ヨハネの福音書3章31~36節「上から来られる方」

今日は、「上から来られる方」というタイトルでお話します。今、M兄とT姉のバプテスマ式を行いました。お二人は、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けらました。キリスト教の信仰では、この誰を信じるかというのがとても重要です。

 

宗教と呼ばれるものにはたくさんありますが、中には何を信じているのかがよくわからないものも少なくありません。何を信じているのかということよりも、とにかく信じることが重要だと、信じることだけを強調するものも多いのです。鰯の頭も信心から、というわけです。ひどい言い方をすれば、何を信じるかなんてどうでもいいのです。確かに信じる対象がどうであれ、熱心に手を合わせることで一時的な心の安らぎが与えられるかもしれませんが、それで問題が解決されるのかというとそうではありません。どんなに信じても、自分が信じている対象が本当に救ってくれる力を持っているものでなければ、何の意味もないのです。ですから、信仰において最も重要なことは、その信じている対象がどのような方であるかということです。

 

今読んでいただいた箇所には、私たちの信じている方、イエス・キリストがどのような方であるのかがよく教えられています。

 

Ⅰ.上から来られた方(31-33)

 

まず31節から33節までをご覧ください。

「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。」

 

27節から30節まではバプテスマのヨハネの言葉が記されてありますが、この箇所は、そのバプテスマのヨハネの言葉の続きなのか、この福音書を書いた使徒ヨハネの言葉なのかははっきりわかりません。バプテスマのヨハネの引用をここまでとしないで、36節の終わりまでとして訳すこともできるからです。しかし、36節の言葉を見ると、これは使徒ヨハネの言葉と考えるのが自然かと思います。なぜなら、3章18節にも、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」と語れているからです。どちらが語った言葉であるにせよ、大切なのはその内容です。

 

「上から来られた方」とは、イエス・キリストのことです。キリストはただの人ではなく、上から来られた方です。つまり、天から来られた方なのです。それに対して「地から出る者は地に属し、地のことを話します。」これはだれのことを言っているのかというと、私たち人間のことです。私たちは、地から出た者なので、地のことを話します。しかし、キリストは天から来られた方なので、天からの言葉を語られるのです。ご自分が天において見たことを、聞いたことを証しされるのです。

 

これは驚くべきことではないでしょうか。私たちはだれも天に行ったことがない

で、そこがどういうところなのかわかりませんが、この方はもとから天におられたので、天上のことがどうなっているのか、その現実を証しすることができるのです。

 

1975年に、レイモンド・ムーディという有名な内科医が、「死後の生」という本を書きました。彼は、死んでからまた生き返ったという100人の人々に会って、調査し、死後どういうことがあったのか、その体験をまとめました。

ある人は、「一人しか通ることのできないような、暗いトンネルを通った」とか、「すでに死んでいる、自分の身内や友人を含めた、いろいろな魂や、天使のような案内者に会った」とか、あるいは、「言葉に言い表すことができないような平安と喜びを体験した」と答えました。

 

しかし、実際のところは、それが本当に天国だったのかどうかわかりません。なぜなら、その人たちは死にかけたかもしれませんが、本当に死んだのかどうかさえわからないからです。つまり、天国に行ったのかどうかわからないのです。

 

しかし、キリストはもとから天におられたので、天上のことがどうなっているのか、はっきり伝えることができたのです。1章18節には、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とありますが、ひとり子の神であられるキリストが、神を説き明かされたのです。

 

しかしここにはもっと驚くべきことが記されてあります。それは、この方は自分が見たこと、聞いたことを証ししているのに、だれもそのあかしを受け入れないということです。それは、私たちの回りを見れば一目瞭然でしょう。私たちの回りに、どれだけの人がそのあかしを受け入れているでしょうか。本当に一握りの人しかいません。

 

日本では、クリスチャンは人口のおよそ1%であると言われていますが、実際にはそんなにいないでしょう。日本の人口はおよそ1億2645万人ですから、仮にその1%がクリスチャンだとすると、126万人となります。しかも、その半分がカトリックですから、プロテスタントは50~60万人くらいでしょう。その中で日曜日に教会に行っているのは24万人くらいだと言われていますから、仮に電車に200人乗っていれば、クリスチャンが1人いるかどうかです。M兄が通っている大学の学生数は約6,500人ですから、30人くらいいても不思議ではありませんが、そんなにいないでしょう。ここには3~4人だけです。だれもそのあかしを受け入れません。

