ヘブル8章1~13節 「新しい契約」

きょうは、ヘブル人への手紙8章から学びます。タイトルは、「新しい契約」です。聖書では「契約」ということをとても重んじています。私たちの持っている聖書も「旧約聖書」と「新約聖書」という神との契約から成り立っています。しかし、きょうの箇所に出てくる「初めの契約」とか「古い契約」というのは旧約聖書のことではありませんから、注意が必要です。きょうの箇所に出てくる「古い契約」とは9節に、「それは、わたしが彼らの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。」とあるように、彼らがエジプトから導き出された後にあのシナイ山で結んだ契約のことであり、律法のことです。それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまう性質を持っていますが、新しい契約はそのようなものとは違います。新しい契約は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによって、そのすべての罪が赦され、救われるというものです。これが福音です。良い知らせです。なぜこれが良い知らせなのかというと、私たちの行いとは全く関係なく神の一方的な恵みによって救われるからです。ですから、この新しい契約というのは、私たちと神様との根本的な関係の変革を意味するとても重要な内容なのです。きょうは、この新しい契約について三つのポイントでお話したいと思います。

まずこの契約の仲介者であられるイエス・キリストについてです。第二のことは、古い契約とはどのようなものかということ、そして第三のことは、では新しい契約とはどのようなものかについてです。

 

Ⅰ.さらにすぐれた契約の仲介者(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」

 

「以上述べたこと」とは7章で語られていたことで、イエス・キリストはメルキデゼクに等しい大祭司であるということです。どういう点で等しかったのでしょうか。まず、「メルキデゼク」という名前の意味ですが、これは「義の王」という意味でした。義、救い与えることができる方、救い主という意味です。そして、彼はサレムの王でしたね。サレムというのはエルサレムのことで、それは「平和の神」という意味でした。だから、メルキデゼクは義なる方であり、私たちに救いをもたらすことができる方です。そして、その結果として、私たちの心に真の平和を与えることができる方です。そればかりではありません。彼には母もなく、系図もありませんでした。その生涯の初めもなく、いのちの終わりもありませんでした。本当はメルキデゼクには母もいて、系図もあって、その生涯の初めも、終わりもありました。でもそれを書く必要がなかったのです。なぜなら、このメルキデゼクという人物はイエス・キリストのひな型だったからです。イエス・キリストがどういう方であるのかを表していたからです。一般の祭司ならイスラエル12部族の中のレビ族から選ばれましたがイエスはユダ族の出身ですから、キリストはそうした一般の祭司とは次元の違うもっとすぐれた祭司なのです。また、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえりました。そして、天に昇られ、神の右の座に着座されたのです。ですから、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのであります。

 

これが7章で語られていた要点です。すなわち、私たちの大祭司であられるキリストは天におられる大能者の右の座に着座された方であり、人間が設けたのではない、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方なのです。主が設けられた真実の幕屋とは天国のことです。皆さん、これが天国の姿です。天国では大能者である神の右の座に神の子であるキリストが座って仕えておられるというのです。この「仕えておられる」という言葉は「レイトゥールゴス」というギリシャ語で、「礼拝の務めをする」という意味です。10章11節には「礼拝の務めをなし」と訳されています。昔、イスラエルの祭司たちが幕屋である聖所で礼拝の務めをしていたように、キリストは天国で大祭司としてまことの礼拝の務めをしておられるのです。私たちは時々、天国ってどういうところかなぁとか、天国に行ったら何をするんだろうと想像することがありますが、ここにはっきりと天国がどういう所なのか、そこでどんなことをするのかが書かれてあります。つまり、天国は礼拝が行われているのです。しかも私たちが毎週日曜日に行っているような1時間そこそこの礼拝ではなく、いつも、いつまでも、ずっと続く礼拝です。いくらすばらしい礼拝でもそんなに長かったら疲れるんじゃないですか?と思う人もおられるかもしれませんが、天国での礼拝は疲れるどころかもっと喜びと平安に満ち溢れます。なぜなら、そこに神がおられるからです。神に造られた人間にとって最もすばらしいこと神とともにいるときです。天国では永遠に神が共におられます。だから疲れることも、たゆむこともないのです。人間のすることは、必ず初めがあって終わりがあり、いくらすばらしい行事でも長すぎれば疲れてしまいますが、この天における礼拝はそういうものではありません。それは、私たちがこの地上でもよく体験していることでもあります。一人で主の前に祈っているときや、何千、何万人の人たちと賛美する時に、もう何もいらないと思うような思いになることがあります。

 

