今日はⅡペテロ1章12節から15節までのみことばから、「いつも思い起こして」というタイトルでお話したいと思います。
Ⅰ.いつも思い起こして(12)
まず12節をご覧ください。
「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」
「ですから」とは、これまでペテロが語ってきたことを受けてのことです。ペテロはこれまでどんなことを語ってきたのでしょうか。それは救いの恵みと救いの確信に関することです。すなわち、私たちが救われたのは一方的な神の恵みであるということ、そしてその恵みを信じる信仰によってであるということ、また、そのように主イエスを信じたことで、主イエスの神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのものを私たちに与えてくださったということです。いのちとは永遠いのちのことです。敬虔とは信じた人の生き方とか考え方、価値観のことです。イエス様を信じたことで私たちに神のいのちがもたらされ、そのいのちは、私たちの人生に豊かな恵みと力をもたらしました。それまではこの世の欲によって滅びていくような者でしたが、イエス様を信じたことで、この世の欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者とされたのです。
そればかりでなく、その救いの恵みに応答しあらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えることによって、豊かな実を結ぶ者となりました。このことを忘れなければ、つまずくことなど決してありません。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。これらのことです。
これらのことを、この手紙の受取人たちは知らなかったのでしょうか。いいえ、知っていました。ここには、「すでにこれらのことを知っており」とあります。すでに知っていたというだけでなく、その真理に堅く立っていました。それなのに、なぜペテロはこれらのことを語る必要があったのでしょうか。
ここには、「とはいえ」とあります。彼らはすでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っていましたが、とはいえ、あえて言いたかったのです。なぜなら、いつも思い起こしてほしかったからです。「私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」とあります。神がしてくださったすばらしい救いの御業、すでに救われて神のご性質にあずかっているということを忘れないように、いつもこれらのことを思い起こさせたかったのです。なぜでしょうか。人はすぐに忘れてしまうからです。
人は本当に忘れやすいものです。皆さんは昨日の夕食に何を食べたか覚えていますか?ほとんど覚えていないでしょう。料理を作られた方は覚えているかもしれませんが、食べるだけの人であればすぐに忘れてしまいます。
私は学生の頃一生懸命英語の単語を覚えました。豆カードの表に英語の単語を書き、裏にその意味を書いて、何回も繰り返して記憶させるのです。ところが、30分もしないうちに半分くらいは忘れてしまいます。それでも何度も繰り返して完璧に覚えても、翌朝にはすっかりさ忘れているのです。
最近とても困るのは人の名前を忘れてしまうことですね。「あれっ、あの人の名前は何だっけなぁ」なかなか思い出せません。先日もスーパーキッズの時間に2階でお母さんたちのための聖書の学びをしましたが、そこにいつも参加している一人のお母さんの名前を度忘れしてしまいました。ちょうど学びに入る前だったので、別のお母さんがキッチンでケーキを切っていたので、その方の所に行って小声で、「あの方、何というお名前でしたっけ?」と聞いたら、「どの方ですか、あの方は舩山さんです。」と教えてくれました。それで、問題なく学びを進めることができたので助かりました。
先日も、注文した本がなかなか届かないので仙台のバイブルショップに電話して、「ちゃんとやってもらいますか?」と言おうと思ったら、その電話に出られた方が、「大橋先生、覚えていらっしゃいますか。佐藤です。佐藤康子です。福島にいたときお世話になりました。」と言われましたが、一瞬「あれっ、だれだろう」と頭が真っ白になりましたが、昔のことは意外と覚えているんですね。その方のお顔を鮮明に覚えていて、思い出すことができました。もう30年も前に短大の学生さんとしていらしていた方です。かなり昔のことでしたが、よく覚えていました。でも話の中で「平井さんはどこにいるんですか?」と聞かれたのです。「平井さんですか、彼女は結婚して今山形にいますよ」と答えられたところまでは良かったのですが、結婚して苗字が何となったか度忘れしてしまったのです。「彼女は今結婚して、あれっ何だっけな、ええと、ちょっと待って、ああ、なかなか思い出せない。まあ、とにかく結婚して元気にしています。」という会話になってしまいました。そして、受話器を置いたとたん思い出したのです。「あっ、思い出した、早坂さんだ!」こういうことってよくあるでしょう。すぐに忘れてしまいます。
神の救いについてはどうでしょうか。私たちは自分が救われていることをどれだけはっきりと覚えているでしょうか。忘れてしまうと、ただ忘れるというだけでなく、元の生活に逆戻りしてしまいます。救われているはずなのに、いや、救われているのですが、でも元に戻ったようになってしまうのです。
それはイスラエルの民も同じでした。彼らはエジプトから救い出された後、神の民としてどうあるべきなのかを聞いても、すぐに忘れてしまいました。それで約束の地を前にして、モーセはもう一度彼らに神のおきてを語りました。それが「申命記」です。「申命記」というタイトルは英語では「Deuteronomy」と言いますが、これは「再び語る」とか「もう一度語る」という意味です。どうしてもう一度語る必要あったのでしょうか。それは彼らが忘れないためです。神様は彼らが忘れやすい者であるということをちゃんと知っていました。その時は聞いているかのようですが、全然聞いていません。右から入ったかと思うと、すぐに左の方に抜けて行ってしまいます。だから、忘れないようにともう一度語ったのです。