 

でも、わずかでもそのあかしを受け入れる人がいます。そういう人はどういうことになるのかというと、33節にあるように、神が真実な方であると認める印を押した人です。ここには、「その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。」とあります。この32節と33節の言い方は、1章11~12節のみことばを思い出させます。「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」

 

私たちが犯しやすい過ちは、神がお語りになったことを受け入れようとしないことです。そればかりか、その上に立って判断しようとします。それは先生が生徒に教えようとしている時、その教えを受け入れないで、それを批判するようなものです。いや、それ以上でしょう。なぜなら、先生も人間である以上、間違えることもあって、時として先生以上に優秀な生徒がいるということもあるからです。しかし、神の場合はそのようなことは絶対にありません。それなのに、人間が神の上に立って、それが正しいか、間違っているのかを、判断しているとしたら、本末転倒もいいところで、そのような態度では、いつになっても神を理解できるはずがありません。被造物である人間にできることは、ただ神の証しを受け入れることしかないのです。なぜなら、この方はすべてのものの上におられる方だからです。すべてのものの上におられ、すべてを支配しておられる方の証しをそのまま受け入れること、それが信じるということにほかなりません。

 

クリスチャンとは、このイエスの証しを受け入れた者です。その人は、ただイエスのことばが真実であることを確認したというだけでなく、神は真実であるということを認める印を押しました。なぜなら、イエスを遣わされたのはその父なる神であられるからです。イエス様を信じても、その初めの頃は、神様が真実な方なのかどうかよく分からないこともあります。イエス様を信じたのに、どうして私の人生にこんなことが起こるのかということがありますと、神様なんていないんじゃないか、と思うこともあります。しかし、時が経てば経つほど、本当に神は真実なお方であるということが分かってくるものです。

 

先日、末期のすい臓がんで、ご自宅で療養されているYさんを尋ね、一緒に賛美戸祈りの時を持たせていただきました。今年の6月にご病気であることがわかった時には、夏を乗り越えられないのではないかと思いましたが、不思議な神の恵みによって、ずっと命が保たれているというだけでなく、平安の中に過ごしておられます。痛みがある時は鎮痛剤を飲む程度で、他に特別な治療はしておられません。

ローマ人への手紙8章28節の御言葉、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)を読んだ時、Y姉がこうおっしゃられました。「いや、クリスチャンになったばかりの頃は次から次に試練がやって来て、神様なんていないんじゃないかと思ったこともありましたが、しかしあれから25年、振り返ってみると、本当に神様に守られていたということがよくわかります。もっと早く信じればよかったと思います。ただこうして信仰によって救われた今、イエス様にいつも見守られて、平安が与えられていることを感謝しています。幸いなことに、死ぬことに恐れはないんです。死は終わりの始まりですから。」

本当にそうではないでしょうか。時が経てば経つほど、神がいかに真実な方であるかということが実感として分かってきます。その証しを受け入れた者は、この神が真実な方であるということを認めるだけでなく、その真実な神に励まされて生きる力が与えられるのです。

 

Ⅱ.キリストは神のことばを語られる(34-35)

 

次に、34節と35節をご覧ください。「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。」

 

「神が遣わした方は、神のことばを語られる」。これは、イエス・キリストのことです。キリストは神から遣わされた方なので、神のことばを語られます。なぜなら、「神が御霊を限りなくお与えになるから」です。新改訳聖書第三版には、「神が御霊を無限に与えられるからである。」とあります。

 

これはどういうことかと言うと、一般に預言者と呼ばれる人は神のことばを語りますが、どのようにして語るのかというと、神の御霊、聖霊に導かれてです。預言者は自分が語りたいことではなく、神が語るようにと導いてくださっていることを語るのです。しかし、私たちが神のことばを語るのと、キリストが語るのとでは少し違いがあります。確かに私たちも御霊に導かれて語っていますが、限界があるのです。そのために祈り、聖書をよく調べ、神が語っておられることはこういうことだと確信をもって語りますが、時々わからないということや、間違って理解することがあります。しかし、イエス様はそういうことがありません。イエス様は完全に神のことばを語ることができました。なぜなら、神が御霊を無限に与えられたからです。

 

