ヨハネの福音書15章7~11節「キリストにとどまるなら」

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ヨハネの福音書15章からお話ししています。きょうはその2回目となりますが、「キリストにとどまるなら」というタイトルでお話しします。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(14:31)と、最後の晩餐の席から立ち上がりゲッセマネの園に向かう途中で、イエス様は弟子たちにぶどうの木のたとえを話されました。「わたしはまことの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」(1-2)

イエス様は、わたしはまことのぶどうの木です。イエス様の枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。

 

では、どうすれば多くの実を結ぶのでしょうか。それはキリストにとどまることによってです。枝が一生懸命木に働きかけて栄養分を吸い上げようとしたり、枝それ自体の形を整えたりすることによってではなく、木にしっかりとつながっていることによって多くの実を結ぶのです。イエス様はこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(5)

きょうは、この「キリストにとどまる」ことについて三つのことをお話しします。第一に、キリストにとどまっている人に対する約束です。キリストにとどまっているなら、その人の祈りは答えられるということです。第二のことは、私たちが多くの実を結び、キリストの弟子になることによって、どのような結果がもたらされるのかということです。神が栄光をお受けになられます。そして第三のことは、キリストにとどまるとはどういうことかということです。キリストにとどまるとは、キリストの愛にとどまることであり、キリストの愛にとどまるとは、キリストの戒めを守るということです。そのような人はキリストの喜びにあふれるようになります。

Ⅰ.何でも祈りが聞かれる(7)

まず、第一にキリストにとどまっている人に対する約束です。7節をご覧ください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

すばらしい約束です。もしキリストにとどまっているなら、あなたがたの欲しいものが何でもかなえられます。どういうことですか。これは無条件に私たちが欲しいものを、神が何でも片っ端から与えられるということではありません。そこには一つの条件があります。それは、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」ということです。どういうことでしょうか。

まず、「キリストにとどまるなら」ということですが、そのことについては、5節でも語られたことです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」ここでは、これを祈りに適用しているのです。キリストにとどまるとは、キリストを信じ、キリストに結び付けられ、キリストと親しい交わりがあるなら、ということです。そうであるなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それがかなえられます。これは当然といえば当然です。なぜなら、いのちはキリストにあるのですから。枝はそこから栄養分をいただいて実を結ぶことができるわけです。枝だけでは実を結ぶことはできません。ですから、キリストにとどまるなら、キリストが私たちに必要なものをすべて与えてくださるのです。

神は昔イスラエルをエジプトから救い出されると、荒野に導かれました。何もない荒野で、イスラエルの民はどのようにして生き延びることができたのでしょうか。神ご自身が彼らを養ってくださいました。岩から水を出させて飲ませ、天からマナを降らせました。毎日同じものばかりで飽き飽きしたと不平を言うと、今度はうずらを運んで来て、肉として食べさせました。つまり、神が彼らのすべての根源であられたのです。すべての根源であられる神にとどまっていれば、神はどんなものでも必要なものを与えてくださいます。

エリヤはどうでしたか。エリヤはB.C.850年頃の預言者でした。彼の時代イスラエルは北と南に分裂していました。北王国イスラエルの王はアハブという王でしたが、最悪な王でした。彼は妻のイゼベルの悪知恵によってイスラエルにバアルとアシェラという偶像を拝ませたのでエリヤは悔い改めるように何度も説得しましたが、アハブ王は悔い改めるどころかますますエリヤを憎み、殺そうとしたのです。それでエリヤは神のことばをアハブに伝えます。「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(Ⅰ列王17:1)

すると、その言葉のとおり全く雨が降らず、イスラエルを大干ばつが襲いました。それでアハブ王は怒り、預言者エリヤを恨んで、彼を探して殺そうとしたので、エリヤはヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠しました。彼はそこでどうやって生き延びたでしょうか。何と神はカラスを用いて彼を養われました。幾羽かのカラスが、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来たので、それを食べたのです。また、その川から水を飲みました。

