ヘブル人1章1~3節 「神の御子イエス・キリスト」

 きょうからヘブル人への手紙に入ります。この手紙はだれによって書かれたのかはわかりません。通常の手紙ですと、手紙の冒頭のところに、だれによって書き送られたのかが明記されていますが、この手紙にはそれがないからです。ある人は、これはパウロによって書かれたに違いないと言い、また、ある人はおそらくアポロによって書かれたものでしょうと言いますが、実際にはだれによって書かれたのかははっきりわからないのです。でもわからないからこそ、なお一層のことこの手紙が聖霊に動かされた人たちによって書かれた手紙であるということがクローズアップされているのではないでしょうか。そうです、この手紙の著者は聖霊なる神ご自身なのです 

 では受取人はだれでしょうか。これも書かれてありませんが、この手紙のタイトルを見ると「ヘブル人への手紙」とあるので、これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙であることがわかります。いったいなぜ書かれたのでしょうか?彼らはユダヤ教からキリスト教に回心した人たちでした。そこには相当の迫害や困難があったであろうということは容易に想像することができます。そうした苦難や困難に遭うことで、中には過去の生活に逆戻りする人たちもいたのです。そこで、そうした人たちを励ますために、そして、この信仰にしっかりととどまっているためにこの手紙が書かれました。 

 そうした人たちにとって、いったい何が励ましになったのでしょうか。それは主イエス・キリストご自身です。キリストがどのような方なのかを知り、この方をしっかりと見つめることが、そうした困難を乗り越える力となったのです。それゆえ、この手紙の著者はこう勧めるのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないようなしなさい。」(ヘブル12:2)それは、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも日々の生活の中で多くの問題に直面して苦しむことがありますが、そのような時でもキリストがどれほどすばらしい方であるのかを思い出し、この方を見つめるなら、大きな励ましを受けるのです。きょうは、この方がどれほど偉大な方であるのかをご一緒に見ていきたいと思います。 

Ⅰ.神は、預言者たちを通して語られた(1)

 

 まず1節をご覧ください。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、」 

 この手紙は、いきなり「神は、」で始まります。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」皆さん、まことの神は語られる方です。しかし、偶像はそうではありません。偶像は口があっても語ることができません。偶像は目があっても見ることができず、口があっても語ることができず、耳があっても聞くことができません。鼻があっても嗅ぐこともできないのです。詩篇115篇2~8節にはこうあります。

「2 なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」 

偶像は語ることができませんが、まことの神は語ることができる方です。目を造られた方は見ることができるように、口を造られた方は語ることができるのです。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られました。 

いったいなぜ神は語られたのでしょうか。それはご自身を現しすためです。もし神が語ってくださらなければ、どうやって神を知ることができるでしょう。もし神を知ることができなければ、どうやって神を信じることができるでしょうか。人間の知恵によっては神を知ることはできません。この世の宗教はそれを物語っているのではないでしょうか。この世の宗教は自分の知恵や力でがんばって神を知ろうしますが、どんなにがんばっても知ることはできません。自分の努力や、難行、苦行によって悟りを開こうとしても、開くことはできません。ただ神の側から近づいてくださらなければ、神が語ってくださらなければ、神を知ることはできないのです。だから、神は語ってくださったのです。 

いったい神はどのようにして語られたのでしょうか。ここには、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られました。」とあります。「預言者たち」というのは、神のみこころを代弁して語る人たちのことです。神はご自分の語りたいことを、ある人たちを選んで語られました。それが預言者と言われる人たちのことです。預言とは遠い未来のことを予言する「予言」だけでなく、そのことも含んだ神のことば全体を預かり、それを語る人たちのことです。

また、「多くの部分に分け」というのは、部分的に、断片的に、段階的という意味です。神は、むかし先祖たちにご自分のみこころを、段階的に、断片的に語られました。それが旧約聖書です。旧約聖書は創世記からマラキ書まで全部で39巻ありますが、それは1,400年という歳月をかけ、いろいろな人たちによって語られたことがまとめられました。その中には農夫や漁師、羊飼いといった無学だと言われていた人々もいれば、学者や法律家のような学識者たちもいました。このように、旧約聖書は、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られたのです。ですから、ペテロはⅡペテロ1章21節でこう言っています。

