ヨハネの福音書5章30~47節「キリストを証しするもの」

ヨハネの福音書5章から学んでおります。イエス様はベテスダの池で38年間も病気で横になっていた人をいやされると、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」と言われました。するとユダヤ人たちは、ますますイエス様を殺そうとしました。それはイエス様がご自分を神と等しくされたからです。

 

そこでイエス様は、確かにご自身が神の子であると証言されました。しかし、モーセの律法によると、あることを証明するためには二人または三人の証言が必要とされていたので(申命記17:6)、イエス様は、きょうの箇所で四つの証言を取り上げ、ご自身が神の子メシヤであることを証明されるのです。

 

Ⅰ.四つの証言(30-39)

 

まず、30節から35節までをご覧ください。

「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。」

 

まず、イエス様はバプテスマのヨハネの証言を取り上げます。彼の証しについては、既に1章19節からのところで見てきました。彼は、当時、キリストではないかと人々から思われていたほど偉大な人物でした。しかし、その彼が、「私はキリストではありません」(1:20)とはっきりと否定し、「私その私の方は私の後から来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と証ししました(1:27)。イエス様はここで再びそのヨハネの証しを取り上げているのです

33節には、「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。」とあります。また35節には、「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました」とあります。ここでヨハネのことが過去形で書かれてあるのは、おそらくイエス様がこのことを語られた時、すでに彼はヘロデ王に殺されていたからではないかと考えられます。しかしこの殉教者ヨハネの忠実な証しを、イエス様は決してお忘れにはなりませんでした。その証しを高く評価されたのです。私たちはこのことに心を留めたいと思います。私たちも、この世では何の評価も受けることのない小さな者に過ぎませんが、主はこのような者の証しを高く評価して用いてくださいます。いったいそれはどうしてでしょうか。

 

その理由が34節にあります。「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」新改訳第三版には、34節の冒頭に「といっても」という言葉があります。「といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。」確かにヨハネの証しは高く評価されるものですが、だからといって、イエスが神であるということを立証するために人からの証を必要としているわけではないということです。イエス様がここでヨハネの証言を取り上げ、これらのことを言ったのは、「あなたがたが救われるため」、すなわち、ユダヤ人たちが救われるためでした。彼らが救われるためにヨハネの証言が必要だったのです。彼らがバプテスマのヨハネが証ししていたことを思い出し、「ああ、そう言えば、あのバプテスマのヨハネも言っていた」と思い出し、救われるためです。つまり、私たちの証しは本当に小さなものですが、主はこのような小さな者の証しさえ人々の救いのために用いてくださるということです。

 

一昨日、さくらチャーチのY姉が天に召されました。昨年6月に末期の膵臓癌であることが判明してから8か月、神様に守られて実に安らかな日々を過ごされまた。ご主人の死をきっかけに教会に導かれキリストの信仰に導かれたのは60歳の時でした。数々の試練がありましたが、それでも毎朝早く起きて聖書に向かい、聖書通読に励みました。そのためか礼拝の中で祈っていただくと語られた聖書のことばを的確にとらえることができただけでなく、それをご自分の生活に適用することができました。先輩のクリスチャンからは「聖書を読むだけではね・・・」と言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書全体の流れを掴むことができ、聖書が語っているイエス・キリストの恵みに生きることができました。回りの方が「悩んでいると「大丈夫だから、イエス様にゆだねればイエス様が解決してくれるから」と言って励まし、そのことばをご自分でも生きられました。そのため、病の中にあっても実に平安でした。それは死をも乗り越えていました。Y姉が書かれた証の最後には、このヨブ記のみことばが記されてありました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

T姉の信仰は目立たない小さな証であるかのようでしたが、その証に多くの人々が励まされ、中には信仰に導かれた方もおられます。私たちもそのような者でありたいと思います。私たちも本当に小さな者にすぎませんが、主はこのような忠実な証を用いてくださるのです。

 

次にイエス様が取り上げておられる証言は、ご自身が行っているわざそのものです。36節をご覧ください。

「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」

この「わざ」とは、具体的には奇跡のことです。これまでにイエス様は、水をぶどう酒に変えたり、王室の役人の息子をいやしたり、ベテスダの池で、38年間も病気で横になっていた人をいやされました。6章に入ると、 5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人たちの空腹を満たされる奇跡を行われます。また、10章には死んだラザロを生き返らせる奇跡も行われます。いったいこれらの奇跡は何のために行われたのかというと、イエスが神の子、メシヤであることを証明するためでした。

 