その申命記の中で、主がモーセを通して繰り返し、繰り返し語ったことは次のことでした。ちょっと開いてみたいと思います。6章4節から12節までをご覧ください。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。・・私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:4-12)
このように、モーセの最後のメッセージは、主を愛するようにということでした。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさいということを心に刻み、これを忘れないようにしなさい、ということだったのです。しかし、彼らが約束の地に入るとすっかり忘れてしまいました。そして敵に征服され、ついには国が分裂するという悲劇を招きました。
それはイスラエルだけではありません。すべてのクリスチャンに言えることです。黙示録2章と3章にはアジヤにある七つの教会に書き送られた手紙が書かれてあります。この七つの教会は、この地上のすべての教会のひな型です。それらの教会は現在どのようになっているかというと、すべてイスラム教の寺院に化しているのです。なぜでしょうか。忘れてしまったからです。
たとえば、2章4節にはエペソにある教会に、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」(黙示録2:4-5)と書き送られましたが、彼らは初めの愛から離れてしまいました。初めは熱心でした。心から主を愛していました。しかし豊かになると、初めの愛から離れてしまったのです。だから主はここで、どこから落ちたかを思い出して、悔い改めて、初めの行いをしなさいと言われたのです。
また、サルデスの教会には、「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされてはいるが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」(黙示録3:1-3)と書き送られました。彼らは、はたから見たら熱心な人たちでした。いろいろな活動をしていました。しかし、霊的には眠ったような教会で、ただ形式的に、義務感から礼拝しているような教会でした。ですから主はここで、「だから、あなたがたはどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」と言われたのです。
「思い出しなさい」。思い出すことは大切なことです。私たちも主を忘れてしまうと、自分の罪が赦されているのを忘れてしまうと、昔のむなしい生活に逆戻りしてしまいます。ですから、ペテロはここで、あなたがたはすでにこれらのことを知っており、その真理に堅く立っている人たちですが、とはいえ、私たちはこういう弱さを持っているので、いつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとしているのです、と言っているのです。
きょうは、この後で聖餐式を行いますが、なぜ聖餐式を行うのでしょうか。忘れないためです。主イエスは言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(ルカ22:19)私たちのために主はどんなことをしてくださったのか、そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。そのことを忘れないで心に刻むために、行うのです。どうか忘れないでください。そうすれば、決してつまずくことはありません。そして、あらゆる恵みがますます加えられ、イエス・キリストのご性質へと変えられていくでしょう。
Ⅱ.奮い立たせるために(13)
「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」
「地上の幕屋」とは、肉体のことを指しています。ペテロは自分のこの地上の肉体を指して「幕屋」と言ったのです。ペテロは生きている間、自分がすべきことが何かを知っていました。それは、これらのことを思い起こさせることによって、人々を奮い立たせることです。これが、自分が生きている間、自分がなすべき務めであると思っていたのです。
もともと彼は漁師でしたが、そんな彼を主は召してくださいました。しかし荒々しく、直情的な彼は、いろいろなことで失敗もしました。彼の最大の失敗は、鶏が鳴く前に三度、イエス様を否むことでした。「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)とは言ったものの、いざイエス様が捕らえられると、彼はイエス様が言われたとおりに、イエス様を否んでしまいました。彼はどれほど悲しかったでしょうか。聖書には、ペテロは、鶏が鳴いたときイエス様が言われたあのことばを思い出し、外に出て激しく泣いた、とあります。しかし、イエス様はそんな彼のために祈ってくださいました。信仰がなくならないように祈ってくださったのです。なぜでしょうか。それは、彼が立ち直ったら、同じように落ち込んでいる人たちを励ましてあげるためです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)
ペテロはこのことばを心に留め、繰り返して周りの人たちを励まし続けてきました。救われたことを思い起こすように、自分がどこから救われたのか、主を裏切った自分が主のあわれみによってまた再び立ち上がらせていただき、その恵みを忘れないように、いつも主のことばを思い起こすように、そう言って彼は人々をずっと励まし続けてきたのです。
それは私たちにも同じです。私たちもペテロ同様失敗しては落ち込み、なかなか立ち上がれないでいるような者です。しかし、朱はそんな私たちのために祈ってくださいました。それは、私たちも立ちあがったら兄弟たちを励ましてあげるためです。不思議なことに、信仰が落ち込んでいる時は、他の人はだれも自分のような経験なんてしたことがないだろうと思って孤独になりがちです。そのような時、いつもそばにいて話を聞いてくれる人がいたら、そして励ましてくれる人がいたら、どんなに慰められることかと思います。
