民数記19章

きょうは民数記19章から学びます。ここでのテーマは「完全に赤い雌牛」です。まず19章全体を読んでみましょう。ここで主はモーセとアロンに、完全な赤い雌牛によって灰を作るように命じています。何のためでしょうか?その灰によってきよめの水をつくり、それを死体に触れて汚れた人たちに振りかけるためです。そうすれば死体にふれて汚れた者がきよめられるというのです。

まず、この箇所の背景ですが、この時イスラエルの民は、四十年間荒野をさまよっていました。そのときコラたちがモーセとアロンに反逆し、生きたままよみに投げ入れられるという神のさばきを受けると、それに同情したイスラエルの民もモーセに反抗して罪を犯したためそれに対する神罰が下り、彼らの中からもたくさんの死者が出たのです。コラの事件の他に何と14,700人が死にました。けれども、レビ記にあるように死者に触れる者は汚れました。そこで主は、死体に触れた者が清められるために特別な方法を示されたのです。それがこの「完全に赤い雌牛」であり、この雌牛の灰によって作られた水を注ぎかけるという儀式だったのです。

いったいこれはどんなことを教えていたのでしょうか?これまでも人の死体に触れた場合の戒めは幾度か取り上げられていました(レビ記21:1-4、11、民数記6:6-12、9:6-12)。しかし、それを取り除く具体的な方法は示されていませんでした。16章のコラの反逆の結果、多くの人が一度に死んだことで人の死の汚れをどのように取り除くべきかは、最も深刻な問題となったのです。誰でも死体や人間の骨や墓に触れるなら、あるいは、死人の天幕に入るならば汚れ(14-16)、その汚れは伝染しました(22)。宿営の中で誰かが死ぬと、宿営の中のすべての人が汚れ、何らかの対応をしないと、主の幕屋を汚す恐れがあったのです。

いったいどうすればいいのでしょうか?赤い雌牛をほふり、その灰によってきよめの水を作り、それを汚れた人に注ぎかけるのです。そうすれば、死体によって汚れた人のすべてがいやされるのです。

その水の作り方ですが、まずくびきの置かれたことのない赤い雌牛が犠牲にされ、灰が用いられました。「傷がなく」というのは、全く欠陥がない(罪がない)ということです。そして、「くびきの置かれたことのない」というのは、罪のくびき(罪の奴隷)が置かれたことがないという意味です。「赤い雌牛」の「赤」は血といのちを表していました。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴なのです。つまりこれは、やがて来られるイエス・キリストのことを指し示していたのです。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕に向かって七たび振りかけました。「七度」は完全数です。

そしてその雌牛は彼の目の前で焼かれました。また、その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければなりませんでした。宿営の外で・・。そして6節にあるように、祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れました。

この杉の木とヒソプ、緋色の糸がそれぞれ何を象徴しているのかはっきりわかりません。ある注解者は、杉の木は十字架の象徴、ヒソプは罪のきよめの象徴、そして緋色の糸はキリストの血を表していると考えていますが、果たしてそうでしょうか。確かに、ヒソプはイスラエル人がエジプトで,過ぎ越しのいけにえの血を自分たちの家の2本の戸柱と戸口の上部に塗った時に用いられました。(出12:21-22)また,以前にらい病にかかっていた人や家を清める儀式や(レビ14:2-7,48-53),「清めの水」に使われる灰を準備する際に使われ,その水を特定の物や人にそそぎかけるときにも用いられました。(民19:6,9,18)ですから、ダビデが,ヒソプをもって罪から浄めてください、と祈ったのです。(詩篇51:7)。また、緋色についても、それはキリストの血を表すものとして出エジプト記の中の幕屋の垂れ幕や大祭司の服に刺繍されていました。

