ヨハネの福音書13章1~15節「互いに足を洗いなさい」

 きょうは、「互いに足を洗い合いなさい」というタイトルでお話しします。イエス様は、ご自分が十字架で死なれることが近づいているのを知ると、弟子たちとのプライベートな時間を持たれました。それが、この13章から17章まで続く内容です。これはマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の福音書には記録されていない内容です。このヨハネの福音書だけに記されてあります。しかも、ヨハネはそのために実に全体の4分の1のスペースを割いています。この中てイエス様は、最後に弟子たちに何とかして伝えたいことがありました。その一つのことが、互いに足を洗い合いなさいということです。

Ⅰ.最後まで愛されたイエス(1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。
「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」

過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられました。「この世を去って父のみもとに行く」とは、具体的には、十字架で死なれ、三日目によみがえられること、そして、その後天に昇って父なる神の右の座に着かれることを意味しています。ヨハネの福音書ではそれを「ご自分の時」と言っていますが、イエス様は、その時が来たことを知っておられました。そして、世にいる自分の者たちを愛されたイエスは、彼らを最後まで愛されました。新改訳第三版では、「その愛を残るところなく示された」と訳しています。「最後まで」、「残すところなく」という言葉は、下の欄外にあるように、「極みまで」という意味の言葉です。極限まで愛されました。最後の最後まで、とことん愛されたのです。これがイエス様の愛です。イエス様の愛は途中で放棄するようなものではありません。最後の最後まで、とことん愛する愛です。でも、イエス様が愛された弟子たちとはどういう人たちだったでしょうか。彼らはイエス様に愛されるにふさわしい人たちだったでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

たとえば、ルカ9:54には「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」」とあります。「これを見て」とは、サマリヤ人たちがイエス様を受け入れなかったのを見て、ということです。弟子のヤコブとヨハネ、このヨハネとはこのヨハネの福音書を書いているヨハネのことですが、彼らは、サマリヤの人たちがイエス様を受け入れないのを見ると、彼らを焼き滅ぼしましょうかと言ったのです。とても激しい気性です。人を人とも思わない情け容赦ない人たちでした。自分たちを拒絶する者たちがいると、そういう人たちを平気で焼き滅ぼしてしまいたいと思うような人たちだったのです。すぐにカッとなって頭に血が上るような人でした。ですから、彼らにはあだ名がありました。「ボアネルゲ」、「雷の子」です。いつも嫌なこと、気に食わないことがあると、ゴロゴロと雷のようにうなりました。皆さんの中にもそういう人がいるでしょう。自分が受け入れられないと、すぐに「フン」と言ってそっぽを向いてしまうという人が。それだけだったらいいですが、その人を焼き滅ぼしてしまいましょうか、というところまでいくとヤバいです。

ヨハネ1:46には、弟子の一人のナタナエルについて紹介されています。彼は、同じ町の出身であったピリポから「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言うのを聞くと、「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」(1:46)と言いました。これはイエス様を侮辱した言い方です。ナザレという無名の町からいったいどうして良いものが出るというのか、出るはずないだろう、と皮肉ったのです。

ルカ22:24には、最後の晩餐の席で、弟子たちはあることで議論していたことが記されてあります。それはだれが一番偉いかということです。もうすぐイエス様が十字架に付けられて死なれるという時に、だれが一番偉いかと議論していたのです。

また、ルカ22:31~32には「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とあります。イエス様は、ペテロが三度もご自分を否定することを知っていましたが、それにもかかわらず、ペテロの信仰がなくならないように祈られました。そして、彼が立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと、言われたのです。

極め付けはこれでしょう。2節に出てくるイスカリオテのユダです。「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」彼はイエス様を裏切ろうとしていました。「裏切る」という言葉は「引き渡す」という意味の言葉です。彼は銀貨30枚でイエス様を引き渡そうとしていました。これはひどいですね。許されざる行為です。しかし、イエス様はそういう心を知ったうえで愛されました。もし私たちがそういうことを知っていたらどうでしょうか。決して愛すことなどできません。しかし、イエス様は違います。最後の最後まで、とことん愛されました。これがイエスの愛です。これが愛するということなのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださいました。ここに愛があります。なぜイエス様はそんな弟子たちを愛されたのでしょうか。わかりません。しかし、ただ一つだけわかることは、愛するということがどういうことなのかの模範を、実際に示してくださったということです。それが足を洗うという行為です。いったい愛するとはどういうことなのでしょうか。

Ⅱ.愛の模範(3-11)

では次に、3~11節をご覧ください。まず、3~6節までをお読みします。
「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」

