申命記17章

 きょうは、申命記17章から学びます。これは1618節からの続きです。1618節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。」とありました。これは、イスラエルの民が約束の地に入った後に、神に対して、また人に対して罪を犯した時、どのようにその人をさばかなければならないかということです。そして、そのような時にはその町囲みにさばきつかさを置き、正しくさばかなければなりません。わいろをもらったり、人をかたよってみたりして、さばきをまげてはならないのです。それが神に属する聖なる民としての歩みなのであります。そのことが17章においても続けて語られています。

 

 1.主へのいけにえ(1

 

 まず1節をご覧ください。ここには、「悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。」とあります。これはどういうことかというと、1621節と22節で語られたことを受けてのことです。そこには主の祭壇について語られていました。主の祭壇のそばにはどんな偶像も立ててもならないということでした。また、その主の祭壇にささげるいけにえは、悪性の欠陥のある牛や羊をささげてはいけないということです。欠陥品や残り物を主にささげてはいけないということです。主へのいけにえは完全で、最高のものでなければなりません。なぜなら、主は私たちに最高で、完全ないけにえイエス・キリストを与えてくださったからです。最高の愛に対する最高の応答は、心からの最高のいけにえをささげることによってなされなければならないのです。

 

2.二人か三人の証言によって(2-7

 

 次に2節から7節までをご覧ください。ここには、イスラエル中で、男であれ、女であれ、主の前に悪を行って、主の契約を破るような者がいた場合、どうしたらよいかが教えられています。そして、そのような者がいれば、その悪事を行った男または女を町の広場に連れ出して、彼らを石で打たなければなりません。ここでの悪事は、具体的には偶像礼拝の罪です。3節を見るとわかります。主以外のほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象などを拝む者があったら、石打ちにしなければなりませんでした。

 

 ちょっと厳しすぎるのではないでしょうか。たとえそのようなことを行ったとしても、悔い改めるように何度か勧告し、少し様子を見てからでいいのではないですか。それなのに、そういう人がいると聞いたら有無を言わさずに石で打つというのは無情な感じがします。いったいなぜ主はそのように命じておられるのでしょうか。それは7節にあるように、彼らのうちから悪を除き去るためです。もしそのようにしなければ、それがイスラエルの民全体に広がっていってしまうからです。パウロはそれをパン種にたとえ、Ⅰコリント5913節で、不品行な者たちとは交際しないように、そのような者を教会から除きなさいと命じています。教会だから何でも許されるというのではありません。兄弟と呼ばれる者で、不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたら、そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてもいけないのです。私たちはパン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしなければならないのです。(Ⅰコリント5:8

 

 しかし、その人が罪を行ったからといってすぐに取り除こうとしてはいけません。6節、7節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処せられなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。これはよく確かめてということです。また、その人が悔い改めるように、その手順を踏んでということです。

 

 このことについて主イエスはマタイ18章で、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したら・・」どうしたらよいかについてこう語っています。(マタイ18:15-20)もし、兄弟が罪を犯したら、その兄弟のところに行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れなかったら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。それでもなお、いうことを聞き入れなければ、教会に告げなさい。それでも聞き入れなければ、その人を異邦人か取税人のように扱いなさい。・・・と。なぜなら、教会にはキリストがおられるからです。その方のいうことを聞かないというのであれば、それは聖霊を拒むことであり、それは決して許されないことだからです。

 

 ですから、ふたりか三人の証言によってというのは、こうした手順を踏んでということであって、よく調べ、確認して、その人が悔い改めるようにと何度も勧告してのことです。そして、その目的はその罪を犯した兄弟をさばくことではなく、兄弟を得るためです。それでも悔い改めなければ、そのような者を取り除かなければなりません。悪を除き去らなければならないのです。

 

 3.主の選ぶ場所で(8-13

 

 次に8節から13節をご覧ください。ここには、「もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、」どうしたらよいかが教えられています。そのような時には、「あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ね」なければなりません。彼らは、あなたに判決のことばを告げてくれるからです。主の選ぶ場所とは、主を礼拝するために祭壇が置かれていたところです。それは主の幕屋なり、神殿がある所です。そこには祭司やさばきつかさがいて、正しい判決のことばを告げてくれるのです。

 

祭司やさばきつかさは、主によって立てられた人であり、神に仕えている人です。したがって、彼らが下した判決には、従わなければいけません。もし聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その人は死ななければなりません。そうすることによって、イスラエルから悪を除き去ることができました。そのようにしてイスラエルの民が神を恐れ、不遜なふるまいをすることがなくなったからです。

