ヨハネの福音書6章1~15節「5つのパンと2匹の魚」

ヨハネの福音書6章に入ります。きょうは、「5つのパンと2匹の魚」というタイトルでお話しします。イエス様が、五つのパンと二匹の魚をもって男の人だけで五千人の人々の空腹を満たされたという奇跡です。この奇跡は、四つの福音書すべてに記録されています。キリストの十字架の死と復活の出来事以外に、四つの福音書すべてに記録されているのはこの奇跡だけです。ですから、これはそれだけ重要な奇跡であったと言えます。これは、ヨハネが記す七つのしるしの第四番目のしるしです。最初のしるしは、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。二番目は、王室の役人の息子の病気を癒すという奇跡でした。そして三番目しるしは、38年も病気で横になっていた人を癒されるという奇跡でした。そして、これが四番目の奇跡です。

 

Ⅰ.信仰のテスト(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」

 

「その後」とは、5章の出来事の後でということです。先ほども申し上げましたが、5章には過越しの祭りでエルサレムに行かれたイエスが、ベテスダと呼ばれる池で38年も病気だった人をいやされたことが記されてあります。そして、そのことがきっかけとなって、イエスはご自分がメシヤであるということを証明なさいました。「その後」です。その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれました。舞台がエルサレムからガリラヤへと移っています。しかも、4節を見ると、「ユダヤ人の祭りである過越しの祭りが近づいていた」とありますから、5章の出来事から1年近くが経っていたということになります。ヨハネは、この1年間に起こったほとんどすべての出来事を省略し、このガリラヤ湖、すなわちティベリア湖の向こう岸で起こった出来事を記しているのです。

 

ここに、「ガリラヤ湖、すなわち、ティベリア湖」とあるのは、ヨハネがこれを書いた当時、ガリラヤ湖という名称よりもティベリア湖という名称の方が人々によく知られていたからです。これが当時ガリラヤに住んでいた人たちにとってなじみのある呼び名だったのです。

 

イエス様は、なぜティベリアの湖の向こう岸へ行かれたのでしょうか。マルコ6章31節を見ると、イエスが弟子たちに、「あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」とあります。出入りする人が多くて、食事をする暇さえなかったのです。それで弟子たちは舟で向こう岸に行ったのです。ところが、行ってみると、そこには大勢の群衆がイエスについて来ました。群衆は、湖の周りを回って、徒歩で駆け付けていたのでしょう。なぜそんなにも多くの人々がイエスについて来たのでしょうか。それは2節にあるように、「イエスが病人たちになさっていたしるしを見た」からです。何か特別な理由があったからではありません。イエス様のご人格やその教えに驚嘆したからでもないのです。しるしを見て驚いたからです。しるしとは、証拠としての奇跡のことです。イエス様は、ご自身がメシヤであることを示すために多くの奇跡を行いました。それで大勢の群衆がイエスについて来たのです。

これが、この世のほとんどの人が集まって来る理由です。一般に人は無力ですから、自分の人生に何か悩みや問題があるとどうしたらよいか分からなくなり、自分の力を越えた力にひきつけられていくのです。10節には、それは男だけで五千人であったとありますから、女の人や子供たちを合わせるとゆうに一万人は超えていたでしょう。それだけ大勢の人がついて行きました。

 

イエス様は、その大勢の群衆がご自分の方に来るのを見ると、ピリポにこう言われました。5節です。「どこからかパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」なぜこのように言われたのでしょうか。6節にその理由があります。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」

イエス様がこのように言われたのは、ピリポを試すためでした。それはピリポがほかの弟子たちと違って、根性が曲がっているから直して上げようと思ったからではありません。このように言うことでピリポの霊的感覚を呼び覚まし、彼の信仰を訓練しようとされたのです。イエス様は、これから何をなさろうとしていたかを知っておられました。それなのに、あえてピリポにこのように言われたのは、彼を試すためだったのです。イエス様は霊的、精神的必要だけでなく、それに伴う実際的生活のすべての必要を満たされると方であるという信仰を持ってほしかったのです。

 

私たちもどこか、霊的、精神的な必要は信仰で、でも実際の生活は自分で何とかしなければならないと思っているところがあるのではないでしょうか。そのため、実際の生活で問題が起こると、それを信仰と切り離して考えようとするのです。そしてにっちもさっちも行かなくなると絶望して、落ち込んでしまうのです。そうではなく、主は私たちの魂の必要だけでなく、肉体の必要も、またそれに伴う実際的な必要もすべて満たしてくださる方であると信じて、天を仰ぎ、主が成してくださるみわざに期待しなければならないのです。