当時のユダヤ人たちは、そのようなイエス様が行われたわざを否定することはしませんでしたが、それを見た人たちがイエス様を信じないようにその意味を変えました。つまり、イエスが行われた業は悪霊によって行われたと言って、ごまかそうとしたのです。

今日でも聖書の中に出てくる奇跡を受け入れることができない人がたくさんいます。そんなことは自然の法則では考えられないし、そんなものを受け入れたら自然法則そのものが破壊されてしまうと言うのです。しかし、奇跡を認めることは決して自然法則を無視することとではありません。なぜなら、奇跡というのは自然に反するものではなく、自然を超えていることだからです。神様は元々この天地万物を創造されましたが、それをどのように保っておられたのかというと自然の法則によってです。ですから、自然の法則そのものは与えられたものなのです。しかし、神は万物の主として、時として危機的な状況に思われる時や、特別にご自身のご介入が必要だと思わた時には、超自然的な御業行われたのです。ですから、奇跡は自然に反しているのではなく、自然を超えているのです。

 

ですから、それはむやみやたらと起こることではありません。確かにどの時代でも神の奇跡的なみわざが見られますが、聖書を見ると、奇跡が集中的に起こった時代が4回あったことがわかります。一つは、出エジプトの時です。それは紀元前1,400年頃のことですが、モーセを通してイスラエルがエジプトから救い出される時、神は様々な奇跡を通して圧倒的な力を見せられました。モーセが手を上げて祈ると紅海が二つに分かれ、目の前に乾いた所が現れてそこを通って救われました。彼らが荒野に導かれると食べ物や飲み物がなくて苦しん見ましたが、神は天からマナを降らせて養ってくださいました。パンだけでは足りない、肉も食べたいと言うと、今度はうずらも降らせました。水が無くて苦しい時は、岩から水がほとばしり出るようにされました。どうしてこのような奇跡が起こったのでしょうか。これはイスラエルの歴史において極めて重要な時だったからです。神のご計画はイスラエルを救い出し、約束の地へ導くことだったのです。それはやがて来られるキリストが、私たちを罪から救ってくたさることを示していたからです。

 

次にエリヤとエリシャどの預言者の時代です。紀元前900年頃です。その時代の特筆すべき出来事は、エリヤがバアルの預言者450人と戦ったことです。本当の神は火をもって答えてくださる神です。主こそ神であるということを示すために、主は火をもって答えてくださり、祭壇の上に用意した雄羊も、その上に注がれた水もすべてなめ尽くすように焼いてしまいました。これは当時のイスラエルが、バアル礼拝による本当の神礼拝の危機に直面していたからです。それで神は奇跡をもってご介入くださったのです。

 

第三は、イスラエルの民がバビロンに捕らえられていた時代です。紀元前580年頃のことです。ネブカデネザルの金の像を拝まなかったダニエルの三人の友だちシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは燃える炉の中に投げ込まれました。しかし、神は彼らをその炉の中から助け出してくださいました。それでネブカデネザル王は、ダニエルの神こそまことの神であることを知りました。この時代は生きておられるまことの神への信仰が、異教の地で危機に直面していたので、神は奇跡的なみわざをもってご介入くださったのです。

 

そして第四は、イエス様が生きておられた時代です。それは神が人となって来られた時です。神が人となって来られたことを証明するために、キリストは神としてのみわざを成されました。それが証拠としての奇跡です。

 

このように見てくると、奇跡がこうした四つの時代に集中したのは、神の奇跡的なご介入を必要としていたからであったことがわかります。それは、今日は奇跡が起こらないということではありません。いつの時代においても、神のご介入が必要な時には起こります。しかし、この奇跡の目的がイエスは神の子キリストであることを証明するためであったということを思うとき、むしろ聖書に記されてあるキリストのみわざを受け入れて信じることが重要であると言えます。

 

三つ目の証は何でしょうか。37節をご覧ください。ここには、「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。」とあります。

三つ目の証しは、父なる神の証しです。父なる神ご自身が、キリストについて証しをしてくださいました。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けると、天から声がありました。「そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)これが、父なる神の証言です。

 

キリストを証しする第四のものは、聖書そのものです。聖書そのものがイエスについて証言しています。39節をご覧ください。ここに、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」とあります。ここでいう聖書とは、旧約聖書のことです。ユダヤ人たちは聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べていましたが、その聖書は、実はイエス様のことを証ししていました。それなのに彼らは、その中心であるイエスに出会っていなかったというのは、なんという悲劇でしょうか。

 

