ヨハネの福音書5章19~29節「神と等しい方」

ヨハネの福音書5章から学んでおります。きょうは、イエスは神と等しい方であるということをお話しします。前回のところには、ベテスダと呼ばれる池の回りで38年も病気で横になっていた人を、イエスがいやされたことを学びました。しかし、その日が安息日であったことから、ユダヤ人たちは、「床を取り上げて歩け」と言ったのは誰かを問題にしました。そして、それがイエスであるとわかると、彼らはイエスを迫害し始めるようになりました。

すると、イエスは彼らに言われました。17節です。「私の父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(4:17) 彼らはこの言葉を聞くとますます怒り、イエスを殺そうとするようになりました。なぜなら、イエスが安息日を破っただけでなく、ご自分を神と等しくされたからです。

このことは、とても重要なことです。つまり、イエスはどのような方であるかということです。そして、ここにははっきりと、イエスは神と等しい方であるということが記されてあります。きょうはその理由を、イエス様ご自身の言葉から三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.父なる神がなさることを同様に行われた方(19-23)

 

まず、19節から23節までをご覧ください。

「イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」

 

なぜイエスは神と等しい方であると言えるのでしょうか。その第一の理由は、イエスは父なる神がなさることと同様のことを行われる方であられるからです。19節、ここでイエス様は、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」と言っておられます。これはどういうことかというと、ご自分が神と等しい者であるということです。

 

ここで注目したいことは、イエス様がご自分のことを「子」であると言っておられることです。「子」であれば当然「父」がいるわけで、その「父」とはだれかというと「神」です。イエス様はご自分と神との関係を、父と子との関係で語られたのです。これは極めて重要なことです。なぜなら、イエスが父なる神と親密な関係であることを示しているからです。ただ親密であるというだけではありません。イエスは子なる神として、父なる神がなさる通りのことを行われるということです。それは、ちょうど子どもが親のまねをするようなものです。子どもが親のまねをして親が行うことを何でもしようとするように、子なる神も父なる神がなされるのを見て、それと同じ様になさるのです。いや、それ以外のことは、何もなさいません。すべて父がなさることを、同様に行うのです。ただ人間の子どもと違う点は、人間の子どもであれば親のまねをしようとしてもできないこともありますが、子なる神は、父なる神がなさることと、同様に行うことができるという点です。

 

なぜイエスは、父なる神が行われることだけを行われるのでしょうか。その理由が20節にあります。「それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。」どういうことでしょうか?この「父が子を愛し」の「愛」ですが、これは神の愛ですから当然「アガペー」の愛が使われているかと思いきや、そうではなく、「フィレオー」という言葉が使われています。これは、これは心情的な愛を表しています。「好き」とか、「いとしい」、「かわいい」などの気持ちが伴う愛です。自分にとって大切なものを愛し、いとおしむ愛のことです。これは、親子の間や、夫婦の愛、兄弟愛、師弟愛、恋愛、友情などに見られるような心情的な愛です。しかし、神の愛は好き嫌いの感情をも超えた愛です。相手が好きであろうと、嫌いであろうと、その人を愛します。その人に対して最善となるものは何であるかを考え、相手が誰であろうと善を行なうのです。この愛は、敵をも愛する愛です。これが「アガペー」の愛です。この愛が使われるのが自然だと思うのですが、そうではなく「フィレオー」の愛が使われているのです。いったいどうしなのか?

 

それは、親子の間に親密な関係が成り立つためには、この愛が必要であるということです。相手を愛おしむような温かさがなければ互いに親密になることはできません。それは親子の関係だけでなく、すべての関係において言えることです。「ラポール」という言葉があります。「心が通い合っている」「どんなことでも打明けられる」「言ったことが十分に理解される」と感じられる関係のことです。そこに信頼関係が築かれて行く。このような関係が必要であるということです。父なる神と子なる神との間にはこうした関係がありました。ですから、ご自分がすることをすべて、子にお示しになることができたのです。

 

そればかりではありません。ここには、「これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」とあります。「これよりも大きなわざ」とは何でしょうか。それは21節にある内容です。すなわち、「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」ということです。これはどういうことかというと、22節にあるように、すべての人をさばく権威をキリストにゆだねられたということです。いのちを与えることとさばくことは、何よりも神のみわざです。旧約聖書には、神が最終的な裁き主であるとされています。そのさばきが、ここではキリストにゆだねられているのです。つまり、キリストこそ裁き主であり、神ご自身であられるということです。

 

これは驚くべきことではないでしょうか。イエス様はこの世界の創造主であられるというだけでなく、私たちのいのちを支配しておられる方であり、私たちを正しくさばかれる方です。いのちを与えたい者には与え、そうでない者には取られる権威を持っておられる。それは単にこの肉体のいのちだけでなく、霊のいのち、永遠のいのちにおいても言えることです。

 

このことからどんなことが言えるでしょうか。23節をご覧ください。ここには、「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」とあります。イエス様こそ神として敬われるべき方であるということです。ただ偉大な人間として敬われるというだけでなく、神として認められ、敬われるべきお方なのです。

