ヤコブの手紙1章13~18節 「誘惑に打ち勝つ」

きょうは、「誘惑に打ち勝つ」というタイトルでお話しします。この手紙は、主イエスの異父兄弟であるヤコブから、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ヤコブは彼らに、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさい。」と勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じるということを知っているからです。そして、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となるからです。ですから、試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて義と認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるのです。 きょうのところでヤコブは、こうした試練に打ち勝つことから、私たちの内側から起こる誘惑の問題を取り上げ、その誘惑にどのようにしたら打ち勝つことができるのかを語っています。

Ⅰ.どのように誘惑されるのかを知る(13-16)

第一のことは、どのように誘惑されるのかを理解することです。すなわち、人は自分の欲に引かれて誘惑されて、罪を犯すのだということを知ることです。13節から16節までをご覧ください。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

ここでヤコブは、試練から誘惑の問題に話題を変えています。なぜでしょうか。それは、外側からの困難がしばしば、内側からの葛藤を引き起こすからです。苦しみがあると内なる人が弱まり、罪を犯しやすくなります。そして罪を犯すと、平安と喜びが失われ、さらに堕落していくことになります。同じ試練でも、試練に耐えるなら、その人は成長を遂げた完全な人になりますが、試練に負けて罪を犯すと、神の平安を失ってしまうことになります。ですから、人はどのように誘惑され、罪を犯すのかをきちんと理解しておくことはとても重要なことなのです。

ヤコブはここで、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言っています。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもないからです。確かに神は人が試練に会うことを許されますが、その試練を誘惑にしてしまうのは、ほかでも私たち自身なのです。たとえば、学生にとって試験はある意味で試練だと思います。卒業試験や国家試験、進学試験、就職試験などさまざまな試験があり、それに合格しないと前に進んでいくことができないわけです。たとえ結果がどうであっても、そのように取り組んだ経験は自分にとって大きな財産となるでしょう。しかし、そんなにすばらしい機会でも、カンニングをしたり、他の悪い方法で成し遂げようとすれば、折角の貴重な機会も台無しになってしまいます。神は試練を与えることを許されますが、それを誘惑にしてしまうのは自分自身なのです。

最初の人アダムとエバも、神から与えられた試練の機会を誘惑にしてしまいました。神はアダムをエデンの園に置かれ、園の中央の木の実についてはそれを食べてはならないし、それに触れてもならないと仰せられました。それにもかかわらずアダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて罪を犯し、取ってはならないと命じられた木から取って食べてしまいました。すると神はアダムに呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」アダムは答えて言いました。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」何ということでしょう。人は本来神と交わり、神の栄光のために造られたのに、その神から隠れて、木と木の間に隠れてしまったのです。そこで神は言われました。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか。」 さあ、それに対してアダムは何と答えたでしょうか。彼はこのように言いました。

「あなたが私のそばにおいたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)

どうですか、皆さん、アダムは何と言っているんですか。アダムは、自分が園の中央にある木の実を取って食べたのは、あなたが私のそばに置いた女のせいだと、エバのせいにしたのです。エバを自分のそばに置いた神様、あなたが悪いんです、と言ったのです。それで神が、エバに「いったい何ということをしたのか」言うと、女は答えて言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12)こういうのを何と言うんですか。責任転嫁、罪のなすり合いと言います。私たちもよく「どうしてあなたはこんなことをしたのですか」と責められると、無意識のうちに、「だってあの人がこんなことを言ったからです」とすぐに人のせいにするのは、今に始ったことじゃないのです。最初に人間が造られた時から、自分の罪を他人のせいにしようとする本能があったのです。

神は、アダムが自分の意志で神に従うことができるようにとエデンの園に善悪を知る木を置かれたのです。アダムがその置かれた目的をよく理解し、その試練を乗り越えたのであれば、彼は神と交わることができ、大きな喜びに浸ることができたはずです。しかし、彼はそれを自分の満足のために用いることによって罪を犯してしまいました。アダムが罪を犯したのは神のせいではなく、自分の問題でした。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれをも誘惑なさることもないからです。それゆえ私たちは神によって誘惑されたと言ってはならないのです。

それでは、人はどのように誘惑されるのでしょうか。14節と15節をご覧ください。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。そして、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。何ですか、「はらむ」とは?「はらむ」とは、胎内に子を宿すこと、妊娠することです。それを「子をはらむ」と言います。ここでヤコブは、人が罪を犯すまでのことを、母親が妊娠して赤ちゃんを産むことにたとえています。つまり、赤ちゃんがお母さんのお腹の中に宿り、胎内で成長してやがてオギャーと産声を上げるように、罪もある日突然パッとふって沸くかのように生まれるのではなく、まず欲望が心の中に宿り、それが妊娠することによって罪を生じるようになるというのです。その罪に生きることによって死を生み出すことになるのです。つまり、聖書で言うところの罪は、単に一つの行為として見るのではなく、誘惑の根源に「欲望」があり、その欲望を助長させることによって行動が生まれ、その結果出てくるのが「罪」であるというのです。ですから、罪は目に見える特定の行動となった時に始まるのではなく、欲望が心の中に宿ることによって、それがやがて罪という行為となって表れてくるというのです。ちょうど赤ちゃんが産まれる前にお腹に宿っているようにです。その赤ちゃんのいのちは、実際に生まれる約十カ月前に始まっているのです。

