イザヤ書9章1~7節 「ひとりのみどりご」

きょうは、イザヤ書9章に入ります。このところも何度か取り上げたことがありますが、8章からの流れの中でもう一度読んでみたいと思います。タイトルは「ひとりのみどりご」です。イザヤは7章のところで、やがて来られるメシヤがどのような方であるのかを「インマヌエル」という言葉で表しました。意味は、神は私たちと共におられる、です。私たちを罪から救い出すことができる神が私たちと共におられるなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。どのような問題にも勝利することができます。この方が私たちと共におられるのです。  きょうのところには、やがて来られるメシヤがどのような方であるかを、ひとりのみどりごとして紹介されています。きょうは、このみどりごがどのような方であるのかについて、三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.やみの中の光(1-5)

まず1節から5節までをて見ていきましょう。1節と2節をご覧ください。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

この箇所は「しかし」という接続詞で始まっています。ということは、前の章からの続きになっているということです。8章では、神のおしえとあかしに尋ねなければならない、ということが語られてきました。もし、このことばに従わないとどうなるのでしょうか。20節の終わりにこうあります。「その人には夜明けがない。」皆さん、なぜこの世は暗いのでしょうか。神のみことばがないからです。神のおしえとあかしを聞こうとしないで、別のものに聞こうとします。霊媒とか、さえずりとか、ささやきとか、口寄せといったものです。こうしてみことばが軽んじられるので、人々はだんだんと飢えていくのです。8章21節、22節にはこうあります。「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」イスラエルは、神のみことばに従わなかったので、アッシリヤをはじめとした異邦の民に踏みにじられ、苦難とやみが彼らを覆ったのです。

「しかし」です。しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなります。先にはゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けます。「ゼブルンの地とナフタリの地」とは、最初にアッシリヤの手に落ちたところです。イザヤが預言したとおり、北イスラエルはイザヤの子「マヘル・シャラル・ハシュバズ」が生まれて、まだ「お父さん、お母さん」と呼ぶことも知らないうちに、アッシリヤに滅ぼされてしまいました。これがいわゆるアッシリヤ捕囚です。B.C.722年に起こりました。そして、その地域には多くの異邦人が住むようになったので、その地は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになりました。しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなります。ゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けましたが、光栄を受けました。異邦人のガリラヤは顧みられました。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見ました。死の陰の地に住んでいた人に、光が照りました。どのようにでしょうか?それから約700年後のことですが、神のメシヤがこの地に来て、神の福音を語ってくださいました。マタイの福音書4章12節から17節までを開いてみましょう。

「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中に座っていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

イエスは、ゼブルンとナフタリとの境にある町カペナウムに来て、宣教を開始されました。これは預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためでした。このようにして異邦人のガリラヤは光栄を受けたのです。イエスが語られた恵みのことば、イエスが行われた数々の奇跡、いやしは、その地の人たちにとってどれほど大きな慰めをもたらしたことかと思います。アッシリヤはさることながら、その後もバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった異邦人にずっと踏みにじられてきました。そうした苦しみの中で、神の民であることにどれほどの特権と喜び、意義を感じていたでしょうか。ほとんど感じられなかったでしょう。自分たちが何のために存在し、どこに向かって歩んでいるのかもわからない、無味乾燥な生活の繰り返しでした。そのような中にイエスが来られたのです。そして、そのようにしいたげられていた異邦人のガリラヤで、福音の第一声を語られました。それは、苦しみにあえいでいた彼らにとって、本当に大きな喜びであり、慰めであり、希望であったにちがいありません。

それと同じように、イエスはあなたの心のやみ、人生の苦難のただ中に来てくださいます。そして、これまでいろいろなことでしいたげられ、苦しんでいた心を、傷ついていた心に光を照らしてくださいます。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見るようになります。あなたがイエスを信じたその時から、この光が照るようになるのです。

3節から5節には、そんな彼らの喜びが次のように表現されています。「あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」

それは刈り入れ時の喜びのようであり、また、戦利品を分け合う時の喜びのようであります。また、それはあのミデヤンの日になされた時のようです。ミデヤンの日になされたというのは、士師記7章に出てくる話ですが、ギデオンがたった三百人の勇士によって、十三万人以上のミデヤン人を打ち破ったという話です。それによって、それまで彼らにのしかかっていた重荷から解放されました。私たちも日々いろいろなストレスを抱えながら生きていますが、このストレスがどれほど体に悪いものであるかを知っています。そうした重荷の一切を、あのミデヤンの日になされたように、粉々に粉砕されるのです。その結果、完全な勝利と平和がもたらされます。「戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる」からです。

