ヨハネの福音書10章22~30節 「わたしの羊たち」

きょう私たちに与えられているみことばは、ヨハネ10:22~30です。きょうは、この箇所から「わたしの羊たち」というタイトルでお話します。「わたしの」とは、イエスさまのことです。イエスさまはご自分に従う者を「わたしの羊たち」と呼んでくださいます。イエスさまの羊たちとはどのような羊でしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。第一のことは、キリストの羊たちはキリストについて行くということです。そして第二のことは、そのようにキリストについて行く者に、キリストは永遠のいのちを与えてくださいます。そして、第三のことは、そのように永遠のいのちが与えられた者は、どんなことがあっても決して滅びることはないということです。

 

Ⅰ.キリストの羊はキリストについて行く(22-27)

 

まず、22~26節をご覧ください

「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」

 

ここから場面が変わります。これまでは生まれながら目が見えなかった人が、イエスさまによっていやされたことから、ユダヤ人の指導者たち、パリサイ人たちとの間に起こった論争が描かれていましたが、ここからはエルサレムで宮きよめがあった時の出来事に変わります。「宮きよめの祭り」とは、ここにしか言及されていない祭りです。これは紀元前164年のことですが、当時ユダヤはシリアという国に支配されていましたが、そのシリアの王でアンティオコス・エピファネスという人が自分こそ神であると宣言しエルサレムの神殿の祭壇にギリシャの偶像を立て、律法で禁じられていた豚をささげて神殿を汚した時、ハスモン家の祭司でユダ・マカバイという人が立ちあがり、彼が中心となってユダヤ民族の独立のために戦い、エルサレム神殿を奪回し、祭壇から一切の憎むべき偶像を取り除くことに成功したことを記念して行われるようになった祭りです。今の暦で毎年12月に一週間、宮きよめの祭りとして祝われるようになりました。「時は冬であった」とあるのはそのためです。旧約聖書にこの祭りについての言及がないのは、これが旧約聖書の最後の書であるマラキ書が書かれたてから、新約時代が始まるまでの400年の間、これを沈黙の時代とか、中間時代と呼ばれていますが、その期間に起こった出来事だからです。

 

この宮きよめの祭り時に、イエス様が宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられると、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を取り囲んでこう言いました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」

これは、19節から21節までのところをご覧なっていただくと分かりますが、当時ユダヤ人たちの間に分裂があったからです。ある人たちは、イエスは悪霊につかれて頭がおかしくなっていると言い、他の人たちは、イエスのことばを聞く限り悪霊につかれているとは考えられないと言いました。そんなスッキリしない中で、ユダヤ人たちはイライラしていたのでしょう。彼らはそうしたいらついた気持ちをイエスにぶつけたのです。

 

それに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。25~27節です。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(25~27)

 

イエス様はすでにご自分がメシアであることを何度も語ってきましたが、彼らは信じませんでした。「わたしの羊の群れに属していないからです。」イエス様の羊であればイエス様の声を聞き分け、イエス様について行きますが、そうでないということは、イエス様の羊ではないということです。誤解しないでください。これは彼らがイエスの群れに属していないので信じないというのではなく、彼らが信じないということがイエスの群れ属していない証拠であるということです。だから今イエス様を信じていないのは自分がイエス様の羊ではないからだと諦めないでください。イエス様の声を聞いて彼に従うなら、あなたもイエスの群れに属することができるのです。それにしても、彼らはなぜキリストを信じることができなかったのでしょうか。

 

そこには、この宮きよめが関係しているのではないかと思われます。すなわち、この宮きよめは、あの荒らす忌むべき者アンティオコス・エピファネスからユダ・マカバイという人が中心となって、宮をきよめたことを記念する祭りですが、彼らが期待していたメシアとは、そのように政治的、軍事的に自分たちを救ってくれる人だと思っていたからです。しかし、イエス様が語られるメシアとは羊のためにご自分のいのちを捨てる人のことでした。いわゆる霊的メシアです。その受け止め方にギャップがありました。それゆえに彼らはイエス様をメシアとして信じることができなかったのです。

 

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。聖書のことばが自分の思いや考えとちょっとでも違うと納得するまでは信じないということがあります。あるいは信じていても、自分に都合が良いことは受け入れられても、そうでないことは割り引いてしまうということがあります。でも、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。」「彼らはわたしについて来ます。」とあるように、キリストの羊は、キリストの声を聞き分け、キリストについて行きます。それ以外のものにはついて行きません。羊飼いの声を知っているからです。

 

