イザヤ書1章21~31節 「初めのようにされる神」

イザヤ書からのメッセージですが、きょうは「初めのようにされる神」というタイトルでお話したいと思います。イスラエルは神に愛された民なのにその神に背を向け、離れ去って行きました。その結果彼らは病にかかり、傷だらけになってしまいました。頭のてっぺんから足の先まですっかり弱り果ててしまったのです。そんなイスラエルに神は和解の道を示されました。もし悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださると約束されたのです。このようなパターンがこのイザヤ書には何回も何回も繰り返して出てきます。

きょうの箇所もそうです。きょうのところには、イスラエルのことが「忠信の都」と呼ばれていますが、この都が遊女になってしまいます。そのエルサレムをどのようにして回復してくださるのかが描かれているのです。きょうはこのイスラエルの回復について三つのことをお話したいと思います。第一のことは、この堕落した忠信の都の姿についてです。第二のことは、そんな忠信な都がどのように回復していくのかという神の計画についてです。そして第三のことは、ではそのためにどうしたらいいのかということについてです。

Ⅰ.遊女になってしまった忠信の都(21-23)

まず第一に堕落した忠信な都エルサレムの姿について見ていきましょう。21-23節をご覧ください。

「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。」

ここで神様は「どうして、遊女になったのか、忠信の都が。」と嘆いています。「忠信の都」とはエルサレム(イスラエル)のことです。エルサレムはまごころを尽くし、うそ偽りのない忠信の都として造られました。公正と正義にあふれていました。にもかかわらず彼らは、遊女となってしまったのです。ここで神様はイスラエルとの関係を夫婦の関係で表しています。夫婦にとって最も重要なことは誠実であることです。その誠実さが失われたことに対して夫である神が嘆いているのです。イスラエルが神様から与えられた契約に背いて、不従順、不信仰になってしまい、偶像に心を移すようになったのをご覧になって、「どうして、遊女になったのか」と嘆いておられるのです。

聖書に出てくる人物で、最も公正と正義に満ちていた人物はだれでしょうか。もちろんイエス様はそうですが、イエス様以外にあげるとしたらおそらくダビデでしょう。彼はバデシェバとの姦淫の罪を犯しましたが、神様に対しては本当に忠実な人でした。すべてのことに神の主権を認めていました。サウルが洞窟にやって来て彼を殺すチャンスがあったのに、サウルに手をかけることをしませんでした。彼が油注がれた王様だったからです。それで着物のすそを切りましたが、それだけでも良心が痛みました。彼はすべてのことに神の主権を認めていたからです。彼は、良いことも悪いことも、彼の人生に起こるすべてのことが神から来ていると認めていました。それほど神を恐れ、神に従っていました。そのような誠実さが求められていたのです。

けれども、イスラエルはそうではありませんした。神様から与えられた契約に背き、不信仰になり、不純になり、偶像に心を移すようになったのです。それはちょうど銀がかなかすに、良い酒が水で割ったようになったのと同じです。22節を見ると、「おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。」とあります。「かなかす」とは、不純物の多い金属を指す場合に使われることばです。銀は銀であるからこそ意味があるのに、そこに不純物が入ってしまったら価値がなくなってしまいます。それは「良い酒」も同じです。良い酒を水で割ったらどうなるでしょうか。私はお酒を飲まないのでよくわかりませんが、あまり美味しくないでしょう。ウィスキーなら「水割り」がありますが、日本酒の水割りは聞いたことがありません。一番わかりやすいのはコカ・コーラの水割りです。皆さんもコカ・コーラを水で割ったら飲めますか?本当にまずいですよね。コカ・コーラはコカ・コーラだからこそ意味があるのです。コカ・コーラをを水で割ったらスカッと爽やになりません。不純物が入ると本来の成分を失ってしまうのです。まさにイスラエルはそのような状態でした。

その結果どうなったでしょうか?23節です。「おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。」これはどういうことかというと、彼らが神様から離れた結果、特にその国の指導者たちは盗人の仲間のようになり、わいろを愛したり、報酬を求めるようになったということです。つまり、物質主義に走るようになったということです。

人々が真の神を拒むと、このように物質を追い求めるようになるのです。神様の代わりに受け入れるものは目に見える物しかないからです。こういうのを唯物論と言います。もし人が唯物論を受け入れるなら、その人は人間を理性のない、ただ本能のままに生きている動物のようになってしまうのです。その結果、倫理観は低下し、弱肉強食の争いを繰り返し、政治が堕落し、不道徳が蔓延することになるのです。イスラエルは、創造主でいます神を拒んだことで、不道徳に陥ってしまいました。

これはイスラエルだけでなく、私たちの社会も同じではないでしょうか。神様を拒み自分勝手に生きようとした結果、人々は目に見える物を追い求めるようになってしまいました。そしてその結果、堕落と破滅が生じ、人類が混乱するようになってしまったのです。

