イザヤ書8章1~22節 「主を待ち望む」

きょうはイザヤ書8書から学びたいと思います。タイトルは「主を待ち望む」です。アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカが連合して攻めてくると聞いた時、ユダの王アハズは揺れに揺れました。林の木々が揺らぐように動揺したのです。その時イザヤに主のことばがありました。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」しかし、アハズ王はそのことばを信じることができませんでした。「しるしを求めよ」という命令にも従わないで、自分の力で解決しようとしたのです。それはアッシリヤに頼るということでした。アッシリヤに頼れば何とかなると考えたのです。しかし、昨日の友はきょうの敵です。今度はそのアッシリヤによって苦しめられることになります。人間の考えることはいつもこうなのです。表面的には解決したかのように見えますが、もっと自分をがんじがらめにしてしまうことになります。本当の解決は主にあります。主を待ち望まなければなりません。きょうは、そのことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神がともにおられる(1-10)

まず第一に1節から10節までをご覧ください。1節から4節につばのようにあります。「主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

主はイザヤにもう一人の男の子を与えられました。その子の名前は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」です。意味は「急げ」、「獲物を」、「奪え」、「早く」です。略奪者は速やかに来る、ということでしょう。その言葉のとおりに、アッシリヤがやって来てアラムとエフライムを滅ぼし、彼らの国から財宝を奪っていくわけです。それがこの「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という名前が意味していたことでした。4節のダマスコというのはアラム(シリヤ)の首都のことで、サマリヤとはエフライム(北イスラエル)の首都のことです。この二つの国にアッシリヤがやって来て、すみやかに財宝を奪っていくのです。「この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことを知らないうちに」とは、この子がまだ小さいうちにという意味です。おそらく1歳か2歳になるまでにということでしょう。7章15節から17節のところに預言されていたとおりです。そのとおりに、これが預言されてから1~2年のうちに、すなわち、前732年にダマスコが、また前722年にサマリヤが滅ぼされることになるわけです。ユダの王アハズにとっては「してやったり」といった気持ちだったでしょう。自分が思っていたとおりになったわけですから・・・。アラムとエフライムの攻撃という難局を乗り越えることができました。

ところがです。事はそれでは終わりませんでした。5節から8節を見てください。「主はさらに、続けて私に仰せられた。「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」

どういうことでしょうか?主は、アハズが主をないがしろにしてアッシリヤにより頼んだことを責めておられるのです。「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。」と。この「ゆるやかに流れるシロアハの水」ですが、これはエルサレムの町の外にあるギホンの泉からエルサレムに流れていた小川のことです。その水は、イエス様が盲人をいやされたあのシロアムの池に流れていました。「シロアハ」はギリシャ語で「シロアム」です。その川の全長は533メートルありましたが、その間の高低差はわずか2メートルしかなかったので、人の目には目立たないくらいのゆるやかな流れになっていたのです。しかし、そのように目立たない水であってもエルサレムの住人にとってはなくてはならないいのちの水です。生きていく上で必要不可欠なものでした。なのにそれをないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる、つまり、神に信頼しないでアッシリヤに頼り、この二つの国が倒れたことを喜んでいたのです。

それで主はどうされるのかというと、7節と8節です。「それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。」

それゆえに、主は、あの水かさの多いユーフラテスの水を、彼らの上にあふれさせます。ユーフラテスの水とはアッシリヤのことです。アッシリヤによってアラムとエフライムは滅ぼされます。しかし、それだけではありません。「それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する」ようになるのです。つまり、その水は運河にあふれ、ユダにまで流れ込むようになるということです。自分たちを守ってくれるはずのアッシリヤが、今度はユダに押し寄せ、飲み込んでしまうというわけです。このことは、前701年にアッシリヤの王セナケリブがエルサレムにやって来てこれを包囲し、陥落させる寸前にまで追い込んだことで実現します。それは、アハズがゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、アッシリヤに頼ったからです。

これは、私たちへの教訓でもあります。シロアハの水はゆるやかに流れるのであまり目立ちません。しかし、実はこの水こそ私たちを生かすいのちの水なのです。その流れはあまりにもゆるやかなので、私たちはついついそれをないがしろにしがちになります。人間の目を奪う派手な活動に心が奪われてしまうのですが、ほんとうに私たちが目を留め、心を留めなければならないは、このシロアハの水なのです。ここにこそ本当の解決があるからです。

8節後半から10節には、「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。」とあります。

このみことばは非常に難解なみことばです。この翼が何を指しているのかがわかりずらいのです。これまでアッシリヤをユーフラテス川にたとえていましたが、ここではそれが翼に代わっているのか、それとも、ユダを守る翼として描かれているのかがはっきりしていないのです。もしこの翼があっしりやのことを指していると解釈すると、これは略奪の翼となります。アッシリヤの軍隊によってユダの国民は、国中どこにも逃げ場がないという意味になるわけです。しかし、これが保護のための翼と解釈すると、逆に、これを神ご自身の保護の翼になるわけです。神が翼を広げてユダを守っておられるという意味になるのです。おそらく、ここでは神の保護を表していると考えるのがいいと思います。なぜなら、ここに「インマヌエル」ということばがあるからです。「インマヌエル」とは、神は私たちとともにおられる、という意味です。この後の10節にも、「このことばが繰り返されています。「神が、私たちとともにおられるからだ。」つまり、どんなに彼らがユダを攻めて来てもそれは成りません。なぜなら「神が、私たちとともにおられるから」です。その広げた翼でユダを守ってくださるのです。

