きょうはアドベント第三週です。もうすぐキリストの降誕を迎えますが、聖書はイエスの誕生の前にもうひとりの人の誕生のことを詳しく記しています。それはバプテスマのヨハネという人の誕生です。ヨハネとは「主は恵み深い」という意味です。きょうはこのヨハネの誕生の経緯を通して、主がいかに恵み深い方なのかをご一緒に見ていきましょう。
Ⅰ.神が働かれるとき(5-7)
まず、5節から7節までをご覧ください。ルカは、イエスの誕生に先駆けてヨハネの誕生から物語を書き始めています。時代は、ユダヤの王ヘロデの時です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤ全体を支配していた王でしたが、この王はとんでもない王で、ユダヤに別の王が生まれたと聞くと、それが霊的な王であることも知らずに、非常に恐れその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させたほどです。このようにヘロデの時代はイスラエルの歴史において最も悲劇的な時代でした。そのような時代にイエスが生まれたのです。そしてその六か月ほど前に、その先駆者であるヨハネが生まれました。その経緯はこうです。
ザカリヤは神に仕える祭司で、「アビヤの組」に所属していました。アビヤの組というのは、その昔ダビデが祭司を組織するためにそれを二十四組に編成したその組の一つで(Ⅰ歴代誌24:10)、祭司たちは、このような組織によってその務めを行っていたのです。
一方、妻のエリサベツもアロンの子孫でした。アロンの子孫ということは祭司の子孫ですから、彼らは同じアロンの子孫同志で結婚したことになります。そうすることによって、祭司職の尊厳さを保ち、その純潔さを汚さないようにと考えたのでしょう。
ルカは、この二人がどのような者であったのかその人となりを6節で次のように言っています。「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」主のすべての戒めと定めとは神の御言葉のことです。彼らは御言葉をよく学び、御言葉に従って生きていたのです。
しかし、そんな二人ではありましたが、彼らにも問題がなかったわけではありません。エリサベツは不妊の女で、ふたりとも年をとっていましたが、子どもがありませんでした。「年をとっていた」の直訳は、「腰が曲がっていた」になります。もう腰は曲がり、髪の毛は白髪になっている状態でした。今でこそ、子どもがいなくてもあまり問題ではありませんが、当時のユダヤ人の社会では大変なことでした。ユダヤでは子どもに恵まれないのはその両親に何か責められるところがあるからだと考えられていたからです。ふたりは神の前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落ち度無く踏み行っていたのに、普通の人たちに与えられるはずの子どもが与えられていなかったということで、どんなに辛い思いをしていたことかと思います。人に対して、どこか恥ずかしい思いがあったかもしれません。それで子どもが与えられるようにと熱心に神に祈ってきたのでした。
他の人以上に、熱心に神を信じ、神に仕えていながら普通の人には与えられている普通の恵みが与えられないことで、辛い思いをしている人は少なくありません。そこにも神のご計画があるとしたら、いったいそれはどんな計画なのでしょうか。しかし、そんなふたりを通して、人類の歴史を二分するイエス・キリストの道を備える神の器、バプテスマのヨハネが誕生したということを思うとき、確かにそこにも深い神のご計画があったことを知ることができます。神様はそのような状況のすべてを支配し、ご自身の栄光のために用いておられたのです。
ヨハネの福音書1章5節には、「光はやみの中に輝いている」とあります。まさに光はやみの中に輝いているのです。やみが暗くなればなれほど光は輝きを増します。私たちの周りがどうであろうと、また、私たち自身にどんなやみがあろうとも、光はそのやみの中で輝いているのです。どうかこのことを忘れないでください。どんなに神に祈っても答えられないような沈黙の時にも、光は輝いているのです。
ノートルダム清心女学院の渡辺和子さんは、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれましたが、それがどのような場所であっても、置かれた場所で咲くことが大切だと言っています。結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきますが、そんな時でも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいというのです。雨風が強い時、日照り続きでどうしても咲けない時には無理に咲こうとしなくてもいいのです。そういう時には、下へ下へと根を降ろし、次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるように備えればいいのです。神のなさることには全く無駄なことはなく、一つ一つのことが覚えられているのです。