イエス様は夕食の席から立ちあがると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。それから、たらいに水を入れると、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭き始められました。それには、シモン・ペテロもびっくりしました。なぜなら、それは奴隷の仕事、しかも異邦人の奴隷のする仕事だったからです。それは当時、極めて卑しい仕事とされていました。それを「先生」とか「主」とか呼ばれていたイエス様がしたわけですから、その驚き様はどれほどであったかと思います。6節を見ると、シモン・ペテロがこう言っています。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」とんでもないです。止めてください。そんなニュアンスが伝わってきます。イエス様が弟子たちの足を洗うというこの行為は、いったいどんな意味があったのでしょうかす。二つの意味がありました。一つは、イエス様は、私たちを罪からきよめてくださるということです。ペテロがイエス様に、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」と言うと、イエス様はこう言われました。
「わたしがしていることは、今はわからなくても、後で分かるようになります。」
どういうことでしょうか?今は分からないかもしれませんが、後で分かるようになります。「後で」というのは、イエス様が足を洗い、手ぬぐいで拭かれ、上着を着て、再び席に着かれた時です。これはどういうことかというと、イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれるという救いの御業のことです。そうです、イエス様が弟子たちの足を洗われたこの行為は、このことを象徴していたのです。

イエス様はまずは上着を脱がれました。これは、神としての特権を脱ぎ捨ててこの地上に来てくださったことを表しています。そして、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。これは仕える者の姿です。イエス様は、人としての姿をもって現れ、自らを低くし、死にまで、実に十字架の死にまでも従われました。そして、たらに水を入れられました。この「水」はみことばによるきよめの象徴です。というのは、エペソ5:26には、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり」とあるからです。また、ヨハネ15:3にも、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。イエス様は、水の洗いをもって私たちを聖なるものとしてくださいました。そればかりではありません。弟子たちの足を洗うと、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭かれました。それは、その働きを完成してくださったということを表しています。ですから、イエス様が弟子たちの足を洗うというこの一連の出来事は、第一義的には、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、私たちの罪をきよめてくださるということを示していたのです。

そのことをよく表しているのは、ピリピ2:6~11のみことばです。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

それは、ペテロがその後で「決して私の足を洗わないでください」と言ったとき、イエス様が「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」と言われことからもわかります。イエス様に足を洗ってもらわなければ、イエス様と何の関係も持つことができません。イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられるという出来事によってそれを信じる者の罪は赦され聖められるのであって、それがなかったら、何の関係も持つことができないのです。あなたは、イエス様に足を洗っていただきましたか?

ちなみに、ペテロがここで言った「決して私の足を洗わないでください」という言葉ですが、これは強い否定形になっています。「どんなことがあっても」とか、「絶対に」という意味です。「あなたが他の弟子たちに何を成さろうとも、私の足だけは決して洗わないでください。」といったニュアンスです。なぜペテロはそのように言ったのでしょうか。それは、イエス様が弟子たちの足を洗うということがどういうことなのかを全く理解していなかったからです。そんなことあり得ないことです。前代未聞です。絶対に洗わないでくださいと言いました。

しかし、イエス様が「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と言われると、今度は、「じゃ、洗ってください。足だけでなく、手も頭も。」と言いました。調子いいですね。「決して洗わないでください」と言ったのに、イエス様がもしわしが洗わなければ・・・・と言われると、今度は、「じゃ、全部洗ってください。足だけでなく、手も頭も・・・と言ったのですから。なぜペテロはこんなことを言ったのでしょうか?実は、何を言ったらいいのかわからなかったのです。そういうタイプの人がいます。何か言わないと気が済まないのですが、何を言ったらいいのかわからないで、何でも言っちゃえみたいな人が。自分もそういうタイプなのでペテロの気持ちがよ~くわかるような気がします。でもペテロは憎めません。なぜなら、ペテロがこのように言ったのは何とかしてイエス様との関係を失いたくない。何とかして持ち続けていたいという思いがあったからでしょ。自分がどんなことをしても、どんなに失敗しても、イエス様から絶対離れたくないという思いがあったのです。そこを評価してあげたいですね。だれも完全な人などいません。みんな失敗だらけです。でも、どんな失敗をしてもイエス様について行きます。その気持ちが大切です。しかし、このペテロの態度には二つの極端が見られます。

一つの極端は、イエス様に足を洗われることを頑なに拒むという極端です。イエス様が彼の足を洗おうとした時、ペテロは、「決して私の足を洗わないでください」と言いました。私たちの周りには、そのように足を洗ってもらうことを極端に拒む人がいます。あなたに足を洗ってもらわなくても結構です。あなたの話など聞きたくありません。そのような話には興味がないのです。自分と関わらないでください。そのように頑なに拒むのです。

