Ⅰテモテ6章1~10節 「大きな利益を受ける道」

きょうはⅠテモテ6章の御言葉から、「大きな利益を受ける道」というタイトルでお話したいと思います。よくキリスト教はご利益宗教ではないと言われますが、きょうの聖書の箇所には「大きな利益を受ける道です」とあります。つまり、キリスト教にもご利益があるということです。ただそのご利益というのは、病気や災いがないということではなく、あるいは、商売が繁盛することでもありません。聖書の言うご利益とは、むしろ問題があっても神がすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じ、神が与えてくださるものを感謝して受け止めることができるということです。それが、満ち足りる心を伴う敬虔です。これこそ、本当のご利益ではないでしょうか。滝元明という有名な伝道者が「こんな大きなご利益どこにもない」という本を出版されましたが、まさにこんな大きなご利益はどこにもありません。これこそ、私たちが大きな利益を受ける道なのです。きょうは、この道についてお話したいと思います。

Ⅰ.自分の主人を尊敬しなさい(1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。

「1くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。」

ここには、仕事の主人に仕えることによって得られる益について語られています。くびきの下にある奴隷とは、主人がノンクリスチャンである場合の労働者の立場にあるクリスチャンのことです。当時のローマ社会はその半数が奴隷だったと言われていますが、驚くべきことに、そうした奴隷たちの間にも福音がかなり浸透していたようで、信仰を持つ人が数多く起こされていたのです。そうした中にあって、信仰を持ったクリスチャンはノンクリスチャンである主人にどのように仕えたらいいのでしょうか。「くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。」たとえ雇用主がノンクリスチャンであっても、その上司を十分に尊敬すべきだというのです。なぜでしょうか?神の御名と教えとがそしられないためです。ローマ書13章によると、この社会のすべての秩序や権威は神によるものだとありますから、たとえ上司がノンクリスチャンであってもその秩序や権威が神によるものであると認め、それを喜び、それに従わなければならないのです。そうでないと、神の御名がそしられることになるからです。職場でクリスチャンがどのように仕えるかが最大の信仰の証であり、ミニストリーでもあるのです。真面目で熱心に働くクリスチャンを見て好感が持たれるようであれば、それ自体がすばらしい信仰の証になります。

20世紀最大の説教者の一人と言われているD.M.ロイドジョーンズは、次のように言いました。「クリスチャンは、クリスチャンであることによって自動的に社会に影響を及ぼすのである。」クリスチャンがクリスチャンとして職場で仕えるならば、それだけでよい証となり、大きな影響を及ぼすことになるというのです。

識文兄の母教会J’s Table キリスト教会のアリ先生の証を読みました。アリ先生はイラン人の方ですが、イラン人のほとんどはイスラム教徒で、小さい頃からイスラム教の中で生れ育ちます。そのアリ先生がどうしてクリスチャンになったのか、以前から関心がありましたが、先生の証を読むと、どうもある一人のクリスチャンとの出会いがきっかけであったようです。アリ先生は高校卒業後軍隊に入隊しましたが、そこで一人のアルメニヤ人兵士に出会うのです。戦場では、たとえ仲間同士であってもそれぞれが生きることに必死で、自分のことしか考えない自己中心の世界なのだそうですが、そのアルメニヤ人兵士は違っていたというのです。彼は大切な自分の持ち物を必要としている人に配っていたのです。しかも嫌々ながらではなく、喜んでしているかのようにさえ見えました。それは物質だけでなく心も配っていました。戦場という厳しい環境で余裕のない状況なのに、みんなの話をよく聞いて、自分にできることを精一杯しているように見えたのです。それは普通ではないと思いました。彼は、アリ先生が今までの人生で会ったことがない人でした。一体、そのパワーはどこからくるのか?どうしてそんなことができるのか?知りたくなって、思い切って本人に尋ねると、彼は優しくこう答えてくれました。

「これは僕の力じゃないよ。僕はクリスチャンなんだ。僕にできるのは、僕の信じている聖書の神、つまりイエス・キリストのおかげだよ。」

正直、アリ先生はそういう宗教の話は聞きたくありませんでした。宗教や神などは彼の中で完全に捨てたつもりだったので、もう関わりたくないと思っていたからです。でもこのアルメニヤ人の持っている力を無視することはできませんでした。そして彼はイエス・キリストに出会い、クリスチャンになったのです。彼のようになりたいと思ったからです。このアルメニヤ人兵士の存在そのものがアリ先生を救いへと導いたのです。その後、日本に来て教会に導かれ、聖書の学びへと進み、牧師になりました。すごいですね。そのアルメニヤ人兵士の証はイスラム教徒さえも回心させる影響力があったのです。クリスチャンが自分の職場でノンクリスチャンの上司を十分に尊敬するなら、そのことによって、神の御名があがめられるようになるのです。