私たちも、聖書を読むときに注意しなければなりません。もし聖書がただの人生訓として読んだ理、自分の教養を増やすためのものとして読むとしたら、聖書の本質をとらえることができなくなってしまいます。でも、イエス様は、「その聖書は、わたしについて証ししているのです」と言われました。聖書は、イエスについて証言しているのです。イエスこそ、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださる救い主である・・と。これは、決して動かしてはいけない聖書の軸です。このイエスの救いのみわざを通して読むときに、本当の意味で聖書を理解することができるようになるのです。

 

Ⅱ.キリストの証を受け入れない理由(40-44)

 

では、なぜ彼ら(ユダヤ人)はキリストの証しを受け入れることができなかったのでしょうか。40節から44節までをご覧ください。ここには、彼らがキリストの証しを受け入れることができなかった3つの理由が挙げられています。

 

第一に、彼らはキリストのもとに来ようとしませんでした。40節にこうあります。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

彼らは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べていましたが、肝心のキリストのところに来ようとしませんでした。ここに、多くの人々がキリストを信じようとしない理由があります。それはキリストのもとに行こうとする意志がないということです。キリストのもとに行こうという気持ちもなければ、行きたいとも思っていません。本当に救われたいという思いがあるならば、その人は自ずとキリストのみもとに来るはずです。つまり、人が救われない本当の原因は、聖書が難しいからでも、毎日忙しくて時間がないからでもありません。また、聖書がある特定の一部の人たちだけのものだからでもありません。神から無条件に差し出されている救いの招きに対して、それを受け入れる意思がないからなのです。

 

先日、ある未信者のご婦人から電話の相談がありました。数年前に自分のへそくりで株を初めかなり儲けましたが、昨年大きな損失を出してしまい、寝ても覚めても株のことで頭が一杯になっているがどうしたら良いかということでした。当然、家族のことを顧みる余裕もありません。夫とはほとんど会話もなく、近くに住んでいる孫が来ても株のことが気になって、正直来てほしくないという気持ちになるのです。

「株をやることが問題ではありませんが、株に縛られているのが問題ですよ。もっと大切なものを求めた方がいいんじゃないです。」と言うと、「もっと大切なものって何ですか」と言われたので、「私は牧師なのではっきり言いますが、それはイエス・キリストです。永遠のいのちです。このまま株をやり続けたら破滅に至ります。でもイエス・キリストを信じるならいのちに至ります。」と言うと、「それってキリスト教になるということですか」と言われるので、どうしようかな、いろいろ説明しても混乱すると思ったので、「はい、そういうことです。しかし、キリスト教になるとかならないということではなく、それを求めることが必要です。どうぞ近くの教会に行ってみてください。」と勧めました。すると意外にも、「はい、わかりました。」と言って教会に行かれたのです。歩いても生けるところに福音的な教会があって、その教会では水曜日に水曜礼拝が行われていたので、それに行きました。

翌日、メールが来まして、こう書かれてありました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、。昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。」

そこで私は、星野富弘さんが書いた詩で「いのちよりも大切なもの」を紹介し、それがイエス・キリストであることと、それはお金を失ったとしても真に満足と平安を与えてくれるものです」と伝えると、「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。本当にありがとうございました。また、何かありましたら、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。」と書いてありました。

私はそのメールを見てとてもうれしかったです。何のために生きているのかがわからなかった方が、イエス様を求めて教会に行くようになったのです。これってすごいことだと思うのです。どうして彼女は教会に行こうと思ったのでしょうか。それは彼女が求めていたからです。このままではいけない、何とかしなければならない、どうしたらいいのか、そこでイエス様のことを聞き、行きたいと思うようになったのです。私の知っている限り、その後日曜日に続いて行っておられます。どんなにお話ししても、その人の中に行きたいという思いがなければ行くことはできません。難しいからではありません。理解できないからでもないのです。行こうという意志があるかどうかです。もし行こうという意志があれば、もっと知りたいという思いがあれば、必ずわかるようになります。

 

ちなみに、彼女に送った星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩は、このような詩です。

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。 いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった」

この「いのち」とは肉体のいのちのことです。また、お金や名誉や財産といったこの世のものを指しています。それが一番大切だと思っていたころは生きるのが苦しかった。でもいのちよりも大切なもの、これはイエス・キリストのことです。永遠のいのちのことです。それがあると知った日生きるのが嬉しくなりました。

あなたもこのいのちよりも大切なものを求めてみませんか。そうすれば、生きるのが嬉しくなりますから。

 