その後、川の水が干上がると、今度は「シドンのツァレファテのやもめのところへ行き、そこに住め」と命じられました。しかし、そのやもめはとても貧しく、エリヤを養うどころか明日のいのちさえも分からないような状態でした。エリヤが彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。また、一口のパンも持って来てください。」と言うと、彼女は焼いたパンを持っておらず、ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけでした。彼女はそれを自分と息子のために調理し、それを食べて、死のうとしていたのです。そんなやもめにどうやってエリヤを養うことができるでしょう。しかし、エリヤは主のことばを受けて彼女にこう言いました。

「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」(Ⅰ列王17:13-14)

「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない。」皆さん、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくなりません。神の国と、その義とを第一に求めるなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。彼女はエリヤが言った通りにすると、パンの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかったので、彼女と息子、および彼女の家族は、長い間それを食べることができました。神様は、不思議な方法でエリヤを、また、ツァレファテのやもめを養われたのです。つまり、エリヤの神は、すべての根源であられたということです。神は、「わたしは、「わたしは、ある」というものである」と言われる方であり、すべての存在の根源であられます。すべてのものを与えることがおできになるのです。ですから、この方につながっていれば、この方が必要を満たしてくださいます。

イエス様の時代、大勢の群衆がイエス様について行きましたが、気付いたら陽も暮れそうになっていて、どこからかパンを買って来て、食べさせなければなりませんでした。その数男だけで5000人です。女の人、子供たちを合わせたら二万人を超えていたでしょう。これだけの人たちに食べさせるのは至難の業です。一人ずつ少しずつ取るにしても、200デナリのパンでも足りません。かといって近くにコンビニがあるわけでもない。いったいどうしたらよいかと思っていた時、一人の少年が五つのパンと二匹の魚を差し出しました。するとイエス様は、その五つのパンと二匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たされました。だれがそんなことができるでしょうか。神にはできます。神にとって不可能なことは一つもありません。イエスは、「わたしはいのちのパンです」と言われました。その方は、どんな必要も満たすことがおできになるのです。それは、あなたに力があるからではありません。あなたに富や能力があるからでもない。キリストに力があるからです。ですから、この方にとどまっているなら、この方があなたの必要を満たしてくださるのです。

でも、キリストにとどまっていなければ、どんなに祈っても聞かれることはありません。イザヤ59:1-2にはこうあります。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

なぜ祈りが聞かれないのですか。それは主の御手が短いからではありません。耳が遠くて、聞こえないからでもありません。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているからです。罪があるなら、神は聞いてくださいません。しかし、罪が赦された人、義と認められた人の祈りは聞かれます。どうしたら罪が赦されるのですか?イエス・キリストを信じることです。自分が罪人であることを認め、その罪の身代わりとしてキリストが十字架で死んでくださったと信じるなら救われます。それがキリストにつながるということです。キリストにつながっているなら、あなたの祈りは聞かれます。あなたが必要としているものは何でも与えられるのです。

それから、ここにはもう一つのことが言われています。それは、「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」ということです。どういうことでしょうか。それは14:13,14にもありました。「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」キリストの名によって求めるとはどういうことでしたか。それは、キリストのみこころにかなった祈りをするなら、ということでした。そのような祈りは何でも聞いていただけます。Ⅰヨハネ5:14には、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」とあります。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は聞いてくださるのです。これが神に対する私たちの確信です。

では、どうしたら神のみこころにかなった祈りをすることができるのでしょうか。そのためにはある程度信仰生活の年月が必要だと考える人がいますが、全く関係ありません。それは年月の問題ではなく信仰の問題だからです。もちろん、信仰に入ったらすぐに神のみこころにかなった祈りができるのかというと、そうではありません。でも、心に飢え渇きを覚え、イエス様なしでは一瞬たりとも生きていくことはできませんという思いをもってイエス様に求めるなら、必ずそのような祈りに導かれるはずです。そのような人は神のことばを求めるからです。主のみこころを求めるというのは、具体的には主のみことばを求めるということです。主の心を知るためには、主のことばを聞かなければなりません。なぜなら、主イエスは神のことばとしてご自身を現わしてくださったからです。それがまとめられてあるのが聖書です。聖書は神のことばです。ですから、聖書を見れば神のみこころがわかるのです。