実際に、これがヒゼキヤの時代に起こります。36章から39章のところにその様子が記されてありますが、ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻め取りました。その時、ヒゼキヤは主に祈ります。「あなただけが神です。どうか、私たちを彼の手から救ってください。」と。すると主はイザヤを通して言われました。「あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王がわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。わたしは、彼を剣で倒す。彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。わたしはこの町を守って、これを救おう。万軍の主の熱心がこれをする。」するとどうでしょう。その夜、主の使いは出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺しました。人々が翌朝起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていたのです。(38:36)

当時世界の最強国であったアッシリヤが弱小国であったユダに勝てないはずがないのです。しかし、ユダを打とうとするアッシリヤの試みは実現しませんでした。なぜでしょうか?神が、ともにおられたからです。インマヌエル。その広げた翼が国の幅いっぱいに広がり守ってくださったからなのです。

Ⅱ.神が聖所となられる(11-15)

第二に、11節から16節までをご覧ください。まず11節と12節です。「まことは主は強い御手をもって私を捕らえ、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。」「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。」

この民の道とは、アハズをはじめとしたユダの人たちが歩んでいた道です。彼らはアラムとエフライムの攻撃を恐れ、アッシリヤと手を組んでそれに対峙しようとしましたが、それは主をないがしろにすることでした。そうした民の道に歩まないように、というのです。この民が恐れるものを恐れてはならないのです。イザヤが本当に恐れなければならないものは何でしょうか?それは、主ご自身です。13節をご覧ください。ここには、「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方をあなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。」とあります。

私たちは絶えず、人を恐れるのか、それとも神を恐れるのかの選択に迫られますが、私たちが恐れなければならないのは、万軍の主なのです。この方を恐れ、この方をおののきとしなければなりません。イエス様は何と言われましたか?「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」(ルカ12:4-5)と言われました。これが万軍の主です。そうすれば、この方が聖所になってくださるのです。聖所とは何ですか?聖所とは、主がともにおられる場所を意味します。主がともにおられるので、何の心配もいりません。そこは安全な場所となるのです。しかし、信じない人にとってはそうではありません。それは、妨げの石、つまずきの岩です。わなとなり、落とし穴となるのです。ルカの福音書2章34節に、「また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対のしるしとして定められています。」とあります。これはイエス様が生まれたとき、シメオンという預言者がイエスについて語った言葉です。イエス様は多くの人が倒れ、また立ち上がる他めに定められたのです。ある人にとっては聖所となり、またある人にとっては妨げとつまずきの石になるのです。その差はどこから生じるのでしょうか?主の言葉に信頼できるかどうかです。

オーストラリアのニック・ブイチチさんは、生まれつき両手両足がない先天性四肢欠損症という障害をもっています。彼は、その現実をなかなか受け止められなかったようです。牧師の家庭に生まれ、イエス様が僕を愛しているのなら、どうして神様は他人のように僕に手足をくださらなかったのか、と思っていました。思春期になり、決まった仕事についたり、結婚したり、子どもを育てたりといった人並みの幸せすら手にできないで、一生みんなのお荷物として生きるしかないのなら、生きていても仕方がない…と、一度は自殺を試みました。風呂の中に沈んでいる時、両親が泣いている光景が頭をよぎり、自殺をとどまりました。死にたいという息子の気持ちを知った父はニックの頭をなでながら「みんなお前の味方だ。どんな時でも私たちがついている…」と話してくれました。  15歳になったとき、ヨハネの福音書9章に出てくる生まれつきの盲人の話を聞いて、衝撃を感じました。「彼が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したからですか」という弟子の質問に答えたイエス様のことば「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(3節)ということばに触れたとき、すべての答えがわかりました。このようにして生まれてきたのは、神様の栄光が現されるためだということ・・を。これまでずっと、手や足が与えられるように祈ってきましたが、神様は、「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れる』(Ⅱコリント12:9)と教えてくださいました。ですから、『たとえ与えられなくても、あなたを信頼し続けます』と祈るようになったのです。神様は状況ではなく、彼の心を変えてくださいました。  同じころ、300人の学生の前で、自分が乗り越えて来た数々の困難について、自分の思いについてスピーチをしました。するとその話を聞いた一人の女の子が泣きだしました。彼女はこういいました。「あなたのおかげで人生が変わりそうです」。「その時、自分にも誰かのためにできることがあるかもしれないと思いました。」この経験がきっかけで、世界30か国を回って講演するようになりました。ニックは言います。「本当の障害とは、自分の人生に自分で限界を設けてしまうことです。神様は僕に奇跡を現わすという計画ではなくて、僕自身が誰かに対して奇跡になるという計画をお持ちでした。その計画を最初、僕も両親も全く分かりませんでしたが、それがわかったのです。神様は僕だけでなく皆さんにも計画を持っておられます。どうか、あなたに対して持っている神様の『将来と希望を与える』計画に期待してください」