2節には、今度は信者である主人を持つ人は、どのように仕えていったらよいかが教えられています。その人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなければなりません。上司がクリスチャンの場合、クリスチャンであるしもべが陥りやすい過ちは、なあなあになってしまうことです。人は親しくなるとなれなれしくなり、相手を正当に評価しなくなる傾向があるのです。主にあって兄弟姉妹の関係になることはすばらしいことですが、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるように、礼儀に反してはいけません。なぜなら、愛は礼儀に反しないからです。Ⅰコリント13章5節には、「愛は、礼儀に反することをせず、」とあります。愛は礼儀に反することをしません。兄弟である主人を重んじ、ますますよく仕えなければならないのです。

なぜでしょうか?その後のところに理由が述べられています。それは、「その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。」どういうことでしょうか?そのようにクリスチャンのしもべが良い奉仕をすることによって益を受けるのは、同じクリスチャンの主人であるからです。主にあって愛する兄弟が益を受けるのであれば、それは同じ主にある兄弟にとっても大きな喜びであるはずです。なぜなら、兄弟を愛することは神の喜びでもあるからです。そしてそれはまた、少なからず利益の分配となって自分自身の祝福となって返ってくることになるでしょう。

Ⅱ.違ったことを教える人たちに対して(3-5)

次に、3節から5節までをご覧ください。ここには次のようにあります。

「3違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、5 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人」とは、この文脈から見ると、この社会におけるクリスチャンの労働のあり方に同意しない人のことだと言えます。くびきの下にある奴隷は、自分の主人に対してどうあるべきか、あるいは、主人がクリスチャンの場合はどうすべきであるかということを教えられても、それに従おうとしない人たちです。「上司にも変な人が多いから、そういう人には適当に接していればいいんだよ」とか、「嫌だったらすぐに辞めればいい」と言って、従おうとしないのです。つまり、聖書に書かれてあることよりも自分の考えを押し通すような人たちのことです。そういう人たちがエペソ教会にいたのです。そのような人たちは、主人に対してどのように仕えるかということだけでなく、ありとあらゆる事において聖書の教えよりも自分の考えに生きていたのです。

そのような人たちについてはすでに1章3節のところでも語られていました。このエペソ教会には、違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われている人たちがいたのです。それで教会が混乱していました。そうした教えは無益な議論を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。ですから、そういう人たちを避けなさいというのです。

教会で注意しなければならないのは、弱い人や力のない人、信仰の薄い人ではなく、このような人たちです。彼らは能力があり、信仰もあり、知識もあると自負していながら、違ったことを教えて人々を惑わしていました。私たちは、こういう人たちを注意しなければなりません。

このような人たちにはどのような特徴が見られるでしょうか?第一に彼らは高慢になっています。この「高慢」ということばは「煙に巻かれている」という意味のことばで、煙に取り巻かれた人のように自分も周囲も見えないのです。それで自分を誇り、自分の考えこそ正しいと錯覚しているのです。

第二の特徴は、何一つ悟らないということです。これは「無知」とか「無理解」であるということです。律法を知っていると言いながらその意味を全く理解していないのです。主のことばを聞いても正しく理解することができないのです。

第三の特徴は、彼らは疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっていることです。これは病気なんです。これは知的な病気と言います。この病気はある程度の知識を持っているか、あるいはそういう訓練を受けている人に多く見られる病気なんです。しかし、そこからは何のいいものも生まれてきません。そこから生じてくるのは、ねたみとか争い、そしり、悪意の疑いといったものしか生まれてこないのです。互いに愛し合って、一つ心となって、人々の救いのために一致協力して労すべき神の家族の中に、その目標とは全く相容れないものが生み出されてくるのです。それはもう聖霊のみわざとは言えません。これはまさに「惑わす霊」、悪霊のしわざであり、キリストのからだである教会を少しずつむしばんでいくものなのです。

第四に、彼らは敬虔を利得の手段と考えています。どういうことですか?この「敬虔」という言葉ですが、口語訳と新共同訳では「信心」と訳しています。信心、すなわち、宗教を利得の手段としているのです。キリスト教を通してそれでお金儲けをしようと考えているということです。

ですからも違ったことを教え、主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しない人がいるなら、そういう人には注意しなければなりません。

Ⅲ.満ち足りる心の伴う敬虔(6-10)

では私たちに大きな利益をもたらしてくれるものは何でしょうか。6節から10節までをご覧ください。6節にはこうあります。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」