 

Ⅱ.ピリポとアンデレの対応(7-8)

 

それに対して、弟子たちはどのように答えたでしょうか。まずピリポです。7節をご覧ください。

「ピリポはイエスに答えた。『一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。』」

1デナリは、1日分の労働者の賃金に相当します。ですから、200デナリとは、労働者の賃金200日分に相当する金額です。仮に1日1万円の賃金だとすると200万円となります。ピリポは、めいめいが少しずつ取るにしても、200万円分のパンがあっても足りません、と答えました。ピリポはとても理性的、現実的な人でした。男だけで5千人、女の人や子供を合わせるとゆうに1万人は超えるので、このような数字を提示したのでしょう。彼の頭には計算機があって、ピッ、ポッ、パッとはじき出し、「だから無理です、不可能です。」と結論づけたのです。

 

常識的にはそうだったかもしれません。しかし、それが彼の欠点でもありました。彼は、現実的にしか物事を見ることができませんでした。しかし、イエス様が求めた答えはそのように人間の頭で計算して「だからだめだ」と結論付けるのではなく、そうした考えを超えて、神を求める者に、神はすべての必要を満たしてくださるという信仰を持つことでした。もしそこに信仰の目があれば可能な面を見ることができたはずです。主がおられるなら、主が何らかの解決を与えてくださると信じて祈り求めたことでしょう。でも彼は現実的にしか考えることができませんでした。それで「二百デナリのパンでは足りません」と答えたのです。私たちも、ピリポのように、自分の頭で考えて、「だからだめだ」と結論付けることがあるのではないでしょうか。

 

次に、シモン・ペテロの兄弟アンデレです。アンデレはイエス様にこう言いました。9節です。

「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

アンデレの対応はピリポとは少し違いました。彼は、大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年をイエス様のもとに連れて来ました。もしかすると何とかなるかもしれないと思ったのかもしれません。しかし、結局のところ彼も、「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」と結論付けています。彼も信仰を働かせることができませんでした。これっぽっちでは何の役にも立たないと勝手に決め込んで、あきらめていたのです。私たちもアンデレのような態度をすることがあります。「たったこれだけでいったい何になるというのか、無理だ、だめだ、できない」と、最後は否定的な言葉を口にしてしまうのです。

 

Ⅲ.余りは12かご(10-15)

 

それのような弟子たちに対して、イエス様はどのようにされたでしょうか。10節から15節までをご覧ください。

10節には、「イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。」とあります。

イエス様はまず人々を座らせました。どうして座らせたのでしょうか。落ち着かせるためです。ルカの福音書には、50人ずつ組みにして座らせたとあります(9:15)。大勢の人々が集まる時はとても大切な配慮です。このようにすることで混乱を防ぎ、秩序を維持することができるからです。

そうして、イエス様はパンを取ると、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられました。(11)。 魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられました。イエス様は、父なる神への感謝を忘れませんでした。そして、弟子たちを用いて配られたのです。

 

するとどうなったでしょうか。12節と13節をご覧ください。

「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。」

「彼らが十分食べたとき」というのは、彼らが満腹したという意味です。これはこの奇跡が現実のものであったことをよく示しています。実際には食べてもいないのに食べたかのように思い込んだというのではなく、実際に食べて満腹したのです。どういうことでしょうか。この出来事を合理的に説明しようとする人たちは、実は大人たちも自分の弁当を持っていたのに、出さないでいたところ、子どもが自分の弁当を出したので、恥ずかしく思い、自分の弁当を出したので、みんな満腹したのだ、と考えます。しかし、これはそういうことではありません。これは奇跡なのです。本当にあったことなのです。その証拠に、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。5つのパンと2匹の魚だけでは、一つのかごもいっぱいにはならないでしょう。それなのに、食事の後に余ったパン切れが12のかごいっぱいになるほどであったというのは、明らかに、それが配られている間に奇跡的にパンが増えたことを物語っています。この余ったパン切れだけでも、食事をする前にあった5つのパンの、おそらく50倍もの量であったでしょう。マルコは、パン切れだけでなく、かごに入れられた魚の残りもあったと述べています。したがって、パンとともに魚も奇跡的に増し加えられたのです。

