ヨハネの福音書6章22~40節「天から下って来たパン」

ヨハネの福音書から学んでおります。きょうは6章22節から40節までの箇所から、「天から下って来たパン」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい(22-27)

 

まず22節から27節までをご覧ください。

「その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

 

22節の「その翌日」とは、イエス様が5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人々の空腹を満たされた奇跡を行った翌日のことです。群衆は、イエス様の動きを観察していました。不思議なのは、弟子たちだけが舟に乗り込んで向こう岸に向かったはずなのに、そこにイエス様の姿がなかったことです。するとそこに、ティベリアから数隻の小舟がやって来たので、これ幸いとばかり、人々はその舟に乗り込み、イエスを探しにカペナウムに向かいました。

そして、湖の反対側でイエス様を見つけると、彼らはイエス様に言いました。「先生。いつここにおいでになったのですか。」

すると、イエス様は彼らに答えられました。26節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」

どういうことでしょうか。イエス様が「まことに、まことにあなたがたに告げます。」と言われる時は、極めて重要なことを語られる時です。イエス様は、人々の質問に対して「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。 彼らはガリラヤ湖を渡ってわざわざイエス様を捜しに来たのは、イエス様がなさった奇跡を見て、イエス様を信じたので来たのではなく、パンを食べて満腹したからです。イエス様がなされた奇跡を見て信じることは本物の信仰とは言えませんが、それでも信仰の入口に導かれたという意味では評価できます。しかし、これらの群衆はまだそこまでにも達していませんでした。彼らがイエス様を捜していたのはイエス様がなさった奇跡を見て信じたからではなく、ただパンを食べて満足したからだったのです。つまり、彼らは救いを求めてイエスのもとに行ったのではなく、ただ自分の欲求が満たされるために行ったのです。何のためにイエスの許に行くのかとはとても重要なことです。私たちは何のために教会に来ているのでしょうか。何のために礼拝しているのでしょう。パンを食べて満足したからですか。ただ自分の心が満たされるためでしょうか。そのことを吟味しなければなりません。そして、永遠のいのちを求めてキリストの許に行く者でありたいと思います。

 

それに対してイエス様は何と言われましたか。27節です。とても有名なみことばですので、ご一緒に読んでみたいと思います。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

「なくなってしまう食べ物」とは、この地上の食べ物のことです。イエス様は、そうしたなくなってしまう食べ物ではなく、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」とは何でしょうか。それは永遠のいのちです。この永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい、というのです。

 

皆さん、私たちは何のために働いているのでしょうか。私たちが勉強するのも、良い仕事に就くのも、またそこで一生懸命に働くのも、結局のところ、少しでも良い生活をするためというのがほとんどではないでしょうか。しかしイエス様を信じたことで永遠のいのちが与えられました。その永遠のいのちが養われ、成長するために、働かなければなりません。一生懸命に働くこと自体は大切なことです。私たちは働くために造られました。働くことによって、むしろ、生きがいを感じることさえできます。しかし、問題は何のために働くのかということです。私たちがどんなに一生懸命に働いても、また、そのことによって良い生活を送ることができたとしても、それらのものはやがて過ぎ去ってしまいます。そうした過ぎ行くものがあたかも究極的な事柄であるかのように思っているとしたら、それこそが問題なのです。確かに生きていくためには働かなければなりませんが、それが唯一の目的ではありません。私たちが働くのはただこの世で生きていくためではなく、霊的いのち、永遠のいのちに至るためなのです。イエス様を信じることで与えられた永遠のいのちを持ち、そのいのちを保ち、養うために働きなさいということだったのです。それは、この「働きなさい」という言葉からもわかります。この「働きなさい」という言葉は、「あることのために働く」とか、「努力する」という意味があります。つまり、永遠のいのちのために働きなさい、努力しなさい、ということです。私たちはこの世の朽ちて行くことのためには多くの時間とエネルギーを費やしても、霊的いのちのためにはそれほどでもないのではないでしょうか。その時間がほとんど残っていません。

 

先週、国連の関連団体が、「世界幸福度ランキング2019」を発表しましたが、それによると日本は昨年から4つ順位を下げて58位でした(156か国中)。これは意外でしたね。日本人の多くは、自分は幸せだと感じている人が多いのに、こんなに順位が低いとは思いませんでした。GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計るものです。確かに日本は平均寿命が長く、1人あたりのGDPも24位、政治やビジネスの腐敗のなさも39位と高いのですが、社会的支援が50位、社会の自由度が64位、他者への寛大さが92位と低迷しているのです。これはどんなことを表しているのかというと、仕事と経済が中心になっている国であるということです。心に余裕がありません。ほんとうに忙しく走り回っています。霊的いのちのために求める時間がないのです。

 

