Ⅱテモテ1章8~18節 「恥じてはいけません」

テモテへの手紙第二1章8節からのみことばです。きょうのタイトルは、「恥じてはいけません」です。これは、パウロによって書かれた最後の手紙です。使徒の働き28章30節を見ると、パウロは福音のゆえに二年間ローマで軟禁状態にありましたが、その後釈放されてマケドニヤ地方に行き、そしてスペインに行ったと言われています。その後スペインから戻って来ると再び捕えられ、今度はローマの地下牢に入れられました。そこでこの手紙を書くのです。なぜなら、エペソで牧会していたテモテが教会の問題で疲れ果て、弱っていたからです。先週のところには、「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」と勧めました。テモテは神から与えられた賜物を用いることができないほど弱っていたのです。そんなテモテを励ますために、パウロはこの手紙を書いたのです。

きょうのところでもパウロは、続いて彼を励ましてこう言っています。8節です。「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。」

ここには「恥じてはいけません」とあります。この言葉はきょうの箇所に3回も繰り返して使われています。8節と12節と16節です。このように同じ言葉が繰り返して使われているということは、そのことが強調されているということです。そして、このことがこの箇所を貫いているテーマであると言ってもいいでしょう。いったい何を「恥じてはいけない」のでしょうか。それは、私たちの主をあかしすることや、パウロが囚人であることです。昔も今もそうですが、このように誰か自分の知り合いが捕えられたりすると、「あいつは犯罪者の知り合いだ」と言われるのが嫌で、それを恥じ、そこから去って行く人たちがいます。しかし、恥じてはいけません。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。第一にその力です。いったいどうしたら苦しみをともにすることができるのでしょうか。それは神の力によってです。第二のことは、ではパウロはどうしてこのような苦しみを恥じなかったのでしょうか。それは自分の信じて来た方がどのような方であるかをよく知っていたからです。第三のことは、パウロのように恥じなかった人の模範です。その人はオネシポロという人です。この人の模範から学びたいと思います。

Ⅰ.神の力によって(8-10)

まず8節から10節までをご覧ください。8節をご一緒に読みましょう。「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」

「ですから」というのは、その前のところで語られてきたことを受けてということです。すなわち、神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。先ほども述べたように、昔も今も、誰か自分の知り合いが捕えられたということになると、そういう人とは関わりを持ちたくないと去って行く人が少なくありません。現にパウロが捕えられると、それを恥じて、彼から去って行く人たちがいました。しかしテモテよ、あなたはそうであってはいけないというのです。なぜなら、パウロが捕えられたのはローマの囚人としてではなく、主の囚人としてであるからです。つまり、何か罪を犯したからではなく、イエス・キリストのために、福音のために捕えられたのだからです。福音のために捕えられて、いったい何を恥じる必要があるでしょう。恥じることなど全く必要ありません。なぜなら、イエス・キリストを信じる者が福音のために苦しみを受けることは当たり前のことだからです。たとえば、3章12節を開いてみてください。ここには何と書かれてありますか。ここには、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けるのです。ですから今パウロがこのような苦しみを受けているのは彼が敬虔に生きていたからであり、正しいことなのです。また、ピリピ1章29節にはこうあります。「あなたがたは、キリストのため、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」

私たちは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。霊的祝福だけを受けたのではなく、それと共に苦しみをも受けました。ですから、聖書が教えていることは、イエス様を信じればすべてがうまくいくということではなく、苦しみも受けるということです。でもそれは幸いなことでもあります。なぜなら、福音のために迫害を受けるということは、神の側に立つことができたという証でもあるからです。イエス様はそのように言われました。マタイの福音書5章10節から12節までをご一緒に読みましょう。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」

義のために迫害されている人は幸いです。主のために人々からののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられるとき、幸いなのです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。一般的にはこういう人は最悪で、不幸な人のように思いますが、イエス様はこのように主のために迫害される人は幸いだと言われたのです。そういう人は天で大きな報い受けます。だから、喜びなさい。喜び踊りなさいと言われたのです。主の囚人であることを恥じことなど必要ありません。ではどうしたらいいのでしょうか。ここには、「むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください」とあります。福音のために苦しみをともにしてほしい。でも自分の力で苦しみに耐えることはできません。そんなことをしたら疲れ果ててしまうでしょう。だからパウロはここで、「神の力によって」と言っているのです。神の力によって、福音のために私と苦しみをしてください。そういうのです。神が私たちに与えてくださったものは何でしょうか。それはおくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから私たちは、その神の力によって強められて、苦しみを担っていかなければならないのです。私たちが何とかがんばって耐えるのではなく、日々、御霊に満たされるなら、神がその苦しみに耐える力を与えてくださるのです。

