出エジプト記14章から学びます。
- パロの追跡(1-9)
まず1節から9節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。
「主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」
いよいよ出エジプトのクライマックスを迎えます。主の力強い御手によってイスラエルの民はエジプトを出て、約束の地に向かって行きます。イスラエルの民は、スコテを旅立って、エタムに宿営しました(13:20)。エタムは荒野の端にあります。つまり、その先は荒野(シナイ半島)であるということです。そこから荒野の旅が始まります。その荒野は、「シュルの荒野」と呼ばれていますが、「エタム」はそのシュルの荒野の一部です。その「エタム」に宿営していた時、主がモーセに告げられました。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」と。
何ということでしょう。折角、エジプトから出て来て、「さあ、これからだ」と言う時に、「引き返して」というのですから。そして、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンに宿営せよと命じられたのです。いったいなぜ主はそのように命じられたのでしょうか。3節、4節をご覧ください。それは、エジプトの王ファラオをおびき出すためでした。
「ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。」
そこは、海と山に囲まれたような所でした。つまり、迷路のように間違ったところに入ってしまったか
のように思えるような場所だったのです。ですから、ファラオは、イスラエル人が道に迷ったと思い、あとを追って来るでしょう。その結果、神の民を苦しめたエジプトに最終的なさばきが下されることになるのです。このエジプト軍のさばきこそ、出エジプトの一連の出来事のクライマックスです。この出来事を通して、神はご自身の性質と力を示され、ご自身の栄光を現されるのです。その結果、エジプトは、主こそ神であるということを知るようになります。また、イスラエルの民も、主が自分たちのために戦われるということを知るようになるのです。イスラエルの民は、主が仰せられるとおりに、引き返しました。皆さんはどうでしょうか。それが自分の思いと違っても、主の言葉に従うでしょうか。
5節から9節までをご覧ください。
「民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちは民に対する考えを変えて言った。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車を、それぞれに補佐官をつけて率いて行った。主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを追跡した。一方、イスラエルの子らは臆することなく出て行った。エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。」
イスラエルの民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちはイスラエルの民に対する考え方を変えてこう言いました。
「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」
そこで、ファラオは、戦車を整え、自分でその軍勢を率いてイスラエルの民を追跡しました。そして、ファラオの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツァフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたイスラエルの民に追いつきました。これはイスラエルにとっては予想外の展開でした。海辺に宿営していたので、逃げ場がなかったのです。また、主の導きによってその地に宿営するようになったのに、窮地に追い込まれてしまったのです。
物事がうまく行っている時はだれでも喜べますが、問題は、そうでない時はどうかということです。なかなか受け入れられないのが現実です。しかし、試練の中に置かれた時は神のお許しなしには何一つ起こらないことを思い起こし、忍耐することを学びましょう。時が来れば、神のみわざが現されるようになるからです。
- 絶体絶命のピンチの中で(10-18)
そのような状況の中で、イスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10-12節をご覧ください。
「ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
ファラオは間近に迫っているのを見たイスラエルの民は、大いに恐れて主に向かって叫びました。
この叫びは主に助けを求めての叫びではなく、主につぶやくための叫びでした。いわゆる不信仰の叫びです。叫びには二種類の叫びがあります。一つは信仰の叫びであり、もう一つは不信仰の叫びです。彼らの叫びは信仰によるものではなく不信仰によるものでした。それはその後のところで、彼らがモーセに対して非難していることからもわかります。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(12)
