ヨハネの福音書12章37~50節「大きな声で」

 きょうは、「大きな声で」というタイトルでお話しします。44節には、「イエスは大きな声でこう言われた。」とあります。ヨハネの福音書には、イエス様が大声を発せられたということが4回記録されてあります。7:28と7:37、そして11:43とこの箇所です。このように主が大きな声を発せられた時は単にそこにたくさんの徴収がいて、大きな声を出さなければ聞こえなかったからではなく、他に理由がありました。それは、イエス様が神から遣わされた方、メシアであることを、それを聞いていた人たちに信じてほしかったからです。

 ヨハネの福音書は、大きく分けると2つに分けられます。1章から11章までと、12章から終わりの21章までです。しかし、公生涯という観点から分けると、1章から12章までと、13章から終わりまでとなります。これまでは一般群衆やユダヤ人の指導者たちに向かって語られてきましたが、13章からは弟子たちに対して語られます。そういう意味では、この箇所はイエス様の一般の群衆たちに対する最後のメッセージ、最後の勧告となっている箇所です。その最後の勧告においてどうしても信じてほしかった。だからイエスは大きな声で言われたのです。

私たちは日頃、大きな声を出すという習慣があまりありません。大きな声を出すのは何か急を要した時や、緊急の事態が生じた時くらいです。でも、イエス様はご自身が神から遣わされた者であり、ご自身を信じる者には永遠のいのちが与えられるということを知らせるために、また、それを信じてもらうために、大きな声を出されました。私たちも大きな声で宣言しようではありませんか。イエス様を信じる者は、永遠のいのちを持つことができると。きょうは、このことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。

Ⅰ.イエスを信じなかった人たち(37-40)

まず、37~40節までをご覧ください。
「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」

イエス様は、「あなたがたに光があるうちに、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(36)と言われると、そこを立ち去り、彼らから身を隠されました。イエス様はこれほど多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかったからです。奇跡が行われればだれでも信じるのかというと、そうではありません。奇跡が行われても、信じない人はたくさんいます。なぜ彼らは信じなかったのでしょうか。

ヨハネはその理由を、旧約聖書のイザヤ書の預言を引用してこう説明しています。38節、「それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」「私たちが聞いたこと」とは、神の救いに関する良い知らせのことです。このすばらしい救いの知らせを、いったいだれが信じたでしょうか。だれも信じませんでした。なぜでしょうか?なぜなら、この時のイエスの姿が、彼らが想像していたメシア像とはあまりにもかけ離れていたからです。彼らが信じていたメシアとは、イスラエルを政治的にも、軍事的にも復興してくれる方でした。ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的メシアです。それなのに、イエスはそうではなかったので、受け入れることができなかったのです。

それはどの時代も同じです。どんなに福音を語っても、人々は信じようとしません。人々が求めているのはいやし、力、栄光、祝福、成功、繁栄といったものだからです。そのような話には魚が餌に飛びつくように飛びつきます。この近くに「幸福の科学」という新興宗教の四番目の総本山と言われている那須精舎がありますが、家の工事をしてくれた工務店の方がその施設の外構工事をしたらしく、「まあ、たまげた」と言っていました。内装は全部、金!どうしたらあんなふうになれるのか・・・と。最近は学校まで作って、教育しているということですが、そのような栄光、繁栄、成功といった幸福には関心があっても、見るかぎりみすぼらしいように見えるものには見向きもしません。みんな去っていきます。

それは驚くことではありません。イエス様が生まれる700年も前に、イザヤという預言者によってちゃんと預言されていたことだからです。いくらイエス様が多くの奇跡を行ったとしてもユダヤ人が信じないのは、そのように予め預言されていたことであり、別に不思議なことではないのです。