一方、このペテロのように、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」という人がいます。これは全面的に依存するタイプの人です。クリスチャンなら、どんな時でも、どんなことでも助けてくれるはずだと、必要以上に要求する人がいるのです。それは愛するとはどういうことかを誤解していることから生じる極端と言えるでしょう。そのような時には、はっきりとNOと言わなければなりません。そうでないと、あなたが疲れ果て、倒れてしまうことになるからです。

このように、汚れた足を洗うということ、イエス様の愛を示すということは簡単なことではありません。その愛を拒む人がいれば、逆に、必要以上に依存する人がいますから。ですから、私たちはその置かれた状況を踏まえながら、本当に主が求めておられることは何なのかを見極めて、イエスさまの愛を示していかなければなりません。

ところで、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」というペテロに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。10節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。
「イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」」
どういうことでしょうか。「水浴する」とは、英語の聖書(NKJV)には、「He who is bathed」と訳されています。「bath」はお風呂です。お風呂に入った者です。日本でもお風呂に入るという習慣がありますね。お風呂に入った者は、足以外に洗う必要がありません。なぜなら、全身がきよいからです。足だけでいいのです。なぜ全身がきよいのに、足だけは汚れているのかというと、日本でも昔はそうですが、お風呂が母屋から離れて外にあったので、お風呂から上がって母屋に来るうちに、また汚れてしまことがあるからです。その場合、全身はきよいのですが、足だけが汚れています。だから足だけ洗えばいいのです。これはどういうことかというと、イエス様を信じた者はすでにきよくされているので全身を洗う必要はありませんが、足だけは洗わなければならないということです。その足とは何かというと、日々の歩みのことを指しています。イエス様に全身を洗っていただいた人はすべての罪が赦され、イエス様と関係を持つことができました。しかし、日々の歩みの中で犯してしまう罪のために、イエス様との関係が曇ってしまうことがあります。救いの恵みを失うことはありませんが、イエス様との親しい交わりに陰りが生じることがあるのです。イザヤ59:1-2に、「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにするのです。

ですから、私たちはその汚れをきよめていただくために、その時々に犯す罪を悔い改めなければなりません。もちろん、その前にまず全身を洗っていただかなければなりません。そのためにイエス・キリストが上着を脱いで、手ぬぐいを取り、たらいに水を入れて足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭いてくださいました。そのようにして全身をきよめていただいた者は、つまり、水浴した者は、足以外は洗う必要がないのです。全身がきよいからです。その人は、足だけ洗えばいい。すなわち、日々の歩みの中で犯した個々の罪を悔い改めるだけでいいのです。そうすれば、主はそのすべての罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。私はイエス様を信じてきよめられたのだから、すべての罪が赦されました。ハレルヤ!もう悔い改める必要なんてないの、と言うとしたら、その人は自分自身を欺いていることになります。なぜなら、聖書は、「もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(Ⅰヨハネ1:8)と言っているからです。ですから、イエス様を信じてきよめられた人は全身を洗う必要はありませんが、日々の歩みの中で犯してしまった罪の汚れを、その度、その度洗っていただかなければならないのです。

11節には、「イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。」とあります。イエス様が「皆がきよいわけではない」と言われたのは、イスカリオテのユダのことを指していました。彼はキリストの弟子でしたが、水浴していませんでした。彼はそのようにふるまっていましたが、実際にはそうではありませんでした。何が問題だったのでしょうか。中身がなかったことです。ただ形式的に弟子となっていただけでした。自分にとって何が得であり、何が損なのかという損得勘定ばかり考えていて、悔い改めませんでした。もし彼が心から悔い改めてイエス様に従っていたのであれば、彼も救われていたはずです。足だけ洗えば良かったのです。けれども、彼には真の悔い改めがありませんでした。だから、彼はきよめられていなかったのです。

ペテロも多くの失敗をしました。彼は主を三度も否定するという大きな罪も犯しました。しかし、ペテロとイスカリオテのユダとの決定な違いは、ペテロは真に悔い改めたのに対して、ユダはそうではなかったということです。ペテロも罪を犯しましたが、彼は悔い改めてイエスの十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちを信じましたが、ユダはそうしませんでした。

あなたはどうですか。自分の罪を悔い改め、その罪のためにイエス様が十字架で死んでくださり、三日目によみがえってくださったと信じていますか。信じる者は救われます。全身がきよめられています。あとは、足だけ洗えばいいのです。全身をきよめていただいて、また日々の歩みにおいて犯す数々の罪を悔い改めて、いつも新鮮に主との交わりの中に生きる者でありたいと思います。

Ⅲ.互いに足を洗いなさい(12-15)

ですから、第三のことは、私たちも互いに足を洗わなければならないということです。12~15節をご覧ください。
「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」