 

この点で、ユダヤ人たちは大きな過ちを犯していました。彼らは、イエス様がご自分を神と等しくされたと殺そうとしましたが、それこそ大きな過ちでした。イエス様は神と等しい方であり、神として敬われるべき方です。それを人間のレベルまで引き下げることがあるとしたら、それこそ神を冒涜することになからです。

 

あなたはどうでしょうか。このユダヤ人たちのように、イエス様を偉大な人物の一人ぐらいにしか考えていないということはないでしょうか。神を恐れかしこむのと同じ心で、イエス様を恐れかしこんでいるでしょうか。イエス様がこのようにはっきりとご自分を父なる神と等しい方であることを語られたのは、私たちが驚くためであり、また、すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためです。このことばを受け入れ、イエス様を神として受け入れ、敬う者となりましょう。

 

Ⅱ.永遠のいのちを与えることができる方(24)

 

イエスはどうして神と等しい方であると言えるのでしょうか。その第二の理由は、イエス様は、永遠のいのちを与えることができる方であられるからです。24節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

ここにも、「まことに、まことに」とあります。これは「本当にその通りです」という意味です。これが

真実であるということを強調しているのです。では、何が真実なのでしょうか。キリストのことばを聞いて、キリストを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持つということです。これはすばらしい約束です。皆さんで声に出してもう一度読んでみましょう。

 

まことに、イエス様は永遠のいのちを与えることができる方なのです。この世界を造られ、この世界を支配しておられる方は、同時にこの世界をさばく権威を持っておられます。この方を、この世に救い主としてお遣わしになられた方を信じる人は、だれでも永遠のいのちが与えられ、さばきに会うことがなく、死からいのちに移されるのです。ここでは、「死からいのちに移っています」と現在形で書かれています。今、現に移っているのです。いつか移ります、きっとそうです、たぶんそうです、ではなく、移っているのです。「死からいのちに移っているのです」

 

この「死」とは、霊的死のことを指しています。霊的に死んでいるとはどういうことでしょうか。パウロは、このことをエペソ2章1~3節で、次のように言っています。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

ここでパウロは、あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた者であった、と言っています。罪とは何でしょうか。罪とは、原語のギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、「的はずれ」を意味しています。的を外している状態のことです。人は本来、神によって造られ、神の栄光と神の喜びのために造られたわけですから、この神を信じて生きるはずなのに、その的から外れてしまいました。それが罪です。罪とは何か悪いことをすることではなく、それも罪ですが、神から離れている状態のことを指しています。その結果、人は悪いことをするのです。つまり、罪とは神を信じないことです。その結果、人はどのようになってしまったのでしょうか。

 

パウロはここで、「あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた」と言っています。そして、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。その特徴は何かというと、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らであったということです。どういうことかというと、自分でやっていることがわからないということです。自分がしたい善を行わないで、したくない悪を行ってしまうからです。

 

実は、これが私たちにとって一番大きな悩みです。善いことをしたいと思っているのに、したくない悪を行ってしまいます。その弱さのために悩むのです。中には、そんなことを悩んでも悩むだけ無駄なんだから悩むのをやめよう、と思っている人もいるでしょう。しかし、いくら打ち消そうとしてみたところで、私たちの良心の呵責を完全に否定することはできません。

 

しかし、ここに希望があります。イエス様はこう言われました。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。」この方を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ちます。そして、さばきに会うことがなく、その瞬間から、死からいのちに移されるのです。なぜなら、キリストは私たちを罪から完全に救うことができるからです。そうです、キリストは救い主であられるのです。

 

この「救い主」というのは、へブル語で「メシヤ」と言いますが、これは神ご自身を表すことばでした。ですから、あのサマリヤの女が、「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」(4:25)と言った時、イエス様が「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)と言われた言葉は、ものすごいことなのです。なぜなら、それはイエス様がご自分を神であると宣言されたということだからです。これまでに歴史上には多くの偉人と言われる人が現れては消えて行きましたが、「わたしがそれです」と言うことができた人は一人もいませんでした。もしそのように言う人がいたとしたら、その人は全くのペテン師か、頭がおかしい人だと言えるでしょう。そのように言うことができる人などいないからです。しかし、イエス様はそのように言うことができました。なぜなら、イエス様は本当に救い主、メシヤであられたからです。

 

あなたは、この方をメシヤ、救い主として信じ、受け入れておられるでしょうか。この方を通してこの方を遣わされた方を信じておられるでしょうか。この方のことばを聞いて、この方を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移るのです。

 

Ⅲ.死人をよみがえらせることができる方(25-29)

 

なぜイエスは神と等しい方だと言えるのでしょうか。その第三の理由は、イエス様は死者をよみがえらせることができる方だからです。25節から29節までをご覧ください。25節と26節をお読みします。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」

 

