ヨハネの福音書8章12~20節「わたしは世の光です」

きょうは「わたしは世の光です」と言われたイエスの言葉から学びたいと思います。皆さんは、「もしも、光がなかったら」と考えたことがありますか。そうなったら、何も見えず、私たちはこの世界で、何が起こっているかを知ることができません。同様に、私たちの人生に霊的な光がなければ、私たちは、自分の人生の目的やその意味を知ることができず、闇の中を生きることになってしまいます。

 

見ることも、聞くことも、話すこもできなかったヘレン・ケラーは、その三重苦を乗り越え、多くの人々の「希望の光」となりました。彼女はこう言っています。「目に太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なのは、心に光をもつことです。」私たちは、心に光をもっているでしょうか。その光は、どこから来るのでしょうか。それはどんな光なのでしょうか。きょうはこの光であるキリストについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.世の光であられるキリスト(12)

 

まず、イエスは世の光であられるということについてです。12節をご覧ください。

「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

 

「イエスは再び人々に語られた」という言葉遣いは、その前の話とぴったり調和しています。イエスは、2節で宮に入られた時、集まって来た人々に教え始めました。その時、姦淫の現場で捕らえられた女が主イエスの前に連れて来られたために、話を一時的に中断しなければなりませんでしたが、事件の決着もつき、告訴人も告訴された者も立ち去った後で、主イエスは教えを再開されました。ですから、その前の姦淫の現場で捕らえられた女の人がイエス様のもとに連れて来られたという話は、実際にあった話なのです。

 

イエスが再び語られたこととはどんなことでしょうか。ここには、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあります。ヨハネの福音書には、「わたしは・・です」という宣言が7回出てきますが、この「わたしは世の光です」というのは、その2回目です。1回目は6章35節、あるいは6章48節に出てきました。「わたしはいのちのパンです」という宣言です。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ここでは「わたしは世の光です。」と言われました。「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」これはイエス様ご自身が約束のメシヤであるという宣言です。すなわち、イエスが救い主であられるということです。

 

イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。ある註解者によると、7章で仮庵の祭りについての言及がありましたが、その祭りの大いなる日に、イエスは立ってこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(7:37-38)

それは、この祭りのクライマックスとも言うべき祭りの最終日のことでした。その終わりの大いなる日に、シロアムの池から運ばれた水を、祭司が祭壇に注ぐという儀式がありましたが、それともう一つの儀式がありました。それは、神殿の中をいっぱいに埋めた祭司や民が、手に持った燭台のろうそくに一斉に火を灯したのです。それはまさに真昼のように、エルサレムの隅々を照らしました。ユダヤ教のラビたちはそれを「神の栄光の光」と呼びました。こうした儀式を背景に、イエスはご自分こそまことの神の栄光の光であると宣言されたのだ、というのです。

 

皆さん、この世は真っ暗闇です。この「闇」というのは、神について全く知らないという意味です。どこに行っても神を知ることができません。私たちの周りにはスマホをはじめとした文明の機器がたくさんありますが、どこを探しても光を見ることができません。どんなにテレビやネットの情報を見ても、それらのものが私たちの人生を照らしてくれるでしょうか。いいえ、そうしたものはとても便利なものですが、むしろ私たちを暗闇の中へと放り投げてしまいます。どこを探しても、私たちの人生を照らす光を見つけることができません。

 

しかし、イエスはここで、「私は世の光です」と言われました。私たちは、この光であるイエスによって照らされるまで真理を見ることができません。それはこの前に記された内容を見てもわかります。律法学者やパリサイ人たちは、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、律法では、こういう女を石打ちにするようにと命じていますが、あなたは何と言われますかと、イエスに詰め寄りました。するとイエス様は何と言われたでしょうか。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。

すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、その女とイエス様だけが残されました。イエス様の光に照らされた時、彼らは自分も罪人であり、死ななければならない存在であることが示されたのです。同じように、私たちもイエス様によって照らしてただかなければ、神の真理を知ることはできないのです。イエスは世の光です。イエスに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