もちろん、私たちはまだ完全な形でこの実現を見ていません。ここに記されてあるような解放というものを、まだ経験していません。それは、イエスが再臨される時まで待たなければならないのです。イエスが再臨されるとき、私たちは復活のからだ、御霊のからだをいただいて墓からよみがえり、空中で主と会います。その後イエスと一緒にこの地上に下りて来て、千年間地上を治めるわけです。これが千年王国です。そのとき、このみことばが文字通り実現します。それまで待たなければなりません。しかし、イエスを信じたその瞬間から、あなたの中にこの神の支配が始まります。そして、これまで体験したことがない喜びと解放を体験するでしょう。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見たというこのみことばを、あなたは実際に体験することになるのです。

Ⅱ.ひとりのみどりご(6)

次に6節をご覧ください。ここには、やみを照らす光としてのメシヤがどのようにして来られるかが記されてあります。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

その方は、ひとりのみどりごとしてお生まれになられます。そして、ひとりの男の子として、私たちに与えられます。これはイエス・キリストによって成就しました。クリスマスの出来事です。ヘンデルの「メサイヤ」の題材にもなっているところですね。

ここには、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。」とあります。「みどりご」とは、赤ちゃんのことです。ひとりの赤ちゃんが生まれると書いた方がわかりやすいと思いますが、文章語としては「みどりご」という言葉を使います。このみどりごが、生まれるのです。この「生まれる」という言葉に注意してください。「生まれる」というのですから、これはこのみどりごの人性、人間性が表されています。この方は人間としてお生まれになられるということです。

しかし、その次を見てください。ここには「ひとりの男の子が、私たちに与えられる」とあります。ここで「男の子」と訳されたのは間違いです。これは「男の子」ではなく「息子」、あるいは、「ひとり子」と訳さなければならない言葉です。なぜなら、ここではこの方の神としての性質、神性が強調されているからです。ですから、この方は生まれるのではありません。与えられるのです。ひとりの男の子が与えられるとありますね。英語では「a Son」です。息子です。息子が与えられるのです。息子が与えられるということで思い浮かべる聖句がありますか?ヨハネ3章16節です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

このひとり子のことです。このひとり子は神のひとり子という意味で、神としての性質が強調されているわけです。ですから、ただの「男の子」にすると、そのニュアンスが伝わりません。やがて来られるメシヤは、ひとりの嬰児として生まれた神の御子なのです。イエスは100%神であり、100%人間です。イザヤはそのような方がメシヤとして来てくださると預言したのです。

この方について、続いてこのように書かれてあります。「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。ここには、この方がどのような方であるのかが、四つの呼び名で表されています。

まず第一に、この方は「不思議な助言者」です。ワンダフル・カウンセラー(wonderful counselor)です。イエス・キリストはワンダフルなカウンセラーです。 どういう点でワンダフル・カウセラーなのかというと、イエスは私たちの心の中で考えていることも含めて、私たちのすべてを知っておられ、私たちの人生における完全な計画も持っておられ、その道を示してくださるという点においてです。この方は人間のレベルを超えています。私たちにとって何が最善であるのかを知って、その道に導くことができるのです。

ですから、あなたに悩みがあり、相談事があるなら、イエス様に相談してください。相談料はもちろん無料です。アポイントもいりません。予約は一切必要ありません。いつでも、どこでも、私たちはこの不思議な助言者に悩み事を聞いてもらえます。あなたの思い煩い、言い知れぬうめきの言葉も、この方がしっかりとくみ取って、受け止めてくださいます。シロアムの水のほとりに行ってみてください。静かな時間をこの方と過ごしてみてください。この方があなたに必要なことを必ず示してくださいます。ワンダーフルカウンセラーがワンダフルなアドバイスをしてくださいます。

でも、ただアドバイスをしてくれるだけではありません。ただアドバイスをしてくれるだけなら、この世のカウンセラーと何も変わりません。この方がワンダフルなのは、同時に力ある神だからなのです。力ある神とは、マイティー・ゴッド(mighty God)です。マイティーとは、力強いとか、大能という意味です。この方はただアドバイスをしてくれるだけでなく、そのアドバイスを実行する力を持っておられます。私も牧師としていろいろなアドバイスをします。でもアドバイスしかできません。それ以上のことはできません。しかし、この方はワンダーフルカウンセラーですから、アドバイスをされたら、そのアドバイスをあなたが実行するために必要な力を与えてくださいます。この方が力ある神としてあなたを支えてくださいます。そのアドバイスを実行できるように、最後までこの方がついていてくださいます。この方には不可能なことは一つもありません。ヨハネの福音書1章3節には、

