Ⅱテモテ2章14~19節 「熟練した者として」

きょうはⅡテモテ2章14~18節のみことばから、「熟練した者として」というテーマでお話したいと思います。前回のところでパウロは、教会の牧会で苦しんでいたテモテを励ますために、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、と言いました。私たちと同じ人間としてお生まれになられたイエスは、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じような試みに会われたのです。ですから、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。また、この方は死者の中からよみがえられました。キリストは死からよみがえられて永遠に生きておられる方です。この方が今も生きて、私たちを助けてくださいます。だから、このイエス・キリストをいつも思っているなら、それがどんな苦難であっても耐えることができるのです。きょうのところでパウロは、そのような苦難の中で神の働き人はどうあるべきかを教えています。

Ⅰ.ことばについての論争などしないように(14)

まず14節をご覧ください。

「これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」

ここでパウロは「これらのことを人々に思い出させなさい」と言っていますが、「これらのこと」とは何でしょうか。「これらのこと」とは、その前のところでパウロが語ってきたことです。すなわち、耐え忍ぶ者にもたらされる栄光がどのようなものであるかということ、また、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられたイエス・キリストが今も生きて、助けてくださるということ、そして、もし耐え忍ぶなら、キリストとともに治めるようになるということです。これらのことを人々に思い出させなければなりません。

そしてその一方で、ことばについての論争などをしないように、神の御前できびしく命じなければなりません。なぜなら、そのような論争は何の益もならず、聞いている人々を滅ぼすことになるからです。テモテが牧会していたエペソの教会には、こういう人たちが忍び込んでいました。彼らは違ったことを教えたり、健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しないばかりか、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをする病気にかかっていました。そこから、ねたみや、争い、そしりや悪意の疑りが生じ、絶え間のない紛争が生じていたのです(Ⅰテモテ6:3-5)。

このようなことばについての論争から、いったいどんな良いものが生まれてくるというのでしょうか。言い争ったら人が救われるのでしょうか。言い争うことによって、それを聞いた人たちの信仰が建て上げられるのでしょうか。いいえ、そういうことはありません。むしろ、そうした言い争いによって、それを聞いている人々を滅ぼすことになるだけです。何の益にもなりません。だから、そのようなことばについての論争などしないように、きびしく命じなければなりません。ただ命じればいいというのではません。神の御前できびしく命じなさい、とあります。これは、それほど重要なことなのです。

エペソ4章29節には、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。人を滅ぼすようなことばの論争などの悪いことばを、いっさい出してはいけない。ただ、人々の徳を高める、人々の信仰の成長の助けとなるような、聞く人に恵みを与えるようなことばを語らなければなりません。そういうことのために時間とエネルギーを使いたいものです。

しかし、こうしたことばについての論争は、意外と多くのところで見られます。たとえば、ある人たちは洗礼の方法について言い争ったりします。洗礼は浸礼じゃなければならないとか、いや滴礼でいいんだ、いや頭に水を注がなければならない、洗礼の時は後ろに倒すんだ、前に倒すんだ、下に沈めるんだと、いろいろな方法論を論じるのですが、大切なのは洗礼の方法なのでしょうか。そうじゃないですよね。大切なのは方法ではなく本質です。信じてバプテスマを受ける者は救われます。信じない者は罪に定められます。たとえ信じないで形だけ洗礼を受けたとしても何の意味もありません。それがどういう方法であろうとも、信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。私は、基本的に洗礼は浸礼だと信じていますが、でも例外もあります。病気で寝たきりの人を水に沈めることは難しいですし、状況によってはその場で洗礼を授けた方がいい場合もあります。そういう時には滴礼でもいいから洗礼を授けるべきだと考えています。しかしある人は、だったらそういう人は、別に洗礼を授けなくてもいいじゃないか、という人がいます。あくまでも沈めることにこだわっている人は、そのようにまで言うのです。しかし、聖書は信じてバプテスマを受けるようにと命じていますから、それがどのようなやり方でも、信じて洗礼を受けるなら、そこに神の恵みと祝福が注がれるのです。

もちろん、明らかに真理に反するような教えに対しては論じなければならないこともあります。たとえば、三位一体の教理とか、イエス・キリストの神性を否定するようなものに対してはきちんと論証しなければなりません。そこはゆずれないところです。信仰によって救われるということもそうですね。大切な教えです。しかし、細かい聖書の解釈の違いについては言い争うのではなく、それぞれの違いを認め、受け入れることも必要なことなのです。