でも2,000年前に、ガリラヤ湖畔で語られたイエス様の言葉を見てください。2,000年の歳月を越えて、今もなお私たちの心に響いてきます。先週、大リーグマリナーズのイチロー選手が引退し、その会見で語った言葉には深いものがありました。これまで自分が打ち立てて来た記録をどう思いますか?記録自体は、それほど特別だとは思いません。それよりも、その時にファンの方であったり、球場に来られた方が喜んでくれることが特別だと思いますとか、4,000本という数字があるとしたら、その陰には8,000回の失敗があったということで、自分誇れるとしたらそれを乗り越えることができたというです、など、それを通った人ではないとわからない重みがありました。しかし、イエス様の言葉は、その比ではありません。時代と民族を越えて、すべての時代の、すべての人の心に響く言葉です。私たちが求めなければならないのは、この主イエスの言葉です。

霊的いのちは、放っておいて養われることはありません。毎朝晩聖書を読み、祈るには、大きな犠牲と戦いがあります。学校や職場に遅刻しないように努力するのに、永遠のいのちのためにはほとんど努力しないとしたら、どうやってこのいのちを養っていくことができるでしょうか。

 

先日、天に召されたY姉妹は、60歳で信仰に導かれ、85歳で天国に召されるまで、ひたすら聖書に向かいました。「聖書を読むだけではね」と先輩のクリスチャンから言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書を通読することで聖書全体の流れを掴むことができただけでなく、もっと知りたいという意欲もでてきて、読み続けることができました。このいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働いたのです。

 

それは、主が与えてくださる食べ物です。与えられた永遠のいのちが養われ、生ける神といつも生き生きとした関係を保つためには、その栄養分が必要です。「それは、人の子が与える食べ物です。」。ですから、私たちはいつもイエス様にとどまり、イエス様からその栄養分を求めていかなければなりません。なくなる食べ物ではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。

 

Ⅱ.天からのまことのパン(28-33)

 

次に、28節から33節までをご覧ください。

「すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」」

 

イエス様が、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」と言われると、それを聞いていた人々は、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」とイエスに聞きました。イエス様が言われた「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言うことばを、何かをすることによって得られるものと思ったのです。これが一般の人が考えることです。何か善いことをすれば天国に行けると思っているのです。しかし、どんなに善いことをしても、決して天国に行くことはできません。善いことをすることは悪いことではありません。むしろすばらしいことです。しかし、どんなに善いことをしても、それで神に受け入れられるとはないのです。なぜなら、自分でも気付かないうちにそこに不純な動機が入り込んだりして、善行が善行でなくなってしまうからです。私たちの本性は罪のために腐っているので、こうした善行が神に受け入れられることはないのです。では、どうしたらいいのでしょうか。

 

29節にこうあります。「イエス様はこう言われました。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』」ここで人々が、「神のわざ」と言っているのは、旧約聖書にある律法のことです。それに対してイエス様は、神のわざとは律法を守ることではなく、神が遣わされた者を信じることであると言われました。これは信仰による救いを教えています。私たちが救われる道は、私たちが何か善いことをすることによってではなく、神が遣わされた御子イエスを救い主として信じる以外にはありません。もっと言うなら、私たちが救われるためには、私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じるだけでいいのです。それを信じることこそ、神のわざなのです。ここでヨハネが言っていることは、神から遣わされた御子イエス・キリストを、生涯信じ続けるということです。それが神のわざです。考えてみると、そのように生涯を通してキリストを信じ続けるということは、自分の意思や力によってできることではありません。善い行いであれば、時間なり、体力なり、資金があればできるかもしれませんが、生涯にわたってイエス様を信じ続けることは、自分の力でできません。私たちは弱い者ですから、たとえば、大きな試練に直面したりすると、「イエス様を信じているのになんでこうなるの」と、信仰から離れてしまうことさえあります。そのような中でも信じ続けることができるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。ですから、これこそ神のわざであり、神が喜んでくださるわざなのです。

 

すると彼らは、自分たちがイエスを信じるために、何をしてくれますかと言いました。どんなしるしを与えてくれるのかというのです。というのは、31節にあるように、彼らの先祖は、荒野でマナを食べたという経験をしたからです。「神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた」と書いてあるとおりです。」これは、出エジプト記にあることです。モーセの時代、彼らの先祖は荒野でマナを食べました。それは天からのパンとして、神が先祖たちに与えてくださったものです。それは彼らにとってのしるしでした。であれば、イエスは自分たちにどのようなしるしを見せてくれるのか、というのです。どのようなしるしを見せてくれるのかと言っても、彼らはたった今、五千人の給食の奇跡を見たばかりじゃないですか。それなのに、どんなしるしを見せてくれるのですかと言うのは変な話です。しるしとは、証拠としての奇跡です。それが本当に神からのものであるということを示す証拠ですね。それを求めたのです。