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

とあります。この方は無から有を、すべてのものを造られた創造主なのです。この全能の力をもってあなたを助けてくださいます。

それから、ここには「永遠の父」とあります。赤ちゃんとして生まれてきますが父です。父親とはどういう存在でしょうか。皆さんも父親ならばわかるはずです。子供が悲しんでいたら、子供が傷ついていたら、父親であるあなたの心は動きます。子供が何かで悩んでいたら、何とかして助けてあげたいと思うものです。欲しいものがあれば、お金がなくても何とか勝ってあげたいと思うでしょう。お腹が空いていたら、満たしてあげたいと思います。イエス・キリストは父親の心を持って、悲しんでいるあなたを、苦しんでいるあなたを、ニーズを抱えているあなたを、黙ったまま傍観しておられる方ではありません。父親の心は動くんです。あなたのために動きます。ですから、父の心を持っておられるイエスは、あなたに最高のアドバイスを与え、最善に導きたいと願っておられるのです。あなたを助けたいと常に願っています。あなたの支えになりたい、力になりたいと、いつも願っています。ただ力があるのではありません。ただアドバイスができるのではありません。的確なアドバイスをし、そのアドバイスを実行できるように力を与え、それがあなたのことを心から思ってのアドバイスであるということがわかります。マタイの福音書7章7節から11節までを開いてください。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

私たちの救い主イエス・キリストは父の心を持っておられます。そして、私たちのニーズに心を動かしてくださり、それに答えてくださいます。それだけではありません。ここには、永遠の父とあります。単なる父ではなく、永遠の父です。肉の父親は年を取るとこの世を去って行かなければなりません。しかし、イエスは永遠の父として、私たちとともにいてくださるのです。マタイの福音書28章20節には、「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とあります。イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいてくださいます。ヨハネの福音書14章18節では、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」とあります。あなたを捨てて、孤児にするようなことはなさいません。今しばらくの間は天におられるのでこの目で見ることはできませんが、代わりに聖霊を送り、私たちが見ることができるようにしてくださっています。ですから、私たちは安心して、自分の生涯をこの方にゆだねることができるのです。

そして、キリストについてここにはもう一つの呼び名で紹介されています。それは「平和の君」です。「プリンス・オブ・ピース」(prince of peace)です。この方は平和の王として来られました。

この地上には、どこを見ても平和はありません。多くの戦争が繰り返されています。その悲劇を見ても、人類は少しも反省することなく、限りなく戦争を繰り返しているのです。相対性理論を唱えたアインシュタインは、生前、「今や文明を破壊する武器に対する防備策はない」と言いました。また、ジョン・F・ケネディーは、「人間は戦争を終息させなければならない。そうでないと、戦争が人間を滅ぼしてしまう。」と言いました。いったいどうしたら平和になるのでしょうか。

この平和はお金で買うことはできません。ただ十字架に付けられて死なれたイエス・キリストを信じ、神と和解することによってのみもたられます。なぜなら、この方は平和の君として来られたからです。エペソ人への手紙2章14-16には、 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)とあります。キリストこそ私たちの平和です。キリストは、ご自分の肉によって敵意を廃棄されました。それは平和を実現するためであり、神と和解するためでした。

かつてイギリスの作家ジェフリー・アーチャーが、「ケインとアベル」という小説を書きました。銀行の頭取ケインとアメリカのホテル王と言われたアベルが、ささいなことで喧嘩をし、反目しながら生活するようになりました。しかし、このケインの娘とアベルの息子が愛し合うようになり、親の反対を押し切って結婚し、こどもが生まれるのです。その子供の名前はウィリアム・アベル・ケインです。この子の誕生をきっかけに、長らく続いていたケインとアベルの家に和解がもたらされました。イエス・キリストはこのウィリアム・アベル・ケインのように、神と人類が和解をするためにこの世に生まれてくださったのです。そして、あくまでも神に背き、自己中心的に行き続ける人間のために十字架にかかって死なれることで、私たちが受けるべき一切の刑罰をその身に負ってくださいました。イエス・キリストこそまことの平和です。この方はやがて再びこの地上に来られる時、完全な平和な国を樹立してくださいます。

Ⅲ.ダビデの王国(7)

