きょうはこのへブル人への手紙10章19節から25節までの箇所から、「新しい生ける道」というタイトルでお話しします。この箇所はヘブル人への手紙の中で最もすぐれた黄金の勧告と言われている箇所です。黄金の勧告とは、内容が深遠で、人生にとって この上なく有益な教訓のことです。聖書には黄金律と呼ばれているみことばがあります。それはキリストの山上の説教の一節で、マタイ7章12節のみことばです。
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」
これはいつの時代でも、どのような状況でも変わりなく、人としての重要な生き方を示していることばなので「黄金律」と呼ばれているのです。。それと同じように、ここにはクリスチャンとしてどのように生きるべきなのか、その大切な勧めが三つのポイントで語られています。きょうはこの黄金の三つの勧告を学びたいと思います。
Ⅰ.全き信仰をもって神に近づきなさい(19-22)
第一のことは、全き信仰をもって神に近づきなさいということです。
19節から22節までをご覧ください。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
19節は、「こういうわけですから・・」ということばで始まっています。ヘブル人への手紙全体を通して読むと、この10章19節が分岐点となって、流れが大きく変わっていることに気づきます。これまでは、神の御子キリストがいかにすぐれた方であるかについて説明されてきました。キリストは御使いよりもすぐれた方であり、すぐれた救いの道を備えられ、またアロンの祭司職よりも偉大な、メルキゼデクの祭司となられたことについて述べられてきました。そして、モーセを通して与えられた神との契約は、新しい契約によって取って代えられ、この契約が古い契約よりもすぐれていることが述べられてきたのです。このように、キリストがいかにすぐれた方であり、いかにすぐれた仲介者であるかを述べた後で、ここから、これを知った人たちがどのようにして応答していくのか、すなわち「勧め」の部分に入るのです。
その勧めとはどんなことかというと、「まことの聖所に入ることができる」というものです。まことの聖所にはいることができる、天国の神に近づき、神との親密で深い交わりの中に入ることができるということです。
それはイエスの血によってです。なぜなら、前回学んだように、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです。(9:22)神に近づくことは、私たちの行ないによっては絶対に無理なのであって、ただ私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、その尊い血を注ぎ出してくださった神の御子イエス・キリストを信じることによってのみもたらされるものなのです。イエスが十字架で死なれたのは愛の模範を示すためではなく、血を注ぎ出すためだったのです。ですから、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。
この「大胆に」という言葉は、英語では、We have boldnessとか、We have confidenceと訳されています。「確信を持っている」とか「自信をもっている」という意味です。つまり、私たちはまことの聖所に入ることができるという確信があるということです。なぜなら、イエスが十字架で血を流して死んでくださったからです。私たちがどのような人であるからとか、どのようなことをしたかということではなく、神の御子イエス・キリストの血が流されたので、その方の血の注ぎを受けているので、まことの聖所に入ることができるという確信があるということなのです。
20節ではそのことを別の形で表現しています。それは、「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」ということです。この「垂れ幕」というのは、聖所の中にある、聖所と至聖所を分けていた幕のことです。この幕が、イエスが十字架につけられていたときに、上から下に、真っ二つに引き裂かれました。この幕は厚さが10cm以上もあり、その両端を数頭の馬が反対方向に引っ張っても破れないほど丈夫なものであったと言われています。その幕が、イエスが十字架で死なれたときに、上から下に、真っ二つに裂けたのです。それはキリストが十字架の上でご自分のからだを引き裂いてくださったことによって神と人とを隔てていた壁が引き裂かれ、神の御許に行くことができるようになったということを表しています。このようにして、キリストはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの生ける新しい道を設けてくださったのです。ですから、このイエスを信じるならだれでも神の御許に行くことができるのです。イエスを信じるなら、だれでも救われるのです。
そればかりではありません。21節を見ると、「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」とあります。ここも英語ではWe have high priest になっていて、Haveという言葉が繰り返して使われています。持っているとか、あるという意味です。何を持っているのかというと、偉大な祭司です。もちろん、この偉大な祭司とはイエス・キリストのことですが、この祭司をもっているので、私たちは絶対にまことの聖所に入ることができるというのです。なぜなら、この祭司は神の家をつかさどっておられる偉大な方だからです。神の家をつかさどっているということは、神の家を支配しておられるという意味です。そういう方がついておられるのなら、神に近づくことができるというのはなおさらのことなのです。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎ受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧められているのです。
この新改訳聖書では19節から22節までが幾つかの文章になっていますが、原文では19節から22節までが一つに文章になっています。つまり、私たちはイエスの血の注ぎを受けているのですから、イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのですから、また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司がいるのですから、私たちは、全き信仰をもって、神に近づこうでないかというのです。「神に近づく」というのは場所的、時間的なことというよりも、人格的なものです。神を深く知って、このお方のようになっていこうということなのです。これがキリスト教の本質なのです。
先日、さくらチャーチで行われているみんなのカフェにNさんというご婦人が初めて参加されました。この方は宗教に造詣が深く、いろいろなことを知っておられる方ですが、パットがアメリカから来たということで、「キリスト教とはどういう宗教ですか」と尋ねられました。するとパットはこう言いました。「私はキリスト教を宗教として考えていません。これは神との関係です。神がどのような方かを知って、この方のようにされていくこと、それがキリスト教です。」と。私は、それを聞いていて、なるほどと思いました。宗教を何かの形で考えることは間違っていて、神との関係として捉えなければわからないということです。だから、神に近づくことを求めていかなければなりません。どうしたらもっと神に近づくことができるのでしょうか。
ここには、「全き信仰をもって・・」とあります。皆さん、全き信仰とはどういう信仰なのでしょうか。それは強い信仰とか、弱い信仰ということではありません。たくさん信じるとか、ちょっとだけ信じるというようなことでもありません。全き信仰とは、神につながっている信仰のことなのです。
それは、たとえば電気のスイッチのことを考えたらわかると思います。どうしたら電球に明りがつくのでしょうか。電気のスイッチを入れればいいのです。それだけでいいのです。電気をつけるのに力を入れてステッチを押す必要はありません。力を入れてスイッチを押せば明るくつくとか、さわるように、撫でるように、優しく押すだけでは弱い明りしかつかないということはありません。強く押しても、弱く押しても明りの強さは同じです。大切なのはスイッチを入れることです。
それは信仰も同じで、強い信仰とか、弱い信仰というのがあるのではなく、あるのは神につながっているかどうかということです。神につながっていれば、神が働いてくださいます。すなわち、信じるということはこちらの側の信じ方ではなく、信仰の対象であるイエスとつながっているかどうか、結ばれているかどうかということなのです。イエス様を信頼して、イエス様を見上げていれば、信仰は確かなものとなっていきます。自分の知恵と力を尽くして信じる過信ではなく、半分だけ信じる半信でもなく、また、全く信じられないという不信でもなく、単純にイエスに信頼していであるべきです。イエス様にとつながっていればいいのです。そうすれば電気はつくのです。それが全き信仰です。
アフリカ伝道隊の総裁をしていたJ・B・B・フレンドという人は、信仰を持つことをバケツの水にたとえてはならないと言いました。日本では恵まれた信仰をバケツに水がいっぱいに満たされた状態にたとえることがありますが、信仰をそのようにとらえてはいけないというのです。そのようにとらえてしまうと、バケツの水を使って無くなったらやっとの思いで礼拝にやって来て満たされるといった誤ったイメージを抱きやすくなってしまいます。そうではなく、むしろ、信仰生活は水道管のパイプのようなもので、もしあなたがたっぷりと満たされた貯水池につながっているなら、あとは栓をひねるだけでいつでもザーと水が出てきます。信じればザーです。パイプが細いか太いかは関係ありません。信じればザーなのです。信仰とは栓をひねるだけのことなのです。
ただ注意しなければならないことは、パイプを詰まらせないようにしなければならないということです。それゆえに、ここに、「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあるのです。これは、パイプを詰まらせてはならないという意味です。いつもイエスさまと親しい交わりを保つようにしなければなりません。もしそのパイプに何か詰まっていればそれを取り除いて、いつも神のいのちが流れるようにしなければなりません。私たちの信仰生活では、よく詰まらせてしまうことがあります。トイレットペーハーを大量に使って詰まらせたり、異物を混入させて詰まってしまうことがあるように、あまりにも多くのことに心が奪われて神との関係を詰まらせてしまうことがあるのです。そういうことがないように、いつも主につながり、主と親しい交わりを保っているかどうかを確認しなければなりません。
とても評判の良いレストランにはある一つの共通点があるそうです。それはあまりいろいろなことに手を出さないということです。得意なメニュー集中するのだそうです。それを極めるために努力に努力を重ねます。それで「美味しい店」になれるのです。一方で、あまり美味しくないレストランというのは、とにかくメニューがいっぱいあります。全部やろうとすると、全部まずくなってしまうのです。
同じように、私たちはイエス様に集中しなければなりません。あれも、これもではなく、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないようにしなければなりません。そして、このイエスにしっかりとどまっていなければなりません。主イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)このような信仰をもって神に近づくなら、神はそのような人を受け入れ、多くの実を結ばせてくださいます。
Ⅱ.しっかり希望を告白する(23)