しかし、それは信仰だけのことではありません。日常の生活においても、私たちは意外と他人のことばじりをとらえて論争してしまうことがあります。私は最近、パソコン型のタブレットを買いましたが、それが届く予定の時間に届かなかったことがありました。別に出かける予定もなかったので多少遅れても問題なかったのですが、予定していた時間が過ぎていたので、確かめようとコールセンターに電話したのです。すると電話の相手の方は、確かにこの日の午前中配達になっているということ、もし届いていないとしたら大変ご迷惑をかけて申し訳ないということ、どうなっているのかすぐに調べてみるということでした。するとすぐに玄関のチャイムがなったので下に降りて行ってみると、宅配の方で、午前中配達予定のタブレットを積むのを忘れたので、これから戻って取ってきますから少し待っていてくださいということでした。するとまたコールセンターからまた電話がありました。調べてみたところ宅配の方は確かに配達には出かけているようだが、遅れて大変申し訳ないということでした。申し訳ないのはこちらの方で、どうでもいいことのために相手を戸惑わせたことを恥ずかしく思いました。このように私たちはどうでもいいことでも、自分が正しいと思うとついつい争ってしまうのです。

でも、このような態度は何の益ももたらしません。聞く人に恵みを与えるどころか全く非生産的な結果を生み出してしまうのです。だから、ことばについての論争などをしないように、私たちは注意しなければなりません。

Ⅱ.熟練した働き人(15-18)

ではそのためにはどうしたらいいのでしょうか。15節から18節までをご覧ください。15節には、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」とあります。 パウロはここで、ことばについての論争などをする人たちとは対照的に、神に仕える働き人はどうあるべきかを語っています。そして、その人は熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげなければなりません。

この「熟練した人」とは、その働きにふさわしい、適格者として認められた人のことです。たとえば、家を建てるとき、建てたのはいいけれど傾いていたというのでは、職人さんとして恥ずかしいことです。新しく建てたのに雨漏れがしたというのも、大工さんとしては失格ということになります。そういうことがないように、土台をしっかり据え、寸法通りにまっすぐに切ってつなぎ合わせ、地震などの揺れがあっても大丈夫なように、柱と柱の間には筋交いを入れて強度を保ったりするわけです。

あるとき、この家を建てた大工さんに聞いたことがあります。この筋交は邪魔だから取れないですかね。すると大工さんがいいました。「これがあるから家がちゃんと建っていられるんですよ。これを取ったらすぐに倒れてしまいますよ。」これは熟練した人の見方です。私のような素人は、「ちょっと邪魔だから、とれないかなぁ」みたいなことを考えるんですが、プロは違います。熟練した人は見えないところまでちゃんと考えて作るのです。また一つ一つの材料がきちんと入るように作ります。作ったのはいいけど後で窓が入らなかったとか、ドアが入らなかったというのでは恥ずかしいことです。熟練した職人さんは、ピタッと入るのです。そうでいなと大工さんとしては失格となるからです。

寿司職人の方もそうです。「はいよ!」と威勢の良い声でにぎりを出してくれますが、もし出された途端に崩れたり、サイズがバラバラだったりしたらどうでしょう。「なんだ!この寿司は」ということになります。それではお寿司の職人さんとしては恥ずかしいことになります。同じサイズの寿司を、ちょ、ちょいの、ちょいで、リズミカルに、しっかりと握ってこそ寿司職人です。名人クラスになると握った感覚で米粒の数までわかると言います。それが熟練した人です。同じように、神のみことばに仕える者もそうでなければなりません。熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かし、恥じることのない働き人として、自分を神にささげなければならないのです。

この「まっすぐに説き明かし」とは、まっすぐに切るという意味です。これは元来農夫がみぞをまっすぐに掘るという意味で用いられました。曲がって掘ってはいけません。神のことばも同じで、曲解しないで、まっすぐに、正確に説き明かさなければなりません。これを人間の知恵によって歪曲したりしてはいけないのです。パウロが、「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことをせず」(Ⅱコリント2:17)と言っていますが、神のみことばに混ぜ物をして売ったり、自分の思想や経験を証明する道具として、神のことばを曲げて用いてはならないのです。聖書そのものから語りかけてくるメッセージを忠実に聞き、それを伝えていかなければならないのです。

