Ⅱペテロ2章10~22節 「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」

きょうは、第二ペテロ2章の後半部分からお話したいと思います。タイトルは、「豚は身を洗って、また泥の中にころがる」です。前回の箇所でペテロは、偽教師に気をつけなさいと警告しました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込みます。そして、多くの者が彼らの好色にならい、真理の道から離れるようにします。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもって多くの者を食い物にするのです。だから偽預言者には気をつけなければなりません。今日はその続きです。

 

2つの絵を比べて違いを探す間違いゲームがあります。ぱっと見た感じは同じでも、よく見ると色とか、向きとか、違いを発見することができます。同じように、偽教師たちはぱっと見た感じでは同じようでも、よく見ると違いがあることが分かります。何が違うのでしょうか。今日のところでペテロは、その違いを明らかにしています。

 

Ⅰ.理性のない動物と同じ(10-16)

 

まず10節から16節までのところに注目してください。10節には、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」とあります。

 

ペテロはここで、そうした偽教師たちの特徴として、彼らは大胆不敵で、尊大な者たちだと言っています。大胆不敵とは、敵を敵とも思わないということ、また、尊大な者とは、高ぶって偉そうにすること、傲慢な態度をとる人たちのことです。彼らは、大胆不敵で尊大な者たちです。また、栄誉ある人たちをそしって、恐れることがありません。この「栄誉ある人たち」とは、りっぱな人たちのことを指して言われているかのようですが、11節との関係で読むと、悪霊たちのことを指して言われていることがわかります。というのは、11節には「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしって訴えることはしません。」とあるからです。この「彼ら」とはだれのことかというと、悪霊のことです。

ユダの手紙1:9をご覧ください。ここには、「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことをせず、『主があなたを戒めてくださるように』と言いました。」とあります。

御使いのかしらミカエルは、人間よりも、悪魔よりもはるかに力のある存在なのに、そんな御使いでさえ悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をそしるようなことを言わず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」といっただけでした。それなのに、この偽教師たちは、天使のかしらミカエルさえもさばくことをしなかった悪魔たちをそしって、恐れることがなかったのです。実に大胆不敵です。尊大な者たちです。

 

12節と13節を見ると、ここには、彼らは理性のない動物と同じだと言われています。皆さん、人間と動物の違う点は何でしょうか。人間と動物の大きな違いは、人間には理性がありますが動物にはないという点です。動物は本能だけで生きています。ただ食べるためだけに生きているのです。私はよく、「あなたは何のために生きていますか」と尋ねることがありますが、意外と多くの人が、「はい、私は食うために生きています」と答えます。食うためだけに生きているとしたら、動物と同じなのです。人間はただ食うために生きているのではなく、これはどういうことなのかと考え、してもいいこと、してはいけないことをわきまえながら生きています。理性があるからです。その理性がなくなったら動物とあまり変わりません。私はよく家内から、「あなたは豚のように食べる」と言われます。何ですか、豚のように食べるとは・・・?とにかく美味しいものをみたら、それしか考えられないということでしょう。ろくに話もしないで食べることだけに集中します。それが豚のように見えるのでしょう。「もう少しゆっくり食べて」と言うのです。食べることしか考えられなければ、それは理性のない動物と同じです。まさにこの偽教師たちは、理性のない動物のようでした。その結果、動物が滅ぼされるように滅ぼされてしまうことになるのです。この滅びとは永遠の滅びのことです。

 

いったいなぜそのような滅びを身に招くようなことをしていたのでしょうか。その理由が13節にあります。

「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちからの飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。」

 

