ルカの福音書1章26~38節 「どうしてそのようなことが・・」

先週は、イエス・キリストの誕生の前にザカリヤとエリサベツという老夫婦に、イスラエルの民の心を整えるヨハネという人が生まれたことをお話ししまた。高齢といってももう腰が曲がるほどの老夫婦に子供が生まれるなんて考えられないことですが、神は彼らの祈りを聞かれ、その御業を成し遂げてくださいました。

 

しかし、きょうの箇所にはもっと驚くべき内容が記されてあります。それは、処女がみごもるということです。それはいと高き方、神の子であって、その神の子が処女マリヤから生まれるというのです。処女降誕が信じられない人は、もうここから先が読めなくなってしまいます。そういう人がいて当たり前です。そんなことがあるはずがないからです。しかし、聖書はそれでも隠すことなく、信じられない人がいることも十分承知の上で、あえて処女マリヤが神の子キリストをみごもったとハッキリ告げるのです。そして、別に狂信的でもなく、極めて常識的な人間でありながら、これをこのまま信じている人も少なくありません。私たちもその一人です。きょうも使徒信条を告白して、「主は、聖霊によりて宿り・・」と大胆に告白しました。考えてみると、人には説明できず、絶対にありえないような大変なことを、私たちは信じているわけです。いったいイエスはどのように処女マリヤから生まれてきたのでしょうか。

 

Ⅰ.どうしてそのようなことが・・(26-37)

 

まず、まず26節から35節までをご覧ください。その六か月目にとは、ザカリヤとエリサベツがみごもって六か月目にということです。御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。その名はマリヤといい、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけでした。いいなずけとは、結婚の約束をした人という意味です。当時のユダヤの社会では結婚しているとみなされていましたが、まだ一緒に住んでいない状態のことを指していました。ですから、創造主訳聖書では、「すでに結婚していたが、また婚姻の時まで間があって、同棲はしていなかった。」と訳しているのです。そのマリヤのところに御使いガブリエルがやって来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と告げました。おめでとうって、何がおめでとうなのかと彼女がひどくとまどっていると、御使いは続けてこう言いました。

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

マリヤは驚いてこう言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

 

ところで、これに似た質問を、先週見たザカリヤもしました。1章18節です。

「そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私はもう年寄りですし、妻も年をとっています。」

これはザカリヤがヨハネの誕生を告げられたとき、自分たち夫婦がもう年寄りなので子供を産むことは不可能だと言いたかったのです。ですから、子供が生まれるとしたら、何らかのしるしでも見せて下さるのですか、と尋ねたのです。ある人はこのザカリヤの質問は「疑い」の質問だったと説明しています。

 

しかし、マリヤの質問は違います。マリヤの質問は、「疑い」ではなく「驚き」の質問でした。そしてまだ男の人を知らないのに、どのようにしてそんなことが起こるのかと尋ねたのです。ですから、口語訳では、「どうして、そんなことがあり得ましょう」と訳しているのです。考えられません。考えられないことがどのようにして起こるのか、というニュアンスなのです。

 

確かにマリヤは敬虔なユダヤの女性です。それでも、御使いに、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と言われたとき、手放しで喜べるような気持ちにはなれなかったでしょう。むしろ恐れを感じたのではないでしょうか。というのは、彼女はヨセフと結婚することが決まっていましたが、まだ正式に結婚したわけではなかったので、性的関係を持ったことがなかったからです。そのような者がどうして男の子を産むことなどできるでしょう。また、その生まれてくる男の子は聖なる方、いと高き神の子と言うではありませんか。こんな卑しい自分がどうやって、いと高き神の御子の母になるというのでしょう。考えられません。また、たとえそうなったとしても、いったいそれをどのようにヨセフに説明できるというのでしょう。彼女は一瞬にしていろいろなことを考えたことと思います。

 

これに対して、神の答えはこうでした。35節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「御使いは答えて言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 