いったいどうしたらそのような熟練した働き人になることができるのでしょうか。ここには、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい、とあります。それは終始一貫して、献身的な思いによってなされるということです。自分を神にささげた者として熱心に神のことばを学び、全身全霊をもってこれに取り組まなければなりません。聖書が教えている意味を正しく理解しなければ、他の人に教えることばできません。

私はこうやって毎週メッセージの奉仕をさせていただいておりますが、私はできるだけ同じ箇所からは話さないように心がけています。なぜなら、いつも同じ箇所から話していたら、自分が学ぶことがないからです。学ぶことがなければ理解することはできません。理解できなければ、他の人に伝えることはできないのです。だから、毎週のメッセージの準備のためにはかなり時間がかかるのですが、私にとってこのような学びができるということは本当に感謝なことです。しかし、それは奇跡でもあります。私は元来座っているのは苦手で、どちらかというと、いつも動いていたいんですね。若い時からスポーツが得意でいつも走ってばかりいたせいか、動いていた方が楽なんです。だから家内からはいつも「あなたは落ち着きがない」と言われるのですが、こういう落ち着きのない人間がずっと座って勉強しているんです。まあ、勉強しているのか、遊んでいるのか、寝ているのかはわかりませんが、とにかくずっと座っているんです。大体30分のメッセージのために、計ったことはありませんが、相当の時間じっと座っています。これは奇跡です。それをほとんど毎週日曜日と祈祷会のために準備します。じっと座っていられない者が毎週何十時間も座って勉強するとしたら、しかも勉強が好きな人ならいいですが、嫌いな私が必死になって勉強しているとしたら、それはまさに神のわざであって、聖霊の助けがないとできないことです。ですからそれが継続して続けられるように、私のために祈ってほしいと思います。でも、なぜこのようにするのかというと、みことばを学ばないとわからないからです。わからないと伝えることはできません。だから真理のみことばをまっすぐと説き明かすために、熟練した働き人になるために、自分を神にささげるよう、努め励まなければならないのです。神にあなたをささげなければならない。まな板の鯉のように、神様、煮ても、焼いても、何をしてもいいです。どうか、あなたのために用いてくださいと、捧げなければならないのです。

16節から18節をご覧ください。ここには、「俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。」とあります。

ここには、熟練した働き人のもう一つの特徴が語られています。それは、俗悪なむだ話を避けるということです。それは真理からずれた話で、人々を信仰から遠ざけ、人々をますます不敬虔に深入りさせます。彼らの話は癌のように広がるとあります。不思議と悪い話は良い話よりも早く広まりますね。聖書は悪のことをパン種にとえていますが、ほんの少しのパン種がパン全体をふくらませるように、そうした話はキリストのからだである教会全体に広がって、破壊していくのです。ここでは、ヒメナオとピラトという二人の名前が具体的にあげられています。ヒメナオについてはⅠテモテ1章20節にも、信仰の破船に会った人物として名指しであげられていました。そこでの中心人物はヒメナオだけでしたが、ここではピレトも仲間に加わっていることがわかります。そのように、こうした俗悪な話というのは癌のようにすぐに広がっていくのです。

いったい彼らはどういう点で間違っていたのでしょうか。彼らは真理からはずれてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしていました。彼らは復活を単なる霊的な出来事、精神的なことであるとして、将来、肉体が復活するなんてあり得ないし、そんなことを信じるのは愚かなことだと吹聴していたのでしょう。でも聖書が教えている復活というのは、そういうことでしょうか。違います。聖書が教えている復活とは、イエス様が再臨されるとき、私たちの肉体が、朽ちないからだ、滅びないからだ、栄光のからだに実際に変えられるということです。まずキリストにあって死んだ人たちです。次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。それは文字通り実際に起こる事であって、単に霊的に復活することではないのです。

Ⅰコリント15章51~52節を開いてください。ここには、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。主が再び戻って来られるとき、私たちのからだは一瞬のうちに朽ちないものに、朽ちないからだに変えられるのです。朽ちるものは必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは必ず不死を着なければならないからです。朽ちるものが朽ちないものを着、死が不死を着るとき、死は勝利にのまれたという聖書のことばが実現するからです。このように聖書ははっきりと、私たちに朽ちないからだが与えられることを約束しているのです。ですから、熟練した者は、そうした俗悪なむだ話を避けなければならないのです。そうしたものが群れの中に入って来ないように注意しなければなりません。