第二のことは、しっかりと希望を告白することです。23節をご一緒にお読みしましょう。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
ここでは、希望を持つことが勧められています。私たちの信仰生活には失望することが何と多いことでしょうか。それは悪魔が何とかしてあなたから信仰を奪おうとしているからです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら、歩きまわっています。そのために一番効果的なのは、あなたから希望を奪い取ることです。そうすれば、信仰にとどまることができなくなってしまうからです。人は希望がなければ生きることがでません。この希望を奪うことによって、信仰から遠ざけようとするのです。ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しなければなりません。
いったいどうしたら希望を持ち続けることができるのでしょうか。ここには、「約束された方は真実な方ですから」とあります。皆さん、私たちの信じている神は真実な方です。どういう点で真実であるかというと、約束されたことを一つも違わず成就してくださるという点においてです。聖書の中には神の約束が沢山ありますが、それは、信じる人に実現する約束なのです。その神の約束は必ず実現するわけですから、それを信じて歩むことが大切です。その約束の中でも最大のものは、私たち信じる者たちが天国へ行くことができるということでしょう。これは必ず実現します。なぜなら、すでに見てきたように、そのためにイエスの血が流さたからです。だから私たちは必ず天国に行くことができるのです。
であれば、この地上においてどんなに厳しい状況にあっても、もうだめだと失望することがあっても、そういうことで動揺しないで、しっかりと希望を告白することができるのではないでしょうか。それが天国に向かって歩んでいる人の姿なのであります。
Ⅲ.愛と善行を促す(24-25)
第三のことは、愛と善行を促すように注意しましょうということです。24-25節をご覧ください。ここには、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょ集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。
「愛と善行を促すように注意し合おうではないか」とはどういうことでしょうか。現代訳聖書では、「どのようにしたらほかの人を愛し、助けることができるかということについて、心を配ろうではないか」と訳されています。すなわち、キリストの恵みによって救われたクリスチャンは、愛という霊的な面と、ほかの人を助けるという具体的な両面が必要だということです。愛しているといってもそれが具体的な行動によって現されるものでなければ、本当に愛しているとは言えません。愛しているなら、それが必ず具体的な面で表されてくるはずだからです。
特に教会の中では「互いに重荷を負い合う」ということが強調されています。ガラテヤ6章2節には、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。もしキリストによって救われ、あなたの中にキリストの愛が満ち溢れているなら、それは必ず互いに重荷を負い合うという具体的な形で現れてきます。もし現れてこないとしたら、その人は果たして本当にイエス様を愛しているのか、魂を愛しているのかということを吟味してみる必要があります。イエス様の愛によって救われているのなら、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合わなければなりません。特定の人にだけ重荷を負わせ、犠牲を強いるというようなことがあってはいけないのです。もちろん、皆が同じように愛を実行できるということではありませんが、自分のできる範囲で、心を配るということが求められているのです。
そのためには、いっしょに集まることをやめたりしないということが大切です。クリスチャンが一人で信仰生活をしていくと、どうしても独り善がりになり、偏った考え方に陥ってしまいがちです。ですから、どうしてもクリスチャンには交わりが必要で、その中で最も大切な交わりは教会の交わりであると言えるでしょう。なぜなら、教会は神の家族であるからです。家族であれば一緒に生活するわけで、一緒に生活していれば必ずぶつかり合うこともあります。しかし、そのようなぶつかり合いの中でこそ自分の信仰が鍛えられ、健全に成長していくものなのです。
このように見てきますと、イエスの血によってきよめられ、この新しい生ける道を歩むようになったクリスチャンに求められていることは、次の三つのことであることがわかります。すなわち、信仰と希望と愛です。どこかで聞いたことがありますね。信仰と希望と愛。パウロはⅠコリント
13章13節で、次のように言っています。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。それは自分自身から出てくるものではなく、イエスの血によって救われ、この新しい生ける道を歩むようになった者にもたらされるものです。全き信仰はイエス様を見上げ、イエスにとどまることによって与えられます。しっかりと希望を告白するためには、イエスを見続けることが必要です。そして、愛と善行に励むためには、イエス様と交わることが求められます。その結果として信仰と希望と愛が生まれてくるのです。
皆さんはどうですか。皆さんのために血を流し、救いの御業を成し遂げてくださった主イエスをしっかり見ているでしょうか。また、このイエスにとどまり、このイエスと交わりをもっておられますか。かの日は近づいています。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日が近づいているのですから、私たちはますますそうしようではありませんか。それが新しい生ける道を歩むクリスチャンに求められていることなのです。