 

これは、いつの時代も同じです。人々はしるしを見ないと信じられません。だから、多くの人々は新興宗教に走って行くのです。しかしこの人々は、モーセが与えたパン以上のもっと大きなしるしを見たではありませんか。それは天からのまことのパンでした。それはモーセの時代に荒野で食べたマナではありません。天から下って来て、世にいのちを与えるものです。32節と33節にこうあります。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

ここでイエス様は、モーセの時代のマナと、今、父なる神によって与えられようとしているパン、すなわち、天からのまことのパンを対比しているのです。モーセの時代のマナは、確かに肉体の食べ物にはなりましたが、いのちを与えることはできませんでした。しかし、父なる神が与えてくださるパンは、天からのまことのパンであり、人々にいのちを与えてものです。これこそ最高のしるしではないでしょうか。なぜなら、このパンは信じる者のうちに働いて、驚くべき神の御業をなされるからです。このパンが私たちに与えられると御霊によっていのちが与えられ、全く新しい者に造り変えられます。

 

あのニコデモのことを思い出してください。ニコデモはそれまでユダヤ人を恐れ、ほっかぶりをして、ある夜、イエスの許にやって来ました。しかし、御霊によって新しく生まれると、全く別人のようになりました。彼はイエス様が十字架に付けられて息を引き取ったとき、それは午後3時頃のことでしたが、公然と十字架のイエスのもとに歩み寄りました。そして、遺体を引き取ると、没薬と香料を混ぜ合わせたものを30㎏ほどイエスに塗って、まだだれも葬られたことのない墓に葬りました。あれほどユダヤ人を恐れていた人が全く恐れずにイエスの許に歩み寄ることができたのです。それは、イエス様を信じて新しい人に造り変えられたからです。

 

サマリヤの女はどうですか。サマリヤの女は、5回も結婚し、今一緒にいるのも本当の夫ではありませんでした。彼女は男性こそ自分の心を満たしてくれると思っていましたが、どの男もみな同じ。だれも彼女の心を満たすことはできませんでした。そんな時、スカルという町の井戸に水を汲みに来たとき、イエス様と出会いました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して変わることがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:14)

彼女はイエスに言いました。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(4:15)

するとイエス様は彼女に言いました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16)彼女は、自分のことを言い当てることができたこの方こそキリストであると信じました。すると彼女は、水を汲みに来たのに水がめをそこに置いて街に行き、「みなさ~ん、来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言いました。もはや、人と会いたくないとは思いませんでした。自分の心を神のいのちの水で満たしてくれたイエス様を、多くの人に伝えたいと思うようになったのです。

 

先日、仙台で行われたT&Mセミナーに参加しました。その中に15秒で証しするという時間がありました。自分が救われた喜びを15秒で証しするのです。イエス様を信じる前の私はこうでした。でもイエス様を信じてこうなりました。あなたもこうなりたいと思いませんか。15秒です。30秒は長いです。3分だったらだれも聞きません。最初に人と会って証しする時はインパクトが必要です。インパクトのある証しはコンパクトでなければなりません。だから15秒でまとめなければなりません。

私のロールプレイの相手は、かつて大学の教授をしていて、その後牧師になられたM先生でした。この先生はかつて教授だけあって話が長いのです。しかし、先生の証しはインパクトがありました。15秒でした。「私は、29歳まで荒野のような人生でした。ボロボロでした。しかし、イエス様を信じた時人生が全く変わりました。荒野に泉が湧いたのです。あなたもそうなりたいと思いませんか。」この経験が先生の信仰生活を支えているのです。それはまさに御霊なる神の働きです。これこそ、大きなしるしではないでしょうか。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。

 

Ⅲ.わたしがいのちのパンです(34-40)

 

では、そのパンとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。34節から40節までをご覧ください。34節と35節をご覧ください。

「そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 

イエス様が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言うと、それを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この段階でも、彼らはイエス様が与えるパンは信仰によって与えられる霊的なパンであることを理解していませんでした。

それに対して、主はこのように言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

ヨハネの福音書の中には、「わたしは・・・です」という言い方が7回出てきます。その一つが、この「わたしはいのちのパンです。」です。そのほかに、

「わたしは世の光です。」(8:12)

「わたしは羊たちの門です。」(10:7)

「わたしは良い牧者です。」(10:11)

「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1)