「なぜなら、聖書は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 聖書は、決して人間の意志の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものなのです。それゆえに聖書は神のことばであり、私たちがよって立つべき唯一の道しるべであると言えるのです。あなたはそのようにうけとめておられたでしょうか。 

 しかし、神は預言者たちを通してそのすべてを語ったのかというとそうではありません。それは部分的であり、また断片的なものであり、神の啓示のすべてではありませんでした。それは正しいものですが、それで完結していたのではありません。その完成のためにはある方の到来を待たなければなりませんでした。それが神の御子イエス・キリストです。 

 Ⅱ.神は御子によって語られた(2a) 

 そのことが2節の冒頭のところに述べられています。ここには、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とあります。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られましたが、この終わりの時には、御子によって語られました。御子とは神の御子イエス・キリストのことです。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られましたが、この終わりの時には御子によって語られたのです。「終わりの時」というのは、救い主イエスが到来した時から始まった時代のことです。ですから、今はこの終わりの時でもあります。この終わりの時には御子によって語られました。どういうことでしょうか?つまり、神は初めご自分のみこころを部分的、断片的に見せてくださいましたが、この終わりの時には御子によってはっきりと示してくださったということです。

神の救いの計画は、最初の人アダムとエバが罪を犯した直後にすでに示されていました。創世記3章15節を見ると、神である主は蛇にこう仰せられました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

神は、女の子孫から出てくる方によって、敵である悪魔の頭を完全に踏み砕くと言われたのです。これが何を意味しているのはその時にははっきりわかりませんでした。しかし、やがて女子孫から生まれた神の御子イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、このみことばが成就したことがわかったのです。おまえは彼のかかとにかみつくということが十字架の預言であり、彼はおまえの頭を踏み砕くというのが復活の預言です。こうしてキリストは敵である悪魔に完全に勝利すると言われたこのことばが実現したのです。 

神はこれをもっと具体的に展開していきます。創世記12章に入ると、そのために神はアブラハムという一人の人物を選びこう告げるのです。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者としよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:1~3)

つまり、神はアブラハムの子孫から救い主を起こすと約束されたのです。地上のすべての民族は、彼によって祝福されるのです。 

そして、それはさらにダビデ王の子孫としてお生まれになる方だと告げられました。また、その方はユダヤのベツレヘムでお生まれになるとも語られました。そのようにしてお生まれになられた方こそ救い主がイエス・キリストだったのです。ですから、神は、むかし預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって完全に語られたのです。御子は完全な神のかたちであり、神のことばの完全な現れだったのです。それゆえ、弟子のヨハネはこう証言しました。「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)イエスを見た者は、父を見たのです。イエスは見えない神かたちであり、神の栄光の現れです。イエスを見た者は目で見ることができなかい神を見たことと同じことなのです。 

 ですから、真の神がどのような方であるのかを知るには、このイエス・キリストがどのような方であるのかを知らなければなりません。キリストがどのような方であるのかを知れば、神がどのような方であるかがわかるのです。なぜなら、神は、御子によって私たちに語られたからです。 

 では、キリストはどのような方なのでしょうか。ある人は、キリストは偉大な教師だと言います。確かにそうです。けれども、キリストはそれだけにとどまりません。それ以上の方です。ある人は、いや、キリストは立派な道徳家だと言います。宗教家の一人だとも言います。そういう面もあるでしょう。けれども、キリストはそれ以上の方なのです。 

 Ⅲ.御子は神の栄光の輝き(2b-3) 

 ですから第三に、このキリストはどのような方なのかを見ていきたいと思います。2節後半から3節をご覧ください。ここには、「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」

ここには、キリストがどのような方であるのか、その7つの特質が教えられています。

 第一に、キリストは、万物の相続者であります。ここには、「神は、御子を万物の相続者とし」とあります。子であれば親の財産を相続する特権にあずかっています。キリストは神の御子なので、父なる神の財産を相続する権利を持っておられるのです。

5節には、こうあります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」これは詩篇2篇7節からの引用ですが、この「あなた」というのは、イエスさまにことです。イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた時、天が開け、神の御霊が鳩のように下り、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)イエスは神の子であり、父なる神のすべてのものを相続する権利が与えられているのです。 

そして、そればかりではなく、このキリストを信じて神の子とされたクリスチャンもまた神の子とせられ、キリストとの共同相続人になったと言われています。ローマ人の手紙8章16~17節にはこうあります。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」 