第二の理由は、神からの栄誉を求めないで、人からの栄誉を求めていることです。41節をご覧ください。ここには「わたしは人からの栄誉は受け入れません。」とあります。だれからの栄誉を受け入れるのですか。44節です。「唯一の神からの栄誉」です。イエス様は、人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めました。しかし、ユダヤ人はというと、反対に神からの栄誉を求めないで、人からの栄誉を求めていました。そういう人が、どうして信じることができるでしょうか。確かに神の栄誉よりも人の栄誉を求めている間は、本当の信仰を持つことはできないでしょう。そうした名声や評判が障害になって、イエス様のもとに来るのを妨げてしまうからです。

 

第三の理由は、42節と43節にあります。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」

つまり、神への愛がないということです。彼らの関心は自分のことだけでした。ですから、キリストがほかの人の名で来たのであれば、受け入れたでしょう。たとえば、家内安全、商売繁盛の神だったら喜んで受け入れたでしょう。家内安全、商売繁盛を願うことが問題なのではありません。しかし、そのようなことを願うだけで真の神を求めていないとしたら問題です。それは神ではなく自分を愛しているだけです。彼らの関心はこの地上のことだけです。

 

パウロは、ピリピ2章21節でこう言っています。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」こうした傾向は世の終わりが近づけば近づくほど顕著になっていくでしょう。なぜなら、世の終わりの最大のしるしは、「多くの人の愛が冷える」ことだからです。イエス様はマタイの福音書24章で、世の終わりが近くなると偽預言者が現れて、多くの人を惑わし、不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えて行くと言われました。だれもイエス・キリストのことを求めないで、自分が良ければいいという時代に入って行きます。いや、もうそのような時代に入っています。このような心で、どうして信じることができるでしょうか。

 

皆さんはどうですか?聖書からイエス・キリストについて学んでも、なかなか信じることができないという方がおられるでしょう。それは聖書が難しいからでも、神様のことがわからないからでもありません。それはあなたの心に問題があるからです。つまり、キリストのもとに行こうという気持ちがないこと、また、神からの栄誉ではなく人からの栄誉を求めていること、そして、神を愛しているのではなく自分を愛していることです。そのような状態でどうして信じることができるでしょうか。信仰とは、聖書が教えているキリストを虚心坦懐に受け入れ、この方に対して純粋な思いを持つことから始まります。自我が砕かれ、イエス様を救い主として受け入れることができるように求めましょう。

 

Ⅲ.聖書を信じる(45-47)

 

ですから結論は何かというと、聖書を信じましょう、ということです。45節から47節までをご覧ください。

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」

 

ここに「モーセ」が出てきます。「モーセ」とは何でしょうか。モーセとはモーセが書いた書、つまりモーセ五書のことです。広い意味では旧約聖書全体のことを指しています。当時のユダヤ人はモーセの書を信じていました。であれば、キリストをも信じたはずです。なぜなら、モーセが書いたのはキリストのことであったからです。聖書を学べば学ぶほど、聖書を知れば知るほど、キリストのもとに来るようになるはずなのです。それなのに、そうでないとしたら、どこかおかしいのです。つまり、彼らは本当の意味で聖書を知らなかったということです。聖書読みの聖書知らずということが起こっていました。どうしてでしょうか。悪魔によって覆いが掛けられているからです。このことについてパウロはこう言っています。

「しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14~18)

どんなにモーセの書が読まれても、そこにキリストを見ない限り、その覆いが取り除かれることはありません。しかし、人が主に向くなら、その覆いは取り除かれます。今日、聖書に対する破壊的な批評や攻撃がなされるのは、この覆いが取り除かれないようにする、まぎれもない悪魔の攻撃があるからです。聖書の権威を否定し、聖書を人間の著作と少しも変わるところのないものとする考えが、幅を利かせているのです。それは、人々からこの覆いが取り除かれないようにしている悪魔の巧妙な策略です。ですから、私たちは聖書は神のことばであると信じ、もう一度聖書に立ち返り、キリストのみもとに来なければなりません。そうすれば、私たちの心から覆いが取り除かれ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。キリストに対する純粋な思いがあれば、キリストについての証を受け入れ、必ずや純粋な信仰を持つことができるようになるのです。

 

あなたもキリストを証しするこれらの証を受け入れてください。受け入れてキリストのもとに来てください。そして、永遠のいのちを受けてください。もう既にキリストを信じている人でもキリストから離れていることがあります。そういう人がいたら、キリストについてのこれらの証を受け入れ、ここにいのちがあるという確信を持ち、キリストに深く信頼して歩みましょう。