「不義」とは罪のこと、悪事のことです。彼らは自分のやった悪事の報いとして大きな損害を受けるのです。彼らはどんな悪事を働いていたのでしょうか?ここには昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えているとあります。別にお酒を飲むことが悪いのではありません。ここで問題にしているのは、昼のうちから飲み騒いでいたことです。昼のうちから飲み騒ぐというのは、それしか考えていないということだからです。普通お酒は夜飲むものでしょう。それなのに昼間から飲んでいました。その結果理性を失い、自分をコントロールすることができなくなっていたのです。エペソ5:18には、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」とあります。なぜ酒によってはいけないのでしょうか。そこには放蕩があるからです。酒を飲んで酔っ払い、自分の一生を棒に振ってしまったという話はあとを絶ちません。酒に飲まれるこで、そこにどれほどの弊害が生まれてくるかわかりません。そんなお酒を朝から飲んで騒いでいるとしたら、百害あって一利なしです。

 

しかし、彼らはただ昼間から飲み騒いでいただけではありませでした。何とそのお酒を教会にまで持ち込んで飲み騒いでいました。ここに、「あなたがたといっしょに宴会に連なるとき」とありますが、これは教会の愛餐会や食事会のことを指しています。というのは、この「あなたがた」とは、小アジア地方に散らされていたクリスチャンたちのこと、教会のことを指しているからです。教会の食事会までお酒を持ち込んで騒いでいるなんて考えられません。お酒を買いに教会の前のコンビニに来て救われたという方はおられますが、お酒をもって教会に来たという人は今まで見たことがありません。彼らにとってどこで飲むかも関係ありませんでした。何とも大胆不敵、神を恐れない、しみや傷のようなものたちでした。

 

それだけではありません。14節をご覧ください。ここには、「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」とあります。

彼らの罪の大きさは、自分自身がそのような悪を行っていたというだけでなく、心の定まらない者たちを誘惑し、滅びをもたらしていた点です。心の定まらない人というのは信仰が不安定な人たちのことです。いつもあっちに行ったり、こっちに行ったりしてフラフラしています。神の言葉ではなく人の言葉に左右され、いやしや奇跡といった現象に振り回されているのです。そういう人がターゲットにされます。彼らの心は欲に目がありません。彼らはのろいの子なのです。

 

「のろいの子」とはかなり厳しいことばです。いったいどうしてペテロはここまで言い切っているのでしょうか。それは、彼らがそのような不義を行って自分たちに滅びを招いていただけでなく、純粋な信仰を持っていた他の人々をも誘惑して滅びに導いていたからです。ペテロがこれほどまで強い言葉で非難しているのはそのためです。子どもが危険に遭っているのを見て黙っている親はいません。同じようにペテロは霊的な親として、こうした偽預言者によって滅びの道に巻き込まれないように彼らを責め、その違いを明らかにしているのです。

 

15節をご覧ください。彼らは正しい道を捨ててさまよっています。正しい道とは真理の道、イエス・キリストを信じる信仰の道です。その道を捨ててさまよっていました。ちょうど不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。皆さんは、バラムのことをご存知でしょうか。バラムについては、民数記22章から25章までのところに詳しく記されてありますので、後で読んでいただきたいと思いますが、簡単に言うと、彼はモアブの王バラクにイスラエルを呪うようにと雇われたのに祝福してしまった預言者です。これだけ聞いたら、「なんだ、いい預言者じゃないか」と思われるかもしれませんが、ここに不義の報酬を愛したとあるように、陰では不義の報酬を愛するような貪欲な者でした。

彼がイスラエルを祝福したのは、神によって自分の罪がとがめられたからです。つまり、ものをいうことのないろばが、人間の声でものを言ったことで、その狂った振る舞いがはばまれたからです。それで彼はイスラエルをのろうことをせず、逆に祝福したのです。

 

ここまでは良かったのです。しかし、その後が悪かった。彼は不義の報酬を愛しました。自分の国に帰って行くふりをして、実はあのバラク王のところに戻って来てこう言いました。

「私はイスラエルを呪うことはできないけれども、神が彼らを呪う方法を知っています。もし聞きたいなら、あの報酬を私にください。そうすれば教えてあげますよ。」

それでバラクがお金を差し出すと、バラムは教えました。「イスラエルの男たちのところに神を信じない異邦人の女たちを送り込み、彼らを誘惑するんですよ。そうすればあの女たちが拝んでいる神を拝むようになるでしょう。そうすれば、神がお怒りになって、彼らを呪うことになります。」