では、神が与えてくださる力とはどのようなものなのでしょうか。9節と10節をご覧ください。

「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」

パウロはここで、私たちがどのようにして救われたのかを語っています。私たちが救われたのは私たちの力によるのではなく、神が私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいました。「聖」というのは選び別けるという意味で、この世と分離することを言います。この世と分離してどうなるのかというと、イエス様と同じ姿に変えられるわけです。それは御霊なる主の働きによるのです。このように私たちを救い、私たちをご自身と同じ姿に変えてくださるのは、私たちの働きによるのではなく、神のご計画と恵みによるのです。

そしてこの恵みはいつ与えられたのでしょうか。いつこの計画が立てられたのでしょうか。ここでパウロは「永遠の昔に与えられた」と言っています。エペソ1章4節には、「世界の基の置かれる前から」とあります。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」世界の置かれる前からキリストにあってあなたを選び、ご自身の子にしようとあらかじめ定めておられたのです。すごいですね。自分ではある日たまたま教会に来て、何となくイエス・キリストを信じたかのように思っていましたが、そうではなく、神が選んでおられたのです。その神の選びに私たちが応答したのです。

ヨハネ15章16節にもありますね。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)イエス・キリストが、真の神が、あなたを選んでくださった。これほど確かな保障はありません。神があなたを救ってくださったのです。あなたが救われたのは神のご計画と恵みによるのです。

それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。神様の救いと恵みは永遠の昔、この世界の基の置かれる前に定められたものですが、それが今、イエス・キリストがこの地上に来られたことによって明らかにされたということです。神の約束のことばが現実のものとなりました。見えない神が見える形で来られたのです。この方がイエス・キリストです。イエス・キリストが現れたことによって、その救いの計画と恵みが明らかになったのです。キリストが来られ、私たちの罪のために十字架で死なれ、死んだだけでなくに三日目によみがえられたことによって、死の力を滅ぼされました。ですから、このキリストを信じる者は死んでも生きるのです。死の力は何の効力ももありません。それは私たちが死なないということではなく、確かに肉体は滅びますが、魂は永遠に生きるということです。キリストを信じる者にはこのような希望が与えられているのです。これが福音です。グッド・ニュースなのです。この福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。だからもう何も恐れることなどありません。パウロを支えていたのは、この死に高らかに勝利されたイエス・キリストの福音だったのです。それがもし私たちの力によるものであったのならどうでしょう。もやしのようにすぐに萎れてしまうでしょう。だから私の力によってではなく神の力によってなのです。私たちは困難な時代になればなるほど、この世のものではなく、将来に約束された永遠のいのちの希望を支えにしなければなりません。この希望を与えてくださった神の力によって、福音のために苦しみをもともにすることができるのだと、パウロはテモテに勧めたのです。

Ⅱ.神は真実ですから(11-14)

次に11節から14節までをご覧ください。続いてパウロはこう述べています。11節と12節をご一緒に読みましょう。

「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」

パウロは、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されました。宣教者というのは、イエスが救い主であることを公に宣べ伝える人のことです。まだイエス・キリストを信じていない人たちに対して、働きかけることです。私たちはみな罪人で、このままでは滅んでしまいます。でも神はあなたを愛しています。そのために神はイエス・キリストをこの世に与えてくださいました。そしてイエスがあなたの身代わりに十字架にかかってくださったので、あなたが罪を悔い改めてこのイエスを救い主として信じて受け入れるなら救われます。その福音を宣べ伝えることが宣教の働きです。

教師というのは、すでに救われた人たちがどのように歩むべきか、ただ救われるだけでなく神のみこころに従ってどのように歩むべきかを教える働きです。私たちは救われても神のことばを学ばなければ、霊的に、信仰的に成長していきません。ですから、神のことばを学ぶことはとても大切なことです。ですから、私たちの教会ではできるだけ1章1節ずつ、神のことばが何を教えているのかを学んでいるのです。イエス様は、「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われました。「この岩」とはイエス・キリストのことであり、イエスが神の御子であるという信仰の告白のことです。イエス様のことばと言ってもいいでしょう。イエスのことば、神のことばの上に立っている教会は絶対に倒れることはありません。それはハデスの門も打ち破ることができないのです。だから最初はチンプンカンプンかもしれませんが、忍耐して学び続けるなら、必ずわかるようになります。