まさにザカリヤとエリサベツ夫妻は、置かれた所で咲きました。「こんなはずじゃなかった」と思えるような現実の中でも、神を信じ、神の道に歩んだのです。
Ⅱ.祈りは聞かれた(8-17)
イエスの誕生より六か月先に生まれたヨハネは、イエスの道を備えるという使命をもって生まれてきました。その誕生の経緯はこうです。8節から17節までをご覧ください。
ザカリヤは祭司だったので、自分の組が当番に当たると、神殿に入ってその務めをしました。当時は、2万人くらいの祭司がいたので、組ごとに、順番に、神殿で奉仕をすることになっていましたが、それは年に2週間の周期で回ってきました。そして、神殿の奉仕においてだれが、何をするかはくじで決められていました。ザカリヤがくじを引いたところ、彼は神殿に入って香をたくことになりました。これは、とても名誉ある奉仕です。というのは、それは、民に代わって、神に祈りをささげることを象徴していたからです。ですから、ザカリヤが香をたく間、大ぜいの民もみな、外で祈っていました。実に、神の民は祈りの民です。神にささげられる最も大いなる奉仕は、神への祈りなのです。その祈りの中で、神はご自身を表してくださるからです。
ザカリヤの場合はどうだったでしょうか。11節をご覧ください。彼が神殿で祈っていたとき、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立ちました。この主の使いとは19節を見ると、「ガブリエル」という名の御使いであったことがわかります。「ガブリエル」とは「メッセンジャーボーイ」という意味で、神からのメッセージを伝える働きをする御使いのことです。この御使いが現われると、ザカリヤにこう言いました。
「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます・・」(13節)
この時、いったい彼は何を恐れていたのでしょうか。どんなことで不安を覚えていたのでしょうか。恐らく自分の身に何が起こっているのかを理解することができず不安を覚えていたのでしょう。ザカリヤは神の御前に正しく、また非難されることのない者でしたが、それでも自分に何か落ち度があると思ったのかもしれません。そんなザカリヤに対して御使いはこのように言いました。
「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。」
皆さんの中で不安を覚えていらっしゃる方はいらっしゃいますか。恐怖に襲われている方はおられるでしょうか。そういう方はどうぞ安心ください。主があなたの願いを聞かれたのです。ザカリヤの願いとはどのようなものだったでしょうか。それは子どもが与えられることです。彼らは若い時から「子どもを下さい」、「子どもが欲しいです」と祈っていたにもかかわらず、与えられませんでした。1年経っても、2年経っても、何年経ってもエリサベツのお腹に子どもが身ごもることはありませんでした。でも彼らはあきらめずにずっと祈り続けていたのです。祈りは信仰の現われです。彼らは不信仰な世の中に生きていても、祈り続ける祈りの人でした。彼は一生涯一つの祈りの課題のためにずっと祈り続けていたのです。人間は本質的によく忘れるものです。もし、何も忘れないとしたら、過去の不幸な記憶やいやな記憶がいつもよみがえってストレスがたまって死んでしまうでしょう。だから忘れることもいいのです。なかなか名前を思い出せないという方も、心配しないでください。しかし、ザカリヤは一生涯忘れませんでした。彼は自分に子どもを与えてくださいとずっと祈り続けてきたのです。そして、神はその祈りを聞いてくださいました。「枯れた木に花が咲く」ということわざがありますが、この老夫婦が子どもを求めて祈った祈りが聞かれたのです。そして、その子は産まれる前から男の子であるとわかっており、名前もヨハネと決められていました。ヨハネとは、主は恵み深いです。まさに主は恵み深い方なのです。
こんなことが本当にあるのか、これは単なる昔話ではないか、と思われても仕方がないような話です。しかし、人には不可能に見えることであっても、神にはどんなことでもできます。神は全能者であられるからです。聖書の神こそ、いのちの源なる方であると信じている人にとっては、この話はそのまま受け取れるわけです。人には無理だ、不可能だと思えことが、現実となっている話は聖書に数多く記されてあります。そして、聖書以外にも、生きた信仰の証として多くのクリスチャンが体験していることでもあるのです。
19世紀にイギリスに生きたジョージ・ミュラーは、まだ救われていない人のために何年も祈り続けたと言われています。