それで、バラクは、シティムにとどまっていたイスラエル人のところにモアブの女たちを送ると、案の定、バラムの言ったとおり、イスラエル人はモアブの女たちとみだらなことをして、彼女たちが拝んでいたバアル・ペオルを拝むようになりました。それで神は怒られ、その日、二万四千人が神罰で死んだのです。

 

つまり、バラムは表面では真面目な預言者を装いながら、陰では不義の報酬を愛したのです。彼は正しい道を捨ててさまよいました。お金のためにイスラエルをそそのかし、堕落させて、神の道から遠ざけたのです。それと同じように、ここに出てくる偽教師たちも、バラムのやり方に従い正しい道を捨ててさまよっていました。彼らはお金のために自分自身がさまよっただけでなく、人々を惑わせ、そそのかして、神の愛から引き離そうとしていたのです。

 

なぜ偽教師に注意しなければならないのでしょうか。それは彼らだけでなく、純粋な神の民をも惑わし、彼らを滅びに導くからです。だから偽教師たちには気を付けなければなりません。私たちはこの違いを見て、彼らのだましごとにかからないように十分気をつけなければなりません。

 

Ⅱ.罪の奴隷(17-19)

 

次に17節から19節までをご覧ください。いったいなぜ彼らはそのような不義を行うのでしょうか。その理由がここに記されてあります。それはもともと罪の奴隷だからです。

「この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」

 

「この人たち」とは、偽教師たちのことです。彼らは、水のない泉であり、突風に吹き払われる霧です。どういうことですか?水のない泉とか、突風に吹き払われる霧とは。水は私たちのいのちに欠かせないものです。泉があるのにその水がないというのは、ただの見せかけにすぎないということです。また彼らは、突風に吹き払われる霧です。突風が吹くとすぐに霧が晴れてしまいます。つまり、そこには何の実態もないということです。彼らはあるかのように見せかけるだけで、何も与えることができません。一時的に人々を興奮させることはできるかもしれませんが、渇いた心を満たすことは決してできないのです。私たちの渇いた心を満たすことができるのは、イエス・キリストだけです。イエス様はこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)

イエス・キリストは、あなたに生ける水を与えることができます。だれでも、イエス様のもとに行くなら、その人の心の奥底から流れる生ける水が流れ出るようになります。しかし、彼らにはできません。彼らは水のない泉、突風に吹き払われる霧にすぎないからです。

 

18節には、「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、」とあります。

「大言壮語」とは、自分の力以上のことを言って人々をそそのかすことです。大きなことを言います。夢を語って期待を持たせ、誤った生き方をするだけでなく、そこからのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑するのです。それはちょうど肉欲と好色というえさをひっかけて魚を釣るようなものです。「あなたのやりたいことをしなさい。神が祝福してくださいます。」

何とも聞こえがいいですね。あなたのやりたいようにしなさい。とても魅力的な言葉ですが、もしこの言葉に従って生きたら、破滅の人生を送ることになります。というのは、罪からくる報酬は死だからです。私たちが本当に人間らしく生きることができるのは、私たちの人生を、私たちを造られた神によってしっかりと握りしめられることによってです。ちょうど人の手にしっかりと握られた凧が空高く飛ぶように、神の手にしっかり握られてこそ、本当に自由に飛ぶことができるのです。その糸が切れてしまったら、どこへ飛んで行ってしまうかわかりません。

 

それなのに彼らは、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷となっていました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはその征服者、肉欲と好色の奴隷、罪の奴隷だったからです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となります。しかし、神に征服されれば、神の奴隷となり、主イエスにある永遠のいのちに至ります。

 

このことをパウロはローマ6:20~23でこのように言っています。

「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行きつく所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行きつく所は永遠のいのちです。罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」