ですから、まだイエス様のことを知らない人には、ぜひ福音を伝えてください。神が愛であること、罪人は滅んでしまうこと、だから神はイエス・キリストをこの世に与えてくださったということ、イエス・キリストがあなたの身代わりとして十字架にかかって死んでくださったということ、そして、三日目によみがえられたということ、そして悔い改めてこのイエスを信じるなら罪から救われ、永遠のいのちが与えられるということです。このことをぜひ伝えてください。そして、そのようにして救われた人は、神のみこころに歩むことができるように、神のことばを学んでください。教会ではそれを学ぶことができるのであって、パウロはそのために召されたのです。

そして使徒というのは遣わされた者たちのことです。これは狭い意味ではイエス様が直接任命した12名の弟子たちとパウロのことを指しますが、広い意味では主によって遣わされた者たちのことを言います。

パウロは、この福音のために召されたのです。そのために、このような苦しみに会っています。このような苦しみというのは、この時パウロは鎖につながれてローマの地下牢にいましたが、食べ物、飲み物もろくに与えられず、寒さに凍え、いつ処刑されるのかわからないという不安の中にいたわけです。でも彼の心は打ちひしがれてはいませんでした。彼はこう言っています。12節、「私はそれを恥とは思っていません。」なぜパウロはこのように言うことができたのでしょうか。その理由が、その次のところにあります。

「とういうのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」

というのは、彼は自分が信じて来た方がどういう方であるかをよく知っていたからです。また、その方は私のお任せになったものを、かの日のために守ってくださることができると確信していたからです。どういうことでしょうか。パウロは、神がどのような方であるのかをよく知っていました。ただ単に頭で知っていたというだけでなく、その生活の中で体験として知っていたのです。たとえば、彼は今投獄され、鎖につながれていましたが、これまでもそのような状態に置かれることが度々ありました。その度に神がどのようにしてくださったかを経験してきたのです。あのピリピで投獄された時はどうだったでしょうか。それは真夜中のことでした。パウロとシラスは神に祈りつつ賛美の詩を歌っていると、突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動いたかと思ったら、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。囚人を逃がしたらその責任を負って処刑されなければならない看守はもうだめだと思って自害しようとしたら、奥の方が声が聞こえてきました。それはパウロの声でした。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」すると看守ははあかりを取り、駆け込んできて、パウロとシラスの前に震えながらいうのです。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」するとふたりは落ち着いた声で、しかもはっきりとこう言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」そしてその夜、看守とその家の者全部がバプテスマを受けたのです。ハレルヤ!たとえパウロたちが囚われても、神は囚われるどころか、そのようなところでも働いて救いのみわざ、神の栄光を現してくださいました。

ローマで囚われた時はどうでしたか。パウロがローマにやって来た時は自費で借りた家に住むことが許されましたが、ローマの兵士に24時間監視されていました。いわば軟禁状態だったわけです。しかし、ピリピ人の1章を見ると、このことがローマの兵士たち全員に知れ渡ったので、彼らの中からも救われる人たちが起こされたばかりか、このことで勇気と確信が与えられた兄弟たちが、ますます大胆に神のことばを語るようになった、と言われています。まさに災い転じて福となすです。

だから、今回もこのようにローマの地下牢に閉じ込められてはいるが、これまでの経験から言えることは、たとえどんなことがあっても神は最善に導いてくださると確信することができたのです。仮にたとえこのことによって死ぬことがあったとしても、愛の神はそれさえも用いてくださると信じていたのです。それは私たちに対する神の約束でもあります。

Ⅰコリント10章13節にはこうあります。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

すばらしい約束です。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えることのできないような試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。あなたにはこの確信があるでしょうか。もしそうならば、あなたも何も恐れる必要はありません。あなたには、すでに脱出の道が備えられているからです。

そればかりではありません。パウロはここで、「その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」と言っています。どういうことでしょうか。「私のお任せしたもの」は新共同訳では、「私にゆだねられているもの」と訳しています。それは福音のことです。それをかの日まで、かの日とはキリストの再臨の日のことですが、その日まで守ってくださるという確信がありました。パウロは、たとえ肉体が滅んでも、神が永遠のいのちを保証してくださるという確信があったのです。また、神が彼に託された福音は、たとえ彼が殺されたとしても守られる、むしろ広がっていくと確信していたのです。

だから何も心配することはありませんでした。すべてを神にゆだねることができたのです。自分が信じていることの確信がある人は、どんな状況にあっても揺らぐことはありません。パウロは確信のある人でした。自分が信じている方がどういう方かをよく知っていたのです。だから彼はどんな状況にあっても揺らぐことはなかったのです。あなたはどうですか。このような確信がありますか。

だからあなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本としなければなりません。そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守らなければならなないのです。この健全なことばとか、良いものというのは、神のことば、福音のことです。テモテの回りには偽教師たちがたくさんいて、違ったことを教えていたので、何が真実なのかがわからなくなってしまうことがありました。ですから、彼が手本にし、彼が立たなければならなかったのは、彼がパウロから聞いた健全なことば、神からゆだねられた福音のことばだったのです。それを聖霊によって守らなければなりません。なぜなら、聖書の真の著者は聖霊ご自身ですから、それと違ったことを教えると、聖霊ご自身が「ちょっとおかしいなぁ」と気づかせてくれるからです。ですから、私たちは聖書が教えていることを正しく学び続けていく必要があるのです。

Ⅲ.福音を恥じと思わなかったオネシポロ(15-18)

最後に、福音を恥じと思わなかったオネシポロという信仰者の模範を見て終わりたいと思います。15節から18節までをご一緒に読みましょう。

「あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけてくれ、また私が鎖につながれていることを恥とも思わず、ローマに着いたときには、熱心に私を捜して見つけ出してくれたのです。―かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように―彼がエペソで、どれほど私に仕えてくれたかは、あなたが一番よく知っています。」

パウロはこのエペソの町で3年間神のことばを教えました。特にツラノの講堂では2年間毎日教えて、アジヤにいる人たちはみな主のことばを聞いたと言われたほどでした。今でいうとトルコ地方です。すべての人が主のことばを聞いたのです。

ところが数年後、パウロが捕えられると、その人たちはみな残念ながら彼から離れていきました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいますと名指しで言われています。おそらく彼らは長老だったのでしょう。罪を犯している長老はすべての人の前で責めなさいとありますから(Ⅰテモテ5:20)とありますから。彼らは自分たちに都合が悪くなるとパウロから離れていきました。

しかし、その人たちとは逆に、パウロが苦しかった時に助けてくれた人たちもいました。オネシポロの家族です。16節を見ると、彼はたびたびパウロを元気づけてくれ、またパウロが鎖につながれていることを恥じとも思わず、ローマについた時には、熱心にパウロを捜し出してくれました。

パウロが捕えられるとアジヤにいた人たちはみなパウロから離れ去って行きました。しかし、このオネシポロだけはそうではありませんでした。彼はエペソの教会の長老であり、ビジネスマンではなかったかと言われていますが、彼は主に仕えるということがどういうことかをよく理解していました。主に仕えるようにパウロに仕えました。そして、長老としてふさわしい行動をとったのです。物事が順調な時だけでなく、困難な時、苦しい時にどうするかでその人の真価が問われます。彼はみなが去って行く中、

自らパウロのところへ行ったのです。そしてパウロを元気づけました。おそらく食糧もなかったでしょうから、食糧を届けたことでしょう。そして、鎖につながれていたパウロを恥じとも思いませんでした。熱心にパウロを捜して見つけ出してくれました。パウロの仲間だと知れると、ローマに捕えられる危険性がありましたが、彼はその危険も顧みずにパウロを熱心に捜して見つけ出し、そして食糧も与えて元気づけて、パウロを励ましてくれたのです。パウロはどれほど慰められたことかと思います。

箴言17章17節をお開きください。

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」

苦しい時にひとりで苦しみを負うのは大変です。だれかがそばにいてくれるだけでその苦しみは和らぎます。その苦しみを分け合うために兄弟は存在しているのです。パウロは苦しい状況の中にいました。肉体的にも、精神的にも、霊的にも、いろいろなプレッシャーがある中で苦しんでいました。そして一番の苦しみは、そのような苦しみの中で去って行く人がいたことです。そんな中で苦しみや痛みを分かち合ってくれる兄弟、信仰の友、信仰の家族、仲間がいるといこうとは大きな慰めであり、支えです。それがオネシポロでした。だから、オネシポロのことを思ったとき、もう祈らずにはいられませんでした。主よ、かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。その労苦に十分に報いてくださるように。そう祈らずにはいられませんでした。

オネシポロのような人が主に喜ばれる人です。私たちも神の力によって、主のために、また福音のために、苦しみをともにできる人でありたいですね。いい時だけでなくて、どんな時でも、主のために、福音のために苦しみをともにできる。そして福音を恥じとしない。パウロはあなたの力によって頑張りなさいとは勧めているのではありません。そこを勘違いなさらないでください。あくまでも神の力によってです。神の力によって、福音のために、私と苦しみをともにしてください。そのようにパウロはテモテに勧めました。私たちも主のために、福音のために、祝福と同時に、神の力によって苦しみもともにしてまいりましょう。