これを抜きにして、「あなたの夢はかなえられます」と言うのは大変危険です。神を信じれば何でもうまくいくし、何でもあなたが望む通りになるというのは間違っています。あなたは必ず成功します、あなたが祈って求めることは何でもかなえられます、という言葉には気を付けなければなりません。そうでないと、それがかなえられなかったときどうなりますか。神に失望し、信仰から離れて行ってしまうことになります。聖書が教えていることはそういうことではありません。聖書が教えていることは、あなたがキリストにとどまり、キリストのことばがあなたがたにとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさいということです。そうすれば、それはかなえられるということです。

あなたの願いは何ですか。あなたの祈りはどんなことでしょうか。あなたがキリストにとどまり、キリストのことばがあなたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めてください。そうすれば、それはかなえられます。キリストにとどまり、キリストのことばがあなたにとどまることによって、私たちの祈りがかなえられることを信じて祈ろうではありませんか。

Ⅱ.父が栄光をお受けになる(8)

第二のことは、私たちが多くの実を結ぶことによって、どのような結果がもたらされるかということです。8節をご覧ください。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」

どうして私たちが多くの実を結ぶことによって神が栄光を受けられるのでしょうか。ここには「わたしの弟子になることによって」とあります。つまり、キリストのご性質に変えられていくからです。

キリストのご性質とは何でしょうか。それは前回もお話ししたように、御霊の実です。すなわち、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。また、それは聖潔に至る実です。すなわち、神のみこころにかなった生活、神に喜ばれる生活です。また、それは御名をたたえる唇の果実でしたね。すなわち、神を賛美し、感謝する礼拝の生活です。そしてそれは義の実です。すなわち、正しい行いのことです。またそれは救いの実のことでした。つまり、キリストを信じ、キリストにとどまり、キリストのいのちに生かされている人は、神を愛し、神に喜ばれる生き方をしたいと望むようになり、正しい行いを心掛け、キリストへの感謝と賛美に満ち溢れ、何とかして救われる人が起こされるようにと願うようになるということです。ですから、私たちが多くの実を結ぶことによって、神の栄光が現されるようになるのです。

このことを、イエス様は山上の説教の中でこう言われました。

「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:13-16)

皆さん、私たちは地の塩です。世の光です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるでしょうか。もう何の役にも立たなくなり、外に捨てられ、人々に踏みにじられることになってしまいます。また、光としてこの世を照らす者でなければ、何の意味もありません。ですから、私たちの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる私たちの父があがめられるようにしなければなりません。

2006年4月、星野富弘さんと日野原重明先生が群馬県の富弘美術館で対談をしました。車いすの富弘さんは60歳、日野原先生は94歳でしたが、実にいきいきとして年齢よりもずっと若々しくみえました。

富弘さんは23歳の時、中学校の体育の先生でしたが、指導中に鉄棒の回転に失敗し、首から落ちて頸椎を損傷し全身麻痺になりました。人の世話にならなければ生きていけない人間が、果たして生きていていいのかと考えたそうです。しかし、聖書を読み進めていくうちに、神はこんな自分でも大切に思っていてくださることが分かり、生きる勇気が与えられました。そして人と比べて生きることをしなくなり、また自分は赦されたのだから、人のことも赦すべきだと自然に思えるようになりました。そうなると、生きることが楽しくなったと言います。

富弘さんは言います。「いろいろ経験して分かったことは、どんな時にいのちを感じるかというと、人のために生きる時である。いくら自分で欲しいものを手に入れ、美味しいものを食べても、それはその時たけで終わってしまう。一番の喜びを感じる時は、やはり他の人々のために何かができた時である。自分のやっていることが、他の人の役に立った時、一番いのちが躍動している。それと同時に、自分の中には感謝の気持ちが出て来る。いのちは自分だけのものではなく、誰かのために使えた時、喜ぶのである。」