イエス様は彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着かれました。これは、先ほども言いましたが、イエスが十字架と復活の御業を成し遂げて天に昇って行かれ、神の栄光の右の座に着かれたことを象徴的に表していました。つまり、イエス様が弟子たちの足を洗われたことの第一の意味は、イエス・キリストの十字架と復活という出来事によって私たちの罪がきよめられるということでした。このことがなければ、また、このようにして罪の贖いを成し遂げてくださったイエス様を信じることがなければ罪の赦しはありません。イエス様と何の関係も持つことができません。つまり、このように私たちを罪から救ってくださるのは、イエス様の他にはいないということです。そのことの上に、主はもう一つの意味を教えてくださいました。それは、イエス様が弟子たちにしたように、私たちもするようにと、模範を示されたということです。つまり、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(14)ということです。これはどういうことでしょうか。

ローマ・カトリック教会では、この言葉を文字通り解釈しました。すなわち、イエス様が弟子たちの足を洗ったように、自分たちも実際に兄弟姉妹の足を洗わなければならないと受け止めたのです。ですから、ローマ・カトリック教会では、受難週に洗足の儀式として、互いの足を洗い合うという習慣があるのです。それはローマ・カトリックだけでなく、プロテスタントの一部でもそのように解釈して実行している教会があります。しかし、これはそういうことではありません。15節の御言葉を見るとその判断の助けになります。イエス様はここで、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」と言われました。「わたしがあなたがたにしたと同じことを、あなたがたもするように」とは言われませんでした。つまり、主はご自分がなさったことと同じことをせよと仰せられたのではなく、ご自分がなされたとおりに弟子たちがするようにと模範を示されたのです。

それでは、主がなさったとおりに弟子たちもするようにと示された模範とはどんなことでしょうか。それは、「先生」とか、「主」とか呼ばれている人が、弟子の足を洗われように、へりくだって互いに仕え合いなさいということです。それが愛するということです。ヨハネは、主が弟子たちの足を洗うという出来事を記すにあたり、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」と書いて、その実例としてこの出来事を記しました。また、この後のところで、主は、この足を洗うということを愛するという言葉に言い換えて、次のように言っています。34節です。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ですから、ここで主が教えられた実物教育は、主の弟子たちである私たちが主に倣って、愛と謙遜もって仕え合いなさいということだったのです。もう一度繰り返して言いますが、これはキリストの身代わりの十字架の救いということの上にある教えです。このへりくだって互いに愛し合うことができるのは、キリストの救いの恵みに与った者でなければできないということです。生まれながらの人間にはできません。生まれながら人間は、このような要求の前には絶望しかないでしょう。しかし、イエス様の十字架の救いを信じて救われた者は、互いに愛することができます。なぜなら、十字架の救いを通して神の愛を知ったからです。このことは、もし私たちが、「あの人は好かない」とか、「あの人は嫌だ」ということがあっても、そんなことは関係ないということです。なぜなら、神は、神を信じないで敵として歩んでいた私たちさえ愛してくださり、十字架で死んでくださったからです。これが互いに愛し合うことの土台です。これがなかったら、愛し合うことなんてできません。夫婦の関係でも、親子の関係でも、この愛がなかったら無理です。学校でも、職場でも、教会でも、それを根底から支えているのはこの愛なのです。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)
ここに愛があります。私たちはこの愛を知りました。神がとれほどまでに私たちを愛してくださったのかを知りました。だから、私たちは互いに愛し合うことができるのです。最後の最後まで、その極みにまで、とことん愛することができるのです。最近、ビジネスの世界でもこのようなリーダーが求められています。サーバントリーダーです。仕えるしもべです。リーダーは、仕えるしもべでなければなりません。これはイエス様を信じて神の愛を知った者でなければできません。イエス様の愛を知った者だけが、真の意味でサーバントリーダーになれるのです。

イエス様は、世にいる自分の者を最後まで愛されました。最後の最後まで、その極みまで、とことん愛されました。夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれ、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭かれました。決して手ぬぐいを投げたりしませんでした。手ぬぐいを投げるというのは、働きを放棄することを意味します。ですから、ボクシングの試合でもうこれ以上は戦えないという時には、セコンドからタオルが投げ込まれるのです。しかし、イエス様は決してタオルを投げませんでした。最後の最後まで、とことん愛してくださいました。私たちは、このイエスの愛を知りました。だから、私たちも互いに愛し合うことができるのです。たとえ、相手の足が臭くても、たとえ、顔をそむけたくなるような足でも、互いにその足を洗わなければならないのです。イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、私たちもするようにと、私たちに模範を示すためだったのです。私たちもイエス様によって足を洗っていただきましょう。そして、互いに足を洗い合いましょう。そのようにして、キリストの弟子としての歩みを全うしていきたいと思います。