 

今の時代、この役割をゆだねられているのは私たち一人一人のクリスチャンであり、キリストの教会です。なぜなら、私たちはみな神に対する祭司とされたからです。ですから、私たちは教会で起こっているさまざまな事柄について、祈りとみことばによって正しく判断し、神のみこころに従って正しくさばかなければなりません。そうであれば、なおさらのこと、神のみこころをよく知るために聖書をよく学び、聖書から検証する必要があります。パウロはテサロニケの人々に、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(1テサロニケ5:21)と言いました。

 

4.イスラエルの王(14-20

 

 次に14節から20節までをご覧ください。14節と15節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。」とあります。

 

モーセは、イスラエルが、将来、自分たちの上に王を立たせたいと願うことを予見していました。Ⅰサムエル86節のところに、イスラエルの民がサムエルのところにやってきて、「私たちをさばく王を立ててください。」と言ったことが記されています。それまでイスラエルは、預言者から語られる神のことばと、祭司の務めによって与えられる、主のご臨在によって支配されていました。つまり、神が彼らの王となっている神政政治だったのです。しかし、周りの国々と同じように、自分たちを統治する王が欲しいと願い出るようになると預言していたのです。このことは神のみこころではありませんでしたが、神はイスラエルの上に王を立てることを許されました。

 

しかし、そのような時にはどうすべきかがここで語られています。一つのことは、同胞の中から王を立てなければならないということです。同胞でない外国人を、彼らの上に立てることは許されませんでした。

 

第二に、やがて立てられる王は、自分のために馬をふやしてはなりませんでした。どういうことでしょうか。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならなかったのです。これは軍事力を持ってはいけないということです。当時の世界では、軍事力として馬が用いられました。ですから、多くの馬を持つ者は勝利することができました。その馬を持ってはならないというのは、そうした人間的な力ではなく、神ご自身に信頼するようにという意味です。

 

第三に、多くの妻を持ってはなりませんでした。なぜなら、そうした妻の存在が偶像へと陥らせ、神から引き離されることになるからです。

 

そして第四のことは、自分のために金銀をふやしてはならないということです。なぜなら、多くの金銀を持つことによって心が高ぶり、自分を神だと錯覚するようになってしまうからです。その結果、神を神とせず、神に敵対することになってしまい、神のさばきを受けることになってしまうからです。

 

イスラエルの歴史の中でもとても豊かな王であったのはソロモンです。しかし、彼は神のあわれみによって王になったにもかかわらずそのことを忘れ、神の命令に聞き従わずに暴走し、最後は王国が分裂する原因を作ってしまいました。Ⅰ列王記1014節には、「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」とあります。それをソロモンが住む宮殿に使い、宮殿を金でいっぱいにしました。

そして同じくⅠ列王の1026節には、「ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。」とあります。また、同じⅠ列王記1029節には、「エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」とあります。

さらに、Ⅰ列王記11章に入ると、彼は多くの妻も持ちました。「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:1-3

ソロモンはここに書かれているように、多くの馬を持ってはならい、多くの妻を持ってはならない、そして多くの金銀を持ってはならないという神の命令に従わなかったので、彼自身が高ぶり、ほかの神々に心が寄せてしまい、神のさばきを招いてしまいました。

 

18節から20節までをご覧ください。ここには、逆に、王としてイスラエルの上に立てられた者がしなければならないことが記されてあります。それは、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない、ということです。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためです。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また神の命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためです。

 

イスラエルの上に立つ王は、神のおきての中に身を置き、神のしもべとして生きることによって、初めてイスラエルを治めることができました。だから、祭司たちから、主のみ教えを書き写し、それを読まなければならなかったのです。神のみおしえから学び、それに従って歩まなければなりませんでした。このように、イスラエルは民であっても、人々を治め、またさばく王であっても、神の律法によって、正しい判断を下さなければなりませんでした。イスラエルの民はどんなものよりも、神のことばを第一として、神のことばによってさばかれていく人々でなければならなかったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちクリスチャンも信徒であっても、牧師であっても、あるいはこの世において上に立つ者であっても、だれであっても、神のことばの下に自分を置き、神のみことばに従って歩み、神のみことばによって物事を判断していく習慣を身につけなければならないのです。