これは、神のことばを語る私たちがいつも目指していることです。説教者(預言者)は、自分の思いや考えを語るのではなく、神から預かった言葉を、神からのことばとして語らなければならないということです。その神のことばこそ聖書です。キリストが地上におられた時は、キリストからじかに神のことばを聞くことができましたが、キリストが昇天して天に行かれた後は、神は私たち人間の救いに関する御心を、この聖書に啓示してくださいました。ですから、神の御心のすべては、この聖書の中に書かれてあるのです。聖書が神からの啓示であると言えるのは、これが神の御霊である聖霊によって書かれたものだからです。テモテ第二の手紙3章16節に、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」と書かれてあるとおりです。聖書こそ100%神の御霊によって書かれた書であり、キリストが地上におられた時に語られた時と同じ権威をもった神のことばにほかなりません。だから説教者は、この神のことばである聖書を語らなければならないのです。

 

しかし、それは説教者だけではありません。その説教を聞く人も同じで、それを説教者のことばとしてではなく、また人間のことばとしてではなく、神のことばとして聴かなければなりません。

 

私はこれまで毎週日曜日の礼拝で説教を語ってきました。神のあわれみによって35年間語らせていただいたので、礼拝説教だけで1820回語ってきたことになります。その他に祈祷会やさまざまな集会で語って来たことを合わせると相当数の説教を語って来たことになります。私はよくしゃべるので、中には私は口から生まれて来た人間だと思っている人もいますが、実はそうではなく、本当に口下手で、シャイで、できれば誰かの陰に隠れていたいタイプなのです。そんな私が語り続けることができたのは、それは私の中に語るものがあったからではなく、神が語るべきことばを与えてくださったからです。そうでなければ、そんなに語り続けることなんてできなかったでしょう。

 

でも、もっと驚くべきことは、そこにそれを聴いてくださる方がおられたということです。学校ならば卒業もありますが、教会には卒業がありません。何年も、何十年も、教会を移らない限り、ずっと同じ牧師からの説教を聴き続けなければならないのです。それも大変なことだとつくづく思います。語る方も大変ですが、聴く方はもっと大変です。「また同じことを言っている。前にも聞いたなぁ」と愚痴の一つが出ても不思議ではありません。それなのにずっと同じ牧師から聴き続けることができるのは、それを人間の言葉としてではなく、神からの言葉として聴いておられるからです。それが、人間の言葉であれば、聴き続けることなんてできないでしょう。そうです、私たちがいつも礼拝で耳を傾けている聖書は、人間から出た言葉ではなく、神から来た言葉なのです。説教者はただそれを取り次がせていただいているに過ぎません。ですから、いつまでも語り続けること、また聴き続けることが可能になってくるのです。

 

あなたは、神のことばである聖書のことばをどのように受け止めておられるでしょうか。聖書のことばを神のことばとして受け止め、そこに信頼をおいていますか。聖書のことばをそのように受け止めるなら、あなたの人生にもこの豊かな神の恵みが注がれるのです。

 

Ⅲ.永遠のいのちを持つ者(36)

 

最後に36節のことばを見て終わりたいと思います。この節は、これまで語ってきたことの結論です。「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている」御子イエスを信じる者には、今、この地上で生きている時点で、すでに永遠のいのちが与えられているのです。永遠のいのちは、死後に与えられるものだけではなく、信じた時から体験できる神との生きた交わりであり、神の臨在であるからです。

 

それはまた、この御子イエスを信じない者に対する霊的現実でもあります。ここには、「御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがとどまる。」とあります。それは死後のことだけでなく、今すでに始まっているのです。いくら神のことばを聞き、イエス・キリストの福音を聞いても、それに従う意志がない人には、永遠の祝福にあずかることがないというだけでなく、今も神の怒りがその上にとどまっているのです。神との生ける交わりがありません。人のからだも血管が詰まると重大な病気を引き起こすように、神との交わりが断たれると、そこに神のいのちが流れることはありません。霊的に死んでいるのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、その死の原因である罪を取り除くために、御子イエスを遣わしてくださいました。この方を信じる者はひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つのです。

 

あなたは、この永遠のいのちを持っておられますか。それとも、まだ神の怒りがとどまっているでしょうか。T姉とM兄は、御子イエスを信じて永遠のいのちを持つことができました。その答えを御子イエスに見出したのです。あなたも御子イエスを信じてください。信じて、この方の中にしっかりととどまってください。それが、神が御子をこの世に遣わされた目的だったのです。