ペテロは、それが自分の生涯において自分がなすべきことだと受け止めていました。それはペテロだけでなく私たちにも求められているのではないでしょうか。神は、私たちがペテロのように信仰で悩み、苦しみ、失敗し、落ち込んでいる人たちを励ますために、用いようとしておられるのです。
Ⅲ.クリスチャンの努め(14-15)
ペテロはなぜそのように思っていたのでしょうか。14節にその理由が記されてあります。「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」
ペテロは、人々の信仰を励ますこと、人々を奮い立たせることが、自分に与えられている使命だということをよく理解していました。それは、彼が自分の死が間近に迫っているのを知っていたからです。幕屋とは先ほども申し上げたように「テント」のことです。キャンプの時テントを張って一時的に寝泊りすますが、キャンプが終わるとテントをたたんで家に帰ります。それと同じように、私たちのたましいはこの肉体というテントに一時的に住みますが、やがて肉体を去るときがやって来ます。その時私たちのたましいは永遠の住まいである天のふるさとに帰ります。そしてイエス様が再び地上に来られるとき、もはや古いからだではなく新しいからだ、栄光のからだをいただいて、永遠に主とともに生きるようになるのです。それはもうテントのような一時的なものではありません。決して滅びることのないからだ、天国というマンションに住むようになるのです。このことをパウロはこのように言っています。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(Ⅱコリント5:1)
私たちの住まいである地上の幕屋、地上の建物が壊れても、神が下さる建物があります。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。
ペテロは、自分がこの幕屋を脱ぎ捨てるとき、すなわち、死が間近に迫っているのを知っていました。ですから彼は、自分がこの地上で何をなすべきかを覚え、そこに専念したのです。
それはパウロも同じ多です。パウロも自分の死が近づいたとき、このように言いました。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
すばらしいみことばです。私の墓石にも書いてもらいたいみことばです。「走るべき道のりを走り終え」このようにペテロも、パウロも、栄冠を受けたるために、走るべき道のりを走り終えました。彼らは自分たちのゴールを知っていたのです。ゴールを知らないような走り方ではなく、ゴールを知っていて、ゴールに向かって走っていたのです。だから、途中いろいろなことがあってもそれを乗り越えることができました。このように自分のゴールを知っているということは大切なことです。
あなたの人生のゴールは何でしょうか。あなたは今そこに向かって走っておられるでしょうか。私たちのゴールはこの地上にはありません。私たちのゴールは神の国です。このゴールを知っている人は、たとえ死を間近にしても何の恐れもありません。また、このゴールを持っている人はどんな苦難の中にあっても生きる希望があるので前進することができるのです。今生かされていることに感謝して、今自分にできることを熱心にやろうと奮闘するのです。
そればかりではありません。15節をご覧ください。ここには、「また、私が去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こさせるよう、私は努めたいのです。」とあります。
「私が去った後に」というのは、ペテロが死んだ後にということです。この「去る」という言葉は英語の「exodus」、つまり「出国」のことです。これは「出エジプト記」の書名にもなっている言葉です。同じ言葉がルカ9:31で、イエス・キリストの死、最期を表すために使われています。つまり、聖書は、「死は」終わりではなく、むしろ新しい場所への出発、出国として教えているのです。この世では悩みや苦しみ、叫び、死がありますが、神の国では死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。ペテロはこの後で自分が捕らえられて処刑されるということを知っていましたが、このことを覚えて喜んでいたのです。そしてそれだけでなく、残されている人たちのことを考え、彼らを励まそうと、自分が去った後もそのことを思い起こせるように、努めていたのです。すごいですね。生きている間だけでなく、死んでからも、残された人たちが励まされるような生き方をしようと努めていたとは。彼は自分が死んだ後で自分のことを思い出してほしいなんて思いませんでした。残された人たちが励まされるようにと願っていたのです。
いったいどうしたら残された人たちが励ましを受けることができるのでしょうか。彼らがいつもこれらのことを思い起こすことによってです。これらのことって何ですか。それは彼がこれまで語ってきた救いのすばらしさです。イエス様を救い主と信じたことで、永遠のいのちと敬虔に関するすべてのものが与えられました。また、キリストのご性質にあずかる者ともされました。イエス様を信じたことで、すべてのものが与えられました。何という恵みでしょう。このことを彼らがいつでも思い起こせるように努めたのです。
皆さんはどうでしょうか。死んだらどうしようとか、病気になったらどうしよう、ちゃんと食べていけるだろうかと不安になってはいませんか。ペテロはここで、自分はもうすぐ幕屋を脱ぎ捨てる時が近くなっていることを知っている。でも行先は天国ですから何の心配もありません。心配なのは、残された人たちがどうやって励ましを受けるかということであって、そのためには、いつでもこれらのことを思い出してほしい。思い起こせるようにと努めたいと願っていました。
これは神が私たちにも望んでおられることです。私たちはこの先どうなるかということを心配するよりも、残された人たちがこの信仰にしっかりと立っていることができるようにと努めることです。そのためには、彼らがいつもでもこのことを思い起こせるように、私たちがただ口で言うというだけでなく、その神の恵みの中を実際に生きるということです。私たちがこの世を去る時に、「ああ、おじいちゃんは走るべき行程を走り終えた。神の恵みって本当にすばらしい!主よ、感謝します。」と残された人たちが言えるような生き方を、私たちも努めたいと思うのです。