今聖書をマナでおられる任さんは、中国にいる娘さんから「お母さんもイエス様を信じてください。教会に行ってください。」と言われ、自分もイエス様を信じたいと思いましたが、どこに行ったら良いのかわかりませんでした。そんな時エホバの証人の方がご自宅を訪ねてこられました。そして、「自分たちが信じているのはイエス様よりも偉い方で、イエス様のお父さんですよ」と言われたとき、「あれっ、ちょっとおかしいなぁ。」と思いました。「イエス様は神様じゃないの?イエス様よりも偉い人なんているの?ちょっとおかしい」そうこうしているうちに、この方のご主人が創価学会の方にわずかばかり寄付をしたことで、「じゃ、創価学会の会館に来てください」と言われたので行ってみると、「おめでとうございます、あなたは今日から創価学会の会員です」と1枚の紙を手渡されました。会員証ですね。いや、自分はただ寄付をしただけで、別に会員になるつもりはありませんと言うと、何度もやって来ては「会員になりました、会員になりました」と言うのです。そのしつこさは異常で、これは絶対に違うなと思いました。そんな時教会の前を通ったら看板に十字架があるのを見つけました。小さな十字架でした。キリスト教会は控えめですね。もっと大きな十字架を掲げればいいのに、小さな十字架でした。でも、ここはキリスト教の教会ではないかと思って思いきって訪ねて来られたのです。そして、娘さんが通っておられる中国の教会の動画を見せてくれました。それが「歌いつつあゆまん」だったのです。私がこの賛美を知っているとそれに合わせて歌ったら、「これホンモノね」と聖書を学ぶようになりました。

 

キリストの羊はキリストの声を知っています。それでキリストについて行くのです。そうでない羊はその違いが分かりません。あなたはどうでしょうか。あなたはキリストの声を知っていますか。キリストの心を知っていますか。どうぞイエス・キリストを信じてください。キリストは良い牧者です。あなたのためにいのちを捨ててくださいました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。ですから、その声を聞き分け、この方を救い主と信じ、この方に従ってついて行ってください。そのような人こそキリストの羊なのです。

 

Ⅱ.キリストは彼らに永遠のいのちを与えます(28a)

 

第二のことは、そのようにイエス様について行く者に、イエス様は永遠のいのちを与えてくださるということです。28節の前半をご覧ください。ここには、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」とあります。これは、羊飼いであられるイエス様に従う者の特権です。それは何でしょうか。それは永遠のいのちです。イエス様はご自分について来る者に永遠のいのちを与えられます。それは罪の赦しと、来るべき世における栄光のいのちです。

 

18世紀のイギリスにおける伝道者で、メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジャン・ウエスレーは、臨終を前にして最後の言葉を伝えるために家族を集めました。彼は最後の60秒間、起き上がってこう言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そして再び横になり、両手を高く上げて、最後の力を振り絞ってもう一度言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そう言って彼は、息を引き取りました。

 

一番良いことは、神が私たちとともにおられることです。神がともにおられることと神がそばにおられることでは次元が違います。神は聖なる方ですから、罪ある者と共にいることはできません。神がともにいてくださるには、その罪が赦され神の子どもにされなければなりません。神はそのためにひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これが、私たちの罪が赦されるための神の永遠のご計画だったのです。それが時至って、今から二千年前に、キリストは旧約聖書にある預言のとおりに来られ、十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、この方を信じる者はみな永遠のいのちを受けるのです。永遠に神が共にいてくださいます。ここでイエス様は、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」と言っておられます。これは現在形で書かれています。それはやがて私たちの肉体が滅んだ後に受ける栄光のいのちだけでなく、イエス様を信じるすべての人がその瞬間から持つことができる神との交わりであり、神がともにおられることです。ウエスレーは、この永遠のいのち、神様が私たちとともにおられることが一番良いことです、と言ったのです。あなたは、この永遠のいのちを受けておられるでしょうか。

 

昨日、スーパーキッズが行われ、2階でお母さんたちの聖書の学びを持ちました。少し遅れて参加した一人の方が、2年前から仕事をしているのだが、最近なんだか空しく感じることがあるというのです。何のために働いているのかがわからない。別に働かなければならないというわけではないが、今のうちに働いていないと後で年をとってから働けなくなるのではないかと思って、ちょっとしたこずかい稼ぎのために働いているんだけど、これでいいのかなぁと思うようになったのです。いったい何のために生きているのかがわからない。「何のために生きているんですか。生きる目的はありますか」と聞かれるのです。「あります。イエス・キリストです」というとポーとしたお顔で聞いておられるので、話を続けたのです。私たちは肉体だけのいのちではなく、精神的、霊的な存在です。だから、霊が満たされなければどんなに肉体的に、物質的に満たされても幸せになれないんです。逆に、霊が満たされていれば、肉体的に辛いことがあっても、物質的に足りないことがあっても、乗り越えることができます。イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受けることが、私たちの生きる目的なのです。神がともにおられること、それが私たちにとって一番良いことなのです。

 

Ⅲ.キリストの羊は永遠に滅びることがない(28b-30)

 

第三のことは、彼らは永遠に滅びることがないということです。28節から30節までをご覧ください。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

 