とあります。これは、6章20節で、主が「わたしだ」と言われたところを学んだ時にも申し上げましたが、イエス様が存在の根源であられるということです。つまり、イエス様は神ご自身であられることです。ヨハネはこのように表現することで、主がどのような方であるかを表そうとしたのです。そして、ここで主は、「わたしはいのちのパンです。」と言われました。「わたしはいのちのパンを与える」と言われたのではなく、いのちのパンそのものであると言われたのです。これはとても重要なことです。イエス様がいのちに至る食べ物を与えてくだいますが、そのいのちに至る食べ物とは、イエス・キリストが持っておられるものであるというのではなく、イエス・キリストそのものがそれであるということです。ですから、その後のことばにあるように、「わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時でも、決して渇くことが」ないのです。キリストのもとに行くなら決して飢えることはありません。渇くことがないのです。なぜなら、キリストこそいのちのパンであられるからです。キリストこそ、私たちにいのちを与え、本当の生きがいを与え、私たちの人生を生き生きとしたものにしてくださるのです。あのM牧師の証しにあるよう・・・に。

 

ところが、ユダヤ人たちは、その主の許に行こうとしませんでした。彼らはキリストを見たのに信じなかったのです。見ているのに信じなかったのです。これは、今日キリスト教のいろいろなものに触れながらも、信じようとしない人たちと同じです。見てはいますが信じません。ある人はクリスチャンホームに生まれ育ち、それを見ていても信じようとしません。またある人は、ミッション・スクールに行ったり、キリスト教の集会に行ったり、クリスチャンの友達から聖書の話を聞いたり、いろいろな本に触れたりと、何らかの形でキリスト教に触れていても、信じようとしません。これらの人たちは、自分の霊の飢え渇きすら感じていないのかもしれません。肉体的には十分に栄養を補給して肥えていても、霊的には貧弱で、今にも倒れそうになっていることに気付いていないのです。

 

しかし、「父がわたしに与えてくださっている者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来るものを、わたしは決して人に追い出したりはしません。」これは驚くべき宣言です。父なる神が御子に与えてくれるものでなければ、御子のもとに来ることはありません。つまり、信仰を持つことさえできないというのです。私たちがキリストを信じることができるようになったのは、神が私たちを救いに選んでいてくださり、キリストを信じるように働いていてくださったからなのです。

 

自分のことを考えてみてもそう思います。小さい時にキリスト教の保育園に預けられ、青年時代に妻と出会いました。自分は何のために生きているのかわからなかった時、教会に行ってイエス様を信じることができました。なんでそうなるの?わかりません。どんなに脚本を書こうとしてもそうはならなかったでしょう。しかし、神は私が生まれる前から、いや、この世界の基が置かれる前から、そのように選んでいてくださいました。聖書にそう書いてあります。私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。だから、この救いは確かなのです。私が好きで信じたものであるなら、嫌いなったら離れてしまうということもあるでしょう。しかし、神がそのように選んでくださったので離れてしまうということはありません。神が掴んで離さないからです。「わたしのもとに来るものを、わたしは決して捨てません。」(現代訳)とあるとおりです。

 

それは39節と40節でも言われていることです。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」」これは何のことかというと、復活のいのちのことです。イエス様は27節で「永遠のいのち」について語られました。また、33節では「天からのパン」について語られました。ここでは、最後の時に天の御国に入れてくださる復活のいのちについて語っています。つまり、神が御子をこの世に遣わされたのは、私たちが御子にあって永遠のいのちを持ち、そのいのちに与ったすべての人を一人も失うことがないようにし、最後の時に天国に入れてくださるためだったのです。

 

私たちの人生は、肉体の死で終わるものではありません。その先には「復活のいのち」が用意されています。そのいのちに与ることができるように、イエス様は確実に導いてくださいます。それが神のみこころなのです。この世にあっては、悪魔の執拗な攻撃に、時に失敗したり、意気消沈したり、不安になったり、動揺したりすることがありますが、しかし、このキリストの御手から落ちることは決してありません。終わりの日に必ずよみがえらせていただけるのです。

 

それなのに、どうして私たちは、自分のような者はダメだと言って、落ち込んでいるのでしょうか。それはまさに悪魔の思うつぼです。たとえ神様でも自分のような者は救うことはできないだろうと思わせるからです。でも、キリストはあなたを救うことができないのでしょうか。たとえあなたが自分はダメな人間だと思っていても、キリストはあなたを救うことがおできになります。なぜなら、キリストはいのちのパンであられ、すべての存在の根源であられる神だからです。キリストの使命は、父なる神のみこころを行うことであり、父なる神のみこころは、御子に与えてくださった人を、ひとりも失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。神の御子であられるイエスは、その御心を確実に実行されます。ですから、私たちはこの方に信頼しなければなりません。キリストに信頼する者をキリストは決して捨てることはありません。みんな御国に入れてくださいます。この方にゆるぎない信頼を置く人は幸いです。私たちも自分を見て落ち込むのではなく、主イエスの約束に信頼し、そこから慰めと励ましをいただき、与えられた信仰の生涯を全うさせていただきましょう。