皆さん、私たちはキリストを信じたことで神の子としての特権をいただき、キリストとともに神の財産を相続する者とされたのです。すごい特権ではないでしょうか。私たちは以前まことの神を知りませんでした。ですから、普通に何でも拝んでいたわけです。八百万の神と言って、日本には八百万の神がいて、いくつもの神を掛け持ちで拝んでいました。きょうはこっちの神かと思ったら、明日はあっちの神です。自分にご利益を与えてくれるものなら何でも構わなかったのです。「鰯(いわし)の頭も信心から」ということわざがありますが、つまらないものでも、信仰の対象となれば有り難いと思われるような存在だと、何でも拝んでいたのです。私たちはかつて、そうやって生きていたのです。しかし、神のことばである聖書によってイエスが神の御子、キリスト、救い主であると信じた瞬間に、私たちは神の子とされました。そして神の子としての特権が与えられたのです。神の民でなかった者が神の子とされ、キリストとともに万物を相続する者となったのです。 

第二に、キリストは万物の創造者です。ここに、「また御子によって世界を造られました」とあります。皆さん、この世界は御子によって造られました。聖書の一番初めの創世記1章1節には、「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。これはとても有名なみことばで、このみことばを読んだだけで聖書の神を信じたという方も少なくありませんが、この神とはイエス・キリストのことだったのです。いやもっと正確に言うなら、イエス・キリストを含む三位一体の神であったということです。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神です。この三位一体の神がこの世界を造られたのです。 

それはヨハネの福音書1章1~3節を見てもわかります。「初めに、ことばかあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」キリストは万物の創造者です。すべてのものは、この方によって造られたのです。 

第三に、キリストは神の栄光の輝き、神ご自身であるということです。どういうことでしょうか。キリストは神であるということです。

ある時、イエスがペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて非常に高い山に上られた時、彼らの目の前で御姿が変わったという出来事がありました。御顔は太陽のように輝き、その衣は光のようになりました(マタイ17:1~2)。ペテロはそれを見て何を思ったのか、黙っていることができず、イエスさまにこう言ったのです。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、よろしければ、私が、ここに三つの幕屋を作ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マタイ17:4)

そのとき、モーセとエリヤが現れて何やらイエスと話し合っているのを見て、彼はここに三つの幕屋を作ると言ったのでした。けれどもそれは彼の間違いでした。このとき彼はイエスさまをモーセやエリヤと同じレベルにまで引き下げてしまったのです。確かにモーセもエリヤも旧約聖書の偉大な聖徒たちでした。モーセは律法の代表であり、エリヤは預言者の代表です。しかし、彼らがどんなに偉大な信仰者であっても所詮人間の域を出ることはできず、イエスさまと比べものにはならないのです。イエスは神ご自身であり、神の栄光そのものであられる方だからです。 

私たちも同じ失敗をしてしまうことがあります。イエスさまをこの歴史上の偉人たちの一人のように考えてしまうことがあるのです。アブラハム・リンカーやジョージ・ワシントンのようなレベルにまで引き下げてしまう危険性があるのです。しかし、キリストは彼らとは全く比較にならないお方です。次元が違います。キリストは神ご自身であり、神の栄光の輝きそのものだからです。 

第四に、キリストは神の本質の完全な現れです。どういうことでしょうか?これは、キリストは神ご自身であるということです。キリストは神の御子であると同時に、父なる神と等しい方なのです。

ヨハネの福音書10章30節をご覧ください、ここには、「わたしと父とは一つです」とあります。イエスを見れば、父なる神がどのような方であるかがわかります。なぜなら、イエスは神の本質の完全な現れであるからです。 

第五に、キリストは万物を保っておられます。キリストは万物を造られただけでなく、それを保っておられる方です。どのようにしてでしょうか。その力あるみことばによってです。皆さん、キリストのことばには力があります。キリストが、「光よ、あれ」と言うと、光が出来ました。嵐に向かって、「黙れ、静まれ。」と命じると、風はやみ、大なぎになります。汚れた霊に向かって、「この人から出て行け」と命じると、出て行きました。また、会堂管理者ヤイロの娘が死んだとき、「タリタ・クミ」、少女よ、あなたに言う起きなさいという意味ですが、そのように言うと、少女は生き返られました。キリストがことばを発せられると、すべてのものはそれに服従するのです。この権威あるみことばを聞いた当時の人たちはこう言いました。「いったいこの方はどういう方なのだろう」