彼らは、どのようにモーセを非難しましたか。イスラエル人は多いためエジプトではどれだけ墓があっても足りないので荒野に連れてきたのか、ということでした。これは皮肉です。荒野で死ねば、埋葬の心配はいりません。要するに、信仰の冒険よりも奴隷としての安全が欲しかったのです。いわば奴隷根性ですね。奴隷根性が彼らの心を支配していました。今まで奴隷として酷使されてきたので、自分たちが解放されることよりも、むしろ奴隷として生きることのほうが楽だという思いです。
これは、罪の奴隷から解放された私たちも抱きがちな思いです。物事が順調に進んでいる時は良いのですが、ちょっとでも困難に直面すると、こんなことならいっその事、信じなければ良かった・・・というようなことを口走ってしまうことがあります。信仰によって前進しないと、こうした罪の奴隷になってしまいます。
確かに、彼らのこれからの荒野での生活は過酷です。灼熱と、喉の渇きがあります。けれども、彼
らには主がともにおられ必要を備えてくださり、敵から守ってくださいます。自分たちが主によって生き
ていることを、荒野の旅を通して知ることができるのです。イエス・キリストを信じた人は、同じように荒
野の旅をするようになります。けれどもそれは、主だけがすべての源であり、主との関係があらゆる祝
福にまさることを知るためなのだということを覚えていなければなりません。
13節、14節をご覧ください。
「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」
動揺するイスラエルの民に向かって、モーセは何と言ったでしょうか?モーセはまず、「恐れてはならない」と言いました。つまり、ファラオとその軍勢を恐れてはならないということで、恐れるべき方を畏れよ、ということです。恐れは信仰と相容れない感情です。信仰の反対が恐れです。イエス様は、何度も「恐れてはならない」と言われました。
次に、しなければならないことは、しっかりと立つことです。つまり、逃げ出そうとするなということです。「しっかり立って」とあります。私たちはこうした状況に直面すると、すぐにそこから逃げだそうとします。しかし、主が私たちに命じておられることは逃げることではなく、しっかりと立つことです。ペテロは、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(1ペテロ5:9)。と言いました。
そして次に、「今日あなたがたのために行われる主の救いを見な」ければなりません。つまり、主からの解決を待ち望まなければならないということです。それは「今日」もたらされます。明日ではなく「今日」です。それはすみやかにもたらされるのです。主の救いは近いのです。
その結果はどうなりますか?「あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」つまり、今見ているエジプト人はいなくなるという意味です。モーセは、それがどのようにしてもたらさるのかわからなかったでしょう。しかし、彼は自分たちの目の前からエジプト人が消え去るということを確信していたのです。
主があなたがたのために戦われます。戦うのは自分ではありません。主があなたがたのために戦ってくださいます。主は、海と風を軍勢して戦ってくださいます。ですから、自分たちに戦闘の経験がなくても心配する必要はありません。
ですから、私たちに必要なことは何でしょうか。私たちに必要なことは、「ただ黙っていなさい」ということです。つまり、何かに脅えて叫んだり、自分の感情で動いたりするのではなく、主がなされることを待ち望まなければなりません。霊的な戦いにおいて自分で何とか解決しようとすると、必ずサタンの餌食になります。たとえば、根も歯もない自分についてのうわさが教会の中に蔓延していると、だれがそんなうわさを流したのかと捜し回りたくなるでしょうが、それこそが敵の策略なのです。そうなると大変なことになります。「主よ。すべてをあなたにゆだねます。あなたが戦ってください。」と祈るなら、勝利がもたらされるのです。
15節から18節までをご覧ください。
「主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」」 モーセは、主に叫んでいました。それはイスラエルの民のように不信仰の叫びではなく、信仰の叫びでした。モーセは叫ぶようにして祈っていたのです。そんなモーセに対する主の言葉は、「イスラエルの子らに、前進するように言え」ということでした。前進すると言っても、それは大変なことです。背後から敵が迫っていたのですから。前進するためには海に向かって進まなければなりません。イスラエルの民は、海がまだ分かれていない状態で前進しなければなりませんでした。それが信仰です。海が分かれてから前進するのは信仰とは言いません。それは確認と言います。でも、海がまだ分かれていないのに前進するなら、それは信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないことを確信させるものだからです。彼らに求められていたのは、主の言葉を信じて前進することでした。
