ヨハネの福音書2章12~25節「主に信頼される者に」

きょうは、ヨハネの福音書2章12節から25節までにある「宮きよめ」の出来事から「主に信頼されるに」というタイトルでお話しします。

 

皆さんは、イエス様に対してどのようなイメージを持っておられるでしょうか。子どもたちを抱いて優しくお話しされる姿ですか。それとも病人の手を取っていやされるあわれみ深いイエス様のお姿でしょうか。あるいは、弟子たちとガリラヤ湖を舟で渡られたときに嵐を静めたような、力強いお姿ですか。

聖書を見るとイエス様のいろいろなお姿が出てきますが、きょうの箇所には普通とはちょっと違うイエス様の姿が描かれています。それは憤られるイエス様です。勿論、その怒りや憤りは私たちのように利己的な動機によるものとは違い、天地万物を造られた創造主としての、何が正しくて、何が間違っているのかを示す、正しい憤り、怒りです。

 

きょうは、この箇所からイエス様に喜ばれる者とはどのような者かについて学びたいと思います。

 

 

Ⅰ.神の家を商売の家にしてはならない(12-17)

 

まず12節から17節までをご覧ください。

「その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。

さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、

細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」

 

「その後」とは、イエス様がガリラヤのカナでご自分の栄光を現された後で、ということです。イエス様は母マリヤ、そしてイエス様の弟子たちはともに婚礼に招かれましたが、婚礼の宴会でぶどう酒がなくなったときユダヤ人のきよめのしきたりによってそこに置いてあった水がめに水を満たし、それをぶどう酒に変えられました。それがイエス様の最初のしるしでした。「その後」のことす。

その後イエス様は、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではありませんでしたが、そこに滞在されました。

 

そして、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づいたので、イエス様はエルサレムに上られました。イエス様の公の生涯、公生涯においては、過越の祭りが4回ありましたが、13節の過越しの祭りはその最初のものです。イエス様の公生涯を3年半と計算する理由は、その間に4回の過越しの祭りがあったからです。 イエス様は、最初の過越の祭り約半年前にバプテスマを受けておられます。

 

「過越の祭り」とは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷として捕らえられていたとき、神はモーセを通してそこから解放してくださいましたが、そのことをお祝いする祭りです。そのとき、神はモーセを通して「わたしの民を行かせなさい」とエジプトの王パロに言いましたが、パロは頑なでなかなか行かせなかったので、エジプトに十の災いを送られました。その最後の災いは、エジプト中の初子という初子を皆滅ぼすというものでした。ただ、神が命じるとおりに羊の血を取りそれを家の門柱とかもいに塗った家だけは、災いを通り越すというのです。

それでイスラエル人はみな神が命じられたとおりに羊をほふって血を取り、その血を自分たちの家の門柱とかもいに塗ったので神のさばきが通り過ぎていきました。しかし、エジプトの王とその民はそれを拒んだので神のさばきが彼らに臨み、エジプト中の初子という初子は人から家畜に至るまですべて死んでしまいました。それでイスラエルの民は長い間、実に430年間もエジプトの奴隷として捕らえられていましたが、そこから奇跡的に解放されたのです。それはまさに一方的な神の御業によるものでした。それで神はこのことを忘れないようにと、これを過越しの祭りとして行うように命じられたのです。

これはユダヤ人にとって最大の祭りでした。モーセの律法によると、巡礼祭と呼ばれる祭り、つまりエルサレムに上って祝う祭りが三つありましたが、過越の祭りは、その最初のものでした。そこには離散したユダヤ人たちが、何万人、何十万人と集まっていたのです。

 

その過越の祭りが近づいたとき、イエスがエルサレムの宮の中へ入って行くと、そこに牛や羊や鳩を売っている者たちと、両替人が座っているのを見て、激怒されました。そして、細縄でむちを作り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒したのです。いったいなぜこんなことをしたのでしょうか。

 

そこにいた牛や羊や鳩は、犠牲として神にささげられる動物です。モーセの律法の規定によると、それらの動物は、傷もしみもないものでなければなれませんでした。自分で犠牲の動物を持って来ても良かったのですが、それは祭司によって吟味されなければならず、外部から持ち込まれた動物が検査に合格することはありませんでした。結局、巡礼者たちは、検査で「適格」の印のついた動物を、高い値段で買うしかなかったのです。