イエス様は、「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)と言われました。塩が塩気なくしたら意味がありません。そのような塩は何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられてしまうのです。私たちはクリスチャンとして、地の塩としての役割を十分果たす者でなければなりません。

ではその使命とは何でしょうか。それはこのキリストの花嫁として誠実であることです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)イエス様に心と思いを集中しなければならないのです。神様が私たちに求めておられることは忠信であることです。クリスチャンとして召されたというのはこういうことなのではないでしょうか。

Ⅱ.忠信の都の回復(24-27)

ではどうしたらいいのでしょうか。24節から27節をご覧ください。ここには、

「それゆえに、―万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ―「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。こうして、おまえのさばきいつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、中信な都と呼ばれよう。」 シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。」

とあります。24節を見るとそのようなイスラエルに対して、神様はさばかれるとあります。「それゆえに、万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ。ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。」「それゆえに」とは、忠信の都であるはずのエルサレムが遊女になってしまったのでということです。遊女となってみなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも取り上げないのでということです。それゆえに、神はイスラエルをさばかれるのです。

ここには神様の名前が「万軍の主」とか、「イスラエルの全能者」とありますね。「万軍の主」というのは軍事的な意味合いを持った神の呼び名で、全能者というのは、神の大能の力を表しています。つまり、イスラエルの指導者たちがどんなに権力と力を持っていようとも、それよりもはるかに力のある万軍の主が、みなしごややもめたちのために戦ってくださるということです。そして、反逆した者たちに報いを与えられるというのです。

しかし25節を見ると、そうした神のさばきは単に彼らをさばくために行われるのではなく、彼らから不純物を取り除き、彼らを回復される目的で行われることがわかります。25,26節、「しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。こうして、おまえのさばきいつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、中信な都と呼ばれよう。」

いったいこれはどういうことでしょうか?これは終末における大患難時代のことが預言されているのです。ダニエル書9章27節を開いてください。ここには、

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげものとをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

とあります。ダニエルはやがてこの世の終わりに、七年間の患難の時が来ることを預言しました。それは「一週の間」です。「一週の間」とは七年のことを指します。ですから半週とは三日半、つまり三年半のことになります。この七年間の患難時代、特に後半の三年半はそれが極度に達するので大患難時代と呼ばれていますが、ユダヤ人たちはこの時代を通るようになるのです。そしてこの大患難時代の苦しみの中で、かなかすが灰汁のように溶かされ、浮きかすが取り除かれるのです。つまり、彼らの不信仰が取り除かれるわけです。不信仰が取り除かれ、悔い改めて、イエス・キリストを信じるようになります。神様に従う新しい心が与えられるのです。こうして、イスラエルは、みな救われる、という聖書の預言が成就するのです。エレミヤによって預言されたみことばを見てみましょう。

「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ― 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを。書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)

また、預言者エゼキエルも次のように預言しています。エゼキエル書36章24~27節です。 「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」

このようにして神の御国である千年王国が実現するのです。患難時代の間に、悔い改めたイスラエルの民にはキリストを信じる信仰が与えられ、新しく生まれ変わるのです。千年王国では、彼らは真心から神を畏れ敬い、心を尽くし思いを尽くし、力を尽くして神の戒めを守る者になるのです。それでエルサレムの都は正義と忠信の人々に満ちた町になるのです。神様はこのようにしてイスラエルを回復しようと計画しておられたのです。ですから27節にこうあるのです。

「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。」

シオンはどのように回復するのでしょうか?それは軍事的な力や政治的な力によるのではありません。公正によって贖われ、正義によって贖われるのです。どういうことでしょうか?「贖う」ということばは「代価を払って買い取る」という意味です。神が払われる代価とは神の御子イエス・キリストです。御子イエス・キリストによってシオンに住む新しい民を買い取られるのです。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じることによって、シオンを贖ってくださるのです。終わりの日に、そういう時に必ずそういう時がやってくるのです。

皆さん、これが神様が計画しておられたことなのです。時として私たちにも激しい試練が襲ってくることがありますが、それはいったい何ためかというと、私たちを滅ぼすためではないのです。私たちからかなかすや浮きかすを取り除き、私たちが初めのように、昔のように、純粋な信仰を取り戻すために、神様はそのような試練を与えられるのです。

神様は、罪を犯してその信仰のレースからはずれようとする人を、必ず追いかけて来られます。それはその人をさばくためではないのです。その人を愛しておられるからなのです。もう一度、ご自分の愛の中に引き戻したいのです。そのために神様は試練を与え、「そのままではだめですよ。まっとうな道に戻りなさい」と警告されるのです。