いったいどうやって前進して行ったらいいのでしょうか。主はモーセに、「あなたの手を挙げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい」と言われました。そうすれば、イスラエルの子らは海の中の乾いた地面を行くことができます。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか?ここに「エジプトは、わたしが主であることを知る。」とあります。主とは、「わたしは、あるというものである」です。他の何ものにも依存することなく存在することができるという意味です。すなわち、全能者であられます。この天と地と海と、その中のすべてのものを造られた主は、海を分けることなど簡単におできになるのです。問題は、この主のことばに対して、どのように応答するかです。もし信じて従うなら、主の栄光を見るでしょう。エジプトは主こそ神であるということを知るようになるのです。
私たちが信じている神がいかに偉大なお方であるかを思い巡らしましょう。そして、この神にすべてをゆだね、そのおことばに信仰をもって応答したいと思うのです。
Ⅲ.紅海を渡る(19-31) 最後に、19節から31節までをみて終わりたいと思います。
「イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。「主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」
イスラエルを導いていたのは、雲の柱だけでなく神の使いもそうでした。この「神の使い」は、雲の柱の中にいる受肉前のキリストのことです。イスラエルの陣営の前を進んでいた雲の柱は、民のうしろに移動し、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に立つ分離壁となりました。それは真っ暗な雲でした。エジプトの陣営は、この真っ暗な雲の中に迷い込ませられたので、イスラエルの陣営に近づくことができませんでした。
次に、モーセが手を海の上に伸ばすと、強い東風が吹いて来て、紅海の水が右と左に分かれて、そこに乾いた地ができました。それでイスラエルの民は、その海の真中の乾いたところを進んで行きました。世界中のだれが、このような奇蹟を体験したことがあるでしょうか。ないでしょう。考えられません。一時的に、浅い海が強風になって陸となることはありえても、深い海が壁となる奇蹟は、地球の歴史の中でこれ一回限りです。神は、ご自分がどのような方であるかを、イスラエル人と全世界の民に知らせるために、この奇蹟を行なわれました。神は全能者であられるのです。 それから主は、モーセに「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車と、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」(26)と言われました。モーセがそのようにすると、朝明けに海が元の通りに戻りました。水が元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおったので、彼らはみな海に沈んでしまいました。残った者は一人もいませんでした。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われたのです。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見ました。彼らは今こそ真の意味で、エジプトの奴隷の状態から救い出されたことを確信しました。自分たちを支配していた者は海辺に死にました。古い時代の象徴であったエジプトは、すでに海のかなたに葬られたのです。そして、目の前には自分たちが進んで行く新しい世界が広がっていました。それはまさに罪の奴隷であった古い人に死に、新しいいのちに生まれ変わったことを象徴しています。私たちは、キリスト・イエスにつくバプテスマによって、罪の奴隷から解放されたのです。
彼らは見ました。エジプト人が確かにひとりも残らず死んだのを。もう自分たちを襲ってくるものは何
一つありません。完全な勝利です。私たちも古い自分はもう死んでしまったということを、信仰をもって見なければいけません。罪に支配された古い人は、もう死んだのです。それがあなたを支配することは決してありません。私たちは今、それを信仰にもって受け止めなければならないのです。もう罪は葬り去られたのです。罪はもはや私たちを支配することはありません。詩篇103:12に、「東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」とあります。また、ミカ7:19には、「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。」とあります。
31節をご覧ください。
「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」
イスラエルの民は、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。それまでは信じていなかったのでしょうか。それまでも信じていましたが、半信半疑でした。しかし、今、この大いなる御力を見て確信したのです。これは、私たちにとっても言えることです。イスラエルが、主の大きな御力を見て信じたように、私たちはキリストの十字架と復活を信じて信じました。このことがはっきりしていることが大切です。自分がキリストとともに十字架で死に、キリストにあってよみがえったという事実にしっかりと立っているなら、たとえ自分が罪から解放されていないように感じることがあっても、実際には、キリストとともによみがえったという事実を見て、いのちに歩み続けることができるからです。この確信に基づいて生きるとき、神は確かに約束の御霊を注いでくださり、私たちに豊かないのちを与えてくださるのです。