どういうことでしょうか。偽教師たちは信仰を自分の利得の手段と考えていましたが、ここではそうではないと言っているのです。神を信じれば繁栄するとか、成功するということではなく、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を受ける道だというのです。これはどういう意味でしょうか?これは、私たちを愛し、私たちを罪から救ってくださった神を信じ、その神が与えてくださるもので満足し、その神に感謝して生きるということ、これこそ大きな利益を受ける道であるということです。

こんな大きなご利益は他にはありません。いくら欲しいものを手に入れても満足できず、もっと欲しい!もっと欲しい!と、不満ばかり漏らしていたら、そこには何の喜びもありません。ご利益など一つもないのです。しかし、神が与えてくださったもので満足し、喜び、感謝することができるなら、それこそ大きなご利益ではないでしょうか。聖書が言っているご利益とはこういうものなのです。

いったいなぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足し、感謝して受けとめることができるのでしょうか?なぜなら、神は私たちを愛し、私たちのために御子イエスを与え、永遠のいのちを持つようにしてくださったからです。神はそれほどまでにあなたを愛しておられるからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

聖書には、神の御子イエス・キリストを信じる者は、「永遠の命」を持つと書かれています。こんなに大きな御利益があるでしょうか。「永遠の命」ですよ。私たちは皆、この世における100年足らずの命のために勉強したり、あくせくと働いているんです。百年と永遠とではケタ違いです。いや、比較になりません。秦の始皇帝は、「不老長寿」を念願して、「不老長寿の薬」を探した者にはなんでも望むものを与えると約束して、世界中を探させたと言われています。しかし、その願いはかなえられませんでした。けれども、私たちはその永遠のいのちをイエス・キリストによって与えられたのです。このような神がいったい他にいるでしょうか。世界中どこを探しても、このような神はいません。これはものすごいご利益です。キリスト教信仰は必ずしも現世利益を約束するものではありませんが、来世利益を確約するものなのです。来世とは死後の世界のことで、天国のことです。私たちには死んでも生きる永遠のいのちが与えられているので、この地上でのいのちのことで一喜一憂する必要はありません。神が与えてくださるものを、感謝して受けとめる心の余裕があるのです。

なぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足して受け止めることができるのでしょうか?第二、それはご自身のひとり子さえも惜しまずに死に渡された方は、御子といっしょにすべてのものを与えてくださると信じているからです。ローマ人への手紙8章32節には、次のように書かれています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

要するに、キリストを信じる者には、神の永遠の命が与えられるばかりでなく、神の創られた天地万物をも与えてくださるということです。これは論理的にも当然のことです。なぜなら、天地万物はキリストによって、キリストのために創られたものですから(ヨハネ1:3;ヘブル1:2;コロサイ1:16)、私たちにキリストを与えて下さった神は、キリストによって創られた被造物のすべてを、私たちに与えて下さらないはずがないのです。私たちはキリストを信じてキリストと一体となることによって、キリストとの共同相続人とされているのです。

それなのに、与えられないことがあるとしたら、それはいったいどういうことなのでしょうか?それは私たちにとって本当に必要なものではないということです。必要であれば、神は必ず与えてくださるのです。なぜ神は宝くじを当ててくれないのでしょうか。必要ないからです。そんなのに当たったら、あなたの人生はくるってしまうでしょう。もっと高慢になって自分が神にでもなったかのように思い込み、信仰から離れてしまうようになるかもしれません。だから、神は当ててくれないのです。本当に必要だったら必ず与えてくださいます。アーメン。詩篇84篇11節にはこうあります。「まことに、神なるは太陽です。盾です。は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」。

私たちの神は良い物を拒まれません。あなたにとって良い物であれば、神は必ずあなたに与えてくださいます。神は、正しく歩む者たちに、良いものを拒まれないのです。私たちに御子を与えてくださった方は、御子といっしょに、すべてのものを与えてくださるのです。そのことを知っているので、クリスチャンは安心して神に信頼することができます。これがわからないと、与えられない、与えられないといつも不満を漏らし、イライラするようになるのです。

いったいなぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足し、感謝して受けとめることができるのでしょうか?その第三の理由は、神を愛する人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、知っているからです。

ローマ人への手紙8章28節には、こうあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

ここには欲しいものが与えられるかどうかというレベルではなく、すべてのことを益としてくださるとあります。それは良いことばかりではありません。どうしてこのようなことがと思えることさえも、神はすべてを働かせて益としてくださるのです。

