きょうは、へブル人への手紙11章前半の箇所から、「信仰とは」というタイトルでお話します。このヘブル書の著者は10章18節まで述べてきたことを受けて、三つのことを勧めました。それは、全き信仰をもって、真心から神に近づこうということ、そして、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではないかということ、そして、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではないかということです。それは一言で言えば、義人は信仰によって生きるということです。キリストの血によって救われた者は、信仰によって生きなければなりません。恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者でなければならないのです。
そこで、それに続く今回の箇所には、それでは信仰とは何ですかというテーマを取り上げ、信仰によって生きた人を紹介しながら、信仰によって生きるとはどういうことなのかが述べられています。
Ⅰ.信仰とは(1)
まず、1節をご覧ください。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
ここで著者は初めに、信仰とは何であるかを説明しています。そして、信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものであると言っています。どういうことでしょうか?それはまず、「望んでいる事がらを保証する」ことです。「望んでいる事がら」というのは、自分が望んでいることではありません。それはこれまでも何度か出てきましたが、神ご自身、あるいはキリストご自身のこと、そして、神によってもたらされる天における報いことを意味していることがわかります。たとえば、 10章35節には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とありますが、それは信仰によって歩んだ人が天において受ける報いのことを指していることがわかります。天において受ける大きな報い、それこそ私たちの希望なのです。そしてその希望を保証するもの、それが信仰なのです。ですから、信仰とは無闇やたらに信じる盲信とは違い、確かな証拠があって、それを認識することにほかなりません。
この「保証する」という言葉は、「下から立たせる」という意味があります。たとえば、建物を建築する際には契約書を交わしますが、その条項など、物事を成り立たせるための根拠や実体のことです。建物はそれによって成り立っているわけです。したがって、信仰が望んでいる事がらの実体であるというのは、この天における報いは信仰をとおして成り立つものであり、信仰がなければまったく成り立たないものである、という意味です。信仰の反対語は疑いとか恐れですが、私たちが、神がおられること、また神が約束してくださっていることを、疑いながら聞いているとしたら、あるいは、そんなことを信じたら人に変に思われるのではないかという恐れを抱いているとしたら、それは私たちを支える希望ではなくなってしまいます。すなわち、天の希望は、信仰があってのみ、生きて働くものなのです。
次に、ここには、目に見えないものを確信させるものです、とあります。どういうことでしょうか?創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現だと思います。私たちが希望として持っている事がらは、みな目に見えないものです。たとえば、神とか、キリストとか、そして天にあるものはみな、物理的に見ることはできません。それらは科学的に検証することもできません。しかし、私たちはやがてこの地上での生活を終えた後、天国へ行くことができると確信しています。それはどのようにしてかというと、信仰によってです。それをしっかりとつかむことができる手こそ信仰にほかなりません。
なぜそのように確信することができるのかというと、それは、私たち信じる側に何らかの根拠があるからではなく、信じている対象である神が確かな方であられるからです。科学的に物事を認識しようとする人は、目で見て、耳で聞いて、手で触れて確かめますが、信仰という目で見る人は、肉眼で見ることができないものでも、そこに確かな証拠を見ることができるのです。それは神の確かさです。それは、神が私たちを救ってくださったということによってわかります。なぜなら、神はそのためにひとり子さえも犠牲にして、本来、私たちが受けなければならない罪の身代わりとして十字架で死んでくださったほどに私たちを愛してくださった方だからです。その方が私たちのために約束してくださるのが、この聖書ですから、そこには確かな証拠があると言えるのです。将来起こることは目で見ることはできませんが、神が約束してくださったこの聖書によって確かなものとしてつかむことができるのです。
したがって、「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分に言い聞かせて、それがかなえられるようにと神に押し付けることではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑いもせず、そのとおりになると確信することなのです。
そして、そのような信仰をもって生きるということがどれほど確かな生き方であるかは、その結果をみれば明らかです。この自然界とか、この世の現象しか信じない人は、今見ているものとか、手でさわることができるもの、あるいは耳で聞こえるものしか確かなものと思っていませんから、将来起こる事や超自然的な事については、何もわからないのです。ですから、そういう人は、いつも将来のことについて不安があり、思い煩わなければなりません。将来、何があるかなんてたれにもわからないのですから、いくら将来のことについて計画を立てても、自分にとって不都合なことはその中には入れていないので、いざそういうことが起こると、どうしていいかわからなってしまうのです。たとえば、何歳の時に大病するかとか、何歳になったら失業するかとか、何歳の時に家族の間に大きな問題が起こってくるかといったことは全くわかりません。わからないのですから、考えようがないわけです。ところが、私たちの人生には思いがけないことが起こってくるものです。