けれども、ここにはそれを火の中に投げ入れたのです。それをもって血を塗るとか、何かをするというのではなく、それを雌牛と一緒に焼いたのです。ですから、それは十字架やきよめ、血の象徴としてではなく全く逆の意味として使われているのです。そしてよく調べてみると、杉の木は力の象徴、富、権力、栄光の象徴として用いられていることがわかります。そしてⅠ列王記第4章33節には、ソロモンが草木のことを論じた際に、「杉の木からヒソプにまで及んだ」と言っています。ヒソプというのはとても低い草なのだそうですが、杉木のように高くて大きな木からヒソプのように低くて小さな草に至るまでという意味です。それは植物全体を意味しています。すべての草木を表徴してそういったのです。言い換えると、それらは全世界を予表しているということになります。緋色の糸は何を表していたのでしょうか? この言葉は、イザヤ書第1章18節において「緋」とも翻訳されており、それはこう言っています、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。このことから、緋色の糸はわたしたちの罪を表徴します。すなわちこの三つは、大きな罪から小さな罪まで、全ての罪を象徴していたのです。それを火の中に投げ入れ成した。ですから、杉の木、ヒソプ、緋色の糸が一緒に焼かれることは、赤い雌牛を神にささげた時、全世界の罪が赤い雌牛と一緒にされて、それらがすべて共に焼かれたことを意味しているのです。

その灰を集め、湧き水と混ぜ合わされて「きよい水」を作ります。その水がすべての汚れをきよめるのです。その水を死体にふれて汚れた人にきよめられると、だれでもきよめられました。ここには三日目と七日目とあります。三日目は復活を、七日目は完全を表していたと思われます。

いったいこれは何を表していたのでしょうか。ヘブル人への手紙9章13-14節にはこうあります。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

そうです、これはキリストの十字架の血によるきよめを表していたのです。この灰を死体にふれた人々に注ぎかけるということは、十字架につけらえたキリストの血を、罪の中に死んでいる人々に注ぎかけることを象徴していました。そうすれば汚れはなくなり、罪はみなきよめられ、完全なきよめが果たされるのです。それだけ、キリストの血には力があるのです。しかも、この赤い雌牛の犠牲は、これ以前にもこれ以降にも一度限りです。完全な一度限りのいけにえです。イエスのいけにえも、全人類のための完全な一度限りの犠牲であり、いけにです。イエスの死によって、私たちは、神の怒りから解放され、罪の赦しを得、罪の支配からも解放されたのです。実に、このように雌牛が人の罪を赦し、きよいものとするならば、尊いイエスの犠牲はいかばかりであろうか、というのです。

ここには、キリストの血がどれほど力があるのかを、三つの点で語られています。第一に、良心をきよめる力です。「どんなにか私たちの良心をきよめて」とあります。

人間の良心は、罪によって汚されており、汚れた良心は、人にとって負い目となります。パウロは自らの中にある罪を認めてこう言いました。「私には自分のしていることがわかりません。私には自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことをしているからです。」(ローマ7:15)とあるように、人は無意識的にそうした良心の咎めを持っています。どんなに、言い訳、弁解、仕事、趣味、宗教、善行等で繕おうと務めてもその「良心の呵責」があれば真の自由を得ることはできません。しかしキリストの血はそのような「良心の呵責」から完全に解放してくれるのです。

第二に、生き方を変える力があります。ここには、「死んだ行いから離れさせ」とあります。キリストの血潮は、人を縛っている罪のくびきから解放することができます。ザアカイはその一人です。彼はキリストと出会ったその日から新しい人に変えられました。人の心に罪が支配している間は、人は「死んだ行いの奴隷です。人は「新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。キリストの血潮と御霊による新生は人を全く新しい人に造り変えます。使徒ペテロもこう語っています。「あんたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、・・傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:19)

第三に、キリストの血は人を生かす力です。ここにはまた、「生ける神に仕える者とする」とあります。

キリストの血は神から離れた人を神に連れ戻すだけでなく、新しい歩みをさせる力を与えます。「古い生き方」から解放され罪を離れるならば、「神に仕える」という新しい目標、真の生きがいをもつようになります。「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)とパウロは勧めました。主の死にあずかるならば、主のよみがえりの力にもあずかることができ、そのような人は神の前に立つことができ(ささげて)、神のために実を結ぶ生涯へと導かれるのです(ローマ6:5, 22)

このようにキリストの血の力を知ることは、私たちをして、責められることなく、臆することなく、大胆に、神の前に立つことができ、破格の恵みによって歩くことのできる力を与えられるのです。