民数記18章

民数記18章から学びます。前回までのところにはコラの反乱とその結果、そして、アロンの杖について学びました。コラはレビ人であり、かつケハテの氏族に属していましたが、彼はアロンの祭司職を欲しがって、モーセとアロンに反抗しました。「あなたがたは分を越えている」と。そんなコラにして、主は彼と彼の家族を生きたまま陰府に投げ込むというさはぎを行いました。それを見たイスラエル人は、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、それゆえ、主はイスラエルの民に罰を下され、何とイスラエルの民の中から14,700もの人たちが死に絶えました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営の中に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立ったとき、その神罰が止みました。イスラエルはアロンのとりなしによって救われたのです。

その後、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせて、イスラエルの民がアロンこそ選ばれた祭司であることをお示しになりました。しかし、イスラエルの民は、ここにあらわされた神さまのあわれみを理解せず、「私たちも滅びる!私たちも滅びる。」と言って、パニック状態になっていました。それは、彼らが神の恵みとあわれみを理解していなかったからです。彼らは祭司の務めによって初めて、そうした神の怒りから救われるということです。主はさばきを行なわれる方です。しかし、主は、祭司という仲介者をとおして、ご自分の怒りをなだめ、彼らに罪の赦しと和解を与えようとされるのです。そこで主はこの18章において、さらに祭司の務めについてお語りになられました。

Ⅰ.祭司の務め(1-7)

まず1節から7節までをご覧ください。

「1 そこで、はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。2 しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。4 彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。5 あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らをにささげられたあなたがたへの贈り物とする。7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職の賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。」

主はアロンに、彼と彼の子たち、すなわちアロンの家族が、聖所にかかわる咎を負わなければなせない、と言われました。彼の家族こそが祭司職を担わなければならないと確認されたのです。少し前に、コラの家族やそれにくみ与する者たちを死をもってさばかれたことによって、イスラエル全体に混乱が起こりましたが、ここでもう一度、だれが祭司の務めを果たすのかを示されたのです。

2節には、アロンの家族以外の、レビ人たちの位置についても、確認されています。レビ人は、聖所でアロンの祭司の務めを助ける奉仕を行なうことはできましたが、祭壇で献げ物をささげることはできませんでした。(1:47-53,3:5-10)それがレビ人に与えられた役割なのです。その任務に忠実であることを神は求めておられるのです。コラの罪は、この役割を忘れ、アロンの祭司職まで求めたことだったのです。

3節から5節までのところには、神がそのようにされる(祭司の務めと、レビ人の奉仕について確認している)理由を語られます。それは、イスラエル人が死ぬことがないためです。コラたちが受けたような激しい御怒りを二度と受けることがないようにという配慮からなのです。

6節と7節を見ると、このアロンの祭司職は、彼とその家族が自分たちで手に入れたのではなく、神の恵みの賜物として与えられたことが教えられています。それは彼らを助けるレビ人も同じです。レビ人もアロンたちが会見の天幕の奉仕をするために、主にささげられたかれらへの贈り物として、神から与えられたものなのです。私たちが自分たちの奉仕について考えるとき、このことはとても重要なことです。これはすべて神からの贈り物、賜物なのです。それは私たちの救いがもともと神からの賜物であることと同じです。神の一方的な恵みによって救いを与えてくださった主は、その後の奉仕においても恵みの賜物を与えてくだり、私たちがしなければならない務めを与えてくださったのです。その分を越えてはいけません。それぞれが神から与えられた信仰の量に応じて、慎み深く、仕えなければならないのです。

Ⅱ.永遠の分け前(8-24)

次に8節から24節までをご覧ください。

「8 はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。9 最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。
11 また次の物もあなたの分となる。イスラエル人の贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたとあなたの息子たち、それにあなたとともにいる娘たちに与えて、永遠の分け前としする。あなたの家にいるきよい者はみな、それを食べることができる。12 最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々がに供える初物全部をあなたに与える。13 彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らがに携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。14 イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。15 人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれたものでにささげるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖われなければならない。また、汚れた獣の初子も贖われなければならない。16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。
17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもものようにあなたのものとなる。19 イスラエル人がに供える聖なる奉献物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それはの前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」20 はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当て地であり、あなたの相続地である。21 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのついの十分の一をみな、相続財産として与える。22 これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。24 それは、イスラエル人が、奉納物としてに供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」