ある人が人生には三つの坂があると言いました。一つは上り坂、もう一つは下り坂、そして三つ目の坂はまさかです。そのまさかということが起こってくることがあるのです。そして、あわてふためくことになるわけです。そのような時に備えて、ある人は生命保険に入っていたり、損害保険に入っているから大丈夫だという人がいますが、そうしたものが心の問題までケアしてくれるでしょうか。
それでは、どんなことが起こっても大丈夫だという心備えはどのようにして出来るかというと、それこそ信仰によってなのです。私たちがこの地上での生活をしていく時、突然にして大きな問題が起こってくることがありますが、そのような時に、自分の知恵や力ではどうしようもないということが分かっていても、なおこの地上の何かを頼りにしていたのでは、生きる根底が揺らいでしまっている以上、どうしようもありません。ところが、信仰を持つということは、この有限の世界、相対の世界、自然界というものを越えた永遠で、無限で、絶対で、超自然の世界である神の国の確かさに立って生きるということですから、その人を生かす力は過ぎ行くこの世からではなく、動くことのない永遠の世界から来るということです。ですから、どんなことが起こっても、揺らぐことはないのです。
あなたはこの手を持っていますか。将来に起こることを確かなものとしてつかむ手です。どうかそのような手を持ってください。そして、どんなことがあっても揺り動かされることがない確かな人生を歩もうではありませんか。
Ⅱ.信仰によって称賛される(2)
次に2節をご覧ください。ここには、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」とあります。
「昔の人々」とはだれのことでしょうか。これは神を信じて生きた昔の人々、つまり、旧約聖書の中で信仰に生きた人たちのことです。具体的にはこの後に列挙されています。4節にはアベルという人物のことが、5節にはエノク、7節にはノア、8節以降はアブラハム、20節にはイサク、21節ではヤコブ、23節にはモーセ、30節ではヨシュア、31節にはラハブ、そして32節には、「これ以上、何を言いましょうか。」と、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルと続きます。これらの人々については次回から少しずつ見ていきたいと思いますが、ここではその総括として、次のように言われています。
「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」
「称賛」という言葉は、下の説明には※がついていて、直訳で「あかしを得たのです」とあります。信仰によって生きる人は、彼らがいかに生きたのかというあかしを残したということです。それほど良い評判を得ました。その良い評判とは、まず何よりも神からの良い評判であり、それはまた、人々からの良い評判でもありました。それは今日でも同じで、信仰によって生きる人は神からも、人からも良い評判を得るのです。
なぜ信仰に生きる人はこのような称賛を受けるのでしょうか。なぜなら、神によって生きる人は神のようになるからです。キリストにあって生きる人はキリストのようになるはずだからです。この世のように自分中心の生き方ではなく、キリストのように他の人のことを考え、自分を犠牲にしてまで他の人のために生きるので、多くの人の心を引き付けるのです。
ルカの福音書10章27節には、黄金律と呼ばれている聖書の言葉があります。それは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(ルカ10:27)という言葉です。
ある人がエルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われ、半殺しにされました。そこにたまたま、祭司がひとり、通りかかりましたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。
次にレビ人がそこを通りかかり、彼を見ましたが、同じように反対側を通り過ぎて行きました。
ところが、サマリヤ人といってそこに倒れている人と敵対関係にあった人がそこに来合わせると、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。そして、翌日、彼はデナリ硬貨と言って1デナリは1日分の給料に相当しますから約5,000円くらいでしょうか、それを2枚取り出して、宿屋の主人に渡してこう言いました。「この人を介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
さて、この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみをかけてやった人です。
そこでイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)
これが神を信じて生きる人の生き方です。キリストはそれを文字通りなされました。私たちのために自らの命を捨てて、十字架で死んでくださることによって、神の愛を明らかにしてくださいました。そのような人が人々から尊敬され、称賛を受けるのは当然のことです。
あの3.11の後で宮城県の沿岸地方や岩手県の三陸地方にいち早く入り復旧作業をしたのは、サマリタンパースというクリスチャンの団体でした。彼らは特に津波で流されたり、壊れた家屋を直したりするのを手伝いました。するとその地の住民はその愛の心と行動に感動し、彼らが働きを終えて帰国する時、教会にやって来て心からの感謝を表しました。それは、彼らが自分を犠牲にしても人々に仕える生き方の中に本物の愛を感じ取ったからです。キリストを信じ、キリストのように生きる人に人々の心は引き付けられ、称賛されるのです。
それならどうして多くの人たちがイエス様を信じないのでしょうか。そこには二つの理由が考えられます。一つは、多くの人たちは聖書の神を知らないからです。聖書の神がどんなにすばらしい方であるかがわかったら、そのような神を信じたいと思うはずです。しかし、日本人の多くは、さわらぬ神にたたりなしで、逆に宗教には関わらない方が良いと思っているために、こんなにすばらしい神様のことがわからないのです。