私は数年前にアメリカコロラド州にあるコロラドスプリングにある大きな教会に行ったとき、そこには五千人くらいでしょうか、もっといたかもしれません。大勢人たちが声を合わせて賛美している中にいたとき、震えるほど感動したのを覚えています。たった五千人でもそうなのですから、万の幾万倍もの人たちが一緒に礼拝したら、それはどんなにすばらしい礼拝かと思います。もうそこから離れたいと思えないくらいの感動で心が満たされるのではないでしょうか。でもそれはこの天国の礼拝の前味にすぎません。天国ではもっとすばらしい礼拝がいつもささげられているのです。

 

使徒ヨハネはこの天国の様子を神の聖霊によって啓示が与えられ、このように語っています。黙示録5章11~14節です。

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」

そこでは、天と地と、地の下と、海の上のすべての被造物が、神と、小羊、これはキリストのことですが、「賛美と栄光と力がとこしえにあるように。」というと、四つの生き物がアーメン、アーメンと何度も言い、長老たちはひれ伏して拝んでいました。そこにはあらゆる国々の、あらゆる時代の、万の幾万倍というクリスチャンたちが声を合わせて主を賛美しているのです。もう感動で震えることでしょう。そこから離れたいなんて思うこともないのです。そのためにキリストは大祭司として、とりなしの祈りをささげておられるのです。これが天国です。

 

そのことから教えられることは、礼拝ということがどんなに大切であるかということです。私たちは礼拝をどれだけ重要なものと位置づけているでしょうか。もちろん、それは日曜日に持たれている礼拝ばかりでなく、個人礼拝ともいうべき毎日のディヴーションを含めてのことです。そして何よりも私たちが毎日、この主を礼拝するという姿勢で生きることの重要性です。礼拝というのは何よりも神中心であり、神をあがめるわけですから、毎日の生活において、私たちがどれだけ神を意識して生活しているかが問われていると言うことができるでしょう。

 

このように言うと、中には、「牧師はいいですよ。毎日神様のことだけを考えて生活しているわけですから。でも我々のように毎日この世にどっぷりと浸かっているものにとって、神様のことを考えていたら仕事になりませんよ。」と言う方がおられます。本当にそうでしょうか。逆です。もしあなたが神の前にひれ伏し、神を礼拝するなら、神から恵みを受けることができるのです。それなのに、もし信仰というものをこのように二元論的に捉えてしまうなら、せっかくのすばらしい神の恵みや力を体験することができなくなってしまいます。ただ頭だけの、ただ知識だけの信仰にとどまってしまうわけです。しかし、私たちはみなこの地上においては世俗的なものの中に生きていますが、その生きる力は決してこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、つまり、この天国から来るのです。もう一度言います。私たちの生きる力はこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、天国から来るのです。ですから、神の国とその義とを第一にしなければなりません。そうすれば、それに加えてすべてのものは与えられます。この神の力によらないで、自分の力、自分の考え、自分の思いで生きるなら、あなたはいつまでも失敗したり、敗北したりするでしょう。しかし、そのようにならないようにいつも祈っていて下さる方がいます。それが主イエス・キリストです。キリストは永遠に祭司の務めをしておられるからです。ですから、この方を無視して、勝利ある人生を歩もうと思ったら、それは全く意味のないことであり、何の力もありません。イエス様を通して神を礼拝することによって、私たちには計り知れない神の恵みと力が与えられるのです。それが6節で言われていることです。

 

あなたは何を拠りどころとして生きておられますか。天の神を仰ぎ、この神を礼拝して、神の力を求めておられますか。それとも、この地上のものに振り回されてはいないでしょうか。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。」とみことばにあります。この神を礼拝し、この神から力をいただいて、日々歩ませていただきたいものです。

 

Ⅱ.初めの契約(7-9)

 

次に、7節から9節をご覧ください。ここにはなぜイエス・キリストなのかということが述べられています。そしてそれは、あの初めの契約に欠けがあったからです。もし欠けがなかったら後のものは必要なかったのです。あの初めの契約とは何でしょうか。それは先ほども述べたように、イスラエルがエジプトから解放された後にシナイ山で与えられた律法のことです。あの律法には欠けがあったんです。どういう点で欠けがあったのかというと、それを守らなければ契約は成立しないということです。なぜなら、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという性質のものだったからです。でもどうでしょう。彼らはそれを守ることができたかというとそうではなく、どんなに守ろうと努力しても守ることができませんでした。それは彼らが罪人であったからです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。人はみな罪人であり、神の律法を守り行うことなどできないのです。それはローマ3章10節以下のところにこのように書かれてあるとおりです。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)

 