最後に7節をご覧ください。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

これは来るべきメシヤ王国のことです。Ⅱサムエル7章12,13節のところで、主がダビデに約束された王国のことであります。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この王国のことであります。ダビデの身から出る世継ぎの子とはソロモンですが、これはソロモンのことではありません。この王国はイエス・キリストによって樹立される王国のこです。それはこのイザヤ全体のテーマの一つにもなっている王国のことで、世の終わりにキリストが再臨されたことによってもたらされる王国、千年王国のことです。その時キリストはエルサレムに王座を置いて、君臨されるのです。罪によって破壊された世界は刷新されて、天地が創造された時のパラダイスのような地球に回復してくださいます。そこには弱肉強食などがない平和な時代がやってきます。信じられないような平和と繁栄の時代をイエスが立てられるのです。

しかし、キリストの弟子たちは、このことをよく理解していませんでした。イエスが最初にこの世に来られたとき、それがすぐにもたらされるものだと思って、「主よ、いつですか。いつあなたは王国を打ち立ててくださるのですか。」と何回も尋ねました。しかし、これに対するイエスの答えはこうでした。ヨハネの福音書18章36節です。

「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

わたしの国はこの世の国ではありません。イエスが打ち立ててくださる王国は、この世のものではありません。物理的、政治的、経済的なこの世の国ではありません。むしろこれは、ルカの福音書17章20,21節に記されてあるような国です。

「さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

イエスが言われている神の国というのは目に見えないもので、むしろ、信じる者たちの心の中にあるものだとおっしゃられました。パウロはこの神の国についてローマ14章17節で次のように言っています。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」

ですから、イエスはこの世に千年王国をもたらすために今から二千年前に来たのではありません。政治的、軍時的指導者で来たのではありません。しかし、当時の人々は、まさにイエスがローマの圧政から救い出して、そしてイスラエルを復興して、旧約に約束されているようなダビデのとこしえの王国を樹立してくれる方だと思い込んでいました。もうこれで税金を払わなくてもいい、もうこれで何不自由ない生活ができるようになるとか、そう思っていたのです。

今日も早合点している人たちがいます。クリスチャンと呼ばれている人たちの中に、神の国が物理的にこの地上に樹立されるべきだと考えて、クリスチャンの政治家をたくさん送り込んで、そしてこの目に見える世界をよくしていくように変えてべきだ、そして、キリスト教国にしようという人たちがいます。しかし、そういう教えは非聖書的です。それは二千年前のユダヤ人たちと同じ過ちであります。または、弟子たちの混乱と同じです。

イエスはなぜ今から二千年前に来られたとき地球上のすべての悪を一掃して、この地上に千年王国を樹立されなかったのでしょうか?それは人々がイエスを拒んだからです。イエスをメシヤとして受け入れなかったからです。イエスはまずは霊的なメシヤとして、罪人の罪を取り除くためにこの世に来られました。すべての罪を贖い、すべての罪を赦して、私たちを義と認めるためにこの世に来てくださったのです。霊的メシヤとして罪の問題をすべて解決するために来られたのです。天国の国民としてふさわしく整えるために、罪の処理が必要でした。ですから、二千年前にイエスが始めて来られた時には、この目的のために来られたのです。でも、二回目は違います。二回目は、さばき主としてやってきます。そしてここに約束されているように、その王国はとこしえの王国となります。弟子たちはそのことがわからなかったので、常に混乱していたのです。旧約聖書に約束されていた神の王国を期待していたのですが、早合点していたり、混乱してしまったりしていたのです。

私たちも注意したいと思います。イエスがもたらした神の国は霊的なものです。私たちの罪を赦し、私たちが永遠のいのちを持つために来てくださいました。これがやがて実際にこの地上にもたらされる神の王国へとつながって行きますが、そのためには待たなければなりません。それにふさわしく整えられるために、二千年前にこの世に来られ、罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストを救い主として信じ名ければならないのです。それが、やがてもたらされる地上の楽園、千年王国に入る最大の準備なのです。

あなたは、その準備が出来ていますか?あなたは二千年前に来られ、あなたのために十字架にかかって死なれ、あなたの罪をあがなってくださったイエスを救い主として信じているでしょうか?

「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」万軍の主の熱心がこれを成し遂げてくださいます。あなたがすることではありません。救いは一方的な神の恵みのみわざです。あなたがすることは、その神の恵みを受け入れることだけなのです。万軍の主の熱心がこれを無成し遂げてくださいます。あなたは神が成し遂げてくださった救いのみわざを、信仰をもって受け止めてください。そのときあなたの中に神の国が始まるのです。