Ⅱペテロ3章1~9節 「忍耐深くあられる神」

きょうは、Ⅱペテロ3章前半の箇所から「忍耐深くあられる神」というタイトルでお話します。2章のところでペテロは、教会に忍び込んでいた偽教師たちに気をつけるようにと、彼らの特徴について述べました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定することさえ、自分たちの身にすみやかな滅びを招いていただけでなく、敬虔な人たち、これは主に従っていたクリスチャンたちのことですが、そういう人たちをも誘惑し、滅びと破滅に導いていました。彼らは理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるので、動物が滅ぼされるように滅ぼされるのです。ですからペテロは、こうした偽教師たちには気をつけるようにと警告したのです。

 

きょうの箇所でペテロは、その偽教師たちが否定していたキリストの再臨について教えています。聖書は至るところで、キリストが再び来られると約束しています。それは私たちクリスチャンの希望でもあります。なぜなら、キリストが再臨される時すべての悪がさばかれ、この地上に本当の平和が訪れるからです。その時、すべての悲しみ、嘆き、叫び、苦しみ、痛み、罪から解放され、本当の自由と平和、喜びがもたらされます。ですから、私たちの真の希望はキリストの再臨にあるのです。

 

しかし、それを否定する者たちがいました。そうです、あの偽教師たちです。彼らはキリストの再臨なんてあるはずがないじゃないかと言って、あからさまに否定していたのです。そこでペテロは彼らの間違いを明らかにするとともに、聖書の約束に堅く立ち続けるようにと読者を励ますのです。

 

Ⅰ.思い起こして(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語っ た、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。」

 

ここにペテロがこの手紙を書き送った目的が書かれてあります。それは、これら手紙によって記憶を呼びさまさせ、彼らの純真な心を奮い立たせることです。「純真な心」とは、誠実な心のことです。正直で、真実で、うそ偽りのない心のことであります。ペテロはこの2勝において、教会の中に偽教師たちが現れて選民をも惑わすようになると警告しました。そして、多くの者が彼らについて行き、その身に滅びを招くよなことをしていた現実を見て、惑わされないようにと警告しました。そのために必要なことは何でしょうか。ここにあるように、思い起させることです。記憶を呼びさまさせて、彼らの純真な心を奮い立たせることです。私たちが惑わされてしまう大きな原因の一つは、忘れてしまうことにあります。人間はすぐに忘れてしまいます。昨日何を食べたかも覚えていません。神の恵みを忘れてしまうことで簡単に偽りの教えに惑わされてしまいます。ですからペテロはここで、そのことを何回も何回も繰り返して伝えることで、彼らに思い起こさせようとしているのです。

 

ペテロは何を思い起こさせているでしょうか。2節をご覧ください。ここには、「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とあります。「聖なる預言者たちが前もって語ったみことば」とは、旧約聖書のことです。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られました。しかし、彼らは自分たちの考えを語ったのではなく神からのことばを語りました。それゆえに彼らは本物の預言者であり、聖なる預言者でした。

 

また、ここには「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とありますが、これは新約聖書のことを指しています。旧約聖書は罪に陥った人類を救うために神が救い主を遣わすという約束が預言されていますが、その預言のとおりに救い主が来られたことを証言したもの、それが新約聖書です。それはナザレのイエスによって実現しました。その救い主の良い知らせはまずイエスご自身によって宣べ伝えられました。イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

そして、多くの病人をいやされ、悪霊を追い出し、さまざまな問題で苦しんでいた人を解放してあげました。そして、旧約聖書の示すとおりに私たちの罪を負い、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれました。しかし、三日目に神はこのイエスを死からよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。この方こそ旧約聖書で約束されていた救い主、メシヤ、キリストであられるからです。神はこの方を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。それゆえ、このイエスを自分の罪からの救い主と信じるなら、だれでも救われるのです。これが良い知らせ、福音です。

 

そしてイエス様は12人の使徒たちを選び、全世界に行ってこの福音を宣べ伝えるようにと命じられました。その命令に従い、使徒たちは出て行ってイエス様が命じたすべてのことを教えました。彼らは自分たちの教えを語ったのではなく、イエス様が教えたことをそのまま教えました。つまり、このイエスが救い主であられるということ、そして、このイエスを信じる者は、だれでも罪の赦しが与えられるということです。そして、もう一つのこと、それは、このイエスは再び戻ってこられるということでした。それは旧約聖書にも書かれてあったことです。旧約聖書にも書いてあり、主イエスご自身も教えられ、使徒たちもそのように教えました。それは聖書の一貫した教えなのです。それなのに、彼らの中にはこのキリストの再臨を否定する者たちがいました。それでペテロは、聖なる預言者によって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令、つまり、聖書は再臨について何と教えているのかを思い起こさせるために、これらの手紙を書いたのです。

 