 

あなたはどちらの奴隷ですか。罪の奴隷ですか、それとも神の奴隷ですか。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となります。罪に征服されるなら罪の奴隷に、神に征服されるなら神の奴隷になります。そして、その行き着く所は全く違います。罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。どうか彼らの甘い罠にひっかからないようにしてください。彼らはあなたの肉欲と好色を利用して、自由を約束するかもしれませんが、その行き着くところは永遠の滅びなのです。イエス・キリストによって罪から解放された者として、いつも神に支配されて歩みましょう。

 

Ⅲ.終わりの状態(20-22)

 

最後に20節から22節までを見て終わりたいと思います。ここまでは偽教師の終わりの状態が描かれています。

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」

 

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」とは、イエス様を信じたことによって罪から救われたということです。イエス様を信じて罪から救われた後で、再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなる、と言われています。ここは非常に難解な箇所です。というのは、一度救われた人でもその救いを失うことがあるかのように書かれてあるからです。しかも、そのような人たちの状態は、初めの状態よりももっと悪いものになるというのです。イエス様を信じて救われた人が、その救いを失うということがあるのでしょうか?ありません。なぜなら、イエス様はヨハネ10章28節で次のように約束しておられるからです。

「私は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはありません。」

また、使徒ヨハネはこう言っています。

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)

 

ですから、イエス・キリストを信じて救われた人がその救いを失うことは絶対にありません。悪魔の誘惑によって罪の影響を受けることはありますが、その救いを失うことはないのです。では、ここに「イエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて制服されるなら」とはどういうことでしょうか。

 

これは、イエス・キリストを信じているようであっても、ほんとうに信じていなければ、という意味です。ほんとうに信じたのであれば、だれも主イエスの手から私たちを奪い去ることはできません。でもそうでなければ、このようなことが起こってくるのです。ではほんとうに信じるとはどういうことでしょうか?みんなイエス様を信じているんじゃないですか。確かに口では信じるといいました。でも心から信じるというのは口で告白する以上のことです。つまり、本当に信じるというのは、イエス様を自分の人生の主とすることです。イエス様と人格的な関係を持っているかどうかということなのです。イエス様を信じますといくら口で告白しても、そのイエス様に従うのではなければ、あるいは、従いたいと願っていなければ、それはイエス様を主とするということではないのです。その人にとって信じているのは自分自身であって、イエス様ではないのです。しかし、イエス様を信じるというのは、自分ではなくイエス様に従うことです。神を愛するとは、神の命令を守ることだからです。ですから、外側では信じているように見えても、内側はその限りではないというケースが起こってくるのです。イエス様を主としていなければ、結局のところ自分の欲に従うことになり、信仰から離れてしまうことになりかねません。そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなるのです。そのような人は最初から救われていなかったのです。救われていなければ神を愛することはできません。神を愛する人は神の命令を守ります。完全に守れる人などいませんが、少なくともそうしたいという願いはあるはずです。完全な人はいませんが、失敗しても悔い改めて、主に立ち返り、もう一度主に従いたいと思うようになるのです。

 

その良い例がペテロです。彼はイエス様を裏切るという大罪を犯しました。鶏が鳴く前に三度、イエスを知らないと否定したのです。でも、彼は悔い改めました。自分の弱さを知り、自分の力ではどうすることもではないことを悟り、完全に砕かれて、主の御前に悔い改めたのです。そして、彼は立ち直って、最後まで主に従いました。彼はイエス様を否定し、失敗もおかしましたが、でも、イエス様に従いたいと願っていたのです。イエス様を信じていたからです。

 

一方、イスカリオテのユダは違います。彼もペテロのようにイエス様を裏切りました。銀貨30枚でイエス様を売り渡してしまいました。しかし、悔い改めることをしなかったので、彼は結局、首をつって死んでしまいました。なぜ悔い改めなかったのでしょうか。彼はイエス様を信じていなかったからです。