でも、いったいなぜ彼らは信じなかったのでしょうか。ヨハネはそのことを説明して、続く40節でこのように言っています。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」これもイザヤ書からの引用です。ヨハネはここでイザヤのみことばを引用して、その理由を述べたのです。それは、主が彼らの目を見えないようにされたからです。また、彼らの心を頑なにされました。それは、彼の目が見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないためです。どういうことでしょうか。二つの意味があります。

一つは、これが神のご計画であったということです。すなわち、神は私たち異邦人を救うために、ユダヤ人の目を意図的に盲目にされたということです。これはユダヤ人に対する神様の特別な計画でした。私たち異邦人が神によって盲目にされたり、頑なにされたりすることはありません。もし私たち異邦人が盲目にされるということがあるとしたら、それはこの世の神であるサタンがその目をくらませて、福音の輝きを見ることができないようにしているからです(Ⅱコリント4:4)。ですから、これはユダヤ人に限って言える特別なことであって、それは、このように彼らの目が盲目になり、心が頑なにされることによって、福音が異邦人にもたらされるようになるためであったということです。このようなイスラエルの不信仰が、私たち異邦人の救いにつながったのです。これが神のご計画でした。これは驚くべき計画と言えます。これが、ローマ9~11章でパウロが語っていることです。パウロは同胞ユダヤ人の救いのために祈っていました。そのためなら、自分自身がキリストから引き離されて、のろわれたものになっても良いとさえ言ったほどです(ローマ0:3)。それほどにイスラエルの救いのために祈っていましたが、肝心の彼らは、信じようとしませんでした。いったいなぜなのか?パウロはその理由を神から示されました。それは、異邦人の救いの時までであり、そのことによってイスラエルにねたみを引き起こし、その後でイスラエルを救われるということでした。「こうしてイスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)「こうして」とは、救いが異邦人にもたらされ、そのことによってイスラエルに救いがもたらされるということです。こうしてイスラエルはみな救われるのです。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」(ローマ11:29)何というでしょうか。だれがそのようなことを考えることができるでしょうか。だれもできません。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神はイスラエルを救うために、まず異邦人に福音をもたらし、その残りの民を通してイスラエルを救おうと計画しておられたのです。そのために神は、彼らの目を見えないようにされたのです。彼らの心を頑なにされました。

もう一つのことは、この「頑なにされた」というのは、神がそのようにされたということではなく、結果としてそのようになったということです。たとい目覚ましい奇跡が成されようと、真理が語られようと、それに対して素直になろうとしないなら、その人の心は頑なになり、その頑な心のままでいると、遂には神から見捨てられてしまうことがあるということです。その良い例が、出エジプト記に出てくるエジプトの王ファラオです。昔イスラエルがエジプトに捕らえられていたとき、神はモーセを通して彼らを救い出そうと、彼をファラオの所に遣わしました。しかし、ファラオは神のしもべモーセの要求を拒み続けたので、遂には神によって心を頑なにされました(出エジプト9:12,10:1,20,11:10)。それは神がファラオの心を無理矢理に頑なにされたということではありません。神が何度言っても聞かなかったので、神は彼の心を頑ななままにされたということです。それはちょうど言うことを聞かない子供に対して、親が言う言葉のようです。何度言っても子ども言うことを聞かないと、親はこう言うのではないでしょうか。「だったら勝手にしなさい」ここで言われていることはそういうことです。神がファラオの心を頑なにしたという意味です。神がどんなに言ってもどんなに促してもそれを受け入れないと、神はそのままにされ遂には神のあわれみが取り去られてしまうことになるのです。