私たちも忘れてしまうことがあります。もう耳にたこができるほど何回も聞いているはずなのに、いざ人から指摘されると、「あれ、何だったけなぁ」と忘れてしまい、自分の思いに走ってしまうことがあるのです。ですから、私たちは「もう何度も聞いて知っている」と高を括るのではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかということをいつも思い起こさなければなりません。

 

Ⅱ.あざける者ども(3-7)

 

次に3節から7節までをご覧ください。3,4節をお読みします。

「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけ り、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこに あるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

ペテロはまず第一に、次のことを知っておきなさいと言っています。それは、終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うことです。「キリストの再臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

どういうことでしょうか?「終わりの日」とは、世の終わりの日のことです。それはキリストがこの地上に来られた時に始まり、再び戻って来られるときまでのことです。その終わりの日が近くなると、キリストの再臨のことをあざける者どもがやって来て言うのです。「そんなのあるはずがないじゃないか。回りを見てごらん。何も変わりがない。ずっと昔から同じじゃないか。何もかわりゃしない。」しかも、それが彼らの中から、教会の中から起こってくるというのです。教会の中に滅びをもたらす異端がひそかに持ち込まれるのです。その一つがキリストの再臨を否定することです。キリストの再臨は聖書の教えであって、クリスチャンの希望です。キリストの再臨を知り、それを待ち望むことでクリスチャンは力が与えられます。どんなに苦しくても、もうすぐ主が戻ってこられると信じていることで慰めが与えられ、励まされるのです。パウロはテサロニケの教会に書き送った手紙の中でこの再臨について述べ、「こういうわけだから、このことばを互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)と言いました。クリスチャンにとっていったい何が慰めのことばなのでしょうか「このことば」です。主が再び戻って来られるということばです。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」(Ⅰテサロニケ4:16-17)

これが私たちにとって慰めのことばです。もうすぐ主が来られます。そのとき、私たちは霊のからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の栄光の中へと入れられるのです。このことばです。

 

しかし、このようなことを語ると、中には「何をたわごとを言って・・」とそれを否定する人たちが起こってくるのです。「そんなことあるはずないじゃないか、昔も今も変わらないし、ずっと同じだ。」と。「見てごらん。何も変わっていないじゃないか」

するとクリスチャンも日々の生活でいっぱいになっていますから、現実に心を奪われて、こうしたあざける者たちに惑われ「や~めた!」となってしまうのです。主のために生きるなんてバカバカしい。そして、だんだん真理から離れていくようになるのです。本当に私たちはこの「現実」という二文字に弱いですね。どんなに信仰を持っていても、現実という二文字の前に、簡単に主から離れてしまう弱さがあるのです。そして、主が戻ってこられることを期待しなくなると、霊的にだんだん弱くなってしまいます。霊的に眠った状態になるのです。何もしなくなります。ただ自分のことだけにとらわれ、この地上のことしか考えられなくなってしまうのです。これがサタンの常套手段なのです。

 

このように、終わりの日が近くなると、あざける者たちがやって来て、キリストが再臨するという教えをあからさまに否定し、人々の関心をこの地上のことだけに向けさせて、希望を奪っていくのです。

 

5節と6節をご覧ください。しかし、彼らがこのように言い張るのは、次のことを見落としているからです。すなわち、「天は古い昔からあり、地は神のことばによって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びましたが、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」どういうことでしょうか?

 

あざける者たちは、昔も、今も、何も変わっていない、創造の初めからずっと同じだと言っていますが、そうじゃない、というのです。彼らは見落としているのか、故意に忘れようとしているのかわかりませんが、ある事実を見落としています。それは、神によって造られた当時の世界は、洪水によって滅ぼされたということです。何のことを言っているんですか。そうです、ノアの箱舟のことです。神はノアの時代に、古い時代を洪水によって滅ぼされました。このことを忘れているというのです。いや、わざと忘れたかのようにして、それを認めようとしないのです。なぜなら、認めると都合が悪いからです。それを認めてしまうと、聖書が預言しているとおりに、将来においても同じように神のさばきがあるということを認めざるを得ないことになるからです。だったら最初から認めればいいのに、認めないで自分たちに都合がいいように主張するので、結局、こうした矛盾が生じ事実を隠すようなことになるのです。

 

つまり、ペテロはここで今の天地は最初のものとは同じでないと言っているのです。かつてノアの時代に当時の世界が洪水で滅びたように、今の天地も、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきの日まで、保たれているのです。昔の世界は水によって滅ぼされましたが、今の天地が水で滅ぼされることはありません。なぜなら、ノアの洪水の時に神は、ノアとその家族に、もはや洪水で滅ぼすことはしないと約束されたからです。その約束のしるしが虹です。神は虹の架け橋をかけて、もう水によっては、この地を滅ぼさないと約束されました。ですから、水によって滅ぼされることはありません。しかし、火によって滅ぼされます。今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

 