 

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21-22)

また、こうも言われました。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5-27-28)

人を殺すとか、姦淫するという行為は、実際にそのような行為となって表れるずっと前から、心の中で兄弟に向かって腹を立て、「ばか者」と言った瞬間に、情欲を抱いて女を見た瞬間に始まっているというのです。

ですから、人が罪を犯すのは、神のせいではなく、自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」とあります。それはちょうど魚釣りのようです。私はあまり釣りをしないのでわかりませんが、魚はそれぞれ好みが違うそうです。同じ餌を付けたらどんな魚でもかかるかというとそうではなく、この魚にはこの餌をと、それぞれ好みが違うのです。たとえば、まぐろはいかが好物のようで、今年のマグロ漁はその好物のいがが少なくてあまり取れなかったそうです。しかし、それぞれの好みに合わせて餌を付けてやりますと、それまで安全な岩陰に隠れていた魚がおびき寄せられることになるのです。それは人間も同じで、人それぞれ好みがあって欲が違いますが、それぞれの欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

本来、欲望そのものは神が与えてくださった良いものですが、本来良いものであるはずの欲望がゆがめられて乱用される時、いろいろな問題が起こってくるのです。たとえば、アブラハム・マズローという学者は、人間には五段階の欲望があると言っています。それは生きていく上で必要な基本的な欲望であり、危険やリスクから逃れたいという安全の欲求、仲間や味方が欲しいという帰属の欲求、さらには、人から認められたい、尊敬されたいという心理的欲求、そして、もっと自分の可能性や能力を発揮したいという自己実現の欲求などです。そして、これらのものは必ずしも悪いものではありません。たとえば、お腹が空いたら食べるとか、のどが渇いたら飲む、メッセージを聞いていると眠くなるといったことは、人が生きていく上で必要なものであり、基本的なものとして神が与えてくださったものです。しかし、このように必要なものでも、必要以上に求めすぎると、逆に健康を損なったり、怠惰になったりするという問題が生じます。また、だれかにつながっていたいという思いも悪くはありませんが、それを必要以上に求めますと、いろいろな問題が起こってくるのです。要するに、本来良いものであるはずの欲望が罪によってゆがめられ必要以上に求めることによって、誘惑されるのです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むのです。これが罪のメカニズムです。

 

いいえ、私は大丈夫です、私はあまり食欲がありませんから。しかし、必要以上にだれかにつながっていたという思いが強かったり、人から認められたいとか、尊敬されたいという思いが強い場合もあります。ここには、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されます。」とあります。人それぞれ欲望のタイプが違うのです。それぞれ欲求に違いがありますが、共通して言えることは、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるということです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むということです。すべての罪はその人の心の中の欲望から始まるのであって、神によって誘惑されることは絶対にありません。ですから、だまされないようにしなければなりません。自分が罪を犯してしまったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけないのです。

Ⅱ.神の賜物を見つめる(17)

次に17節をご覧ください。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」

13節のところでヤコブは、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言いました。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑されることもないからです。そしてここに、もう一つの理由が書かれてあります。それは、すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るからです。

神の賜物は、贈る動機において不純なものはなく、贈り物そのものも完全です。たとえそれが試練であっても、それはクリスチャンの成長のためであり、クリスチャンの益のためなのです。ですから、神は良い方であり、良い物を賜ってくださいます。その確信を投げ捨ててはなりません。その良い賜物の中でも特に最高の賜物は、ご自身の御子です。神は御子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。このような神が私たちを悪に誘惑するというようなことがありましょうか。ありません。神は私たちに最善のものを与えてくださる方なのです。このことを忘れると、私たちはいとも簡単に誘惑に負けてしまうことになるのです。

ダビデ王はそのことを忘れたために罪を犯してしまいました。ダビデがバテ・シェバと姦淫した後に、預言者ナタンが来てこう言いました。

「イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに私、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたのふところにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」(Ⅱサムエル12:7-9)

ここでナタンがダビデに言っていることは、主はあなたにほんとうに多くの良いものを与えてくださったではありませんか。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすんで罪を犯したのかということです。それはダビデが神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるのかを忘れていたからです。だから誘惑に負けてしまったのです。

私たちも、神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるかを見失ってしまうと、簡単に誘惑に負け罪を犯すことになってしまいます。そういうことがないように、神はどんなにすばらしい方であるか、神はあなたのために何をしてくださったのか、神があなたに与えられてくださった賜物がどんなに完全で、すばらしいものであるかを、しっかり見なければなりません。

ヘブル人の手紙の著者はこう言っています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)イエス様から目を離してしまうと、誘惑に陥ってしまいます。しかし、イエス様から目を離さないでいたら、どんな試練にあっても勝利することができます。

