イザヤ書1章10-20節 「雪のように白く」

きょうはイザヤ書からの第二回目のメッセージとなります。前回のところには、神に背いたイスラエルの姿が描かれていましたが、今回のところには、その罪を雪のように白くしてくださる神の恵みが語られています。

スコットランドのある小さな宿屋で釣り人たちが集まりお茶を飲んでいました。その中のひとりが自分の逃した魚の大きさを説明するためにああだこうだと手を振り回していたとき、女中が運んできたティーカップにうっかり手がぶつかり、カップが飛んで、白い壁に褐色のシミが付いてしまいました。一瞬にして起こった失敗でしたが、当事者は大変すまなそうにしていました。言い訳をしながら謝るのを気の毒に思ったのか、近くにいた人が近寄り「心配するな」と言ってペンを取り出し、壁に出来たシミの周りに絵を描き始めました。すると、大きくてすらりとした鹿の姿が現れました。その人は当時イギリスで活動していた画家エドゥイン・ランドシアでした。私たちの人生には多かれ少なかれ、消してしまいたいシミがあります。そのシミが消し去られたらどんなにうれしいことでしょう。

きょうはこのシミを消し去ってくださる神の恵みについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、聞き従うことはいけにえにまさるということです。第二のことは、人間の罪がどれほど深くても、もし悔い改めるなら、神は雪のように白く、あるいは羊の毛のように白くしてくださいます。第三のことは、ですから悔い改めて、神に聞き従いましょうということです。

Ⅰ.聞き従うことはいけにえにまさる(10-17)

まずはじめに、神が喜ばれることはどんなことなのかについて見ていきたいと思います。10-17節までをご覧ください。

「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙―それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日―会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

ここで神は、ユダの民を「ソドムの首領たち」とか「ゴモラの民」と呼んでいます。すごいですね。ソドムとかゴモラというのは不道徳の代名詞です。神殿礼拝をちゃんとしていたユダの民に対して、「ソドムの首領たち」とか「ゴモラの民」というのはあんまりです。なぜ神はそのように呼ばれたのでしょうか。それは、彼らがそれほどに堕落していたからです。この世と全然変わらないような歩みをしていたからなのです。15節には、「あなたがたの手は血まみれだ」とか、16節には、「わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くことをやめよ。」とありますが、そういう生活をしていたのです。それなのに彼らは多くのいけにえをささげていました。新月の祭りと安息日、会合の召集、不義と、きよめの集会をしていました。

何が問題だったのでしょうか。それがただの形だけであったことです。心がなかったのです。ですから神様は「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と仰せられたのです。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた」と言われました。「雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。」のです。また、そうした数々の祭りや集会に耐えられない、いや私の心は憎むとまで言われたわけです。それは神様にとって重荷となり、負うのに疲れ果てたと言われるのです。そうしたささげものや祭りに心が伴っていなかったからです。ただ形式的に行われていた。神様はそれを憎まれたのです。

皆さん、信仰が伴っていないただの形式的な儀式を、神様は求めておられません。神様が求めておられるのは、私たちの信仰なのです。私たちが神を恐れ、心から神に従って生きること、それを求めておられるのです。多くの人は旧約聖書は律法で、新約聖書は信仰だと言いますが、それは間違いです。聖書は最初から最後まで一貫して信仰を求めています。ヘブル人への手紙11章3節と4節を開いてみましょう。そこには、

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

とあります。聖書は最初から終わりまで信仰なのです。神のみことばに聞き従うかどうかです。しかし、彼らにはそれがありませんでした。神に聞き従うことではなく、いけにえをささげるとか、例祭を守るといった儀式的なこと、表面的なことを重視していました。けれども、神様が求めておられることはその中身なのです。その最も良い例は、サウル王がいけにえをささげたという行為に現れています。Iサムエル記15章に出てくる内容ですが、主はサムエルを通してサウル王に、「アマレクを打って、すべてのものを聖絶せよ。」と命じられました。(15:3)男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺すようにと命じられたのです。そこでサウル王はアマレクを打ち、その民を残らず剣の刃で聖絶しました。(同15:8)しかしサウルは、肥えた羊や最も良いものを惜しみ、聖絶することをしませんでした。なぜでしょう。神様にいけにえとしてささげようとしたからです。そのときサムエルに主のことばがありました。そして、サウル王が主のことばに背いたと告げました。翌朝早く、サムエルがサウルのところへ行ってみると、「メェ~」とか、「モオ~」といった家畜の鳴き声が聞こえるではありませんか。いったいこれはどういうことかとサムエルに尋ねると、民が、神様にいけにえをささげるために羊と牛の最も良いものを惜しんだのです、と答えました。それは言い訳にすぎませんでした。神様が言われたことは、女、こども、家畜に至るまでみな滅ぼせ、聖絶しなさいということだったのに、彼はその通りにしなかったのです。こうすれば神は喜んでくれるにちがいないと勝手に思い込んだ。だれに聞いたってそうだ。それが常識的なことだよ。しかし、神が言われることはそうではありませんでした。神様は次のように言われました。