それならば、なぜ神は彼らとそんな契約を結ばれたのでしょうか。それは、このような律法を与えることによって、自分たちはそれを守ることができない罪人であるということを悟らせるためでした。つまり罪を自覚させるためだったのです。このことがわからないと救いがわかりません。神の恵みがどういうものかがわかりません。ですから、神は最初からそのことをご存じで、預言者を通して新しい契約を結ぶということを語っておられたのです。それが8節と9節のことばです。ここに引用されているのは旧約聖書にあるエレミヤの預言です。ここで主は預言者エレミヤを通して、主がイスラエルと新しい契約を結ぶ日が来ると言われました。それはかつて彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだあのシナイ契約のようなものではありません。そのような契約を結んでも、彼らは守ることができないので何の意味もないからです。ただ自分は神の律法を守ることができないという罪責感に悩むだけです。でも必要なのは、その罪が赦されることです。ではどうしたら罪が赦されるのでしょうか。そのために神が与えてくださったのが新しい契約です。

 

Ⅲ.新しい契約(10-13)

 

10節から13節をご覧ください。ここには、この新しい契約がどのようなものなのかが三つの点で説明されています。

 

第一に、それは神の律法が私たちの心に書き記されるということです。10節にはこうあります。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。」彼らの心に律法を書きつけるとはどういうことでしょうか。モーセが神の律法をイスラエルの民に語ったとき、その教えは石の板に書きしるされました。イスラエル人はこの石の板に刻まれた神のみことばを自分の行いによって守ろうとしましたが、それを守ろうとすればするほど守れない自分にジレンマを抱えていました。

 

しかし、新しい契約は違います。新しい契約は、私たちがキリストを信じることによって、私たちの罪がキリストの血によって聖められ、神の御霊が注がれるというものです。イエス・キリストを信じることで、神ご自身の聖霊が私たちの内に入ってくださるのです。それでこの聖霊が私たちのうちにとどまっておられ、聖霊が私たちに語りかけてくださるのです。そして、この聖霊によって神のみことばを悟り、それを行うことができるようになるのです。これが神の律法を彼らの心に書きつけるということです。ですから、人はこの新しい心が与えられることによって救われるのです。それは救い主イエスを信じる信仰によってなのです。

 

昨日、さくらでオープン記念のコンサートが行われました。ものすごい感動でした。何が感動したかって、蜷川さんの全身から溢れる魂の演奏にです。いったいどこからそんな力が出てくるんだろうと思っていたら、ご自身が救われた時の証をしてくださいました。高校の音楽科、音大を出てフランスへ留学したのですが、自分がどんなに一生懸命に演奏しても全然先生に認めてもらえないのです。どうしてだろうと悩んでいた時、ある方から一枚のトラクトをもらうのです。そこにはイエス・キリストが私のために十字架にかかって死なれたこと、三日目によみがえられたこと、そして天に昇り神の右の座に着かれ、今も生きてとりなしておられることが書かれてありました。そして、教会に行って話をきくうちに、自分から音楽を取ったら何があるんだろう、いったい何のために音楽をしているんだろうと考えていくうちに、それは自分のために十字架に死んでくださり、自分の罪を取り除いてくださった神様のためだということがわかるんですね。それが、彼女が演奏をする目的であり土台になったのです。それが昨日の演奏に表われていたんですね。昨日は20~30人の新来者がおられましたがが、本当にみんな感動していました。その中にコリーナ矢板というところの山奥から来られた方かせおられましたが、「もうお話を聞いていてとても感動しました。私、一人なんです。親戚もだれもいなくて孤独なんです。いるのは2匹のねこちゃんだけで、チラシを見てきょうは楽しみにしていたのですが、ほんとうに良かったです。」と言われ、きょうの礼拝にも来ますと言って、帰って行かれました。

 

これが私たちの信仰です。これまでは石の上に刻まれた律法に捉われて生きてきたのですが、イエス様を信じたら、イエス様を信じて聖霊が与えられたら、この神の聖霊の恵みと力によって生きるようになったのです。それは心の奥底からあふれ出る喜びです。

 

第二に、新しい契約はすべての人が神を知るようになるということです。11節には、「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、「主を知れ」ということは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」

とあります。どういう意味でしょうか。彼らは自分の隣人に、また、それぞれその同胞に、「主を知れ」と言って、教えることは無くなるということです。なぜなら、どんな人でも、神を知るようになるからです。

 