しかもその光はただの光ではありません。ここには「いのちの光」とあります。この「いのちの光」とは、私たち人間が人間として生きていく上で必要な光であるということです。それは霊的光のことであって、いのちを与える光です。どんな人でもイエス・キリストを信じるまでは霊的に死んでいますが、イエス・キリストのもとに来て、キリストを信じる時、このいのちが与えられます。こうして、神が私たちのために用意しておられる本当の人生を歩むことができるのです。

 

以前、NHKテレビで、「無縁社会~新たなつながりを求めて~」という番組を放映していました。かつては、人と人とが何らかの絆によって結ばれていたのに、現代ではそれが失われて来ています。家庭において、職場において、その他の人間関係において、人と人の結びつきが薄れてきている。人間関係のストレスから、部屋に閉じこもって、インターネットのつながりだけで生きている人々、人生に行き詰って自殺へと追い詰められた人々が増えています。そのような無縁社会と向き合って、辿り着いたところがここでした、と紹介されたのが、和歌山県白浜にある教会でした。この教会の近くにある三段壁という自殺の名所があって、一年中自殺者が絶えません。そこでこの教会ではそこに看板を立て、自殺する前にまず教会に連絡するようにと呼びかけました。その結果、この20年間に905人の自殺志願者を止まらせました。

それでNHKが今のこの無縁社会の問題の解決を捜し求めるうちに辿り着いたのが、この白浜に立っている十字架を掲げた教会だったというのです。このことは、この社会と私たちの人生の真実を深く物語っている象徴的な出来事ではないかと思います。つまり、暗闇の中で苦悩する私たちは、光であられるキリストのもとに引き寄せ去られて初めて安らぎが与えられ、人間らしい交わりを取り戻すことができるということです。キリストこそこの世の光です。この方に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

もし光がなかったらどうなるでしょうか。先月、北海道で、猛烈な砂嵐が発生し、高速道路ではバスやトラックなどが絡む多重事故が相次ぎ、計14人以上がけがをしました。原因は何かというと、その砂嵐のため視界が不良であったことです。視界ゼで周りが全く見えませんでした。そうなりますと、車のライトも役に立ちません。前方にも後方にも全く光が届かず、砂嵐の暗闇に閉じ込められてしまったのです。かろうじて、車の左側に白いペンキで引かれた道路の端の境界線がかすかに見えました。そのわずかに見える境界線をたどりながら、恐る恐る前進していくのですが、前進していくことができません。後ろから車が来たら、追突されてしまうかもしれませんから。早くサービスエリヤに逃げ込むしかないのです。

 

それは私たちの人生も同じで、もし光がなかったら、どこを、どのように進んで行ったら良いかがわからないため倒れてしまうことになります。その光がイエス・キリストです。キリストに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

私はイエス様を信じて40年になりますが、もし、イエス様と出会っていなかったらどうなっていただろうと思うことがあります。おそらく、とんでもない人生を送っていたのではないかと思います。しかし、そんな者がキリストと出会い、キリストの光が与えられたことで、キリストに支えられながら、光の中を歩むことができたのは、本当に感謝なことです。

 

Ⅱ.キリストの証言の確かさ(13-18)

 

しかし、どうしてキリストが光だと言えるのでしょうか。第二に、キリストの証言の確かさです。すると、イエスの言葉を聞いたパリサイ人たちがイエスのもとにやって来てこう言いました。13節、「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」

 

どういうことでしょうか。「自分で自分のことを証ししています」とは、「自分で自分の証言をしている」ということです。そんな証言を誰が信用することができでしょうか。そのようなものを信用するのは難しいでしょう、というのです。旧約聖書にも、「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分の唇でではなく、よその人によって。」(箴言27:2)とあります。また、モーセの律法にも、「二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。」(申命記17:6)と、証言が真実であると認められるためには2人ないし3人の証言が必要とされていました。ですから、自分で自分のことを証言することはできないと言ったのです。