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(Iサムエル15章22,23節)

聞き従うことが大切です。聞き従うことはいけにえにまさるのです。もし聞き従うことがなかったら、たとえ人間的に見てとてもいいと思うようなことであっても、それは全く意味がありません。私たちのすべての行いは、神様が言われていることを聞いて、イエス様が命じられていることを聞いて、それを行うことです。それが信仰です。なのにサムエルはそれをしませんでした。多くの場合私たちも、このようなことがあるのではないでしょうか。神様が言っていることよりも何をするかが中心になってしまうのです。そのようにするこで信仰に生きていることを示そうとしたり、補おうとするのです。

このお正月に「サイモン・バーチ」という映画を観ました。サイモン・バーチは、驚くほど小さな赤ん坊として生まれましたが、彼はそれを悲観することなく、自分がそのように生まれてきたのは、神様の何らかの使命があるからだと信じていました。とても信心深い子どもでした。あるとき礼拝が終わった後で牧師が「下でどうぞコーヒーとドーナッツを食べてくつろいでください」と言うと、サイモンが「神様とドーナッツがどういう関係があるの?」と尋ねるのです。すると牧師が、「ドーナッツを食べながら今後の活動について話し合うんだよ」と答えると、彼はこういうのです。「神様は活動に興味はないし、お金集めのために教会を作ったんじゃない。」  私はその言葉を聞いて考えさせられました。神様は活動に関心があるのではなく、神の言葉に聞き従うことに関心を持っておられるのです。神様が望んでおられることは何なのか、何が良いことで神に受け入れられることなのか知って、それを行っていくこと。そのことに関心があるのです。  ところで、その後教会で日曜学校のキャンプに参加することになるのですが、バスが事故を起こし、川に突っ込んでしまうのです。そのときサイモンは窓の隙間をくぐって子どもたちを救出ましたが、おぼれ死んでしまいました。瀕死の床でサイモンはこう言うのです。「僕の小さな身体に意味があっただろう?」  あったんです。その小さなからだであったからこそわずかな隙間からバスの中に入って子どもたちを救うことができました。これが彼に与えられていた使命だったのです。神様から与えられた使命を知って、そのために生きること。神様はそれを喜んでくたざる。それが信仰なんだとサイモン・バーチは訴えていたのです。

私たちもややもするとこの信仰の本質を失ってしまうことがあります。何かをすることに焦点が向いてしまうことがあるのです。しかし、聞き従うことはいけにえにまさるのです。神様が願っておられることは何なのかをみことばと祈りの中で示していただいてそれを行う。それが信仰なのです。

Ⅱ.雪のように白く(18)

第二のことは、もし悔い改めるなら、神はあなたを赦してくださるということです。18節をご覧ください。

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

ここで主は、「さあ、来たれ。論じ合おう」と言われます。この「論じ合おう」ということばは法廷用語です。ここで神様は判決を下す裁判官としてではなく、裁判席から被告席まで降りてきて、問題解決の糸口を共に見つけ出そうとしておられるのです。その解決のために差し出された打診案はどのようなものでしょうか。それは、

「たとえ、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

ということでした。まずここで知らなければならないことは、私たちの罪は緋のように赤いということです。緋のように赤いとはどういうことでしょうか。なぜ黒じゃなくて赤なんでしょうか。それは、この緋色とか紅というのが血の色を表しているからです。15節を見ると、「あなたがたの手は血まみれだ」とありますが、その血を表しているわけです。罪のゆえにながす血です。ですから緋色や紅は罪の色なのです。それはどんなに洗っても落ちることのない罪の頑固さを表しているのです。私たちの罪は緋のように赤く、紅のように赤いのです。私たちはそのような性質を持っています。これを無視して、これをないがしろにして、本当の救いはわかりません。この事実を直視しないで避けて通ろうとすれば、福音がボケてしまうのです。私たちはなるべく自分をよく見せたがります。しかし罪の現実というのは本当に深いのです。デビッド・ホプキンズは、「人の心の中がわかったら、隣の人から逃げてしまうだろう。すべて神のあわれみによって、私たちはここにいることができるのです。」と言いました。本当にその通りです。人の心はそれほど陰険なのです。パウロはローマ人への手紙3章10-18節のところで、詩篇のことばを引用してこう言っています。

「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

すごいですね。彼らののどは開いた墓だとか、彼らのくちびるの下には、まむしの毒があるとか、彼らの口は、のろいと苦さで満ちているのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(同3:23-24)これが人間の姿なのです。ここから逃げてはいけません。この現実をしっかりと受け止めなければならないのです。