本当に恐れなければならないのは、この方なのであって、自分の置かれた状況とか、環境ではないのです。この方を恐れ、この方に信頼するなら、この方が聖所となってくださるのです。

ですから、16節に次のように命じられているのです。「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」どういうことでしょうか?「たばねる」とは、一つにまとめるということであり、「封じる」とは、閉じるとか、ふさぐということです。神のあかしとおしえを心のうちに束ねて、しっかりたくわえておくようにという意味です。多くの問題の原因はここにあります。神の御言葉ではなく、他のものに尋ねてしまうのです。

19節と20節を見てください。「人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。」とあります。神の御言葉ではない、他のものに尋ねるので、夜明けがないのです。そうしたところにあるのは、苦難とやみ、苦悩と暗やみ、悪国と追放です。

これは、イザヤの時代だけでなく、現代でも同じです。どちらかというと人々は、こうしたものに引きつけられていく傾向があるのです。霊媒とか、さえずり、口寄せ、占いです。神の御言葉よりも、もっと感覚的なものとか、イメージに訴えるもの、あるいは人間の感性に訴えるスピーチなどに引きつけられていくのです。東洋的な思想を取り入れた瞑想などです。そうしたものがキリスト教の中にも入り込んでいます。そして、知らずのうちにどっぷりと浸かっているということがあるわけです。しかし、そこには夜明けがありまん。そこにあるのは、苦難とやみ、苦悩と暗やみなのです。御言葉がないと暗くなるのです。ですから、これをたばねて、心の中に封じておかなければなりません。頑固に、神の御言葉にしがみついていなければならないのです。なぜなら、ほんとうに人を生かし、人を守り、人を助け、人を励まし、人を正しい道に導くものは神の言葉だからです。詩篇119篇105節に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とあるとおりです。神のみことばだけが私たちの道を照らし、進むべき道を示してくださるのです。

Ⅲ.主を待ち望め(16-22)

ですから、第三のことは主を待ち望めということです。17節と18節をご覧ください。「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」    このような主の言葉に対して、イザヤは「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」と告白しました。すばらしいですね。何がすばらしいのかというと、イザヤはヤコブの家から御顔を隠しておられる主を待つと言っていることです。イザヤが置かれていた情況は、まさに主が御顔を隠しておられるようでした。主がおられるなら、いったいなぜそのような情況を許されるでしょうか。アラムやイスラエルが攻め寄せてくることや、アッシリヤが押し寄せてくること、あるいはいくら主に信頼せよと語ってもだれも聞こうとしないというようなことが・・・。それはまさに主が御顔を隠しておられるかのようでした。けれどもイザヤは、その中でも主を待ち望むと言ったのです。この方に望みをかけるといったのです。これがほんとうの信仰です。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものなのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待つのです。周りの状況にかかわりなく主を待ち望むこと、これが真の信仰者の姿勢なのです。

アンドリユー・マーレイの名著「主を待ち望め」の中に、次のような話が記されてあります。  少し前のことですが、英国に有名な交響楽団があり、国内のあちこちを回ってコンサートを開いていました。ところが不況が始まり、客の入りが悪くなってきました。そして何年かののちには、ついに一般の人は切符を買えなくなるところまで来たのです。そんなある日の夕方のこと、力なく会場の整理をしていた一人の楽団員が言いました。「きょうは、コンサートはやめにしよう。昨晩は、ほんのわずかの入りだった。ところがきょうは、もっと悪いことに雪が降っている。一人も来ないかもしれないから、きょうは中止にしよう。」「そうだ、そうだ。こんな悪い状態でこれ以上がんばり続けるのは、もうごめんだ。」と、もう一人が相づちを打ちました。  ところが、思慮ある年輩の団員が、こう言ったのです。「ちょっと待ってくれ。われわれは、切符を買った人に対して責任がある。だからたった一人しか来ないにしても、やめてはいけない。さあ今晩は、ベストを尽くそう。」こうして彼らは、今までで最高の演奏をすることができました。感動に酔った少数の観衆の中に一人の品のある老紳士がいて、帰りがけに一枚の紙切れを手渡しました。そこにはこう書いてありました。「とてもすばらしい演奏を感謝しています。国王より。」そう、国王が見ていたのです。

主を待ち望むことは、簡単なことではありません。しかし、私たちの天の王であり、しかも御父であられるお方が、私たちに愛のまなざしを向けておられるのです。「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)だから、たとい思わしくない情況下であっても、この方に望みをかけるなら、この方がすべてをご覧になられて、豊かに報いてくださるのです。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:28

主を待ち望み、日々新しい力をいただき、走ってもたゆまず、歩いても疲れない、そんな人生を歩ませていただきたいものです。