一方、日野原先生は牧師の家庭に生まれ、小さい時から聖書に親しんできました。特に、Ⅰコリント13章の「信仰と希望と愛」がいつも自分を導いて来たと言います。日野原先生は4~5年前から小学校を訪問し、10歳の子どもたちに「いのちの大切さ」についてお話ししています。子どもたちに「キミたちのいのちはどこにあるの?」と質問すると、ある子どもは心臓を指して「ここにある」と言います。すると先生は「これはモーターで心臓にいのちがあるわけではないよ。いのちとは、キミたちが持っている時間のことだよ。それをどう使っているかが問題なんだよ」と教えます。

そして「自分らしくいのちを使うとはどういうことか作文にしてください」と言うと、10歳らいの子どもたちは自分の日常の行動を反省し、自分のためだけにいのちを使っていたことに気付いて、何とかしなければいけないと感じ始めるのだそうです。先生は「10歳くらいの子どもの感受性はすごい。日本の将来は明るい、大丈夫だ」と思うのです。ところが10歳を超えてから、駄目になるそうです。それは親や周りの大人たちが、正しいモデルを示していないからです。

そういう意味で富弘さんは、身体的ハンディを持つ人々のすばらしいモデルになっています。ハンディがあっても、いきいきと生きることができる。人を励ましたり、勇気付けることができることを富弘さんはモデルとなって示しているわけです。

そして、このお二人に共通していることはどんなことかというと、キリストにしっかりとつながっているということです。キリストにある平安と喜びが与えられ、キリストから与えられた使命を確信し、自分のためだけにいのちを使うのではなくそのいのちを誰かのために使っておられるということです。

それが世の光、地の塩として生きるということです。そのとき、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるのです。

Ⅲ.わたしの愛にとどまりなさい (9-11)

ですから、第三のことはキリストの愛にとどまりなさい、ということです。9~11節までをご覧ください。「9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」

父がイエスを愛されたように、イエスもまた弟子たちを愛されました。どれくらい愛されたのでしょうか。13:1には、「最後まで愛された」とあります。最後まで、余すところなく、とことん愛されました。イエス様の愛は、途中で放棄するような愛ではありません。私たちの愛はそういうところがありますね。少しでも損をすると思ったらすぐに止めてしまいます。損得勘定の愛です。手のひらを返すかのように、すぐに裏切ってしまうことがあります。しかし、神の愛は決して変わることがありません。神はこの愛を十字架によって現わしてくださいました。キリストは、ご自分のいのちを与えるほど、私たちを愛してくださったのです。

新聖歌483番に「両手いっぱいの愛」という賛美があります。

  1. ある日イエスさまに 聞いてみたんだ どれくらいぼくを 愛してるの?これくらいかな? これくらいかな? イエスさまは黙って ほほえんでる
  2. もう一度イエスさまに 聞いてみたんだ どれくらいぼくを 愛してるの? これくらいかな? これくらいかな? イエスさまは優しく ほほえんでる
  3. ある日イエスさまは 答えてくれた 静かに両手を広げて その手のひらに

釘を打たれて 十字架にかかってくださった それは ぼくの罪のため ごめんねありがとう イエスさま それはぼくの罪のため ごめんねありがとう イエスさま ごめんねありがとう イエスさま

この歌は、イエス様がとれほど私たちを愛してくださったかを歌った歌です。それは、その手のひらに釘を打たれ、十字架にかかって死んでくださったほどです。それほどまでに愛してくださいました。ここには、その愛にとどまりなさい、とあります。そこから出ないように。そこから出ると、実を結ぶことができません。神の愛を本当に知った人は神の愛から離れないし、離れることができません。一時的にそういうことがあったとしても、やがて必ず戻って来ます。長い信仰生活の中にはそのようなこともありますが、それでも必ず戻って来るのです。本当に神の愛を知ったなら、その愛から離れることはできないからです。弟子たちはどうでしたか。彼らは最後までキリストにとどまりました。彼らも完全ではなかったので公に主を否んでみたり、自分が捕らえられてしまうのではないかと恐れて逃げ隠れしましたが、それでも最後まで主にとどまりました。

