きょうは、民数記27章から学びたいと思います。前回の学びで、モーセとアロンがシナイの荒野で登録したときのイスラエル人はみな荒野で死に、ヨシュアとカレブのほかには、だれも残っていなかったという現実を見ました。残された民が、神が約束してくだった地を相続します。そして、その相続の割り当てについて語られました。すなわち、大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくしなければならないということです。きょうの箇所には、その相続に関する神様のあわれみが示されます。
Ⅰ.ツェロフハデの娘たち(1-11)
まず1節から11節までをご覧ください。
「 さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち・・ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子・・が進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入口に立って言った。「私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって主に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。彼には男の子がなかったのです。男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。すると主はモーセに告げて仰せられた。「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ。」あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないとは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えなさい。もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。」
ここに、ヨセフの子のマナセの一族のツェロフハデの娘たちが出てきます。彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入り口に立って、自分たちにも所有地を与えてください、と言いました。どういうことでしょうか?26章33節を見ると、ここにツェロフハデの娘たちの名前が記されてあります。彼女たちの父ツェロフハデには息子がなく、娘たちしかいませんでした。ということは、ツェロフハデには何一つ相続地が与えられないということになります。ですから、彼女たちは、そのことによって相続地が与えられないのはおかしい、とモーセに訴えたのです。
この訴えに対して主は何と言われたでしょうか。6節です。主は、この訴えは正しい、と言われました。そして、主は彼女たちの訴えに基づいて、父が子を残さなかったときについての相続の教えを与えられました。子がいないという理由で相続地がないということがあってはならないというのです。その相続地を娘たちに与えなければなりません。娘たちもいなければ、それを彼の兄弟たちに、彼に兄弟がいなければ、それを氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与えて、それを受け継がせなければならない、と言われたのです。
これはどういうことでしょうか?このことについては、おもしろいことに、ここで話が終わっていません。36章を見ると、マナセ族の諸氏族のかしらたちがモーセのところにやって来て、この娘たちが他の部族のところにとついだならば、マナセ族の相続地が他の部族のものとなってしまうので、彼女たちはマナセ族の男にとつぐようにさせてください、と訴えているのです。そしてその訴えを聞いたモーセは、「それはもっともである」と、彼女たちは父の部族に属する氏族にとつがなければならない、と命じるのです。そのようにして、イスラエルの相続地は、一つの部族から他の部族に移らないようにし、おのおのがその相続地を堅く守るようにさせました。そして、この民数記は、この娘たちが主が命じられたとおりに行ったことを記録して終わるのです。
つまり、彼女たちの行為は信仰によるもので、約束のものを得るときの模範になっているということです。そうでなければ、このことが聖霊に導かれてモーセが記録するはずがありません。主が、アブラハムの子孫に、この地を与えると約束されたので、彼女たちは、その約束を自分のものとしたいと願いました。けれども、相続するためには男子でなければなりません。しかし、そうした障害にも関わらず、彼女たちは主の前に進み出て大胆に願い出ました。ここがポイントです。ここが、私たちが彼女たちに見習わなければいけないところなのです。つまり、私たちは、その約束にある祝福を、自分たちの勝手な判断であきらめたりしないで、彼女たちのように信仰によって大胆に願い求めなければならないのです。
あのツロ・フェニキヤの女もそうでした。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。」「子どもたちのパンくずを取り上げて、子犬にやるのはよくないことです。」と言われた主イエス様に対して、彼女は、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15:27)と言いました。そして、そのとおりになりました。信仰をもって、あきらめないで願い出るなら、主は惜しみなく与えてくださるのです。もちろん、その願いは自己中心的なものではなく、主のみこころにかなったものであることが重要ですが、しかし、あまりにもそれを考えすぎるあまり求めることをしなければ、何も得ることはできません。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」(マタイ7:7)私たちは、キリストにあってすべてのものを施してくださるという神の約束を信じて、神に求める者でありたいと願わされます。
Ⅱ.モーセの死(12-14)
次に12節から14節までをご覧ください。
「ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。」