ここにも、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」という言葉があります。「本当にその通りです」、「これは真実です」。何が真実なのでしょうか。それは、「死人が神の子の声を聞く時が来る」ということです。この「死人」とは、「霊的に死んだ人たち」のことです。具体的には「罪人」のことを指しています。霊的に死んでいる人たちがキリストのことばを聞く時が来ます。それを聞く者は生きるのです。霊的に死んだ状態からただちに救い出され、永遠のいのちが与えられるのです。そして、真に生きる者とされます。それはいつですか?今でしょ。今がその時です。なぜなら、その神の子であられるキリストが来られたからです。

 

私たちに必要なのは、この神の子の声を聞くことです。私たちは日々、いろいろなことで悩み、苦しみ、まさに死んだ人のようになっていますが、この神の御声を聞く時、たましいが生き返り、力強く歩み始めることができるようになります。

 

詩篇19篇7~8節には、「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。」とあります。

主のみことばは 私たちを生かし、私たちを導き 私たちを照らします。主のみことばは力があります。私たちを励まし、私たちを満たすのです。それは、私たちが日々聖書のみことばを読む時、また礼拝や祈祷会での聖書のメッセージを聞く時、キリストが聖霊を通して神の声を私たちの心に語ってくださるからです。その神の子の声を信仰を持って聞く者は生きるのです。

 

それは、26節にあるように、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、いのちを持つようにしてくださったからです。私たちには自分のうちにはいのちがありません。いのちを持っていないのです。ではどこにいのちがあるのですか?ここにあります。神の御子のうちにあるのです。ですから、この御子から離れては、私たちにいのちはありません。それはちょうどぶどうの木のたとえにあるとおりです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

イエス様は根を張った一本の木のように、いのちを持っておられます。私たちはその枝にすぎません。ですから、キリストに結びついていない限り、いのちを持つことはできないのです。イエス様の御声を聞き、イエス様を信じるなら、イエス様に結びつけられ、いのちを持つことができるのです。

 

27~30節をご覧ください。ここには、「また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」とあります。

 

この「さばき」とは最後のさばきのことです。そのさばきを行う権威を子に与えてくださいました。イエス様はさばき主であられます。どのようにさばかれるのでしょうか。28節、「このことに驚いてはいけません。墓の中にいる者がみな、キリストの声を聞く時が来るのです。」

これは、キリストの再臨のことです。キリストが再臨される時、墓の中にいる者がみな、子の声、キリストの声を聞きます。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」これはどういうことかというと、そのとき、二種類の「よみがえり」が起こるということです。第一のよみがえりは、善を行った者のよみがえりです。善を行った者とは何か一生懸命にボランティアをしたとか、慈善事業をした人のことでなく、神の御子を信じた人のことです。その人はよみがえって永遠のいのちを受けるために出てきます。この「よみがえって」とは御霊のからだによみがえってという意味です。

 

人は死んだら終わりなのではありません。人は死ぬと、肉体から霊が離れ、肉体は地の塵に帰りますが、霊はそのまま存在し続けます。そして、キリストを信じた者の霊は、パラダイスに行き、そこでキリストと共にいて、体が復活するのを待つのです。そしてキリストが再臨する時、霊のからだが与えられ、霊のからだに復活し、永遠に天国で神の祝福のうちに生きるようになるのです。これが私たちの希望です。何が私たちの希望かって、これです。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

このように、私たちは死んで終わりではありません。死んでも生きるのです。

 

しかしここに、もう一つのよみがえりがあることが書かれてあります。それは、悪を行った者のよみがえりです。悪を行った者というのも何か悪いことをした人ということではなく、神の御子を信じなかった人ということです。その人たちはどのようになるのかというと、驚くなかれ、何とそのような人たちもよみがえるのです。しかし、何のためによみがえるのかが問題です。ここには、「悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」とあります。このさばきとはどのようなものなのでしょうか。

 

ルカの福音書16章に「ラザロと金持ち」の話がありますが、それを見ると、キリストを信じなかった金持ちは、「炎の中で苦しくてたまりません。」と言っています。そこは「ハデス」と呼ばれているところです。彼はそこに落とされました。でもそこは地獄ではありません。地獄に行くまでにさばきを待っているところです。それはちょうど刑務所に入るために待っている留置場のようなところです。どちらも過酷な状態を強いられますが、最後のさばきは、ハデスの比どころではありません。それは永遠に燃え続ける火の池なのですから。それが地獄と呼ばれているところです。キリストが再臨されるとき、キリストを信じなかった人はハデスに行き、そこで最後のさばきを待つようになるのです。そしてキリストが再臨する時、その人たちもよみがえりますが、最終的に火の池に投げ入れられ、そこで永遠の祝福の基である神から完全に切り離されて、永遠に苦しみを味わい続けなければならないのです。これが第二の死と呼ばれているものです。

 

あなたはどちらのよみがえりのために生きていますか。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」これは、今すぐに体験できる約束です。あなたがイエス様を信じた瞬間に、あなたもこの永遠のいのちを体験するのです。あなたは死んだ人のような毎日を過ごしていませんか。神の子の声を聞く者は生きます。そして、その行きつくところは永遠のいのちです。あなたも、イエス様の声を聞き、生きる力をいただいてください。イエス様は、あなたにいのちを与えることができる救い主であられるからです。