1866年のことですが、彼がずっと祈ってきた人の中で6人の人が救われたそうです。そしてその中の一人の方のためには20年以上も祈り続けていました。その祈ってきた6人の人たちが、1866年の最初の六週間のうちに次から次にイエス様を信じて救われたのです。 また他にも、彼はまだ救われていない人のために祈っていました。健康な時でも、病の床に伏している時でも、旅をしている時でも祈り続けました。どんなに説教の依頼が山積みになっている時でも、この祈りを忘れたことは一日もなかったそうです。 すると、この5人のうち、一年半後に最初の人が救われ、次の人が救われたのは何と5年後のことだったそうです。そしてそのことを神に感謝し、さらに残る3人のために祈り続けると、さらに6年後に3人目の人が救われました。彼はそのことを心から神に感謝して賛美しながら、さらに残る2人が救われるために祈り続けましたが、この二人はなかなか霊的に頑固でイエス様を信じる気配がありませんでした。ミューラーが祈り始めてから36年が経っても、二人はまだ救われていませんでした。しかしミュラーは、「祈りの力」という本の中にこう書いているのです。「しかしそれでもなお私は神に望みを置いて祈り続けているのです。」 そして、その本を書いた後、残る2人の内の1人は、ミュラーの死の直前に救われ、最後の1人が救われたのは、何とミュラーの死後のことだったそうです。しかし、このようにして彼が祈った祈りはすべて答えられたのです。だからおそれることはありません。神はあなたの祈りを聞いてくださるからです。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」
(Ⅰヨハネ5:14)
神様はあなたの願いも忘れることはありません。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は必ずその願いを聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。
ところで、このヨハネは何のために生まれてくるのかが14節から18節までに記されてあります。
「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるのです。男の子だけでなく、神に用いられるすぐれた器となります。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの子らを、彼の神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
自分は何のためにこんな辛い思いをしなければならないのか。自分は何ために生まれてきたのか。そんなことを思ったことはありませんか。何のために、何のためにと、なぜ人はそのように問うのでしょうか。そういう疑問が沸いてくるのは、そこに何らかの理由があるからです。何らかの理由があるからこそ、そういう漠然とした思いが時折起こってくるのだと思います。
そして、ここで考えてみたいことは、このバプテスマのヨハネは何のために生まれてきたのかということです。彼はまだエリサベツのお腹にも宿っていない段階で、その性別のこと、名前のこと、その子はどういう使命をもって生まれてくるのかについて、かなり詳しく知らされていました。
皆さんはどうでしょう。皆さんが生まれることについて、どこまで自分の選択や意志決定があったでしょうか。自分はあの親から生まれよう、この親の方がいいと、いろいろ考えて親を選んで生まれてきた人はいません。どの国で生まれようか、あの国にしようか、この国にしようかと、国籍を自分で選ぶこともできませんでした。男に生まれよう、女に生まれようと、自分で決めた人もいないのです。
自分に関する極めて重要なそれらのことについて、すべては偶然であり、たまたまのことだったのでしょうか。とすれば、この人生にいったいどんな意味があるというのでしょう。この人生に意味や目的があると思っている人たちと、そうではなく、これは偶然のことであって、何の意味もないと思っている人たちとでは、その生き方に大きな違いが出てきます。
ヨハネの誕生から教えられることは、神は、生まれる前からヨハネのことを知っておられただけでなく、何のために生まれてくるのか、その人生の使命や目的についても知っておられたということです。これはすごいことだと思います。あなたや私の場合はどうでしょうか。そこにも神の使命や目的があるはずです。それを知っているなら、あなたの人生もただ何となくではなく、その使命や目的に向かって大きく前進していくのではないでしょうか。
ヨハネはイエスの半年ほど前に生まれましたが、彼にはイエスのために道を備えるという使命が与えられていました。そして、その使命を全うして、彼は死んでいきました。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と、彼はその使命を全うして死んでいったのです。彼にとって大切なのは自分ではなく、あの方でした。彼が指し示したお方、イエス・キリストだったのです。ですから、彼は衰えても、彼は殺されても、全く問題ではありませんでした。なぜなら、彼の人生の目的はイエス・キリストだったからです。何と幸いな生き方でしょうか。私たちは時として、自分自身に執着するあまり、自分の思うように物事が進まないと、イライラして人を呪ってみたり、悲観的になったりしがちですが、彼は自分の人生の使命をちゃんと知っていたので、その使命に生きることができたのです。