しかし、これで終わってはいけません。ここから始まりますがそれで終わりではないのです。だから希望があるのです。神の救いという希望があるのです。たとえあなたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。羊の毛のように白くなると言うのです。私たちが悔い改めて、神の救いを求めたら、一瞬のうちにこのようになるのです。Iヨハネ1章9節に、次のような約束が記されてあります。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。ダビデはバテシェバと姦淫をして子どもが出来ただけでなく、その夫ウリヤを戦場の最前線に送って殺しました。そんな大罪を犯して果たして赦されるのでしょうか?彼はその罪を預言者ナタンに示されたとき、その罪を認めて告白しました。悔い改めたのです。「ヒソプをもって私の罪を除いてください。私を洗ってください。」と祈りました。その結果彼は赦されたのです。彼が砕かれた心で、悔い改めとき、神は彼の罪を赦し、すべての悪からきよめてくださったのです。全く新しくしてくださいました。

神様はあわれみ深く、恵み深い方ですから、もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。雪のように白く、羊の毛のように白くしてくださるのです。

しばらく前に「私の頭の中の消しゴム」という映画がありました。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫の話です。年をとってから物忘れをするというのはよくあることですが、若くして物忘れがひどくなる病気は大変辛いものがあります。ご主人のことさえも忘れてしまうのです。「あれっ、あなただれだっけ」となる。その時彼女がこうつぶやくのです。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって・・。」  この映画の基調は「赦し」だそうです。自分を捨てた母親を赦せないでいるご主人に、この若い妻が赦しのメッセージを語るのです。そう言えば、この夫妻の家の壁には、戸を叩くイエス様の絵がかけられています。聞くところによると、これを作った監督は、この映画を通して、赦しの大切さを伝えたかったのだということです。そして、イエス様はそれをしてくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださることによって、十字架で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られることによって、私たちの罪を全部忘れてくださったのです。あの若年性アネツハイマーで、その生涯を終えられた妻のように・・・。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神様はそのひとり子、イエス・キリストをこの世に送り、十字架につけることによって、その約束を完璧に行ってくださいました。それほどに私たちを愛してくださったのです。それは私たちの罪が赦されて天国に行くことができるように、どんなことがあっても地獄に行かないで、天国に行けるようにするためです。

イエス様を信じるなら、すべての罪が赦されます。過去に犯した罪、現在犯している罪、そして未来に犯すであろう罪も、あるいは、意志的な罪も、無意識的な罪もすべてです。しかし、私たちはこの約束をなかなか受け入れることができません。自分を赦すことができないのです。特に儒教の文化の中にいる私たちは、なかなか自分を赦せないのです。自分で解決できるくらいの罪は赦せるのですが、これだけひどい罪の現実であることがわかると、自分で自分を赦せないのです。それでその罪の中にどっぷりと浸ってしまいます、落ち込んでしまうわけです。しかし、これは約束です。神様の一方的な恵みなのです。私たちがいい人であろうと悪い人であろうと、そんなことは全く関係がありません。罪を悔い改めて、イエス様に信頼するかどうかにかかっているのです。もしそのようにするなら、神様は真実な方ですから、その罪を赦してくださるのです。それは一方的な神の恵みなのです。

Ⅲ.だから悔い改めて(19-20)

ですから第三のことは、悔い改めて、福音を信じましょうということです。19-20節をご覧ください。

「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。」

選択は二つしかありません。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができますが、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれるのです。その真ん中はありません。二つに一つです。それを決めるのはあなたです。

南ユダ王国最後の王様はゼデキヤです。彼はエレミヤを通して語られる神のことばを聞いたとき、もじもじするんですね。従わなければならないことはわかっているけど、そんなことをしたら民に殺されてしまうからです。もじもじです。その結果どうなっでしょうか。彼は目をえぐり取られて、鎖に繋がれて、バビロンに連れて行かれました。「喜んで聞き従うのか」それとも「拒み、そむくのか」の二つに一つです。日本人はできるだけ曖昧にしたいという気持ちが働きます。どっちに転んでもいいように曖昧にするのです。しかし、聖書がはっきり語っていることは聞き従うのか、それとも拒むのかのどちらかであるということです。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができますが、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれるのです。

生まれながらの人間は神の御前に出ることを拒もうとします。できるだけ自分の力でやろうとするのです。そして「神様なんて必要ありません」とか「自分で解決するから大丈夫です」と言うのです。神を避け、宗教的な振る舞いや良い行い、哲学、修行といった人間の力で間に合わせようとします。しかし、人間の力ではだめなのです。どんなに頑張っても天にまでは届きません。それほど私たちは罪深いのです。私たちに示されている解決の道は一つだけです。悔い改めて神に信頼し、神が言われることに喜んで聞き従うことなのです。

どうか、あなたも神に信頼する人生を選択することができますように。神に信頼して神からの罪の赦しと永遠のいのちの祝福を受けることができますように。 そのとき、たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなります。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになるのです。