Ⅰサムエル記8章

サムエル記第一8章から学びます。

 

Ⅰ.王を求めたイスラエルの民(1-9)

 

まず、1~3節までをご覧ください。

「サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤであった。彼らはベエル・シェバでさばきつかさをしていた。しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。」

 

サムエルは、一生の間、イスラエルをさばきました。彼は年ごとにベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、これらすべての聖所でイスラエルをさばきました。そのサムエルが年老いたとき、彼は息子たちをイスラエルのさばきつかさとしてベエル・シェバに遣わしました。巻末の地図を見るとわかりますが、ベエル・シェバはイスラエル南部の地方です。年老いてイスラエル中を巡回することができなくなったのでしょう、自分は北部地方の責任を持ち、南部地方を息子たちに任せたのです。二人の息子たちの名は、長男が「ヨエル」で、次男が「アビヤ」でした。「ヨエル」という名前の意味は「主は神である」です。また、「アビヤ」は「主は私の父」という意味があります。しかし、彼らはその名とは裏腹に、恥じるような行動をしていました。彼らは父サムエルの道に歩まず、利得を追及し、賄賂を受け取り、さばきを曲げていました。サムエルもまた彼の師エリと同じ問題がありました。息子の養育に失敗したのです。

 

4~9節をご覧ください。それでイスラエルの民はどうしたでしょうか。

「イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、彼に言った。ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」」

 

そこでイスラエルの長老たちはみなラマにいたサムエルのもとに集まって、ほかのすべての国民のように、自分たちをさばく王を立ててほしいと言いました。それは、サムエルが高齢となり彼の息子たちが彼の道、すなわち、主の道を歩んでいないからです。彼らの要求は、一見妥当なものでした。確かにサムエルが、よこしまな息子たちをさばきつかさにしたことは間違っていました。けれども間違っていたのは、ほかの国民のように王を立ててください、と世的な方法によってこの問題を解決しようとしたことです。主にこの問題を解決していただくように、祈り求めませんでした。

 

サムエルがそれを聞いたとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことでした。第三版には「気に入らなかった」とあります。なぜなら、それは彼の働きを否定するようなことだったからです。彼はこれまでイスラエルが混乱し、ペリシテとの戦いにおいても預言者として、またさばきつかさとしてイスラエルを霊的に建て上げることによって勝利と祝福をもたらしてきました。それなのに今、そのことについて何の感謝もないばかりか、自分たちをさばく王を立ててほしいと言ったのでから。それでサムエルは主に祈りました。すると、主はサムエルに、彼らが言うことを聞き入れるようにと言われました。なぜなら、彼らはサムエルを拒んだのではなく、イスラエルの神、主が王として彼らを治めることを拒んだのだからです。どういうことですか。イスラエルはこれまで預言者であるサムエルを通して語られた主のことばを受け入れ、主に信頼して歩んできましたが、今、その主に支配されることを拒み、人間の王に支配されて生きることを求めたということです。主によって支配される政治形態を神制政治と呼びます。これは神が王である政治形態です。それに対して人間の王によって支配される政治形態を王制と呼びます。彼らは神によって支配される政治ではなく、人間の王によって支配される政治を望みました。これが問題だったのです。彼らの問題は、間違ったところに信頼を置いたことにありました。でもそれは今に始まったことではありません。彼らがエジプトを出た日からずっとそうでした。彼らがしたことと言えば、主を捨て、他の神々に仕えることでした。あなたはどうですか。神に信頼して歩んでいますか。あなたの日々の判断や決断は、神のみことばに導かれたものとなっているでしょうか。イスラエルの失敗から教訓を学びましょう。

 

Ⅱ.王の権利(9-18)

 

そこで主はサムエルにこう言いました。「今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」その権利とはどんなことでしょうか。10-18節をご覧ください。

「サムエルは、自分に王を求めるこの民に対して、主のすべてのことばを話した。彼は言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。また、自分のために千人隊の長や五十人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や戦車の部品を作らせる。また、あなたがたの娘たちを取り、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。あなたがたの畑やぶどう畑や良いオリーブ畑を没収し、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り、廷臣や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や女奴隷、それにあなたがたの子牛やろばの最も良いものを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたに答えはしない。」」

 

