きょうは民数記20章から学びます。
Ⅰ.イスラエル人のつぶやき(1-6)
まず1-6節までをご覧ください。
「1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。4 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。
イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着きました。ツィンの荒野とは、あの12人のスパイたちをカナン偵察のために遣わした地のことです。そこに戻ってきたわけです。ですから、1節の「第一の月」というのは、あの時以来のことになります。実は、あれから38年後のことなのです。なぜなら33章38節を見ると、そこにエジプトを出てから第四十年目とあるからです。その時アロンが死にました。ここにもアロンの死のことがあります。ですから、これはエジプトを出てから40年目の第1の月のことなのです。以前、カデシュ・バルネアで彼らが約束の地に入れなかった時、すでにエジプトから出て1年以上が経っていました。ですから、彼らが荒野で放浪したのは実際には38年になります。そして彼らはこの「ツィンの荒野」に戻ってきたのです。
そこで、モーセの姉「ミリヤム」が死にました。彼女はすでに133歳になっていたことと思われます。というのは、モーセが生まれたときに彼女は13歳でしたので、モーセは120歳で死にましたから、彼女はこの時133歳であったろうと考えられます。その他の人々はほとんどが新しい世代の人たちです。古い世代の人たちはみな死に絶えてしまいました。
そこで一つの事件が起こりました。それは、イスラエルがモーセとアロンに逆らったのです。いったい彼らはなぜ逆らったのでしょうか?そこに水がなかったからです。水がなかったので、穀物やくだものが育たないというだけでなく、彼らの家畜にも飲ませる水がありませんでした。それで彼らはモーセとアロンにつぶやいたのです。ここで興味深いことは、彼らのつぶやきは、かつてカデシュ・バルネアからスパイを遣わした際、その偵察から帰ってきた10人の悪い報告を聞いたイスラエル人の親の世代と同じあることです(14:1~)。また、コラの事件があったとき、あのダタンとアビラムが言ったこととも同じです(16:12~)。人間の心というのは、いつの時代も同じであることを思います。そこに水がなかったので、彼らはそれを契機にこのような不平を鳴らしたのです。おそらく、ミリヤムが死んだという悲しみがあったでしょうし、かつてここから偵察を遣わしたという記憶もよみがえったのではないかと思います。私たちは平素では希望を持っていても、いざ状況が悪くなるとすぐに不満を漏らしやすいものなのです。それでモーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れたのです。モーセとアロンはいつもと同じように、主の前にひれ伏しました。
Ⅱ.メリバの水(7-20)
「7 主はモーセに告げて仰せられた。8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」13 これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。」
すると主は何と仰せになられたでしょうか?杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そうすれば、岩は水を出す、と言われたのです。そり水を会衆とその家畜とに飲ませるようにと言われたのです。そこでモーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取って、岩の前に召集したイスラエル人に、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言い、杖で岩を二度打ちました。すると、岩からたくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲みました。
しかし、そのとき主はモーセとアロンにこう言われました。12節です。 「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
いったいどういうことでしょうか?彼らは神に命じられたとおりにしたかのようでしたが、実はそうではありませんでした。モーセは岩に命じればよかったのに、岩を打ってしまいました。しかも、二度も、です。いったいなぜモーセは岩を二度打ってしまったのでしょうか。それはモーセに怒りがあったからです。モーセはその怒りを抑えることができませんでした。それでついつい岩を打ってしまったのです。それでも主は民をあわれみ、水をわき出るようにされましたが、それは主のみこころを損なわせたので、モーセとアロンはこの集会を約束の地に導き入れることはできないと言われたのです。このことが原因で彼らは約束の地に入ることができなかったのです。この出来事はそれだけ重要な出来事でした。
いったいこのことは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。どういうことでしょうか?Ⅰコリント10章4節には、この岩がキリストを表していると語られています。「(私たちの先祖は)みな、同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」この岩とはキリストのことでした。その岩から水を飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを指しています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのです。すなわち、神の命令に従えばよかったのです。それなのにモーセは岩を打ってしまいました。モーセとアロンは、主が仰せになられたことに従わなかったのです。つまり、主のことばを信じなかったことです。モーセは自分の思い、自分の感情、自分の方法に従いました。それは信仰ではありません。信仰とは、神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはありません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れること、すなわち、御霊の岩であるイエスを信じる以外にはないのです。彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたのです。それでこの水はメリバの水と呼ばれました。意味は争うです。彼らは神に従ったのではなく、神と争ったのです。
私たちはここから、神に従うことの大切さを学びます。そして、そのためには自分の感情をコントロールすることの必要性を感じます。自分の感情に流されて神に従うことができないということがよくあります。たとえ自分の感情がどうであれ、御霊によって歩み、御霊に導かれて歩まなければなりません。そうすれば、肉に支配されることはないからです。
Ⅲ.エドムの反抗(14-21)
「14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。16 そこで、私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。」
カデシュから直接、約束の地に入ることが御心ではないことを知っていたモーセは、ヨルダン川の東から、ヨルダン川を渡って入ることを考えていました。ゆえに死海を迂回して、死海の北にあるヨルダン川に行こうとしました。しかし、そこにはエドムの地が広がっていました。それでモーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送り、彼らの地を通らせてほしいと願いましたが、彼らの答えは「ノー」でした。「通ってはならない」と、頑なに拒んだのです。なぜでしょうか?
エドムとはもともと、ヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルの兄弟です。それゆえ、主はモーセに対してエドム人と争ってはいけないという命令を出していました。それは、「彼は同族であるから」です。ヤコブの兄であったので、戦ってはいけない、と言われたのです。それでモーセは平和的な解決を求めてエドムの王に通行許可を願いましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。それどころか、戦争も辞さない姿勢で向かってきたのです。
それは、彼らがイスラエルの神に畏れを抱きながらも、最終的には自分たちの思いを優先していたからです。あのエサウが一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利をヤコブに譲ったように、霊的なことに目が開かれることなく、いつも肉的に考えていたからなのです。それはこの時からずっと続きました。彼らはイスラエルに決して服することをせず、何かがあれば、イスラエルに敵対しました。イスラエルが苦しめられていても何のお構いなしで、彼らを助けようとせず、自分たち中心に行動したのです。その結果、このエドムには永遠の廃墟という預言が与えられました。いつまでも悔い改めず、神に敵対する者がどうなってしまうのかを、この箇所はよく教えていると思います。
Ⅳ.アロンの死(22-29)
「22 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。23 主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」27 モーセは、主が命じられたとおりに行った。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。」
こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着きました。ホル山はエドム領にあるとありますが、明らかに直線の道を通らずに、エドムの領土を廻っていく形で道を進んでいます。そのホル山で、主はモーセとアロンに仰せられました。そこでアロンは死ぬと。それで、そこでアロンの子エルアザルに大祭司の装束を着せて、それで引き継ぎが行なわれ、彼はそこで死にました。その理由は、先ほどのメリバの水のことで、主の命令に逆らったからです。
アロンはこうして、ホル山において息を引き取りました。厳しい現実です。しかし、このことをとおして、主はいかに、キリストのわざを示しておられるかがわかります。すなわち、主のわざこそ完全であって、それが私たちを完全に救うことができるということです。それ以外に救いはありません。もし、それを妨げるものがあれば、こうした厳しいさばきを受けることになるのです。たとえば、自分の行為によって生きていこうとすることです。それは私たちを救うことはできません。ただ神が要求されることは、私たちが神の贖いを受け入れること以外にはないのです。