きょうは、申命記30章から学びます。
Ⅰ.あなたを再び集める(1-10)
まず1節から5節までをご覧ください。
「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」
前章でモーセは、イスラエルの民と新たな契約を結びました。それは、ホレブで結ばれた契約とは別のものです。それは、彼らが約束の地に入って行ってから神の民としてどうあるべきなのかが示された新しい契約であり、その契約に従う者には祝福を与え、従わない者にはのろいをもたらすというものでした。しかもそれは彼らの行いによるのではない、神の真実とあわれみによってもたらされる恵みの契約です。そして、その祝福とのろいが彼らに臨み、彼らがすべての国に散らされた時、それらのことを心に留め、彼らの神、主に立ち返る時、どのようなことが起こるのかがここで語られています。3節から5節までを覧ください。
「あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」
主は何とあわれみに富んでおられる方でしょうか。たとえ神のみことばに従わずに罪を犯し、神のさばきとのろいを受けることがあっても、それで終わりではありません。その罪を悔い改め、主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、主は彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれみ、すべての国々の民の中から、彼らを再び集めるというのです。そして、彼らが所有していた地に彼らを連れて行き、その地を所有させ、彼らを栄えさせ、その先祖たちよりもその数を多くさせるというのです。
私たちはまだこの預言の完全な成就を見てはいませんが、これまでのイスラエルの歴史の中でいくつかその成就を見ています。たとえば、イスラエルはB.C.587年にバビロンによって捕えられましたが、その70年後にカナンの地に帰還しています。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ多くのユダヤ人が全世界に離散しましたが、1900年代になりシオニズム運動といって、全世界に散ら連れていたユダヤ人がイスラエルに帰還しました。そしてついに1948年5月に、イスラエル共和国が建国されたのです。1900年もの間国を失い流浪していた民族が再び国を興すといった話を聞いたことがありません。けれども、イスラエルはそれを成し遂げました。それはいにしえの昔、旧約聖書にこのように預言されていたからです。それが成就したのです。それはこの預言の成就の一部なのです。
それでは、ユダヤ人がみな主に立ち返ったのかと言えば、そうではありません。彼らはまだ、イエスを自分たちのメシヤであると信じておらず、神の救いを受け入れていないからです。しかし聖書を見ると、このイスラエルの民もやがてイエスをメシヤとして受け入れるようになるとあります。それはイエスが再臨される時であり、その時彼らは患難の中を通って、初めて自分たちが槍を突き刺した方がキリストであったことを知り、胸を打って悔い改めるのです。ですから、大患難の時には、イエスが言われたように、ユダヤ人がエルサレムやユダヤの地域に住んでいなければいけません。この時代に多くのユダヤ人がイスラエルに集まっていることはその預言に向かって大きく前進している証拠であるといえるのです。そして、彼らが悔い改めるとき、御霊が注がれて、彼らは新たに生まれることになります。このときに、まだ世界中に散らばっているユダヤ人たちが、いっせいにイスラエルへと帰還することになります。それが、ここ申命記30章に書かれてある預言の成就です。
6節から10節までをご覧ください。
「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」
「心を包む皮を切り捨てる」というのは、心の割礼のことです。イスラエル人にとって割礼は、彼らが神の民であることのしるしでした。しかし、どんなに肉体に割礼を受けていても、神のみ教えに歩まなければ何の意味もありません。彼らが割礼を受けたのは彼らが神の民であって、神の教えに歩むためだったのです。しかし、彼らはその神との契約を守ることができませんでした。ですから、大事なことは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)心に割礼を受けることです。イスラエルが神のみこころに歩めなかったのは心を包む皮を切り捨てられていなかったからです。そこで主は、その心を包む皮を切り捨てると言われたのです。その時彼らは、心を尽くし、精神を尽くして、彼らの神、主を愛し、それで彼らは生きるようになります。そして、イスラエルを迫害したイスラエルの敵にのろいを下されます。まさに、アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。
一方、イスラエルはどうなるかというと、8節にあるように、再び、主の御声に聞き従い、主のすべての命令を行なうようになります。心に割礼を受けるからです。心に割礼を受けると、主の御声に聞き従うことができるようになるのです。大事なのは、自分の心が聖霊によって変えられているか、どうかなのです。
「あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」
こうして、イスラエルは、神との契約を破り、神の命じられたことに従わなかったことで神ののろいを受けますが、主はそんな彼らを再び栄えさせます。それは彼らが心に割礼を受けて、神に立ち返り、心を尽くして、精神を尽くして、主の御声に従うようになるからです。
それは、私たちも同じです。私たちも主の御声に従わないで罪を犯し、主のさばきとのろいを受けるようなことがありますが、悔い改めて、主に立ち返り、心を尽くして、主により頼むなら、主は再び私たちを回復させ、その祝福の中へと入れてくださるのです。失敗してもそれで終わりではありません。そのためには私たちは心に割礼を受けること、神の聖霊によって、かたくなな心を砕いていただきたいと思います。
Ⅱ.みことばは、あなたのごく近くにある(11-14)
次に、11節から14節までをご覧ください。
「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」
ここでモーセは、主の命令とおきてとを守ることについて、それは彼らにとって難しすぎることはないと断言しています。それは遠くかけ離れたものではないからです。それは天に上って取ってこなければ聞くことができないものではありません。また、海のかなたに渡って取って来なければ聞くことができないものでもないのです。それは、あなたのごく身近にあり、あなたの口に、あなたの心にあるのです。ですから、いつでも聞いて行うことができるのです。
パウロはローマ人への手紙10章6節から10節までのところでこの箇所を引用し、信仰による義について語っています。すなわち、私たちが救われるためには天に上らないといけないとか、海の中にはいらなければいけないとかということではなく、信仰のことばを受け入れるということ、すなわち、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、救われるのです。なぜなら、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。そのためにどこか遠く行くことも、天に上る必要もありません。神の救いのみことばはあなたのすぐ近くにあり、あなたの心にあるからです。
Ⅲ.あなたはいのちを選びなさい(15-20)
最後に15節から20節までをご覧ください。
「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」
いのちか死か、幸いかわざわいか、どちらを選ぶのかという二者選択です。もし彼らが主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るなら祝福され、反対に、それに聞き従わず、ほかの神々を拝み、それに使えるなら、必ず滅びうせます。彼らが入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできません。だから、あなたはいのちを選びなさい、というのです。
どちらを選ぶのは大切なことです。それは、私たちの選択にゆだねられています。そして、私たちはいのちを選ばなければなりません。しかし、私たちはそれでものろいを選択してしまいます。いのちをえらばなければならないということをわかっていても、自分の欲に負けて誘惑されてしまうのです。ですから、私たちの肉の力ではこうした選択する力さえありません。私たちの心は罪に支配されているからです。しかし、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放してくれました。神はご自身の真理のみことばによって私たちを新しく産ませさせてくださいました。その御霊によって、肉に勝利することができます。そして、いのちを選ぶことができるのです。(ヤコブ1:18)
ここでモーセは、「天と地とを、証人に立てる。」と言っています。確かにイスラエルが行なっていることを、天と地という二つの証人が見ている、ということです。私たちはいつも、見られています。神ご自身に、自分の心を見られています。この神の御前で、私たちは、「私と私の家とは、主に仕える」と宣言しましょう。その中で、神のみことばを行い、いのちを得る者でありたいと思います。