 

ペテロもユダも同じように罪を犯しました。立ち直れないような罪を犯しましたが、ペテロは赦され、ユダは赦されませんでした。その違いはイエス様を本当に信じていたかどうかという点です。本当に信じている人は悔い改めて、イエス様に立ち返ります。どんなに罪を犯しても主に立ち返り、悔い改めて、もう一度やり直します。それは外側から見た目ではわかりません。また、今の状態で判断することもできません。それはただイエス様だけが知っておられることです。ただ一つだけはっきりしていることは、本当に信じている人はどんなことがあっても主から離れることなく、主の命令に従うということです。しかし、そうでない人は、義の道を知っていてもそれに従いません。なぜなら、元々汚れているからです。そのような人は、22節にあるように、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざのとおりです。

 

「犬は自分の吐いた物に戻る」とは、箴言26:11からの引用です。これは自分の愚かさを繰り返すという意味です。また、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とは一般に知られていたことわざでした。当時、犬と豚は汚れた動物として知られていました。犬は吐いた物や汚い物を食べました。また、豚はどんなにきれいに身体を洗っても、またすぐにどろの中にころがってしまいます。偽預言者は犬であり、豚です。彼らは汚れたことを繰り返していました。なぜでしょうか?それは、彼らの内側が汚れていたからです。元々汚れていたので汚れたことを繰り返すのです。ですからどんなに外側をきれいにしても、すぐにまたどろの中に戻ってしまいます。彼らはのろいの子であり、滅びの子です。イエス様を信じていなかったからです。イエス様信じて罪赦された人には、神の子どもとしての特権が与えられます。神の子であれば、神の子にふさわしくなっていきます。以前はどろの中にいましたが、そのどろが洗われて少しずつ聖くされていくのです。

 

あの放蕩息子はそうです。彼は泥沼の中にいました。放蕩して湯水のように財産を使い果たしてしまい、食べるにも困り果て、豚の食べるいなごまめで腹を満たしたいと思うほどでした。しかし、はっと我に返って時、彼は父のことを思い出しました。そして、父の元に帰る決心しました。すると、父親は彼を見つけ、かわいそうに思って、走り寄り、彼を抱き、口づけしました。そして、一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせてこう言いました。「食べて祝おうじゃないか。この息子は死んでいたのが生き返ったのだから。」死んでいたのが生き返りました。以前は泥の中で死んでいたのに、その泥が洗われて新しくなりました。神の子として新しく生まれ変わったのです。

 

しかし、この偽教師たちは、犬や豚のようでした。いつも自分が吐いた物に戻りました。どんなに外側を洗ってもすぐにまた泥の中にころがりました。なぜでしょうか。内側が聖められていなかったからです。彼らは最初からそうでした。そして歩いことに、純粋にイエス様を信じて歩んでいる人たちさえも惑わし、その中に引きずり込もうとしていたのです。

 

だからペテロは、そのような偽教師たちには気をつけていなさいと、厳しく警告したのです。世の終わりが近くなると、そうした偽教師がはびこるようになります。今はそういう時代です。いかにも正しい教えであるかのように装いながらも、真理にそむくようなことを教えて、人々を滅びに導くようなことをしています。私たちもそうした異端に惑わされることがないように注意しましょう。彼らはひそかに滅びをもたらします。まさかという方法で持ち込むのです。あの有名な牧師が言っているのだから間違いがないとか、あの本に書かれていたから間違いないとか、全く吟味しないで信じてしまうのです。危ないです。私たちが惑わされためには神の御言葉にしっかり立たなければなりません。神の御言葉は人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものだからです。それはイエス様が再び来られるまで、私たちの足元を照らすともしびです。これに目を留めているとよいのです。絶えず神の言葉に目を留めて、ウォーリーを探せではありませんが、聖書の教えと違う偽教師たちの教えを見分け、神の真理に堅く立ち続ける者でありたいと思います。