ですから、もしあなたがどこまでも神に反抗し続けるなら、神はファラオにしたように、あなたの心も頑なにされるのです。「私は天国なんて行きたくない。地獄に行くんだ」と言うなら、そして、それをどうしても曲げないというのなら、神はその意志を何度も確認した上で、遂にはそれを追認せざるを得ないのです。「そうか、わかった。仕方ない」と。神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられますが、もし私たちが心を頑なしてそれを受け入れず、拒み続けるなら、神はそのことを認めざるを得ないのです。神がそうしたいのではありません。自分でそのように選択したのです。ですから、「そんなはずはない」とか、「そんなのはずるい」というのは子どもじみた言い訳にすぎませんもしあなたが頑なになりたくないと思うなら、神はあなたの思いを尊重して、あなたの心を柔らかくしてくださいます。ですから、一度頑なな思いをもったらもう二度と柔らかな心を持つことはできないということではないのです。今信じられないから、もう二度と信じることができないということではありません。私たちが望みさえすれば、神はいくらでも働いてくださり、私たちの心を柔らかくしてくださいます。私たちの心を清めてくださり、私たちを罪から救ってくださるのです。そうでないと、逆にもっと頑なにされて、信じる機会を完全に失ってしまうことになります。それがここで言われている「主は彼らの心を頑なにされた」ということなのです。

それは、まだイエス様を信じていない人だけのことではなく、すでにイエス様を信じた人たちにも言えることです。神はみことばを通して「こうしなさい」とか、「ああしなさい」と語っておられますが、その言葉を聞く度にそれに従わないでいると、もっと心が頑なになって、次に聞く時には従うのがもっと難しくなります。ですから、私たちはいつも柔らかな心をもって、神のみことばに聞き従うことが求められているのです。

Ⅱ.人からの栄誉よりも、神からの栄誉を(41-43)

次に、41~43節をご覧ください。まず、41節だけをお読みします。「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」

ヨハネは、イザヤの預言を引いてきて彼らが信じない理由を説明していますが、イザヤがそのように言ったのはどうしてか、その理由をこのように言いました。イザヤが実に言いにくいことをはっきりと言うことができたのは、イエスの栄光を見ていたからであるというのです。どういうことでしょうか。ここでヨハネが引用したのはイザヤ6:10節の御言葉ですが、その前の6:1~4節にこうあります。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」

ウジヤ王が死んだのは紀元前740年です。その年にイザヤは預言者としての召しを受けましたが、当然、その時にはまだイエス様は生まれていませんでした。ですから、イザヤが見たのは「高く上げられた御座に着いておられる主」だったのです。それなのに、「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」とヨハネが言っているのは、この主こそ受肉前のイエスご自身であり、この方がただの人間ではなく、栄光に輝いておられた主であったと、彼が信じていたからです。というのは、ズバリ聖書の中心はイエス・キリストだからです。聖書を通してイエス・キリストを見るなら、そこにイエスの栄光を見ることができますが、そうでないと、イエスの栄光を見ることはできません。そのような信仰は、たとえイエスを信じているとはいっても弱いものであり、何かあるとすぐにぐらついてしまうことになります。この世の力にすぐに屈してしまうのです。その良い例が42~43節に見られる議員たちの信仰です。ここには、「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」とあります。

「しかし、それにもかかわらず」とは、その前の節までのところで語られていた内容を受けてのことです。37節には、イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じませんでした。「しかし、それにもかかわらず」です。それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいました。この「議員たち」とは、「サンヘドリン」という71人で構成されていたユダヤの最高議会の議員たちのことです。ですから、ユダヤでは超エリートの人たちでした。日本でいえば東大の教授であり、最高裁の判事であり、衆議院の議員であるといった人たちです。そういう議員たちの中にもイエスを信じる者たちが多くいました。あのニコデモはそうでした。また、アリマタヤのヨセフもそうです。そういう人たちが結構いたのです。しかし、そのような人たちの中には、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、信仰を告白しない人たちもいました。どういうことですか?信じてはいたが、告白していなかったということです。つまり、純粋に信じていなかったということです。というのは、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。ローマ10:9~10には、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。皆さん、どうすれば人は救われるのですか。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。心で信じているというだけではだめです。信じているけれど、そのことを誰にも言っていませんというのは違います。私たちが神と証人の前で洗礼、バプテスマを受けるのはそのためです。私たちがイエスを主と信じたら、それを神と人の前に告白する、それが洗礼式です。人の前で証をしたり、水に浸るのは恥ずかしいと感じるかもしれませんが、それは信仰を告白することなのです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです

イエス様はマタイ10:32節でこう言われました。「ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」この「認める」という言葉のギリシャ語は「告白する」と同じ原語の「ホモロゲオー」です。イエスを人々の前で認めるなら、イエスも父の前でその人を認めてくださいます。すなわち、救われるということです。そうでないと救われません。というのは、この「告白する」ということの反対が「拒否する」とか「否定する」ことだからです。告白しない者は救われません。それは本物の信仰ではないからです。

彼らはイエスを信じたのに、なぜ告白しなかったのでしょうか。ここには「パリサイ人たちを気にして」とありますが、新改訳第三版では「はばかって」と訳しています。口語訳も新共同訳も同じです。「はばかって」です。パリサイ人たちをはばかって、気にして、告白しませんでした。なぜなら、告白しようものなら、会堂から追放されてしまうからです。そのことを恐れたのです。会堂から追放されるということは、ユダヤ社会から締め出されることを意味していました。自分たちの身分や特権、名誉、さらにはこれまで蓄積、家族もみんな失ってしまうことになります。そうなったら生きていくことさえできません。彼らはそのことを恐れたのです。どうして彼らはそのことをそんなに恐れたのでしょうか。それは43節にあるように、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛していたからです。この「栄誉」と訳されている言葉は「イエスの栄光」と訳された「栄光」と同じ言葉です。彼らはイエスの栄光を見ていたのではなく、自分の栄光を見ていました。だから、人々の目を気にして、公然と信仰の告白ができなかったのです。この世の人々からの目がこわいというのは、人からの栄誉を愛しているからです。そういう人は周囲の人々からよく思われることばかり気にしているので、確かな信仰を持つことが難しいのです。

あなたはどうですか。人からの評判を恐れていませんか。周囲の人々との関係を悪化させたくないと、周囲の人々の目を気にして、それに合わせるようなふるまいをしてはいないでしょうか。人からの栄誉を受けることを願う人は、神からの栄誉を期待することはできません。なぜなら、イエス様はこのように言われたからです。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)
また、ヤコブの手紙にはこうあります。
「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」(ヤコブ4:8)

ですから、私たちはイエスの栄光を見なければなりません。栄光に輝いたイエス・キリストを見るとき、人からの栄誉や、朽ちていくこの世の栄光、この世の栄誉などを求めることの愚かさを、主は分からせてくださいます。

南米エクアドルで宣教したジム・エリオットという宣教師がいます。彼は1956年このエクアドルのアウカ属に伝道している時に、惨殺されました。アウカ族というのはとても戦闘的な民族で、彼と共に4人の宣教師がその時殉教しました。この時ジム・エリオット29歳でした。その彼が書いた日記が発見されましたが、その日記の中にこう書いてありました。「失うことができないものを得るために持ち続けることができないものを手放す者は、愚かな者ではない。」
「失うことができないもの」とは永遠のいのちのことですが、失うことができないものを得るために、この世のものを手放すことができる者は愚かな者ではありません。事実、彼らの殺害に関わった5人のアウカ族のインディアンのうち3人が、その後イエス・キリストを信じて、アウカ族の教会の指導者になりました。
そして、このジム・エリオットが殺された2年後に、彼の妻と幼い娘がアウカ族に伝道するために出かけて行きました。なぜ、アウカ族の人たちは夫を殺したのかを尋ねると、白人は人食い人種だと聞かされていたので、自分たちの身を守るためにそのようにしたということがわかりました。それで妻は彼らを許し、キリストの福音を伝えました。それでアウカ族の人たちはビックリして、奥さんと娘が何かを伝えるためにやって来たというが、それは信じるに値すると、多くの人たちがイエス様を信じました。
生前ジム・エリオットは、「主よ、私を世界のためのささげものとしてください。私の血は、あなたの祭壇の前に流される時に価値あるものとなるのです。」と言っていましたが、まさにその言葉の通りに、彼の流された血が価値あるものとなったのです。それはイエス様が12:24節で語られたことでもありました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