 

また、すべての男子が半シェケルの神殿税を治めることになっていましたが、ローマの貨幣はカイザルの肖像が刻まれていたため使用することができませんでした。そのため、人々は高い手数料を払って、ユダヤの貨幣に両替していたのです。

 

そうした腐敗した神殿の様子を目の当たりにして、主イエスは激怒されました。そして、商売人や両替商たちを神殿から追い出されたのです。しかも、細なわでむちを作り、商売用の台を倒して、それを実行されました。

 

それはイエスが神殿の所有者であること、つまり、ご自身がメシヤであることを主張するためでした。16節を見てください。イエスは、羊や牛を宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒すと、鳩を売っている者たちにこう言われました。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

 

どういうことでしょうか。神の家であるはずのエルサレムの神殿が商売の家となっている。そういうことがあってはならない、というのです。神のささげる動物を売る人たちや両替人たちが、そこで大儲けしていました。そしてその利益の一部がその神殿の業務を司っていた大祭司や宗教指導者たちのところに流れていました。そういうことがあってはならない、というのです。なぜなら、ここは「わたしの父の家」だからです。父の家であるということは、子であるイエスの家でもあります。そうです、この神の家であなたがたは何をしているのか、というのです。イエス様はそれをご自分の家であると言われたのです。つまり、イエス様はご自分がメシヤであることを示されたのです。

 

皆さん、神の家は本来何をするところなのでしょうか。そうです、神の家は本来神を礼拝するところです。心から神に礼拝がささげられるところであるはずなのです。それなのに、その大切なことをおろそかにされているとしたら、それは本末転倒です。神の家の主人公は神であり、また、キリストであるはずなのに、いつしかその神とキリストがどこかに追いやられてしまい、形式的な活動が繰り返されているだけだとしたら、それはもはや神の家とは言えないのです。彼らは形式的なささげものをすることで、神を礼拝しているつもりでした。決められた儀式さえ行っていれば、神様に喜ばれるはずだと思っていました。その結果、こうしたことが平気で行われていたのです。また、それを見ても誰も何とも思わなくなっていました。霊的に鈍感になっていたのです。

 

こうしたことは、私たちにもあるのではないでしょうか。ただ礼拝に出席していれば宗教的な務めを果たしていると思ったり、与えられた奉仕を行っていれば神に喜ばれるものと思っていることがあります。勿論、このようなことがどうでもいいというのではありませんが、そこに肝心の神が、キリストがどこかへ追いやられているとしたら、何の意味もないのです。

 

Ⅰサムエル記15章22節にはこうあります。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

また、同じⅠサムエル記16章7節には、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあります。

 

パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように勧めています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたにお勧めします。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

あなたがたのからだを、あなたがた自身を、神に喜ばれる、聖い生きた供え物としてささげること、これこそ神が喜ばれる礼拝であって、それ以外のことが、そのこと以上に大きくならないように絶えず吟味しなければなりません。

 

17節をご覧ください。ここには、「弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」とあります。弟子たちは、イエス様のあまりの激しい憤りに、旧約聖書の言葉を思い出しました。それは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」という言葉です。これは詩篇69篇9節の言葉ですが、リビングバイブルでは、「神の家を思う熱心が、わたしを焼き尽くす」と訳されています。イエス様はご自分を食い尽くすほどに、焼き尽くすほどに、神の家を思うことに命をかけておられたのです。

あなたはどうですか。イエス様のように神の家を思う熱心で焼き尽くされるほど、神の家を、神ご自身を求めておられるでしょうか。

 

ダビデは、敵にいのちを狙われる困難な状況の中で、このように告白しました。

「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

あなたが一つのことを主に願うとしたらいったい何を願うでしょうか?ダビデは、主の家に住むことを願いました。そこで主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすためです。それこそがすべての問題の根本的な解決だと知っていたからです。

 

私たちにはたくさんの願いがあります。しかしその中で、何を第一に願うかによって、私たちの生き方が決まってきます。確かに日ごとにたくさんの必要があります。しかし、その中にあっても主の家を熱心に思い、主の家に住むことを第一に求め、主に喜ばれる礼拝をささげる者でありたいと願います。

 

Ⅱ.本当の礼拝のために(18-22)

 