しかし、イスカリオテのユダはそうではありませんでした。彼はイエスを裏切って出て行きました。イエス様は彼に最後まで悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最初から信じていなかったからです。表面的には信じているようでしたが、それは見せかけのものでした。本当は信じてはいなかったのです。でも本当に信じている人はキリストにとどまります。

ではキリストの愛にとどまるとはどういうことなのでしょうか。10節には、「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」とあります。少しわかりにくい訳かと思います。新改訳第三版ではこうあります。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」こちらの方がわかりやすいですね。もし、あなたがたがキリストの戒めを守るなら、キリストの愛にとどまるのです。つまり、その愛とは、キリストの戒めを守ることによって具体化されるということです。

キリストの戒めとは何でしょうか。それは広い意味ではキリストのことば、神のことば全体を指していますが、この文脈では、互いに愛し合うということを指しています。それは、13:34-35で、イエス様が出したちに与えた新しい戒めのことです。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

キリストが父の戒めを守って、父の愛にとどまっているように、私たちもキリストの戒めを守るなら、キリストの愛にとどまっていることになります。神を愛していると言いながら兄弟の悪口を言っているとしたら、その愛とはいったいどういうものなのかと首をかしげたくなります。神を愛していると言いながら兄弟姉妹に対して無関心であるとしたら、それは神を愛しているのではなく、自分を愛しているにすぎません。愛しているかどうかは、従うことによって証明されるのです。

そうでしょ。誰も愛している人の言うことをいい加減にはしません。その人の言葉を大事にしますし、その人の考えを尊重します。愛しているからです。愛するということは、その人と深い交わりを持ち、その人と心において一つになることです。そのような深い交わりを私たちがイエス様と持っているなら、それは目に見える兄弟姉妹との関わりにおいて必ず現れてくるはずなのです。そうでないとしたら、それはキリストの愛にとどまっているということにはなりません。キリストにとどまるとはキリストの愛にとどまることであり、キリストのことば、キリストの戒めにとどまることだからです。そういう人は多くの実を結ぶのです。

最後に、11節をご一緒に見て終わりたいと思います。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」

「これらのこと」とは何ですか。それは1~10節までのところで語られたことです。つまり、イエスがこれらのことを話された目的がここにあります。それは、「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ち溢れるようになるためです。」この喜びとは一時的な喜びではありません。状況によって失われるようなものではないのです。この喜びは永遠の喜びです。どんなことがあっても奪われることがない喜びなのです。

パウロはピリピ4:4で、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言っています。いつも喜ぶなんて無理ですよ。不可能です。そう思われますか。でも、パウロはいつも喜ぶことができました。それは、彼がキリストにとどまり、キリストの戒めにとどまっていたので、キリストの喜びが与えられていたからです。彼はこう言っています。

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13)

パウロは、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていました。それは何ですか。イエス・キリストです。イエス・キリストにとどまることです。そうです、彼がどんな境遇にあっても喜ぶことができたのは、主イエスにあって、だったのです。

それは私たちも同じです。私たちの人生にはいろいろなことが起こります。良いことばかりではなく、悪いと思えることも。しかし、それがどんなことであっても、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。あなたがキリストにとどまり、キリストのことばがあなたにとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それがかなえられます。それは、あなたが多くの実を結び、キリストの弟子となることによって、神は栄光をお受けになられるからです。あなたがキリストにとどまるなら、あなたは喜びで満ち溢れるようになります。確かに、現実は厳しいものがありますが、その中にあっても、神があなたにいのちと力を与え、多くの実を結ぶことができるようにしてくださるのです。