その答えは、「聖霊があなたの上に臨み」でした。それは通常の方法によってではなく、聖霊によって、聖霊なる神の御業によるというのです。聖霊がマリヤの上に臨み、いと高き方が彼女をおおうことによってなされるのです。処女が身ごもるなど聞いたこともないし、全く考えられないことですが、神にとって不可能なことは一つもありません。神は、私たちには考えられないこともおできになるのです。処女が身ごもることもそうです。何もないところからおことば一つですべてのものを創造された主は、処女の胎にいのちを宿すこともおできになるのです。であれば、永遠で無限の神が時間と空間に制限されている人間になることなんて考えられないことですが、神にとってはできないことではないのです。大切なことは、それをどのように説明するかということではなく、神がそのような方法をとってくださったという事実をそのまま受け入れて信じることです。それが信仰なのです。そのために神が取られた方法が処女降誕だったのです。

 

そんなのおかしいと思う方もいるでしょう。でもこのようなことを私たちも経験しているのではないでしょうか。たとえば、今度の日曜日にさくらチャペルでKさんがバプテスマを受けられますが、人が新しく生まれることはその一つです。新しく生まれるとは心を入れ替えることとは違い、神のいのちである聖霊を受け入れ、神の子どもとして新しく生まれることです。それはどんなにその人が頑張って努力してもできることではありません。それはただ神の聖霊によらなければできないのです。イエスが、、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と言われたとおりです。それは御霊なる神の働きでしかないのです。それは、神を信じた人が主と同じ姿に変えられていくことも同じです。それは御霊なる主の働きによるのです。そのような神の働きを、私たちも経験しているのです。

であれば、神が、処女マリヤの胎に神の子を宿すことも考えられないことではないのです。ただそれが神の取られた方法であったということであって、私たちはその事実を受け入れなければならないのです。

 

Ⅱ.あなたのおことばどおりに(38)

 

それに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。38節をご覧ください。「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 

こうした神の救いのご計画が実現した背景には、聖なる神の働きがあっただけでなく、人間の側の信仰による応答がありました。この主の使いのことばに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

彼女は主のことばに対して、まず、自分が主のはしためにすぎないと認め、どうぞ、あなたのおことばどおりになるようにと、すべてを主にゆだねました。「はしため」とは奴隷のことです。奴隷とは、主人の意志に従う者のことです。それは簡単なことのようでなかなかできることではありません。自分を捨てることができないからこそ、私たちはいつも心の中で葛藤するのではないでしょうか。しかし、彼女は自分が主のはしためにすぎないと言って、しもべに徹しました。ただ主のみこころが成し遂げられることを求め、主にすべてをゆだねたのです。

 

皆さん、どうですか、このマリヤの姿をご覧になってみて・・。このように言うことは彼女にとって大変だったはずです。なぜなら、もし彼女が妊娠したとしたら、ヨセフとの関係はだめになってしまうでしょう。彼女がいくら、「いや、これはね、聖霊が臨んでなされたことなのよ」と言っても、ヨセフには通じなかったでしょう。事実、マタイの福音書を見ると、ヨセフがそのことを知ったとき、彼は彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。彼は受け入れられなかったのです。しかし、その後で主の使いが夢に現れて、それが聖霊によることであるとわかり、彼女を妻として迎えることができたのです。

 

それはヨセフだけの問題ではありません。律法ではこのような姦淫を行う者を石打にするようにと定められていました。そのことをたとえ近所の人たちに説明しても、とうてい理解してもらえなかったはずです。よって彼女が妊娠したということがわかれば、彼女は人々の面前で死刑にされてもおかしくなかったのです。ですから、マリヤがこのように主のことばを受け入れたというのは、命がけのことだったことがわかります。にもかかわらずマリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言って、主にすべてをゆだねました。どうして彼女はそのように従うことができたのでしょうか。

 

それはみことばへの信仰があったからです。このことから教えられることは、本当の献身とは自分の思いから出たことではなく、神の御言葉への応答としてそれに従うことであるということです。つまり、マリヤは、神の恵みに対してジャストミートしたのです。神から投げかけられた恵みに対して、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」とジャストミートしました。聖書にはそう書いてあるけども現実的には難しいとか、私はそう思わないとか、私には私の考えがあるのといって、自分の思いを通そうとするのではなく、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」とジャストミートしました。時々私たちは神のみことばよりも自分の思いが強すぎてボールの下をたたいてみたり、上をこすったりすることがあります。ひどい時には空振りすることもあります。しかし、大切なのはジャストミートすることです。神が言われることをそのとおりに受け入れること、それがジャストミートです。そのような人はマリヤのように主の恵みをいただくようになるのです。

