半島、メソポタミヤ、パレスチナ、シリヤ、小アジア(今のトルコ)の地域に移り住みました。古代史に名だたるエジプト帝国、フェニキア人、またフェニキア人の植民都市カルタゴなどはみな、ハム系です。ハム系の人々の肌の色は、大体において黒色から、黄色かかったうすい褐色まであります。

ニューギニア人、フィリピン原住民、マライ半島(マレーシア原住民)、オーストラリア原住民、そのほか「東南アジア・ニグロイド」とか「オセアニア・ニグロイド」と言われる人々も、ハム系の血が濃いのではないかと思われます。つまりハム系の人々は、かなり東の方まで進出し、東南アジアや、ニューギニヤ、オーストラリア方面にも移り住んだようです。「ハム」という名前の意味は「暑い」という意味で、実際に彼らは、おもに暑い地方に移り住んだようです。

3.セムから出た民族(21-31)

10:22には、セムの子孫は、「エラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム」とあります。はじめに三番目のアルパクシャデから見ていきましょう。10:24によると、彼の孫に「エベル」という人物が出てきますが、この「エベル」は、「ヘブル人」の先祖です。(11:14)すなわち、「エベル」から、イスラエル人とかユダヤ人と呼ばれる人々が出たのです。またねこのアルパクシャデの子孫の中には、「シェレフ」や「ハツァルマベテ」「ウザル」といった人たちが出ていることがわかります。「シェレフ」は、アラビア南部に定住した民族です。

「ハツァルマベテ」は、今日のアラビア半島南端の、ハドラマウト地方に定住した民族です。名前が似ているのは、この地方に移り住んだのが彼らだったからです。「ウザル」、アラビア半島に移り住みました。イエメンあたりに移り住みました。イエメンの首都サヌアの旧名は「ウザル」であって、これは彼らの先祖の名に由来するものです。このようにセムの子「アルパクシャデ」からは、ヘブル人以外にも、アラビア半島に住む諸民族が出たわけです。

セムの他の子についてはどうでしょうか。セムの子「エラム」は、メソポタミヤの北部(今のシリヤ)付近に定住した民族です。有名な「アッシリア」の名は、彼らに由来しています。しかし、歴史学の上で言ういわゆる「アッシリア帝国」がセム系だったかというと、そうではありません。アッシリア帝国の支配階級となった人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人だったからです。彼らはアッシリア一帯を征服し、そこの支配者となりました。

セムの子「ルデ」は「リディア人」(リュディア人)のことで、やはりメソポタミヤに住みました。リディアは、B.C.七~六世紀頃には強国となりました。またセムの子「アラム」も、メソポタミヤやスリヤ(今のシリヤ)地方に定住しました。彼らの言葉「アラム語」は、紀元前一千年頃には全メソポタミヤ地方に広まり、アッシリア帝国やペルシャ帝国の公用語になりました。イエスや弟子たちも、アラム語を話しました。考古学者の意見によると、紀元前7世紀に新バビロニア帝国(聖書でいうバビロン帝国)を建てた「カルデヤ人」は、今のところアラムの一派と思われています。そうであれば、新バビロニア帝国はセム系であったということになりますが、一方ではハム系であるという意見もあり、はっきりしていないところがあります。

いずれにせよ、このようにハムからは、ヘブル人やアラビア人、そのほか、中近東に住む人々が出ました。ただし、これは今日、中近東に住む人々がみなセムの子孫である、ということではありません。今日、中近東にはセムの子孫以外にもハムの子孫やヤペテの子孫なども住んでいます。ここで述べているのは、おもにセムの子孫は中近東に移り住んだということです。