アブラハムはどうでしたか。彼は神の召命に従い、自分の生まれ故郷を出て神が示してくださった約束の地に出て行きました。75歳にもなった彼が新しい地に出て行くことは並大抵のことではなかったでしょう。けれども、アブラハムは神のことばを受けた時、すぐに従って出て行きました。それは、神によってもたらされる望みがどれほどすばらしいものであるかを見ていたからです。すなわち、天の故郷にあこがれていたからです。

しかし、彼らが約束の地に入ると、そこで一つの問題が起こりました。それはききんです。それで彼はどうしたかというと、神の約束よりも急に現実的になり、このままではだめだからエジプトに下って行くことにしました。エジプトに行けば何とかなるだろうと思ったからです。しかし、このままいけば自分は殺されるかもしれないと思った彼は、自分の妻を妹だと偽ってパロに差し出したのです。しかし、神が介入してくださり、それがアブラハムの妹ではなく妻であるということをパロに示してくださったので、アブラハムが罪を犯さないで済んだだけでなく、多くの所有物とともにエジプトを出ることができました。それにしても、そんなに信仰に熱心だったアブラハムが、どうして急にそんな愚かなことをしたのでしょうか。それは、神から目を離し、状況を見てしまったからです。

私たちもイエスから目を離した瞬間、私たちの中に迷いが生じ、自分の欲に引かれて、誘惑されてしまうことになります。そのようなことがないように、いつも神に目を留めておかなければなりません。神がどのような方であり、そのために神がどんなにすばらしい賜物を与えてくださったのかをよく考えることです。

「神は、あなたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8)

あなたは、どうでしょうか。神の恵みに目を留めていらっしゃるでしょうか。神は移り変わりや、移り行く影がない方であり、あなたに最高の贈り物、完全な賜物を与えてくださったことを認めて、感謝しているでしょうか。

Ⅲ. 御霊によって歩む(18)

最後に18節をご覧ください。誘惑に勝利できると主張してきたヤコブは、そのために誘惑がどのようにしてもたらされるのかを見極め、神が与えてくださる賜物がどれほど完全なものであるのかを見つめるようにと勧めてきましたが、ここではもう一つのことを勧めています。それは、神の御霊によて歩むということです。

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば、被造物の初穂にするためです。」

神のみこころは、私たちが救われることです。神はそれを真理のみことばによって成し遂げてくださいました。真理のみことばによって私たちをお生みになりましたとはそのことです。私たちは、「血によってではなく、肉の欲求によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)それは、私たちを被造物の初穂とするためです。どういうことでしょうか。

初穂とは、穀物の収穫の初物のことです。古代社会では、それは神にささげられるものでした。それは神への感謝に満ちた供え物でした。それは神のものだからです。私たちが真理のことばによって新しく生まれたのであれば、私たちは神のものなのです。神のものであるということは、神に属している者であるということであって、神が働いてくださるということです。神が働いてくださるのであれば、どんな誘惑にあってもそれに打ち勝つことができます。私たちは生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、新しく生まれ変わるなら、それが可能になるのです。

スイスの避暑地に来ていた一人の婦人が、ある日散歩に出かけると、山腹に羊の囲いがあるのを見つけました。中をのぞいてみると、そこには羊飼いがいて、彼の周りには羊が群がっていました。しかし、たった一匹だけ離れた場所に横たわり、苦しんでいる羊がいました。よく見るとその羊は足が折れていたのです。婦人はこの羊をかわいそうに思い、羊飼いにどうしたのかと尋ねました。すると驚いたことに羊飼いの返事はこうでした。

「私がその足を折ったのですよ。」

それを聞いた婦人の顔には悲しみの色が浮かびました。「私の群れの羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんですよ。私の声に絶対に従いません。私が群れを導こうとしてもついて来ないのです。そして危ないがけや目がくらむような深いへりに迷い込むのです。そういうわけで私はこいつの足を折ることにしたのです。それは、こいつだけならまだしも、ほかの羊をも惑わすからです。でも大丈夫でしょう。こいつは完全な変化を遂げてほかの羊の模範になりますから。最初の日、私がえさを持っていくと、こいつは私にかみつきましたが、しばらく間引き離しておき、数日たって、またこいつのところへ行ってみると、今度はえさを食べるばかりでなく、私の手をなめ、服従のしぐさを見せました。折られた足ももうすぐすっかりよくなるでしょう。この羊が回復したら、どんな羊もこいつほど私になつく羊はいないでしょう。仲間を惑わす代わりに、こいつは言うことを聞かないやつの模範となり、案内役となって、他の羊を私が行こうとする道に従わせるでしょう。要するに、この始末に負えない羊の生活に、完全な変化がくるということです。

それは私たちも同じです。主は私たちの羊飼いです。私たちは主の民、その牧場の羊なのです。生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、真理のみことばによって新しく生まれ、完全な変化が与えられたので、この神の力によって誘惑に打ち勝つことができるようになったのです。生まれたままの姿、自分の肉によっては本当に無力で、肉の欲求に負けてしまうような愚かな者ですが、イエス・キリストにある、いのちの御霊によって、罪と死に追いやろうとする誘惑に勝利させていただこうではありませんか。