日本のプロテスタント宣教の歴史の中で大きな影響を与えた人のひとりに、三浦綾子さんがおられます。三浦綾子さんは、塩狩峠をはじめ、信仰をベースにした小説を書きましたが、なぜ三浦さんは小説を書くようになったのでしょうか。実は三浦さんが結婚した当初、夫の光世さんの給料が少なかったため、生活が苦しかったそうです。それで小さな店を開いて商売を始めたのですが、正直で親切な商売をするので客はどんどん増え、毎日トラックで品物を積んできても売り切れてしまうほどだったそうです。ところがある日、夫が帰って来て、「どうしたものかな。私たちの店のせいで、他の店がつぶれてしまった。今日、あの向かいの店も閉じてしまったそうだ。」と心配して言いました。それを聞いて三浦さんは心を痛めるんですね。どうしましょう、自分たちのせいで他の人たちを苦しめるようなことがあってはいけないわ。それで次の日から大量に仕入れていた品物を大幅に減らして何種類かだけを選んで置き、客が品物を買いに来たら、他の店に行くように勧めたのです。するとどうなったでしょうか。商売あがったり・・というところですが、そのことで逆に時間に余裕ができ、好きだった読書や文章を書くことができるようになり、当時募集していた朝日新聞社の懸賞金付き小説に応募することができたのです。それは1,000万円という当時としては破格の懸賞金でした。それに選ばれたのです。こうした生まれた小説が、あの有名な「氷点」です。自分たちの店のために他の店がつぶれてしまうという問題の中で、いったいどうしたらいいかと悩みつつ、結局、自分たちの店を縮小してでも他の店に影響が及ぼすことがないようにとしたことが、三浦さんの小説家としての道を切り拓く結果となったのです。神を愛する人たちのために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。私たちは、そうした神のご配慮を信じているのです。

そうすると、たとえそこに問題があっても、もはやそれは問題ではないということがわかります。私たちが、問題を問題としないならば、問題を解決することも容易になってくるはずです。その問題を安心して全知全能の神にゆだねつつ、その解決に取り組むことができるようになるからです。あらゆる問題は、天地万物の創造主なる神の御手の中にあります。神は全知全能ですから、解決できないような問題は何一つありません。あらゆる問題は神の時に神の方法によって解決されるのです。これはものすごいご利益ではないでしょうか。神を愛する人々は、こんなも大きなご利益を受けるのです。

7節と8節にはこうあります。「7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。8 衣食があれば、それで満足すべきです。」

これは真理です。私たちは裸で生まれて、裸一貫でこの世を去っていきます。だれも服を着て生まれた人はいないし、死ぬ時には何も持っていくことはできません。私は何度も葬儀をして思いますが、どんなにこの地上に残しても、最後は何も持っていくことはできないんだなぁということを、つくづく教えられます。

だから、衣食があればそれで満足すべきです。実はこれは命令形で書かれているんです。満足しなさい、ということです。不平不満を言ってはいけません。不平不満を言ったら命令違反ということになります。ある人が言いました。「足のない人を見るまでは、靴のないのをこぼしていたものだ」と。とかく私たちはないものを見て不平不満をこぼしがちですが、与えられたものを見て感謝する者でありたいと思います。衣食があれば、それで満足しましょう。あなたは不平を言ってはいませんか?

それでもこの世での利得を求め、もっと!もっと!と欲しがる人はどのようになるでしょうか。9節と10節をご覧ください。ここには、「9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」とあります。

そのような人の最後は滅びです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、おろかで、有害な多くの欲に陥るのです。パウロはここで、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」と言っています。金銭そのものが悪なのではありません。金銭を愛することが問題です。金銭に支配されることが問題なのです。「金は力なり」という人がいますが、しかし、そうした欲望が政界や財界だけでなく、社会のさまざまなところで問題を引き起こしていることを考えると、まさに聖書に書かれていることは本当に真理なのです。

それはクリスチャンも注意しなければならないことです。クリスチャンも金銭を愛することで信仰から離れ、結局は自分自身のみならず、他の人たちをも苦痛と破滅に陥らせるという恐ろしい結果を招くことになるからです。つまり、金を愛すると金がすべてになり、金に仕えるようになるといことです。でも神を愛すると神がすべてとなり、神に仕えるようになるのです。私たちは金をではなく神を愛する者でなければなりません。クリスチャンが目指すのは金持ちではなく、神持ちです。それこそ大きな利益を受ける道なのです。

そのために、詩篇30章7節から9節にある祈りをささげたいと思います。「7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

貧しさも富みも私に与えず、私に定められた分の食料で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、神の御名を汚すことがないために。そして私たちは、ますます神に信頼し、この大きなご利益を受ける者でありたいと願います。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道だからです。