民数記8章を学びます。まず1節から4節までをご覧ください。
1.燭台のともしび(1-4)
「1 主はモーセに告げて仰せられた。2 「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」3 アロンはそのようにした。主がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけた。4 燭台の作り方は次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。主がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。」
主はモーセに、アロンに告げて言うようにと命じられました。七つのともしび皿が燭台の前を照らすように・・と。それでアロンは、主がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけました。至聖所には神の臨在の栄光の輝きがありますが、聖所は真っ暗でした。この燭台のともし火によって中が明るくなります。主はこのようにして聖所の中に光があることを望まれました。それにしても、いったいなぜ急に燭台のともしびの話が出てくるのでしょうか。少し不思議な感じがします。しかし、その後の箇所を読むと、その意味が明らかになります。
2.レビ人のきよめ(5-13)
それでは次に5節から26節までを見ていきましょう。
「5 ついで主はモーセに告げて仰せられた。6 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。7 あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、8 若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたも別の若い雄牛を罪のためのいけにえとして取らなければならない。9 あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、10 レビ人を主の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。11 アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる。これは彼らが主の奉仕をするためである。12 レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭の罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげなければならない。13 あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として主にささげる。」
主は、レビ人を幕屋の奉仕を行なうためにささげるように、命じられます。聖所における奉仕は、アロンとその子孫が祭司として任命を受け、祭司たちが行ないます。また祭壇における奉仕も祭司が行ないます。しかしながら、彼らだけでは人数が足りなくてすべての務めを執り行なうことができません。そこで、主は、幕屋の中で奉仕するために、レビ人を取るように命じられています。
レビ人は、まず水によるきよめを受けなければいけません。どのようにきよめるのかが7節以降に記されてあります。まず罪のきよめの水をモーセがレビ人に振りかけます。そして、レビ人は全身の毛をそって、衣服を洗います。レビ人の奉献式は水の洗いから始まるのです。このことは、クリスチャンがどのようにきよめられるのかを教えています。クリスチャンは、イスラエル人のようにささげ物をするだけではなく、レビ人のように自分自身をささげる者ですが(ローマ12:1)、そのときに必要なのが、きよめるということです。クリスチャンはどうやってきよめられるのでしょうか?Ⅰヨハネ1章9節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。私たちをきよめるのは御子イエスの血です。そして、そのようにイエスの血によってきよめられた者は、イエスの御姿に変えられていくために、神のみことばによってきよめられるのです。しかし、ここで注意しなければならないのは、多くのクリスチャンが自分をきよめるということを、自分の内側を見つめて、自分の肉と罪深さを探っていくことであると考え、自分は汚れた者で、主のわざを行なっていく資格はない、奉仕するような資格はない、と思ってしまうのですが、それは誤ったきよめです。主のきよめはそのようにして行われるのではなく、ただキリストの血と聖霊の恵みによって成されていくものなのです。
それが燭台の表していたことだったのです。ここで1節から4節までのところに記されてあった燭台のともしびが生きてきます。このレビ人のきよめの儀式の前に、燭台のともしびを整えるようにとの命令がありました。いったいなぜそんなことが必要なのでしょうか。あまりにも唐突な感じがしないわけでもありません。しかし、実はそれはこのレビ人のきよめの土台、前提であったということです。つまり、燭台のともしびこそ、イエス・キリストと聖霊を表すものだったのです。ヨハネ8章12節には、「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とあります。またゼカリヤ書4章をみると、ともしび皿の油は主の御霊である聖霊のことを指していることがわかります。御霊がキリストの栄光を照らし出し、私たち(教会)の心を明るくされるのです。この燭台の光があるからこその、水の洗いがあるのです。この順番が大切です。私たちが自分をきよめるということは、自分の考えで自分自身の内側を見つめるということではなく、聖霊によってキリストの光を照らしていただくことなのです。それによって私たちはきよめられるのです。ゼカリヤ書に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と書かれてあるとおりです。私たちの働きは、教会の働きは、私たちの能力や力によって行われるのではなく、ただ神の力によって成されていくものなのです。燭台であられるキリストと、油であられるご聖霊の働きことが、レビ人のきよめに必要なものであり、その前提、土台にあるものなのです。
「あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる。これは彼らが主の奉仕をするためである。」(9-11)
モーセがレビ人を会見の天幕の前に近づかせると、イスラエルの全会衆を集め、レビ人の上にイスラエル人が手を置きます。これはどういうことかというと、レビ人がイスラエル全会衆を代表であったということです。イスラエルの代表として、その働きをゆだねられていたということです。それはレビ人だけのことではなく、イスラエル人のすべてもいっしょに奉仕をしていることを意味していました。つまり、イスラエル人は今、レビ人を自分たちのものとして、主の前にささげているのです。レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげます。このようにしてレビ人を奉献物として主にささげたのです。
3.レビ人の奉仕(14-22)
「14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。15 こうして後、レビ人は会見の天幕の奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物としてささげなければならない。16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。17 イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。18 わたしはイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取った。19 わたしはイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕でイスラエル人の奉仕をし、イスラエル人のために贖いをするようにした。それは、イスラエル人が聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないためである。20 モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行った。イスラエル人はそのとおりに彼らに行った。21 レビ人は罪の身をきよめ、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物として主の前にささげた。22 こうして後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々は主がレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。」
このようにしてレビ人は主の奉仕に就くことができました。彼らはイスラエル人のうちから正式に主のものとなったからです。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、主は彼らをご自身のものとして取られました。イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子は主のものです。エジプトの地で、主がすべての初子を打ち殺した日に、主は彼らを聖別してご自身のものとされました。主はそのイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取ったのです。
それで主はイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕で奉仕ができるようになりました。ですから主の奉仕をするときに必要なことは、「私は主のものである。」という確信です。主が私をここにおいてくださり、主が私のことを握っておられるという確信なのです。私たちが奉仕をしていると、主が自分のことを気にしておられるのか、遠くから見ておられるだけではないのか、という気持ちになることがありますが、主はともにいてくださいます。そして、私は主のものとされているのです。この確信が必要なのです。モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行ないました。
4.レビ人の奉仕(23-26)
「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。」
4章3節には、会見の天幕で務めにつき、仕事をすることができるのは30歳以上50歳までの男子であると言われていますが、ここでは25歳以上となっているのは、おそらくインターンの期間も含めてのことでしょう。インターンとして5年間奉仕し、30歳から50歳までフルに仕えるように定められていたのです。Ⅰテモテ3章には監督の資質が書かれてありますが、そこには「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(3:6)とあります。25歳からでも奉仕できますが、実際にはよく経験を積んで30歳から奉仕するようになっていたのです。また、50歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはいけませんでした。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできましたが、自分で奉仕することはできませんでした。50歳以上の人は、サポートする側、監督をする側に回り、実際の奉仕をすることはなかったのです。