 

いったいこれはどういうことでしょうか。14節をご覧ください。ここに、その結論がこう記されてあります。

「人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。」

「人々」とは、この奇跡を目の当たりにした人々のことです。その人々は、イエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました。「世に来られるはずの預言者」とは、申命記18章15節に約束されている、「モーセのような預言者」のことです。それは、来るべきメシヤ、救い主のことを指し示していました。

 

つまりこの奇跡は、イエスこそ旧約聖書が預言していたメシヤであるということを示す証拠だったのです。特にこの奇跡においては、イエス様が単に壊れたものを治したり、崩れたものを建て直したり、病んでいる人をいやしたり、弱い者を強めたりすることができるということだけでなく、それまで何も無かったところから新しい何かを造り出すことができる創造者であられるということが強調されています。主は、私たちの必要を十分に満たすことができる方なのです。余ったパン切れが12かごであったというのは、「12」という数字が「7」という数字と同じように完全数であることから、これが十分であるということ、完全であるということを表しています。皆さん、信じますか。主はあなたの必要を十分に満たすことができる方なのです。

 

先日の教会総会でビジョン2025について話し合いました。それは2025年までに新しい教会を生み出すというものです。現状を見るなら無理だと感じた方もおられたでしょう。私の中にも、「大丈夫だろうか、どうやってそれができるんだろう」という思いがあります。しかし、大切なのは私たちがどのような者であるかとか、どのような状況にあるのかということではなく、何を第一にしているかということです。神の国とその義とを第一にするなら、神はそれに加えてすべてのものを与えてくださいます。イエス様はこのように言われました

「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:25-34)

罪深いこの世界においては、目に見えるものがすべてです。食べ物、飲み物、着物、お金、そうしたものに縛られながら生きています。しかし、これらのものが私たちの罪を赦し、心を満たし、良心をきよめ、平安を与えることはできるでしょうか。できません。私たちの心も体も満たすことができるのは十字架につけられたイエス・キリストと、その死によって成し遂げられた贖いを信じる信仰だけです。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

よく信仰は日常生活が心配のない、安定した人々がする趣味か娯楽のようなものだと考えている方おられますが、決してそうではありません。むしろ、そうした心配が尽きないこの世の現実の中にあって、神の国と神の義を第一に求めていくことで、神がこれらのすべてを与えてくださるという生ける神を体験することなのです。

 

パウロは、こう言っています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)十字架のことば、キリストの福音は、すべての人の、すべての必要を満たすのに十分なのです。

 

であれば、私たちは、私たちにあるものを主に差し出そうではありませんか。それがたとい5つのパンと2匹の魚のようなわずかな者であっても、それを主が握られるとき、主はそれを何倍にも祝福してくださいます。このわずかな食べ物をイエス様のもとに持って来たのはアンデレでしたが、それは一人の子供のひとり分の弁当にすぎない本当に小さなものでした。しかし、それが主の御手に握られると、男だけで五千人の空腹を満たすことができました。私たちも何の力のない、本当に取るに足りない小さなものですが、それがイエス様の手に握られるなら、子供ひとり分の弁当のような存在でも、主は大きく用いてくださいます。大切なのは、私たちがどのような者であるかということではなく、誰に握られているかということです。

昔、モーセがエジプトに捕らえられていたイスラエルを救い出すために召されたとき、彼は「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト記3:11)

「彼らは自分の言うことを信じず、自分の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、「主はあなたに現われなかった。」と言うでしょう。」(出エジプト記4:1)その時、自分はどうしたらいいんですか?

すると主は言われました。「あなたの手にあるものは何か」(出エジプト記4:2)

「杖です。」

主は、「それを地に投げよ。」と言われました。するとそれは蛇になりました。自分は何も持っていないと思っていたモーセでしたが、彼には神の杖があったのです。

私たちも自分には何もないと思っています。こんなわずかなものが何になるだろうと思っているかもしれません。でも、それがどんなにわずかなものでも、信仰をもって主に差し出すなら、主はそれを用いて大いなる御業を成してくださるのです。

私たちの手にあるものは何でしょうか。信仰によってそれを主に差し出しましょう。主は満たしてくださると信じて、主の御業を待ち望みましょう。イエス様が第四のしるしとしてこの奇跡を行ったのは、あなたがこの信仰に生きるためだったのです。