議員たちは持ち続けることができないものを愛しました。それが人からの栄誉であり、地位や名誉や財産というこの世の物でした。しかし、そのようなものを愛するなら、神を愛することはできません。人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を愛するなら、あなたは揺るぎない信仰を持つことができるのです。

Ⅲ.大きな声で(44-50)

最後に44~50節を見たいと思います。
「イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」」

ここには、「イエスは大声でこう言われた。」とあります。イエス様がこのように大声で言われるというのは珍しいことで、先ほども申し上げたように、このヨハネの福音書においては4回だけです。そして、これがその最後の箇所となります。いったいなぜ大きな声でいわれたのでしょうか。それは先ほど述べたように、それが重要なことであり、それを聞いていた人たちに何とか理解してほしかったからです。では、その内容とはどのようなものだったのでしょうか。

イエス様はまず、「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」(44-45)と言われました。イエス様は、これまでもご自分とご自分を遣わされた父なる神が一体であることを述べてこられましたが(8:16,10:30)、ここではそのことをもう一度確認されました。。
また、46節には、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」とありますが、これも8:12や12:35節で語られてきたことです。8:12には、「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあります。また12:35にも「そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。」とあります。
また47節の「だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」という言葉も、あの有名なヨハネ3:16を彷彿とさせるものです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
さらに、49~50の御言葉も8:26の御言葉と同じです。「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」
ですから、ここには真新しいことは特にありません。これまで語ってこられたことを繰り返して語られたのです。なぜなら、彼らはイエスを信じなかったからです。彼らは、イエスがこれほど多くのしるしを行われたのに信じませんでした。そんな彼らの頑なな心を嘆きながら、今、最後にもう一度彼らがイエスの言葉を受け入れるようにと招いておられるのです。

12:36のところで、イエス様は、「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」と言われました。私たちは、光があるうちに、光がはっきり見えているうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなければなりません。
私たちの人生には時があり、波があります。明るい時代があり、暗い時代があります。平穏な時があり、困難な時があります。私たちはさまざまな時の中を生きているのです。もっとも平穏な時、困難の少ない時が、光がある時というわけでもありません。ここで言う「光」というのは、この世の「光」のことではないからです。それは、イエス・キリストのことです。この光があるうちに、光の子どもとなるために、光を信じなければなりません。

光が見えるとか、見えないというのは、一種の状態でしょう。しかし、その光を信じるということは、状態ではなく決断なのです。私たちは、この光を自分のうちにお迎えする。この光と共に歩むという決断をするのです。その信仰の決断をする時に、それが自分の中で積極的な意味を持ってくるようになるのです。

そのチャンスはいつもあるわけではありません。ちょうど電車が向こうからやってくるようなものでしょうか。それが自分の前に来た時に、私たちは無意識であるかも知れませんが、それに乗るか乗らないかの決断をしなければなりません。そこで乗らなければ、電車は自分の前から過ぎ去ってしまいます。次の電車まで待つという決断をすることもあるでしょう。しかしもう来ないかも知れないのです。困難の中でイエス・キリストに救いを求めて、その時は一条の光がそこに見えていた。しかしその困難が過ぎ去った時には、他にもいろんな光が見えてきた。そうすると、逆にイエス・キリストの方の光がくすんで見えなくなってしまった、ということはしばしばあることです。その時を逃してはなりません。確かに「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

あなたは、この光を信じましたか。この恵みの時、救いの日に、光であられる主イエス・キリストを信じてください。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
これがイエス様の願いであり、最後の叫びです。イエス様は大きな声で言われました。どうかイエス様の大きな声に信仰をもって応答してください。今こそイエス・キリストを私の救い主として信じる時なのです。