 

それに対してイエスは、それが真実であることを証明するためこう言いました。14節です。

「イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。」

この「自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのか」というのは、その人の本質を表しています。つまり、イエスはここでご自分が父なる神から来られた神ご自身であると言っているのです。イエス様が彼らのところに来られ、彼らの前に立っておられるのは、一般の預言者やありふれた証人としてではなく、神から遣わされたメシヤとしてここにいるのだ・・・・と。それゆえ、ご自分の証言が信頼できるものであると言えるのです。彼らにはそのことがわかりませんでした。彼らはイエスが神であり、神から遣わされた方であるということを信じることもできなかったからです。

 

そればかりではありません。15節から18節までにはこうあります。

「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」」

 

「あなたがたは肉によってさばきますが」の「肉」とは、下の欄外の説明にもあるように「人間的判断」のことです。つまり、彼らは人間的判断にしたがって、外見や、この世の基準で判断していました。ですから、正しく判断することができなくなっていたのです。彼らは、自分たちの目に見えるところによってキリストを判断していたために、イエスのうちにある神としてのご性質を見ることができませんでした。だって、ただの大工の息子ですから・・・。そんな者をだれがメシヤだなんて認めることができるでしょうか。でもそれは人間的な判断でしかありませんでした。彼らの思いは肉的で、偏見に満ちていました。だから、イエスを正しい目で見ることができなかったのです。

 

しかし、イエス様の本質はそうではありませんでした。主はだれをもさばきません。これはどういうことかというと、だれもさばかないということです。たとえ最悪の罪人であっても、罪に定めるようなことはなさいません。それは、やがて終わりの日にそのような時があるでしょうが、今はそうではありません。今はさばいたり、罪に定めるようなことはしないのです。なぜなら、イエスは人々を罪に定めるために来たのではなく、罪人を救うために来たからです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(ルカ2:17)

 

しかし、たとえイエス様がさばくとしても、そのさばきは正しいのです。なぜなら、イエス様は一人でさばかくのではなく、イエスを遣わされた父がさばかれるからです。これは、主が今は審判者としての務めを果たされなくても、それはそのような資格がないからではなく、むしろその反対で、もし主が誰かの行為や意見をさばくとしたら、それは完全に正確で信頼できるものであるということです。なぜなら、主はひとりではないからです。主と、主を遣わされた父なる神との間には、分かつことのできない結びつきがあるので、そのさばきは確かなものなのです。

 

17節を見てください。それは、先ほども申し上げたとおり万人が認めるモーセの律法の中でも言われていることです。このように二人の証言が信頼に値するものであることを認めるなら、イエスの証言は真実であると言えます。18節、なぜなら、イエスご自身が神から来られた神であり、その遣わされた父なる神の二人の証人がいるからです。これ以上、どんな証言が必要だと言うのでしょう。これで十分なはずです。

 

ですから、イエスを認めることは父なる神を認めることであり、イエスを認めないことは、父なる神をも認めないことです。イエス様こそこの世の光であり、私たちを闇の中から救うことができるいのちの光なのです。あなたはこのことを認めますか。

 

Ⅲ.キリストを通して神を知る(19-20)

 

第三のことは、だから私たちは、このキリストを通して神を知ることができるということです。19節をご覧ください。

「彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」」

すると彼らはイエスに言いました。「あなたの父はどこにいるのですか。」おそらく、この質問は本当に神を知りたいという願いからというよりも、イエスに対してあざけりを込めた皮肉な質問だったのではないかと思います。

 

それに対してイエスはこう言われました。19節、「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」

結局のところ、彼らは神について全く知りませんでした。彼らは聖書から神について教える立場にありながら、その神のことを全く理解していなかったのです。なぜでしょうか。キリストを知らなかったからです。もし、キリストを知っていたなら、父なる神のことも知っていたでしょう。しかし、彼らはキリストを受け入れることができませんでした。それで、神のことを知らなかったのです。