これはものすごい約束です。イエス様は、ご自身を信じ、ご自身に従う者に永遠のいのちが与えると約束されましたが、そればかりではなく、だれも彼らをご自身の手から奪い去ることはできないと言われました。これはどういうことでしょうか?これは、どんなことがあっても救いから落ちることはないということです。たとえあなたが罪を犯すことがあっても、あなたがキリストの羊の群れに属しているなら、その救いから漏れることは絶対にないということです。問題は、この羊の群れに属しているかどうかです。イエス様を信じて永遠のいのちを受けているかどうかです。いったいどうやってそれを知ることができるのでしょうか。イエス様を信じて、バプテスマをうけたのであれば、永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか。

 

でも、この箇所にはそのようには記されてありません。ここには、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分ける」とあります。また「わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」とあります。これがキリストの羊の群れに属している羊たちです。すなわち、キリストの羊たちは、キリストの声を聞いて、キリストに従うということです。これは、全く罪を犯さないということではありません。羊は愚かで、弱く、無力です。すぐに道に迷ってしまう動物です。イエス様について行ってるようでも、すぐに道を踏み外してしまいます。おっちょこちょいなんですね。落ち着きがありません。でもそういうことは全く関係ないのです。大切なのは、キリストの声を聞いて、キリストについて行くかどうかです。自分が道に反れてしまったと思ったなら、キリストの声を聞いて悔い改めればいいのです。それを聞かないで、自分は立派な者だと思っているとしたら、それこそキリストの声に従ってしない証拠と言えます。ですから、表面的には見分けがつきません。ただ一つ言えることは、キリストの羊はキリストの声を聞き分けて、キリストについて行くということです。もしそうであるなら、あなたはキリストの羊です。その人は永遠のいのちを受けるだけでなく、だれもキリストの手から奪い去られることはありません。

 

パウロは、この真理を次のように述べています。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35~39)

だれも、また何も、どんなものも、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは父なる神と一つになって、私たちの手をしっかりと握り締めていてくださるからです。救いについてこれほど確かな保証はありません。

 

私たちはしばしば信仰というものを私たちが神の御手をつかんでいることだと考えていますが、それは大きな間違いです。もしも信仰というものがそのようなものであれば、疲れたり、躓いたりしたら、手を離してしまう危険があります。よく「私は意志が弱いので、信じても長続きしないのではないかと思います」と言われる人がいますが、そのような人は、信仰というものを自分の意思で続けていくものだと思っているのです。でも、信仰とはそのようなものではありません。信仰は私たちが神様の御手をつかんでいるのではなく、神様が私たちの手をつかんでいてくださることです。

たとえば、小さな子供が親の手をつかんで歩いているのを想像してみてください。もしもその時子供が何かに躓いたら、子供は手を離して転んでしまうでしょう。しかし、もしも親が子供の手をつかんでいたら、たとい子供が躓いても親がしっかりと子供の手をつかんでいるので転ぶことはありません。それと同じで、私たちの救いというのは、私たちが神の御手をつかんでいるのではなく、神が私たちの手をつかんでいてくださることなのです。そうであれば、たとい私たちが何かにつまずくことがあっても、決して倒れてしまうことはありません。

 

私たちの周りには、キリストの羊を、キリストから奪い去り、罪の中に引き戻そうとするものがたくさんあります。絶えず何かが私たちを「奪おう」とし「引き抜こう」としています。でも、もしあなたがキリストの羊であるなら、あなたはキリストの手の中で守られており、決して滅びることはありません。なぜなら、キリストがあなたの手をつかんで離さないでいてくださるからです。

 

最後に30節を見ておわりたいと思います。ここには、その手がどれほど確かなものであるかが記されてあります。それは「わたしと父とは一つです」という言葉です。これは、イエス様と永遠の父とは全く一つであるということです。その本質と力において、また意志において全く一つなのです。つまり、イエス様は父なる神と同等の力を持った神であるという意味です。この箇所を見ても、イエス様よりもお父さんの方が偉いというエホバの証人の主張が間違っていることがわかります。イエス様と父なる神は全く一つであって、その神があなたの手をつかんでいてくださるのです。であれば、だれがあなたを奪い去ることができるでしょうか。あなたはキリストの手の中で完全に守られており、神が約束してくださった永遠のいのちを受け、永遠に神がともにいてくださることを体験することができるのです。

 

ですから、あなたにとって最も大切なことは、あなたはキリストの羊の群れに属しているかどうかということです。キリストの羊は、キリストの声を聞いて、その声に従います。あなたもキリストの声を聞いて、キリストを信じ、キリストの羊の囲いに属してください。そうすれば、何も、だれも、どんなことも、あなたをキリストから奪い去ることはできないのです。この不透明な時代、何があるかわかりません。一寸先は闇です。しかし、目の前がどんなに暗くても、キリストがあなたの手を握っていてくださいます。つかんで離さないようにしています。これほど確かな平安はありません。今週も何が起こるかわかりませんが、何が起こっても、キリストの声を聞いて、その声に従いましょう。あなたはイエス・キリストの囲いに属している羊なのですから。