Ⅰサムエル記19章

今回は、サムエル記第一19章から学びます。18章では、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」と喜び歌った女たちの声を聞いたサウルが、ダビデを妬み彼を殺そうとしましたが、神がダビデともとにおられたので、どんなことをしてもダビデが殺されることはありませんでした。今回の箇所はその続きです。

Ⅰ.ヨナタンのとりなし(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。

「1 サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。2 ヨナタンはダビデに告げた。「父サウルは、あなたを殺そうとしています。明日の朝は注意してください。隠れ場にとどまり、身を隠していてください。3 私はあなたのいる野に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことを父に話します。何か分かったら、あなたに知らせます。」4 ヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに言った。「王よ、しもべダビデのことで罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。むしろ、彼のしたことは、あなたにとって大きな益となっています。5 彼が自分のいのちをかけてペリシテ人を討ったので、主は大きな勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て喜ばれました。なぜ、何の理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪ある者となられるのですか。」6 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」7 ヨナタンはダビデを呼んで、このことすべてを告げた。ヨナタンがダビデをサウルのところに連れて来たので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった。」

サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来たちに告げました。それでヨナタンは、ダビデのところへ行きそのことを告げ、安全な場所に身を隠すように忠告しました。それはヨナタンがダビデを非常に愛していたからです。また、前回のところで見たように、ダビデと友人としての契約を交わしていたからです。

さらにヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに、ダビデがこれまでどれほどイスラエル全体のために貢献してきたか、また、サウルにとって大きな益をもたらしたかを語り、彼を殺さないようにととりなしました。

サウルはヨナタンの言うことを聞き入れ、「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」(6)と言って誓いました。それでヨナタンはダビデを呼び、これらすべてのことを告げ、ダビデをサウルのところに連れて来たので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになりました。

それにしても、ヨナタンのとりなしは立派です。彼は愛するダビデのために、父の前でとりなしました。そんなことをしたら父サウルに殺されるかもしれないのに。しかし、彼は恐れることなく、ダビデを弁護し彼のために父サウルにとりなしたのでした。それは彼がダビデと契約を結んでいた(18:3)からです。彼は自分の命にかけてダビデを守ろうとしました。

それはまさに、私たちのためにとりなしてくださる主イエスの姿そのものです。ローマ8:34には、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」とあります。主イエスが私たちのために、いつもとりなしていてくださいます。それは、私たちが主イエスを信じ、その血によって契約を交わしたからです。私たちは神から遠く離れた者でしたが、イエスの血によって、その血の注ぎを受けたことで、主イエスの友と呼ばれるようになりました。本当の友は、その友のためにいのちを捨てます。ヨナタンがダビデのためにいのちがけでサウルにとりなしたように、主イエスは私たちのためにいのちを捨てて、父なる神にとりなしてくださいました。ですから、私たちも日々落胆することがあっても、私たちのためにとりなしておられる主イエスを見上げて感謝しましょう。

Ⅱ.ミカルの策略(8-17)

次に、8~17節をご覧ください。まず10節までをお読みします。

「8 再び戦いが起こった。ダビデは出て行って、ペリシテ人と戦い、彼らを討って大損害を与えた。彼らはダビデの前から逃げた。9 わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。10 サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。」

しかし、再び戦いが起こりました。それでダビデが出て行ってペリシテ人と戦い、彼らを討って大損害を与えました。すると、わざわいをもたらす主の霊が、サウルに臨みました。彼は再び嫉妬心を燃え上がらせたのです。そこに付け込んだのが悪霊でした。悪霊が彼に臨み、ダビデに対して殺意を抱かせたのです。サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとしましたが、ダビデがサウルから身を避けたので、難を逃れました。

サウルは、ダビデが殺されることはないと主の御名によって誓ったのにその誓いを簡単に破り、主の前に悪を行いました。彼が抱いた嫉妬心はすぐに処理されてはいなかったのです。そうした隙間に悪魔が入り込みました。主に喜ばれない思いを抱くことは、悪魔に付け込む隙を与えることになります。私たちはそうならないように、目を覚ましていなければなりません。

11~17節をご覧ください。

「サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」12 そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。13 ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。14 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った。15 サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」16 使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった。17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人が、『逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せるだろうか』と私に言ったのです。」」

そこでサウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとしました。そのことを知ったダビデの妻ミカルはダビデに告げ、ダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて難を逃れることができました。ミカルはテラフィムを取って、それを寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを枕のところに置き、それを着物でおおいました。テラフィムとは、家の守り神を表していた偶像でした。これは、ミカルが所有していたもので、もしダビデがそれを知っていたなら、家に置いておくことはしなかったでしょう。それだけ、サウルの家は完全には偶像礼拝から解放されていなかったということです。形式的に主に仕えていただけでした。ミカルがそのテラフィムを寝床に置いたのは、病気のダビデがそこで寝ているかのように装うためでした。

ミカルはダビデのために時間かせぎをしましたが、最後は使者たちを欺いたことがバレてしまいました。なぜこのようなことをして父である自分をだまし、ダビデを逃したのかと問われると、「あの人が、「逃がしてくれ。私はどうしておまえを殺せるだろうか」と言ったからだ」と答えました。つまり、ダビデが恐怖のあまり自分を殺そうとし脅迫したので、そのようにするしかなかったのだ、と弁明したのです。

ここでヨナタンとミカルの違いが見られます。ヨナタンは、正々堂々とダビデが正しいことを父サウルに進言しましたが、ミカルは、自分を守るためにダビデを悪役に仕立てました。ダビデを救ったことは良いことですが、父を恐れて妥協する姿勢は、やがてダビデが主の前で踊った時に彼を見下げる態度として表れます。私たちにもそのような弱さがあります。自分を守ろうとする思いから、真実をねじ曲げてしまうのは、キリスト者としてふさわしい態度ではありません。まさに人を恐れるとわなにかかります。しかし、主を恐れる者は守られるのです。

ところで、この時の困難を背景に、ダビデは詩篇59篇を書きました。開いてみましょう。

「指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに。

1 私の神よ私を敵から救い出してください。向かい立つ者たちよりも高く私を引き上げてください。2 不法を行う者どもから私を救い出してください。人の血を流す者どもから私を救ってください。3 今しも彼らは私のたましいを待ち伏せし力ある者どもは私に襲いかかろうとしています。主よそれは私の背きのゆえでもなく私の罪のゆえでもありません。4 私には咎がないのに彼らは走り身構えています。どうか目を覚ましここに来て見てください。5 あなたは万軍の神 主イスラエルの神。どうか目を覚ましすべての国を罰してください。邪悪な裏切り者をだれもあわれまないでください。セラ6 彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回ります。7 ご覧ください。彼らの唇には多くの剣がありその口で放言しているのです。「だれが聞くものか」と。8 しかし主よあなたは彼らを笑いすべての国々を嘲られます。9 私の力よ私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。10 私の恵みの神は私を迎えに来てくださる。神は私に敵を平然と眺めるようにしてくださる。11 彼らを殺してしまわないでください。私の民が忘れることのないように。御力によって彼らをさまよわせてください。彼らを打ち倒してください。主よ私たちの盾よ。12 彼らの口の罪は彼らの唇のことば。彼らは高慢にとらえられるがよい。彼らが語る呪いとへつらいのゆえに。13 憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くしてください。彼らがいなくなるまで。神が地の果てまでもヤコブを治められることを彼らが知るようにしてください。セラ14 彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回ります。15 食を求めてさまよい歩き満ち足りなければ夜を明かします。16 しかしこの私はあなたの力を歌います。朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日にあなたが私の砦また私の逃れ場であられたからです。17 私の力よ私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦私の恵みの神であるからです。」

何とすばらしい賛美でしょう。この美しい歌はこのような苦しみの中から生まれました。ダビデがこのような苦難を経験しなければ、生まれることはなかったのです。私たちの人生にも、試練や苦しみを通らなければ味わえない恵みや喜びがあることを覚え、もし今そのような中にあるならば、そのことを覚えて主に感謝しようではありませんか。

Ⅲ.サムエルのもとへ(18-24)

次に、18節から24節までをご覧ください。

「18 ダビデは逃げて、難を逃れ、ラマのサムエルのところに来た。そしてサウルが自分にしたこと一切をサムエルに告げた。彼とサムエルは、ナヨテに行って住んだ。19 するとサウルに「ダビデは、なんとラマのナヨテにいます」という知らせがあった。20 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言し、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。21 このことをサウルに告げる者がいたので、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。22 サウル自身もラマに来た。彼はセクにある大きな井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねた。すると、「今、ラマのナヨテにいます」という答えが返ってきた。23 サウルはそこへ、ラマのナヨテへ出て行った。彼にも神の霊が臨んだので、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテまで来た。24 彼もまた衣類を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていた。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになった。」

ダビデは何とか逃れて、ラマにいるサムエルのところへ行きました。ここから、およそ10年におよぶダビデの放浪生活が始まります。この期間は、人間的に見れば実に苦しい人生の荒野でしたが、神の視点から見ると、ダビデの信仰が試され、純化されていく時でした。それは、彼がイスラエルの王として立てられていくために必要な準備の期間でもあったのです。なぜダビデはラマのサムエルのところへ行ったのでしょうか。それは、彼がダビデに油を注いで王としたからでしょう。ダビデがラマのサムエルのところにいることがサウルに告げられると、サウルはダビデを捕らえようと使者たちを遣わしました。サウルのいたギブアからラマまでは5㎞ほど離れていました。しかし、使者たちがサムエルのところへ行ってみると、不思議なことが起こりました。神の霊が彼らの上に臨み、彼らもまた預言したのです。

このことがサウルに告げられると、サウルはほかの使者たちを遣わしましたが、彼らもまた、預言しました。いったいどうなっているのか、サウルはさらに三度目の使者を遣わしましたが、彼らもまた、預言したのです。

それで、サウル自身がラマに出向くことになりました。彼はセクにある井戸まで来たとき、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねると、ラマのナヨテにいることを聞いたので、そこに向かいました。するとどうでしょう。彼もまた衣服を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていました。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになりました。これはどういうことでしょうか。

サウルが預言したのは、これが二度目です。最初のものは、10:10にあります。これはサウルに対する神の裁きです。ダビデを殺そうとする彼の計画は、再び失敗しました。主の霊がサウルに臨み、預言させることによってダビデを守られたのです。サウルが気付いていなかったのは、ダビデの上には神の守りがあったということです。だから、どんなことがあっても殺されることはありません。神の計画に反抗することは恐ろしいことです。大切なことは、神のみこころに生きることです。今、主の御手がどこに伸ばされているのかをよく吟味し、神のみこころにかなった歩みを求めましょう。