では、本当の礼拝をささげるためにはどうしたらいいのでしょうか?18節をご覧ください。

「すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」

神殿をビジネスの場としていた大祭司にとって、イエスの行為は到底容認できるものではありませんでした。そこで彼らは、「あなたがそのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」とイエスに問いました。このしるしとは、メシヤとしてのしるしです。前にお話ししたように、イエスが宮きよめをされたのは、ご自身がメシヤであることを宣言するためでした。そのメシヤのしるしを求めたのです。パウロは、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(Ⅰコリント1:22-23)と言っていますが、しるしを求めるのがユダヤ人の特徴なのです。

 

これに対してイエスはこう言われました。19節です。

「イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

どういうことでしょうか?これは復活の預言です。このあたりから、イエス様とユダヤ人の間に食い違いが生じてきます。彼らは、イエス様がご自分のからだについて言われたことを理解することができず、そこに建っていた神殿のことだと思い込み、こう言いました。20節です。

「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」

この神殿の改修工事はヘロデ大王によって始められ、その工事が46年目に入っていました。1882年にスペインのバルセロナに建築中のサグラダ・ファミリアは、着工から144年後の2026年に完成するということで話題になっていますが、このヘロデの神殿も着工から46年経ってもまだ完成していないという建物でした。エルサレムが滅びたのは紀元70年ですが、改修工事はその6年前の紀元64年まで続きました。その神殿を三日で建てるというのか、と言ったのです。

 

けれどもイエスが言われた神殿とはヘロデが建てた神殿のことではなく、ご自分のからだのことを指して言われたのでした。つまり、イエスは十字架にかけられて死なれますが、三日目によみがえられるということだったのです。

 

弟子たちも、この時点ではイエスが何を言っておられるのかさっぱりわかりませんでした。ですから、ヨハネは21、22節で開設の文章を入れて、説明を加えています。「しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」

イエスはすでにこの時点で、十字架と復活の預言をしておられたのですが、彼らには理解することができませんでした。

 

イエスの思いと、宗教指導者たちの思いは遠くかけ離れていました。また弟子たちも、イエスの心を理解することができませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちの信仰は、イエスの思いから遠く離れているということはないでしょうか。イエス様は確かに壊れた神殿を三日でお建てになりました。そして、イエス様は今も生きておられます。私たちもその生きておられるイエスに呼びかけ、宮きよめをしていただこうではありませんか。

 

しかし、このことと宮きよめとは、どのような関係があるのでしょうか。それは、イエス様が宮きよめをなさった本当の目的がここにあったということです。つまり、イエス様が宮きよめをなさったのは、ただ単に神の家を商売の家としてはならないということではなく、神殿の礼拝に関わる律法の規定を廃棄してそれに代わる新しい礼拝の秩序を確立するためだったということです。つまり、あのサマリヤの女に対して、「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時がきます。」(ヨハネ4:23)と言われたように、どのようにすれば霊とまことによる礼拝をささげることができるのかということを教えるためだったのです。そしてそれは神殿で動物のいけにえや献金をささげるといった形式的なことによってではなく、それはイエス・キリストが十字架上で死なれ、三日目によみがえられることによってもたらされるものなのです。

ですから、私たちは旧約時代のような動物の犠牲をささげることによってではなく、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる礼拝、本当の礼拝をささげることができるのです。

 

22節をご覧ください。ここには、弟子たちが「聖書とイエスが言われたことばを信じた。」とあります。ガリラヤのカナでイエス様が水をぶどう酒に変えた時は、「それで、弟子たちはイエスを信じた」ありました。弟子たちは既に信じていたんじゃないのですか?それなのに、「聖書とイエスのことばを信じた」というのはおかしいではないでしょうか。

この「聖書」とは、旧約聖書のことです。つまり、旧約聖書に書かれてある預言が成就したことを知ったということです。詩篇16篇10節には、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」とありますが、その預言が成就したことに気付いたのです。また、イエスが言われたことばとは、新約聖書のことと理解して良いでしょう。この時点ではまだ新約聖書は完成していませんでしたが、弟子たちは旧約聖書に書いてある預言が、イエス・キリストの十字架と復活によって成就したことを知って、イエスこそ救い主であると信じたということなのです。

 