 

どうしたら神を知ることができるのでしょうか。それは、「キリストを通して」です。キリストについて無知でありながら、神について何事かを正しく知っていると思っている人は、全くの思い違いをしています。その人が知っているのは聖書の神ではなく、自分自身が考えている神であり、想像の産物なる神にすぎません。私たちが神を知るために必要なのは、このキリストを通してなのです。キリストは、神を説き明かすために来られたひとり子の神であり、この神のみもとに私たちを導くために、その御業を成し遂げてくださった方です。キリストはこう言われました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

キリストが道であり、真理であり、いのちです。だれも、キリストを通してでなければ父のみもとに行くことはできないし、父を知ることもできないのです。

 

このことはとても重要なことです。ある人たちは、「神を信じることは簡単にできるけれども、イエス・キリストが出てくると分からなくなる」と言います。でも、神を信じたいと思うなら、このキリストから始めなければなりません。キリストを自分の罪からの救い主であると知るなら、その人は神を知ることができるからです。でもキリストを退けるなら、ここに出てくるパリサイ人のように、どんなに知識があっても、神について全く無知であり、結局のところ、闇の中を歩むことになるでしょう。しかし、最も貧しく、最も卑しい人であっても、キリストを信じる人は、神を知ることができるようになるのです。なぜなら、キリストこそこの世の光だからです。この的を逃さないようにしましょう。最近は、人間が考え出した心理学や哲学といった学問によってキリスト教信仰を持とうとする人が少なくないわけではありません。確かにその方がわかりやすいかもしれませんが、そうしたものはあくまでも人間が考え出したものにすぎず、人を滅びに導くものでしかありません。私たちが神を知るためには、聖書が示しているイエス・キリストを通してのみなのです。なぜなら、キリストこそこの世の光であられるからです。

 

皆さんは、おたまじゃくしがカエルになるのを観察したことがありますか。おたまじゃくしは、数珠つながりになった受精卵から50日してカエルになりますが、おたまじゃくしからカエルになる時に光を受けないと、おたまじゃくしはずっとおたまじゃくしのままで、やがて十分な呼吸ができなくなってしまい死んでいくのだそうです。

それは私たちにも言えることです。私たちも、イエス様からいのちの光を受けなければ、おたまじゃくしと同じように、罪の泥沼の中に沈んでしまうことになります。聖書は、私たちが罪の暗やみの中に沈んでいる状態を「彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4:18)と言っています。しかし、私たちもイエスの光を受けるなら、暗やみから光に変わり、光の子になることができるのです。エペソ5:8ではこう言っています。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」あなたもイエスの光を受けているでしょうか。その光の中を歩いているでしょうか。

 

ルイ十四世といえば、「朕は国家なり」と言ってフランスに君臨した王でした。彼が死んだ時、遺言にしたがって彼のからだは、もっとも豪華な衣にまとわれ、黄金に輝く棺におさめられ大聖堂のまん中に安置されました。聖堂内のすべてのともし火は消され、ただ一本の大きなろうそくだけが棺の上にともされて、黄金の棺を照らしていました。それは、フランスの王だけが、栄光に輝く王であることを象徴するためでした。やがて、ヨーロッパ全土から集まった王侯貴族が参列して、厳かに葬儀がはじめられましたが、その司式にあたった司教は、葬儀のなかばで、突然、棺の上に一本だけともされていた、そのともし火をかき消しました。司教は、真っ暗になった会堂にひびきわたる声で言いました。「ただ神のみ偉大なるかな。」この司教は、この世の権力を誇り、神を見失っていた王侯貴族たちに、神のみが栄光に輝く王であり、世界の光であること示したのです。「世の光」であるイエス・キリストを見失った社会は暗やみです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスの招きのことばに、今こそ従いましょう。