もう一つの理由は、イエス様を信じたらからといってすぐにキリストにある成人として成長していくかというとそうではなく、そのためには時間がかかるのです。そのためには自分をキリストに明け渡し、自分の心をキリストによって支配していただくように願い求め、それを日々の生活の中に適用していくという訓練が求められます。そのためには時間がかかるのです。しかし、どんなに時間がかかってもキリストのようになることを祈り求めるなら、必ずそのように変えられ、その信仰によって神からも、人からも、良い評判を得るようになるのです。
Ⅲ.神のことばを信じることから(3)
最後に、3節をご覧ください。
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」
どういうことでしょうか?ここには、神が天地を創造された時、どのようにしてそれを成されたかが語られています。そして、それは神のことばによってです。神が「光よ。あれ。」と仰せられると、そのようになりました。この世界のすべてのものは、神の御言葉一つによって造られました。ということはどういうことかというと、この世界のすべてのものは、何も無いところから神が創造されたということです。目に見えるものはすべて、見えないものからできているのです。
このように神が創造者であられるということは、私たち人間を含めすべてのものが神の支え無しには生きていけない存在であるということを意味しています。このことが本当に分かれば、私たちはもっと神を恐れ、神に信頼して生きるようになるのではないでしょうか。
イエス様は、こう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。神の国とその義とをまず第一に求めるなら、それに加えて、これらのもの、これらのものとは衣食住のことを指していますが、これらのものはすべて与えられるのです。
皆さん、私たちは優先するべきものを間違えてはいけません。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったものは異邦人、つまり神を知らない人たちが切に求めているものです。しかし、天の神様は私たちがそれらのものを必要としている事をよく知っていらっしゃいます。だから神の国とその義とをまず第一に求めなければならないのです。イエス様は、その順序を間違えてはならないと教えて下さったのです。
もしかすると私たちは、この神の国の一員とされているということの意義をあまり深く認識していないかもしれません。「ああ、救われて良かった。天国に行けるようになった。」とそれを将来のことに限定してしまい、現在この地上にあっても神の恵みと力に与れるようにして下さっているということにそれほど気付いていないのかもしれません。しかし、神の国はあなたがたのただ中に来ました。私たちはこの神のご支配の中に生かされているのです。それはものすごい恵みであり、祝福なのです。しかし、そのことを知らなければ、何も出来ません。
アメリカでの話ですが、ある農家の方がいまして、土地がやせていて少しも儲からないので、ある日「あなたの土地を掘削させて下さい。」という人が訪問した時、「あそこは肥料をやっても何も育たないやせ衰えた土地だからどうぞ勝手にやって下さい」と言いました。日も経ずしてそこからは巨大な油が出てきたのです。一日にして、彼は億万長者になってしまいました。ずっと前からその祝福は与えられていたのですが、彼らはそれを知らなかったのです。だから貧しい生活に甘んじなければなりませんでした。
もしかしたら私たちもそのようなことがあるのではないでしょうか。神の国のすばらしい恵みと祝福を受けていてもそれを小さく考えてしまい、限定してしまっている為に、その恵みを十分に味わえないでいるということがあるのではないでしょうか。折角神様を知ったのですから、この神の国の豊かさに与っていく者でありたいと思います。本当に多くの方が悩み苦しみの中にあってもなお喜ぶ事が出来るそういうクリスチャンにならせていただく事が大切なのではないでしょうか。「どうしてクリスチャンの人たちってあのように平安でいられるのでしょうね?」と言われる者にならせていただきたいですね。
それは、神の国とその義とを第一に求めることから始まります。その順序を間違えてはなりません。もし私たちが心から神様にお従いするなら、そこはまさしく神の国となるのです。信じるという事はそこに従うという意味も含まれているのです。神様に心から「お従いします」という心の中において歩む人たちの中には神の国がそこに現われていきます。そして、そこには色々な形で神様の奇蹟が現れてくるのです。
キリストの弟子であったシモン・ペテロはどうだったでしょうか。彼はガリラヤ湖の漁師でした。ですから、ガリラヤ湖の事でしたら何でも知っていました。どこが浅くて、どこが深いか、いつ、どこに網を下ろせば魚をとることができるか。でも彼らは一晩中網を下ろしても一匹の魚も取れませんでした。その時イエス様が、「船の右側に網を下ろしてみなさい。」と言われました。皆さんならどうしますか?イエス様とはいえ、漁に関してはペテロの方がプロです。でもペテロはその時、「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばとおりに、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5:)と言って網をおろしました。するとたくさんの魚が入り、網が破れそうになっただけでなく、二そうとも沈みそうになりました。これ神の御力です。
「また神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)
信じる者に働く神のすぐれた力が、あなたの内にも宿っています。イエス様を信じたことで神の国があなたのところにも来たのですから、あなたにもこの力が宿っているのです。問題はあなたがそのことを知って、信じるかどうかです。神様の御言葉に信頼し、その御言葉に従うかどうかという事なのです。
信仰はこの神の言葉を信じることから始まります。あなたが信仰に立つなら、神様はそこに御業をなされます。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。どうか、将来起こることをつかむ手をもって神の約束をしっかりと握りしめてください。