8節には、「はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。」とあります。どういうことでしょうか?これは、アロンの家族たちが、祭司としてイスラエルが神に対してささげたささげものの一部を、受け取ることができたということです。イスラエルは、神に動物のいけにえや穀物のささげものなどをささげましたが、それを受け取ることができたのです。そして、それは祭司としての彼らの任務なのです。ここに「聖なるささげ物」とありますが、これは主ご自身のものを自分たちが受け取ることによって、主と自分たちが交わることを意味しています。祭司たちは、主のものを共有することによって主と交わる、あるいは礼拝したのです。それは、私たちの主の聖餐と同じです。私たちはイエス・キリストの血と肉を食することによって主と交わりを持つのです。キリストにあって一つになることができるからです。それは、アロンとその家族に対する「永遠の分け前」なのです。

9節には、最も聖なるものとして、穀物のささげもの、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえがあげられています。なぜこれらが最も聖なるものなのでしょうか?それは、罪のいけにえによって、神と人との間の仕切りとなっている罪が取り除かれるからです。その肉を食べるということは、主ご自身が人の代わりに罪のさばきをお受けになったことを意味しているからです。

しかし、ヘブル書を見ると、「雄牛ややぎの血は、罪を除くことができません。(ヘブル10:4)」とあります。そうした動物のいけにえは、罪を取り除くことはできないのです。では何が私たちの罪を取り除くことができるのでしょうか。ヘブル書のその後のところには、それがイエス・キリストであることが書かれてあります。「キリストは、つみのために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」(ヘブル10:12)とあります。神と人とが一つとなることができるのは、神のひとり子キリスト以外にはありません。イエス様が、罪のためのいけにえとなってくださったことによって、私たちの罪のすべてを負ってくださいました。それ故に、このイエスを信じることによって、私たちは完全な罪の赦しを得ることができるのです。イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)」と言われました。祭司が罪のためのいけにえの肉を食べるとき、それは新約聖書の言う祭司である私たちがキリストを食することに他なりません。

11節には、その他の奉納物や奉献物は、彼らの息子たち、また娘たちにも与えられるとあります。罪のいけにえは聖所で奉仕を行なう男子だけが食べることができましたが、その他の奉納物や奉献物は、息子たちや娘たちも食べることができました。しかしここには、それも「永遠の分け前」であると言われています。これは、時を経ると効力がなくなってしまうような一時的なものではなく、永遠に続くものである、ということです。言い換えれば、完全な分け前であり、欠けたものがないもの、ということです。またそれは、繰り返す必要のない、ただ一度の出来事、と言うことが言えるでしょう。それは、神の贖いのわざも同じです。キリストが十字架の上で血を流され、死なれたことによって、贖いは完成しました。神にとって必要な贖いは、もうこれ以上何一つありません。したがって、キリストの成し遂げられた贖いは永遠に続くものであり、再び繰り返される必要はないものなのです。

このことについてヘブル人への手紙9章11節にはこうあります。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

これが、私たちクリスチャンの贖いです。私たちは、キリストのただ一度の贖いによって、永遠の救いを受けました。私たちの過去、現在、未来のすべての罪が、二千年前のキリストの十字架の贖いによってすべて取り除かれているのです。あたかも罪が赦されていないかのように、その赦しを請うために祈ったり、聖書を読んだり、奉仕をしているということはないでしょうか?あるいは、自分をもっと聖めたいと思って、これらの宗教的活動をしていることはないでしょうか。心の中で、「まだ自分は聖められていない。もっと神さまに従って、神さまに近づかなければいけない。」と思っていないでしょうか?しかし、キリストの贖いは、そのような不完全なものではないのです!使徒パウロは言いました。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(Ⅰコリント6:11)」私たちはすでに、洗われて、聖められて、義と認められたのです。キリストが二千年前に死なれたときに、これらはみな完成しました。ですから、祭司たちが、神からいただく分け前は「永遠」のものであったのです。

12節と13節には、「最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える。彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。」とあります。

イスラエル人は、罪や罪過のためにいけにえだけではなく収穫物の初物を幕屋に携えてきました。最良の新しい油、最良のぶどう酒や穀物を自分たちの分け前とすることができたのです。これらも、罪のためのいけにえと同じように、キリストご自身を表していました。キリストが信者たちの初物となってくださっています。キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも生きるのです。キリストが死なれて葬られたように、キリストにつく者は古い人に対して死に、キリストが神からすべてのものを相続しておられるように、キリストのうちにある者も、神からの相続を受けるのです。ですから他の個所では、キリストはすべての兄弟の長子となられた、と書いてあります。祭司としての私たちは、初物であられるキリストを心に受け入れているのです。