皆さんは今、どのように礼拝をささげておられるでしょうか。あなたを霊とまことによる真の礼拝に導いてくださる方は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを通してなのです。このイエスを通して、私たちは心からの礼拝をささげていきましょう。あなたの思いとイエス様の思いが離れることがありませんように。いつもイエス様と共に歩み、イエス様に喜ばれる者となりましょう。それがイエスの心と一つにさせていただく鍵なのです。

 

Ⅲ.主に信頼される者に(23-25)

 

ところで、この宮きよめの話はこれで終わりではありません。その結果について聖書は興味深いことを記しています。23節から25節までをご覧ください。

「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」

 

イエス様が過越しの祭りの間、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じましたが、イエス様ご自身は、彼らに自分をお任せになりませんでした。この「お任せになる」と訳された言葉は、その前の節の「信じた」と訳されている言葉と同じ言葉です。つまり、「信じなかった」ということです。ですから、ここでは、確かに多くの人々がイエス様の行われたしるしを見て、イエス様を信じましたが、その一方で、イエス様はどうだったかというと、そうした彼らを信頼されなかったというのです。どうしてでしょうか。

 

その後のところに理由が記されてあります。それは、イエスがすべての人を知っておられたからです。それどころか、人の内にあるものを知っておられました。人が心の中でどんなことを考えているかを知っておられました。それゆえ、イエスは、その人が善人であるか悪人であるかを他人から教えてもらう必要はなかったのです。へブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」とあります。この「神のことば」をイエスに置か消えてみると、イエスがどのような方であるかがわかります。イエスは、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の思いやはかりごとを見分けることがおできになるのです。

 

この方の御前に、隠しおおせるものはありません。人はうわべを見ますが、主は心を見られるのです。つまりイエスは人間ではなく、全地全能の神であられるのです。確かに彼らはイエス様の奇跡を見て信じましたが、その信仰はまだ本物ではありませんでした。それはちょうど種まきのたとえの中で、種を蒔いた人の種が四種類の違ったところに落ちたようにです。それは道ばたであり、岩地であり、いばらであり、良い地です。

道ばたに落ちた種は、すぐに悪魔が来てその人の心に蒔かれた種を奪って行きました。岩地に落ちた種は、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れましたが、みことばのための困難や迫害に会うと、すぐに躓いてしまいました。いばらの中に蒔かれた種は、みことば聞いて信じ、順調に成長しましたが、この世の心遣いや富の惑わしがみことばをふさいでしまうので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。

 

これは、みことばの種が蒔かれるとき、四種類の人がいるということではありません。同じ人でも、ある時には、道ばたであったり、岩地であったり、いはらの中であったり、また良い地であったりすることがあるということです。しかし、そうした中にあっても、キリストのことばにとどまり、キリストとの交わりを持ち続けていくこ人は、多くの実を結ぶことができるようになります。それが主の弟子となるということです。

 

確かに、彼らはイエスを信じました。しかしその信仰というのは、まだ困難や迫害があると後戻りするような信仰だったのです。そのような人を信頼することができるでしょうか。私たちも、いざというとき、退いてしまうような友人がいるとしたら、そのような人に身を任せることはできないでしょう。それと同じです。しるしを見て信じることが悪いのではありません。病気が癒されたり、困難な問題が解決したという体験はすばらしいことです。しかし状況が悪くなると手のひらを返したかのように信仰から離れてしまうというのでは、ジェットコースターに乗っているかのように安定感がありません。そのような人に身を任せることはできません。

 

キリストとの出会いは大切です。けれども、その後ずっと、そのキリストに継続して従い続けることは、それと同じくらいに、否、ある面でそれにも増して大切なのです。私たちの信仰は信じて終わりというのではなく、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ者になるということ、つまり主の弟子になることが求められているのです。

 

いったいどうしたらそのような者になることができるのでしょうか。イエス様はご自分を信じたユダヤ人たちに、次のように言われました。

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

この言葉からわかることは、私たちがキリストの弟子になるためには、キリストを信じることから始まるのですが、それだけで終わらず、主のみことばにとどまり、主に堅く結びつき、主との交わりの中に生きることが大切です。

 

私たちもキリストのことばにとどまり、キリストとの交わりの中に生きることによってキリストの弟子とさせていただきましょう。そのような者こそ主がご自分をお任せになる人なのです。少なくても自分に関しては、全身全霊をもって主イエスに従う決心をしようではありませんか。