Ⅲ.神の不動の礎(19)

最後に19節を見ておわりたいと思います。「それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

「それにもかかわらず」とは、偽りの教えが癌のように広まり、ある人たちの信仰をくつがえすようなことがあってもということです。エペソの教会には偽りの教えをする者たちがいました。そういう人たちは敬虔な人たちを自分たちの方に引き込もうとしていたので、多くの人たちがそれに巻き込まれ信仰がくつがえされるということがありましたが、しかし、それにもかかわらずです。それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれているのです。神の不動の礎とは何でしょうか。それは教会のことです。新共同訳聖書はこれを、「神が据えられた堅固な基礎」と訳しています。英語では「Gods solid foundation」と訳しています。何ゆえにこれは堅固な基礎なのでしょうか。それは、決してゆらぐことのない神が据えた基礎だからです。それは神の教会のことであり、それはどんなことがあってもびくともしない土台なのです。たとえそこに偽りの教えが入ってきても、その教えが教会を混乱させるようなことがあったとしても、教会は決して揺るがされることがありません。なぜなら、教会はキリストによって立てられた神のものだからです。

マタイ16章18節を開いてください。ここでイエス様はこう言われました。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」これは、人々はわたしをだれだと言いますかというイエスの質問に対して、弟子たちが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白した、その信仰の告白に対してイエス様が言われたことです。ペテロは正しい信仰の告白をしました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」でもそれは彼の理解力によってそう言えたのではなく、神様がそのようにはっきりと示してくださったのでそういうことができたのです。その信仰の告白の上に、キリストはご自身の教会を建てると言われたのです。それはハデスの門も打ち勝つことはできません。それは堅固な土台に建てられています。それが教会なのです。もし教会が人によって始められたとしたにどうでしょう。それはどんなに立派なようでも、滅びてしまうでしょう。人間はそのようにいつも不安定なものだからです。しかし、神は違います。天地が滅び去っても、神のことばは決して滅びることはありません。全部が成就します。それほど確かなものです。ですから、神によって始められた教会はどんなことがあってもびくともしないのです。たとえ教会に偽りの教えが入ってきても、たとえ大きな問題が起きようとも、教会は堅く立ち続けるのです。

いったい何がそれを保証するのでしょうか。パウロはここで、その礎、土台には二つの銘が刻まれていると言っています。一つは「主はご自分に属する者を知っておられる」ということであり、それからもう一つは、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」という銘です。これはどういうことでしょうか。これはどちらも民数記16章にあるコラの子たちの出来事というか、その話の中からの引用されている言葉ですが、よく見ると、それがイエス様の言葉に照らし合わせて理解されていることがわかります。

ここであまり詳しく学ぶことはできませんが、ウイリアム・バークレーという聖書注解者が、この二つのことばの意味を説明しているので、それを紹介したいと思います。第一に、教会は神に属する人々で成立している。もはや、自分で自分を所有しようとは思わず、また世間も、自分を所有せず、ただ神のみが自分を所有している、というように自分を神に与えてしまった人々で成立しているのである。

第二に、教会は不義から離れた人々によって成立している。このことは、教会が完成された人々の集まりであるということではない。もしそうなら、教会は存在しえなくなる。よく言われるように、神の大きな関心事は、人間が、どのような地点に到達したかではなく、人間が、どの方向に向いているかである。教会がその顔が、聖と義の方向に向いている人々で成立しているのである。彼らはしばしば失敗し、倒れる。そして、ゴールが、時には悲劇的に、また、落胆させるほどに遠のくことがある。それでも、彼らの顔は絶えずゴールに向き、彼らの願いは常に正義に向かっている。教会は神に所属する人々、正義のための戦いに自分自身をささげた人々で成り立っている。」(ウィリアム・バークレー、聖書注解シリーズ12、ヨルダン社)

教会は神に所属する人たちによって成り立っており、正義のために自分自身をささげた人たちによって成り立っているのです。だから、たとえ失敗して倒れ、ゴールが遠のくことがあっても、また、落胆させられることがあっても、それでもその顔は絶えずゴールに向かっているのです。だから、神の教会はどんなことがあっても揺るがされることはないのです。この神の約束を信じて、私たちも神に所属する者であるということ、また、神に自分自身をささげた者であるということを確認し、神のゴールを目指して前進していこうではありませんか。