14節には、イスラエルのうちで、聖絶のものがみな、祭司たちのものとなる、とあります。 聖絶のものはすべて神のものであり、すべて神の宝物倉に入れておかなければならないものですが、それが祭司たちは自分たちのものとなるというのです。

15節には、「人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので主にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。」とあります。

植物の初物が祭司のものになったように、動物や人間の初子も祭司のものとなります。ただし、イスラエルに初めに生まれてきた男の子が、祭司のものになるのではありません。初子はすべて主のものですが、イスラエル人はお金を払って買い取るからです。それは生後一ヶ月以上であれば聖所のシェケルで銀五シェケルと定められていました。ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖うことができませんでした(17)。なぜなら、それらは火によるささげものとして、主にささげられなければならなかったからです。そして、肉はみな祭司たちのものとなりました(18)。

19節には再び「永遠の分け前」が出てきます。ここには、この分け前についてのまとめが記されてあります。これは永遠の分け前であり、永遠の塩の契約なのです。「永遠の塩の契約」とは、解消されることのない契約である、という意味です。これは、物理的に祭司職が続くということではなく、先ほど申し上げたように、キリストの永遠の祭司職を指し示しています。

20節から24節までには、相続地に関する教えが記されてあります。祭司たちは、約束の地において自分たちが所有となる土地が与えられませんでした。それは、彼らにとって主を礼拝することがすべてであり、主を礼拝するという霊的富をすでに得ていたからです。主は、「わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である」と言われました。私たちも、新約時代の祭司としてこのように告白しなければなりません。私たちはただ、イエス様だけを相続地としているでしょうか。イエス様だけのことばに拠り頼んでいるでしょうか。この地では、楽しいこと、喜ばしいこと、多くの友だち、家族、いろいろな祝福があります。しかし、「わたしの相続地はイエス様です。それで十分です。」という告白しているでしょうか。アロンに対して、主は、「相続地を持ってはならない。わたしがあなたの相続地である。」と言われました。

それはレビ人も同じです。主はレビ人にも相続地を与えられていません。その代わり、イスラエル人が携えてくる十分の一をみな、レビ人が受け取ることができました。それは、レビ人が幕屋の奉仕をすることができるようになるためであり、それによって、イスラエル人が幕屋の中に入ったりしなくても良いようにしてくださったのです。レビ人はそれによって生活が支えられ、フルタイムで主に仕えることができたのです。

Ⅲ.祭司の報酬(25-32)

最後に25節から32節までを見て終わりたいと思います。

「25 はモーセに告げて仰せられた。26 「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、への奉納物として供えなさい。27 これは、打ち場からの穀物や、酒ぶねからの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。28 それで、あなたがたもまた、イスラエル人から受け取るすべての十分の一から、への奉納物を供えなさい。その中からへの奉納物を祭司アロンに与えなさい。29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちからへのすべての奉納物を供えなさい。30 またあなたは彼らに言え。あなたがたが、その最上の部分をその中から供えるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、酒ぶねからの収穫と同じようにみなされる。
31 あなたがたもあなたがたの家族も、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。32 あなたがたが、その最上の部分を供えるなら、そのことで罪を負うことはない。イスラエル人の聖なるささげ物を、あなたがたは汚してはならない。それは、あなたがたが死なないためである。」

レビ人は受け取った十分の一のすべてを自分たちのものとすることはできませんでした。その中から十分の一を取り、それを主への奉納物としてささげたのです。すなわち、アロンの家族に与えたのです。それは祭司の家族が生活に困ることなく、祭壇と聖所における奉仕に専念することができるようにするためでした。こうして、アロンの家族は、レビ人を含むイスラエル人すべてを代表して、主に奉仕をし、礼拝をささげました。物質的な必要が支えられることによって、神と人との仲介の役を果たし、イスラエル人が幕屋に近づいて殺されなくてもすむようにしたのです。

これが神の計画でした。神はイスラエルが聖所の器具と祭壇に近づいて死ぬことがないようにするために、このように配慮してくださいました。それは今日で言うなら、神は教会に牧師、長老、監督といったは働き人を与え、彼らによってこの働きを担うことができるようにしておられるのと同じです。彼らが死ぬことがないように、神は牧師、長老、監督といった霊的指導者を教会に与えてくださいました。そうした働き人がその働きに専念できるように、教会は彼らの必要を与え養わなければならないのです。「穀物をみなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」し、「働き人が報酬をうけることは当然である」のです。