あなたも私も、自分の命やこの人生を自分の力と努力によって手に入れたわけではありません。もし、あなたの人生が誰かから与えられたものであるなら、与えてくださった方の側に何かの目的や計画があるのです。その目的や計画は、ひとりひとり違いますが、それがどのような目的であるにせよ、大切なのはキリストであることを覚え、ヨハネのような人生を全うさせていただきたいと思うのです。
Ⅲ.その時が来れば実現する(18-23)
最後に、18節から23節までをご覧ください。主の宮で祈っていたザカリヤに主の使いが現われると、驚くようなメッセージを告げました。するとザカリヤは何と言ったでしょうか。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
どういうことでしょうか。ザカリヤは祈りの人でした。彼は神様が歴史の中で主権的に働いておられることを信じていました。しかし、彼は祈りが聞かれた時、あまりにもうれしかったのか、あるいは、よく考えてみたらそんなことが起こるはずがないと人間的になってしまったのか、信じられませんでした。子どもが生まれるのには、自分たち夫婦はもう年を取りすぎていると言っているのです。何ですか、今まで必至にそのために祈ってきたのに、いざ祈りがかなえられると、「うっそお」なんて言うのです。
たとえば、初代教会でもそういうことがありました。牢に捕らえられていたペテロのために教会は熱心に祈っていたのに、主の奇跡によって彼がそこから解放され、自分のために祈っていた仲間たちの所に行って戸をたたくと、ロダという女中が出て来て、「あなたはだれですか」と言うので、「ペテロです。」と答えると、「うそっ」なんて言って、戸を開けるのも忘れて、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることを仲間に知らせたのです。そのために祈っていたはずなのに。
主が言われることは、普通の常識からすれば、まったく非常識なことでした。主に仕えるザカリヤにとって、神のみことばを信じて受け取ることは、自分の長年身につけてきた知識や人生経験のすべてが否定されると思えるほどのことだったのです。
皆さん、信仰とはどういうことでしょうか。神を信じるといっても、そう簡単ではありません。けれども、学歴や家柄、年齢やお金の有る無しに関わらず、子供でも大人でも単純に神の言われることを信じるという、この信仰を持つことはできるのです。
ザカリヤは信じなかったので、これらのことが起こるまで、すなわち、ヨハネが生まれるまで、ものが言えず、話せなくなりました。それは、神のことばを信じなかったザカリヤに対する神のさばきでもあります。年老いた夫婦から子どもが生まれることについて私たちは信じられません。しかし、そのことについて神が約束しておられることばは信じなければなりません。それは私たちが主なる神を信じているからです。
信仰について学ぶ人には、この違いは重要です。聖書の信仰とは何でも疑わずに信じるということではありません。聖書を通して語られている神のみことばを信じることが求められているのです。神が語られたことばは、時が来れば、必ず実現するのです。
その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもっていました。この五ヶ月間の隠遁生活を通して神様は全能の方であるという結論に至り、こう言いました。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」 高齢出産と言っても、エリサベツほどの年で子どもを産んだ人がいるでしょうか。彼女は身ごもって五か月間、身を隠すかのようにしていました。これは本当に人の力ではないことは、ザカリヤとエリサベツ夫婦が一番わかっていたことでしょう。それだけにエリサベツは、主が自分のことを心にかけてくださった、長い年月の恥を取り去ってくださったと言ったのです。ほぼあきらめていた彼女にとって、それはどんなに大きな喜びとなり、慰めとなったことでしょう。
主なる神は、あなたのことも覚えておられます。ザカリヤという名前は、「主は覚えておられる」という意味です。何歳になっても、主は彼との約束を覚えておられたように、あなたのことも覚え、気にかけてくださっておられるのです。問題は、それが早いか、遅いかということであって、主のことばは、その時が来れば必ず実現します。やがてザカリヤは御使いが言われたとおり、その名は「ヨハネ」だと板に書き記した瞬間、元のようにしゃべることができましたが、そのとき彼は、「ああ、主はわたしのような者にも目を留めてくださった」と心から感謝することができたことでしょう。あなたにもそのように言える時が必ず訪れるのです。