どういうことでしょうか。イスラエルの民は王を求めましたが、王によって敵から守られるという利点がある反面、王によって自分たちのものが取られていく不利益を被らなければいけません。その王が民に要求するものがどれほど厳しいものであるかを理解していませんでした。そこでサムエルは彼らを治める王の権利を宣言しています。

 

まず、王は彼らの息子たちを取り、戦士として戦場に送り出します。また、王のために千人隊の長や百人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、刈り入れに従事させ、武器や戦車の部品を作らせます。さらに、彼らの娘たちを取り、王宮で仕えさせるでしょう。また、彼らの畑やぶどう畑、オリーブ畑を没収して、家来たちに与えます。いわゆる税として徴収するのです。つまり重税で苦しむようになるでしょう。日本もそうでしょう。最近消費税も10パーセントになりましたが、それ以外に固定資産税や住民税、所得税、介護保険料と、かなりの税金が徴収されています。時々何のために働いているのかさえ分からなくなる時があります。そればかりではありません。彼らの奴隷や女奴隷、子牛やろばなどの家畜を取り、自分の仕事をさせたりします。それまで彼らが持っていた自由は、かなり制限されるようになります。その日、彼らが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、主は彼らに答えることはしません。それでも良いのかということです。

 

主イエスはこう言われました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:42-45)

まことの王は、私たちを支配し、私たちのものを搾取される方ではなく、私たちのためにご自身のいのちをささげられる方です。その方こそ主イエス・キリストです。私たちが信頼し、従わなければならないお方は、この方なのです。それなのに、そうしたことを良く考えないで、自分たちの利益ばかりを追及し、他の国のようにこの世の王を求めるとしたら、そこには奴隷のような束縛と犠牲しかありません。そのことをよく考えなければなりません。

 

Ⅲ.民の応答(19-22)

 

このサムエルの忠告に対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。19~22をご覧ください。

「しかし民は拒んで、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」サムエルは、民のすべてのことばを聞いて、それを主の耳に入れた。主はサムエルに言われた。「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」それで、サムエルはイスラエルの人々に「それぞれ自分の町に帰りなさい」と言った。」

 

これほどの忠告に対しても、民はサムエルの言うことを聞こうとしませんでした。彼らは、「いや、どうしても、私たちの上には王が必要です。」と言って、サムエルの忠告を拒みました。そうすれば、他の国民のようになれると思ったのです。つまり、王が自分たちをさばき、自分たちの先頭に立って戦いに出て行き、自分たちの戦いを戦ってくれると思ったのです。彼らは自分たちのアイデンティティーというものを完全に失っていました。自分たちが神から特別に選ばれた民であることを、自ら放棄したのです。かつて主はイスラエルに、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」(出エジプト19:5)と言われました。彼らはあらゆる国民の中から、選び別たれた神の民であるのに、ほかのすべての国民のようになることを求めたのです。

 

それで、サムエルが民のすべてのことばを聞いて、それを主の耳に入れると、主はサムエルに、「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」と言われました。これは許容的指示と呼ばれるものです。民のかたくなさのゆえに、主が許容されたという意味です。それでサムエルはイスラエルの長老たちを、それぞれ自分の町に帰しました。

 

このことからわかることはどんなことでしょうか。先ほど申し上げたように、これは神のみこころではありませんでした。彼らが求めなければならなかったのは人間の王ではなく、神が王として彼らを支配することでした。けれども、そればかりではなく、彼らはその時を待つことができませんでした。神はイスラエルに王が必要になることをご存知であられ、そのための人材を用意しておられました。それがダビデです。しかし、当時ダビデはまだ若すぎたため、その時を待たなければなりませんでした。それでサウル王が選ばれるのです。神の時を待てないと、このように墓穴を掘ってしまうことになります。神からの究極的な答えは、ホセア13:9~11にあります。

「イスラエルよ、あなたは滅ぼされる。あなたの助け手である、わたしに背いたからだ。では、あなたの王はどこにいるのか。すべての町のうちで、あなたを救う者は。あなたをさばく者たちはどこにいるのか。かつてあなたが『私に王と高官たちを与えよ』と言った者たちは。わたしは、怒ってあなたに王を与え、また憤ってこれを奪い取る。」

これは、バビロン捕囚の時に成就します。私たちを支配する王はだれでしょう。それは私たちのためにご自分のいのちを与えてくださった救い主イエス・キリストであることを覚え、この方に信頼して歩みましょう。