 

Ⅲ.主によって語られたことを信じきった人(39-55)

 

最後に、そのように主のことばを信じきった人がどんなに幸いなのかを見て終わりたいと思います。45節をご覧ください。ここに、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」とあります。

 

マリヤは、御使いが彼女から去って行くと、山地にあるユダの町へと急いで行きました。そして、ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつをすると、エリサベツは聖霊に満たされて大声で言いました。

「あなたは御名の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。・・・主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 

ところで、この時いったいなぜマリヤがエリサベツの所へ行ったのかはわかりません。36節には、「あなたの親類エリサベツ」とあるので、彼女が親類であったことは確かですが、それ以上の理由はわかりません。おそらく、御使いの超自然的な受胎告知を聞いたとき、その中に、「親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。」という言葉を聞いて、エリサベツなら自分の身に起こったことを唯一理解してくれると思ったのでしょう。そして、彼女がエリサベツの家へ行くと、さすがエリサベツはマリヤの身に起こったことを理解できただけでなく、彼女が、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人の幸いを告げたのです。やはり高齢でありながら主が願いを聞き、こどもを授けてくださった主の奇跡を経験していたので、マリヤの言うことをも受け入れることができたのでしょう。マリヤにとってもどれほど慰められたかわかりません。

 

そして、それを聞いたマリヤの口から、主への賛美が溢れました。46節から55節までをご覧ください。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

「喜びたたえる」とは、大喜びするという意味です。皆さんは大喜びしていますか。神は、自分の心を明け渡し、主のみことばに生きる人に、大きな喜びを与えてくださいます。クリスマス、それはすばらしい喜びの知らせですが、そのすばらしい喜びの知らせは、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人にもたらされるものなのです。

 

マリヤはそのことをこの賛美の中で次のように言っています。54節と55節をご覧ください。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に、語られたとおりです。」

 

この言葉はとても意義深いものです。聖書の神は、約束の神です。アブラハムへの約束を忘れないで、アブラハムに語られた約束を果たしてくださいました。神はどれほど多くの約束を私たちに与えておられるでしょうか。その約束は、創世記の始めからたくさん記されてありますが、特にアブラハムからのものが重要です。なぜなら、神はアブラハムを選び、ご自分の民とし、彼の子孫から救い主を送ると約束されたからです。創世記12章1,2節には、次のようにあります。

「あなたは、あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

神はアブラハムから出るものを祝福すると約束されましたが、その約束は、たとえ神の民イスラエルが神から離れ、神のさばきによってバビロンに捕囚になるという状況でも変わりませんでした。エレミヤ書35章5~6節にはこうあります。

「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、「主は私たちの正義」と呼ばれよう。」

これはイスラエルがバビロンの捕囚の民として連行された時に告げられました。そしてそのことばのとおり、そのダビデの子孫を通して、救い主を送ってくださったのです。それがイエス・キリストです。

 

何ということでしょう。このような神が他にいるでしょうか。いません。このように語られたことを成し遂げられる真実な神は他にはいません。私たちは不真実でも、神はいつも真実なのです。神は約束されたことを最後まで果たしてくださる。

 

ですから、私たちはこの約束の神を信じなければなりません。神があの堕落したイスラエルでさえ、なお捨てず、回復なさろうとされるのは、神が約束の神だからなのです。

 

しばしば、私たちは自分の思うようにならないといらいらしてみたり、人間関係がちょっとでもこじれたりすると、神から捨てられたのではないかと思ったり、罪を犯した場合や何か失敗したりすると、自分は呪われているのではないかとさえ思いがちですが、神は私たちを最後までお捨てにはならず、その約束を必ず実現してくださるのです。ですから、私たちは、この約束の神を信じなければなりません。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

このみことばにしっかりと信仰の基礎を置き、主によって語られた約束は必ず実現すると信じきろうではありません。

 

今から二千年前、神の御子イエス・キリストはマリヤのお腹に宿りました。それは人間の理解をはるかに超えた神の御業であり、尊い神の約束によるものでした。その神の御業は、今も私たちのうちに行われます。私たちもマリヤのように神のことばを信仰によって受け入れ、神によって語られたことは必ず実現すると信じきるなら、あなたにも神の恵みが豊かに臨むのです。