これは、モーセも他のイスラエルの民と同様に約束の地に入ることができないという、厳粛な主の宣告です。この宣告は、イスラエルの民以上に、彼にとってどんなに辛かったことでしょう。彼はこの120年間、ただイスラエルの民が解放され、約束の地に導かれることを夢見てきました。しかし、彼自身はそこに入ることはできないのです。なぜでしょうか?それは14節にあるように、ツィンの荒野で会衆が争ったとき、主の命令に従わなかったからです。
どういうことでしょうか?もう一度民数記20章を振り返ってみましょう。これはイスラエルがツィンの荒野までやって来たときのことです。そこでモーセの姉ミリヤムが死にました。そこには水がなかったので、彼らはモーセとアロンに逆らって言いました。それで主はモーセに杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そのようにすれば、岩は水を出す・・・と。ところが、モーセは主の命令に背き、岩に命じたのではなく、岩を二度打ってしまいました。それで主はモーセとアロンに、彼らが主を信じないで、イスラエルの人々の前で聖なる者としなかったので、彼らは約束の地に入ることができないと言われたのです。
Ⅰコリント10章4節には、この岩がキリストのことであると言われています。その岩から飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを示しています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのです。しかし、彼らは岩を打ってしまいました。モーセとアロンは、主が仰せになられたことに従いませんでした。彼は自分の思い、自分の感情、自分の方法に従いました。それは信仰ではありません。それゆえに、彼らは約束の地に入ることはできない、と言われたのです。あまりにも厳しい結果ですが、これが信仰なのです。信仰とは、神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはありません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れること以外にはないのです。御霊の岩であるイエスを信じる以外にはありません。彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたので、約束の地に入ることができませんでした。それは他のイスラエルも同様です。彼らもまた不信仰であったがゆえに、だれひとり約束の地に入ることができませんでした。ただヨシュアとカレブだけが入ることができました。彼らだけが神の約束を信じたからです。神の約束を得るために必要なのは、ただ神のことばに聞き従うということなのです。
Ⅲ.モーセの後継者(15-23)
しかし、話はそれで終わっていません。それでモーセは主に申し上げます。15節から23節までをご覧ください。
「それでモーセは主に申し上げた。「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。」モーセは主が命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。」
モーセは、自分が約束の地に入れないことを思い、であれば、イスラエルの民がそこに入って行くことができるように、だれか他のリーダーを立ててくださいと言いました。そうでなかったら、彼らは羊飼いのいない羊のようにさまよってしまうことになるからです。皆さん、羊飼いのいない羊がどうなるかをご存知でしょうか?羊飼いのいない羊はどこに行ったらよいのかがわからずさまよってしまうため、結果、きちんと食べることもできないので、死んでしまいます。それは霊的にも同じです。牧者がいない羊たちはめいめいが勝手なことをするようになり、その結果、滅んでしまうことになるのです。士師記を見るとよくわかります。彼らは指導者がいなかったときめいめいが勝手なことをしたため、霊的に弱くなり、たえず敵に脅かされてしまいます。それで彼らが叫ぶと主はさばき司を送られたので立ち直ることができました。ですから、リーダーがいないということは群れにとっては致命的なことなのです。モーセはそのことを心配していました。
それに対して主は何と言われたでしょうか。主はモーセに、ヌンの子ヨシュアを取り、彼の上に手を置き、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼をその務めに任命するように、と言われました。
主はヨシュアを、モーセの後継者としてお選びになりました。主はヨシュアが「神の霊の宿っている人」と言っています。ヨシュアにはどのように神の霊が宿っていたのでしょうか?このヨシュアについてそのもっとも特徴的な表現は、出エジプト記24章13節の、「モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり」という表現です。彼はいつもモーセのそばにいて、彼に従い、彼を助けました。出エジプト記17章には、イスラエルがエジプトを出て荒野を放浪していたときにアマレクと戦わなければなりませんでしたが、その実働部隊を率いたのがこのヨシュアでした。また、彼はあのカデシュ・バルネヤから12人の偵察隊を遣わした中にもいて、カレブとともに他の10人の偵察隊が不信仰に陥って嘆いた時も、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と進言しました。彼はとくに、めざましい働きをしていたわけではありませんでしたが、常にモーセのそばにいて、モーセの助手として彼を支え、彼に仕えていたのです。いわば彼は、モーセのかばん持ちだったわけです。モーセに言われたことを守り行ない、モーセが猫の手を借りたいときには猫の手になり、難しい仕事も不平を言わずにこなし、とにかくモーセを助けていました。Ⅰコリント11章28節には、「助ける者」という賜物がありますが、ヨシュアには、こうした助けの賜物が与えられていて、モーセに仕えていたのです。ですから、ヨシュアこそモーセの後継者としてふさわしい人でした。
モーセは主が命じられたとおりに行ないました。彼はヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命しました。彼は約束の地に入ることはできませんでしたが、アバリム山に登り、イスラエル人に与えられた約束の地を見て、その後を後継者にゆだねたのでした。