アメリカでは毎年何千台という車が盗まれますが、ある時、ロサンゼルスで、一台の車が盗まれました。それは日常茶飯事のことで、特別なことではありませんでしたが、アメリカ中の注目を浴びたのです。  なぜその事件が注目を浴びたのかというと、実は、ある人が週末を利用して、自分の山小屋に行こうとしましたが、その山小屋には大量のねずみが発生するので、その人は、そのねずみを殺すために、毒入りのクラッカーを用意して、それを持って車に乗り込んだのです。ところが、車に乗り込んだとき、忘れ物を思い出して家の中に取りに戻ったのです。そのすきに、泥棒がやって来て、車を盗んで行ったのです。  盗まれた人はすぐに警察に電話をしました。「車が盗まれたのです。中にはねずみを殺すための毒入りのクラッカーが入っています。もし誤って食べたりしたら死んでしまいます。急いで捕まえてください。」  それを聞いた警察は、パトカーなどあらゆる方法を使って泥棒を捕まえようとしました。テレビでもラジオでも流しました。するとその車を盗んだ人は、ロサンゼルスやカリフォルニア中の人が自分を追いかけているような気がして、一生懸命逃げました。いったいなぜおまわりさんが、そんなに必死に追いかけたのでしょうか?彼の命を救うためです。まさか、そんなとで自分が追いかけられているとは知らなかった彼は、捕まったら裁かれると思って必死で逃げたのです。  同じです。神様は私たちの命を救いたいのです。ですから罪を犯して神から離れて行こうとする人々を追いかけて行くのです。それは私たちを救いたいからなのです。ですから神は試練を与え、その中で悔い改めるように警告を発せられ、正しい道に導こうとされるのです。Iペテロ1:6-7節を開いてください。ここには、

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」

とあります。私たちは試練の中にあっても大いに喜ぶことができます。なぜなら、いまは、しばらくの間、試練の中で悲しまなければならないのですが、その試練の中で練りきよめられ、やがて称賛と光栄と栄誉に至ことを知っているからです。神様に似た性質へと私たちが造り変えられるのです。それは、火で精錬された金よりも尊いものなのです。ですからパウロは、第一コリント人への手紙10章13節のところで、次のように言っているのです。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」    悪魔は私たちを倒そうと働きかけてきますが、神様は私たちの救いのことを考えてえられます。私たちが霊的に成長することを願っておられるのです。そしてそのために試練を与えてくださいます。ですから、私たちが耐えることができないような試練を与えることはなさいません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えてくださるのです。試練がやって来ると、「もうだめだ」と倒れそうになるかもしれないけれども、神様は必ず私たちをささえ、耐える力を与えてくださるのです。ですから私たちは試練そのものではなく、その試練の先にある希望を見ていかなければなりません。

Ⅲ.忠信の都となるために(28-31)

ではどうしたらいいのでしょうか?ですから、悔い改めなければなりません。悔い改めないとどうなるのでしょうか?悔い改めないとそこに神のさばきが臨みます。忠信の都が回復されることはないのです。28-31節をご覧ください。

「そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。」

そむく者は罪人とともに破滅し、うせ果てます。そういう人は葉のしぼんだ樫の木のようになります。水のない園のようになるのです。これはカラカラに乾いた状態になるという意味です。そして31節にあるように、麻くずのように、また、火花のようになるのです。これは燃えて、すぐに無くなってしまうという意味です。どんなに自分が「つわもの」のように強い者であるといきがっても、すぐに燃えて消えてしまうのです。それは彼らが神にそむき、神が忌み嫌われることを行うからです。29節には、「まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。」とあります。この「樫の木」とか「園」というのは、偶像礼拝が行われていた場所のことです。また、その儀式の一環として不品行が行われていました。その不品行によって生まれた子どもほふる(殺す)という恐ろしいことが行われていました。それはもともとカナン人たちの行っていた異教的な儀式でしたが、そうしたことを彼らが平気で行っていました。そのようなことへの報いは何でしょう。それは当然、恥であり、はずかしめです。そのようなことをする彼らに臨むのは恥とはずかしめという神のさばきでしかありません。

皆さん、神様は回復してくださいます。遊女となってしまったエルサレムを「忠信の都」にしてくださいます。彼らを初めのように、昔のようにしてくださる。これが神様の約束です。そのために必要なことは、神様の御前に砕かれ、悔い改めて、神に立ち返ることです。そのために神様は私たちに試練を与えられます。私たちはその試練の中でしばらくの間悲しまなければならないのですが、神様は 、その試練の中で私たちを練りきよめてくださいます。私たちの中から不信仰や不従順といったかすを取り除き、私たちをみこころにかなった者に造り変えてくださるのです。ここに回復の希望があります。私たちはこの神様の救いのご計画を信じ、救い主イエス・キリストに信頼しながら歩んでまいりたいと思います。シオンは公正によって贖われ、正義によって贖われるからです。