だから、あざける者どもはキリストの再臨はないと言っていますが、あるのです。その日には火によってすべての悪がさばかれることになります。しかし、神を信じる者たちはさばかれません。なぜなら、キリストが代わりにさばかれ、私たちの悪を取り除いてくださったからです。キリストを信じる者はさばかれることはありません。むしろ、キリストの贖いによって罪が聖められたので、神がとともにいてくださるようになったのです。これこそ私たちの希望であり、慰めです。この希望があるからこそ、私たちはこの地上にさまざまな問題や苦しみがあっても、耐える力が与えられるのです。

 

Ⅲ.忍耐深くあられる神(8-9)

 

ですから、第三に、この一事を見落としてはいけません。この一事とは何でしょうか。8節と9節をご覧ください。8節には、「すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。

どういうことですか。皆さんは、子供の頃と今とでは時間的な感覚が全然違うように思いませんか。子供の頃は一年がとても長く感じられました。このままずっと子供のままでいるんじゃないかと錯覚を覚えたほどです。しかし、大人になると一日があっという間に終わってしまいます。ついこの前新年が始まったばかりかと思ったら、もう3月でよ。6分の1が終わったんですよ。早いと思いませんか。二十歳の頃は四十のじっさんになるにはまだまだだと思っていたのに、いつの間にか四十なんてとっくり通り過ぎ、人生の4分の3を終えようとしているのです。本当にあっという間です。

 

大人と子供の物事を見る感覚や時間の感覚が全く違うように、私たちと神様との時間の感覚は違います。私たちにとって千年は永遠であるかのような長さですが、神様にとっては一日のように過ぎ去ります。詩篇90篇4節には、「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」とあるとおりです。神にとって千年は夜回りのひとときにすきません。神は永遠ですから、時間的な枠がないのです。

 

いったいペテロはここで何を言いたいのでしょうか。そうです、キリストの再臨をあざ笑う者たちは、キリストは二千年も前から再び来ると言っているのに来たためしがないじゃないかと言っているが、私たちにとって千年のような時の長さも、神にとってはわずか一日のようでしかない、夜回りのひとときのようでしかないということです。つまり、神はある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないということです。また、そのことを忘れてしまったのでもありません。神様には神様の時があるのです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)とあるとおりです。

 

ではなぜ神はその約束を遅らせておられるのでしょうか?9節をご一緒にお読みしましょう。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

なるほど、主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないのです。主がその約束を遅らせているのは私たちのためなのです。つまり、神は私たち人間がひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるからなのです。そのために神は忍耐しておられるのです。

神はいつくしみ深く、あわれみ深い方、怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。(詩篇86:15)しかし、いつまでもというわけではありません。悪に対して正しいさばきを行われるときがやってきます。後ろの戸が閉じられる時が必ずやって来るのです。しかし、今は恵みの時、今は救いの日です。今はその戸が開かれています。神が忍耐して待っておられるからです。神は、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。一部の人だけではありません。すべての人です。すべての人が救われることを望んでおられるのです。すごいですね。神の愛と忍耐は・・。

 

エゼキエル書33章10~11節をご覧ください。

「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。』と。彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。これが神の願いです。イスラエルの人々の中には、自分たちの背きの罪によって潰されそうになっている人々がいました。もう自分は滅びるしかないのだ、と絶望していました。そんな彼らに対して主は、「なぜ絶望しているのか。わたしは決して悪者の死を喜ばない」と言われました。かえって、悔い改めて、生きることを喜ぶと、言われるのです。だから、悔い改めて、悪の道から立ち返りなさい。イスラエルの家よ、なぜあなたがたは死のうとするのか。神が願っておられることは生きることです。悔い改めて、神に立ち返ることなのです。

 

そのために神は愛するひとり子をこの世に与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神はあなたを愛しておられます。と同時に、神は義なる方でもあられます。罪に対してはさばきを下さなければなりません。神はその日を定めておられます。それが終わりの日です。主が再びこの地上に来られるときです。二千年前は私たちを救うために来てくださいましたが、再び来られる時は、この地上のすべての悪をさばくために来られます。その日がなぜ遅れているのでしょうか。それはあなたのためです。ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって忍耐深くあられるからであって、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからなのです。この方を救い主として信じる者は、だれでも救われるのです。

 

あなたはどうですか。この神の救いを受け取られたでしょうか。そのような確信を持っておられますか。もしまだという方がおられたら、どうぞしっかりと受け取ってください。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じてください。そうすれば、あなたのすべての罪は赦されます。人生の土台がぐらぐらと揺れ動いている方がおられますか。その方はどうぞ神のことばにしっかりと立ってください。もしあなたの感情に立つなら、すぐに平安が奪われることになるでしょう。しかし、神のことばはいつまでも変わることがありません。このみことばの上にあなたの人生の土台をしっかりと置いてください。そして、キリストの恵みの中にとどまり続けましょう。もうすぐ主が戻ってこられるからです。確かに、今は恵の時、今は救いの日なのです。