私は牧師として、こうして毎週みことばを語らせていただいておりますが、人々に神を知ってもらうということは本当に難しいことだなぁと感じることがあります。神についての知識をただ伝えるだけであれば、それほど難しくないかもしれませんが、本当に神を知るということは知識ではないからです。それはたとえば、毎週礼拝に出席し、信仰生活に熱心に励んでいるような人でも、ちょっとした生活上の問題や何らかの躓きによって信仰から離れてしまったり、「神がいるなら、なんで自分がこんな苦しい目に遭わなければならないのか」と言ってつぶやいたり、嘆いたりすることからもわかります。本当に神を知っているなら、そのようなことはないからです。もちろんそれは人間の弱さから来ているのは確かですが、根本的な原因は神をどれだけ知っているかということなのです。

 

しかし、神が人に新しい心を与えてくださると、小さい者から大きい者まで、みんな神を知るようになります。そして神がその人の心を新しくしてくださり、神のみこころに歩み、自分で何かを一生懸命にしようとするよりも、神の御業を期待するようになるのです。

 

新しい契約の第三の特徴は、罪を拭い去ってくださるということです。12節には、「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」とあります。完全な罪の赦しの宣言です。罪を思い出さない、と主は言われます。皆さんの中で、過去の罪で思い悩んでいる方はいますか。主はその罪を赦してくださいます。赦してくださるというだけではありません。ここには、彼らの罪を思い出さない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが十字架につけられとき、あなたのすべての罪を身代わりとなって負ってくださったからです。その十字架の死によって、信じる人々の罪を赦してくださいました。あなたがイエス様をあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたの過去罪も、現在の罪も、未来の罪もすべて赦されているのです。初めの契約ではそうではありませんでした。いつも罪が思い出されました。年に一度、贖罪の日があって、たくさんの動物がいけにえとしてささげられ、その動物の犠牲によって罪が赦されました。しかし、またすぐに罪を犯してしまうのです。ですから、いつも罪が思い出されました。そして、毎年、毎年、罪が赦されるための動物がいけにえとしてささげられていたのです。

 

しかし、キリストはあなたの身代わりとして十字架で死んでくださいました。やぎや羊の血が人々の罪を聖めることができるなら、まして神の子であるキリストの血はどんなにか人々の罪を聖めることができることでしょう。そうです。あなたがイエス様を救い主と信じるなら、その罪はもう二度と思い出されないのです。

 

しばらく前に「私の頭の中の消しゴム」という韓国の映画が放映されました。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫の話です。年をとってから物忘れをするというのはよくあることですが、若くして物忘れがひどくなる病気は大変辛いものがあります。ご主人のことさえも忘れてしまうのです。「あれっ、あなただれだっけ」となる。その時彼女がこうつぶやくのです。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって・・。」

この映画の基調は「赦し」だそうです。自分を捨てた母親を赦せないで苦しんでいた夫にこの若い妻が赦しのメッセージを語るのです。この作品を製作した監督はクリスチャンで、この映画を通して、赦しの大切さを伝えたかったのでしょう。そして、イエス様はそれをしてくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださることによって、十字架で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られることによって、私たちの罪を全部忘れてくださったのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神様はそのひとり子をこの世に送り、十字架につけることによって、その約束を完璧に行ってくださいました。それほどに私たちを愛してくださったのです。あなたがイエス様を信じるなら、あなたがたとえ神との契約を守れないようなものでも、守れなくてすぐに罪を犯してしまうような弱い者でも、神はあなたを赦してくださるのです。これが新しい契約、神の福音です。新しい契約の大きな特徴はここにあります。最初に言いましたが、古い契約はいわば双務契約だと言いましたが、新しい契約は双務契約ではなく、神の愛と真実に基づく一方的な祝福の約束なのです。これは遺言と同じで、一方的なもので、双方の合意に基づくものではありません。しかも、それを受ける人にとって不利になるものは無効ですから、有利になるものだけが有効となります。キリストは十字架で死なれることによって有利どころかすばらしい祝福の約束、罪からの救いを与えてくださいました。それはキリストが十字架で流された血によって署名捺印された遺言状なのです。だから信じる人はその遺言状の通りに救われ、罪が赦され、永遠のいのちを得ることができるのです。

 

ですから、もう律法を守らなければというあの古い契約に戻らないようにしましょう。また天国に行くためにもっと善いことをして、天国への階段を上っていこうなどという考えを捨てて、神の恵みによって用意されたキリストの十字架の死と復活を通して成し遂げられたキリストの救いを受け入れ、今も生きておられるキリストの恵みによって生きる者でありたいと思います。

 

皆さんはどうですか。この神の恵みから離れ、いつしか律法という古い契約に戻っていることはないでしょうか。自分の思い、自分の考えが優先されて、そこに逆戻りしていることはないでしょうか。キリストの十字架以外にあなたを救うことができるものは何もないのです。