その答えは何か、その答えはこうです。この方は神の御子キリストです。この方は神なので、すべてのものはこの方のみことばに従うのです。キリストはその力あるみことばによって、万物を保っておられるのです。 

第六のことは、キリストは罪のきよめを成し遂げられた方であるということです。どういうことでしょうか。キリストがこの世に来られたのは、私たちの罪の身代わりとして十字架で死ぬためであり、キリストはその御業を成し遂げられたということです。 

皆さん、人はどうしたら罪が赦されるのでしょうか。聖書には、血を流すことがなければ罪の赦しはないと教えられています。それで旧約聖書の時代には自分の罪の身代わりとして、多くの動物がほふられました。祭司がその動物のいけにえの血を携えて至聖所の神の臨在のもとに行き、それを契約の箱のふたに注ぎかけることによって、赦されるとされました。それでイスラエルの民はたくさんの動物のいけにえをほふり、その血を取って神にささげたのです。 

けれども、そこには問題がありました。それはどんなに動物の血をささげても、また罪が思い出されるということです。人間は不完全な者なのでいつも罪を犯してしまうため、何度も何度も繰り返して動物のいけにえをほふらなければならなかったのです。それは完全なものではなく不完全なものでした。本体ではなく影にすぎませんでした。ではその本体とは何でしょうか?それはイエス・キリストです。動物のいけにえは神の完全ないけにえであるイエス・キリストを指し示すものでした。神は私たちの罪を赦すために動物の血ではなく神ご自身の血、神のひとり子を十字架につけることによってその救いの御業を完成してくださったのです。神はひとり子キリストをこの世に送り、私たちの身代わりに罪として十字架につけてくださることによって、私たちが支払わなければならない罪の代価を支払ってくださったのです。そのことによって私たちの罪を贖ってくださいました。それは私たちの過去の罪だけではありません。現在の罪も、これから未来に犯すであろう罪のすべてを、十字架の上で贖ってくださったのです。ですから、あなたがこのイエスをあなたの罪の救い主と信じた瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、あなたは神のみとに大胆に近づくことができるのです。 

それはキリストが十字架で息を引き取る直前こう発せられたことばからもわかります。キリストは十字架で最後にこう言われました。「テテレスタイ」。意味は、「完了した」です。あなたの罪のきよめは完了しました。あなたの罪は赦されました。キリストがあなたの身代わりとなって十字架で死んでくださり、罪のきよめを成し遂げてくださったからです。このイエスを信じる者は誰でも救われるのです。 

第七番目のことは、キリストはすぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました。どういうことでしょうか。座ったというのは仕事が終わったということです。キリストは罪のきよめを成し遂げて、神の右の座、神の権威の座に着かれました。このキリスト以外に、あなたを救うことができるものはありません。このキリスト以外に他のいかなるものも付け加えてはいけないのです。この方を信じることによってのみ、私たちは救われるのです。キリストは神の御子であられ、王の王、主の主であられる方なのです。 

あなたは、この神の御子イエス・キリストを見ているでしょうか?もし見ているなら、あなたの生き方が変わるはずです。あなたの人生にはいろいろな問題が起こるかもしれませんが、もはや何も恐れる必要はなくなるのです。私たちはいつもいろいろなことを思い煩って心配します。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、いつも心配がつきません。でも大切なことはあなたが心配することではなく、イエス・キリストがどのような方であるのかをよく知り、この方に信頼して、すべてをゆだねることです。そうすれば、人の考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけるはずです。

あなたは何を見ているでしょうか。この栄光の神の御子イエス・キリストを見てください。この方は万物の相続者であり、創造者であり、栄光の輝き、神の本質の完全なあらわれです。万物の保持者であり、罪のきよめを成し遂げられた方であり、万物の主権者であられます。この方をよく見てください。この方はあなたとともにおられます。そして、この方は決してあなたを見離さず、見捨てることはなさいません。そのように約束してくださいましたから。このイエスを見て、このイエスを神の御子と認め、いつもこの方のことを思い、この方にすべてをゆだねたいと思います。そうすれば、あなたは何も心配することなく、日々安心して過ごすことができるでしょう。この神の御子イエスを、きょう聖霊によって見させていただきましょう。神の祝福があなたに豊に注がれますように祈ります。