ヨハネの福音書15章12~17節「友と呼んでくださるイエス」

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ヨハネの福音書15章からお話ししています。最後の晩餐の席から立ちあがりゲッセマネの園に向かう途中で、イエス様は弟子たちにぶどうの木のたとえを話されました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(5)

私たちが実を結び、キリストの弟子になることによって、神が栄光をお受けになられます。そればかりか、私たち自身も喜びで満ち溢れるようになります。

そのように言われるとイエス様は、「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(14)と言われました。私たちを、「友」と呼ばれたのです。皆さんには、友と呼べる人がどれだけいるでしょうか。ただその人のことを知っていると言うレベルではなく、その人と深いところで交わり、その人のためならどんなことでもしてあげたいというレベルの友です。

先日、ある牧師と電話でお話しをしていたら、その牧師が、自分には親友が二人いて、自分に何かあったらこの二人が飛んで来て全部やってくれる(葬式)ことになっているので安心なんです、と言われました。そういう人がいるってすばらしいなぁですね。私たちは一般に学校や職場、あるいは隣近所において気さくに話し合える程度の人はいるかもしれませんが、いざという時、その人のためならどんなことでもして上げたいと思うような友はそう多くはいません。人によっては、夫婦の間ですら信頼関係がほとんどないという場合もあります。しかし、私たちの人生において本当の友を持っているということは、実にすばらしいことです。

イエス様は、私たちのことを友と呼んでくださいました。きょうは、このことについて三つのことを話したいと思います。第一に、イエス様が友と呼ばれるのはどういう人のことでしょうか。それは、イエスの命じることを行う人です。第二のことは、イエス様はなぜ弟子たちを友と呼ばれたのでしょうか。なぜなら、イエスは父から聞いたことを、すべて彼らに知らせたからです。本当の友とは、自分の胸の内を隠すことをせず、すべて知らせます。そして第三のことは、どのようにして弟子たちはイエス様の友となったのでしょうか。それは彼らがイエス様を選んだからではありません。イエス様が彼らを選び、任命したからです。それは、彼らが行って実を結び、その実が残るためであり、また、彼らがイエスの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

Ⅰ.わたしが命じることを行うなら(12-14)

まず12節から14節までをご覧ください。ここには、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」とあります。

どのような人が、イエス様の友ですか。ここには「わたしの命じることを行うなら」とあります。イエス様の命じることを行うなら、その人はイエス様の友です。では、イエス様の命じることとは何でしょうか。それは12節にあります。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

このことについては、これまで何回も語られて来ました。まず、13:34に「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とあります。また、14:15にも「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」とあります。そして、14:21にも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」とあります。また、15:10でも「わたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」とあります。イエス様はこのことを何回も繰り返して語られました。このように何回も繰り返して語っているということは、それだけ重要な内容であるということです。どうしてそんなに重要なのでしょうか。それは、神は愛だからです。ヨハネはこの神の愛について手紙の中でこう言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)

どこに愛があるんですか。ここにあります。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされたという事実に、です。私たちが神を愛したのではありません。私たちはむしろ神に敵対し、自分勝手に生きていました。しかし、神はそんな私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。そして、この愛を知った人は、同じように神を信じ、神によって生まれた人たち、すなわち、信仰の仲間を愛するようになります。なぜなら、愛は神から出ているからです。その愛によって新しく生まれた者は、互いに愛し合うのは当然のことです。私たちが互いに愛し合うなら、そのことによって私たちが神のうちにとどまっていることがわかります。なぜなら、キリストにとどまるとは、キリストの愛にとどまることだからです。神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。ですから、神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。これが、イエス様が繰り返して言われたことであり、イエス様が与えてくださった戒めなのです。この戒めを行うなら、あなたはイエスの友なのです。

13節をご覧ください。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」どういうことですか?イエス様は、私たちが互いに愛し合うことができるように、ご自分のいちのを捨ててくださったということです。同じように、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。これが互いに愛し合うということなのです。

しかし、現実の生活において、そのように友のために自分のいのちを捨てるということはあまりありません。確かに、そのようなこともあります。たとえば、三浦綾子さんの小説「氷点」の題材にもなったのは洞爺丸の沈没事件ですが、救命胴衣を譲った宣教師たちがそうです。

1954年(昭和29年)6月26日に青森と北海道の函館を結ぶ、青函連絡船洞爺丸が台風15号のために沈没し、乗員・乗客1314人のうち、1155人が死亡するという事件が起りました。これはタイタニック号に次ぐ世界第二の海難事故であると言われています。その船の中にアメリカ人宣教師ディーン・リーパーと、カナダ人宣教師アルフレッド・ラッセルが乗り合わせていましたが、彼らはおびえる乗客を手品で和ませたり、逃げ惑う人たちを最後まで励まし続けました。そして、自分の救命胴衣を日本人の子どもに着せ、死んでいったのです。

実際にこのような状況に遭遇することもあります。しかし、現実の生活において、このような場面に遭遇することは極めて稀です。では、イエス様がここで「自分のいのちを捨てる」と言われたのはどういう意味だったのでしょうか。

この「捨てる」ととう言葉ですが、これはギリシャ語でティセミー(τιθημι)という言葉です。これは「捨てる」という意味だけでなく、「置く」とか「差し出す」という意味があります。つまり、自分のいのちを捨てるというのは、文字通り自分のいのちを捨てるということもありますが、それだけでなく、自分のいのちを自分のためにだけ使うのではなくそれを差し出すこと、そこに置くこと、すなわち、ほかの人々のためにささげて生きることを意味しているのです。自分さえよければいいと考える自己本位な生き方でなく、ほかの人のために自分を差し出す生き方です。実際に、あの洞爺丸に自分が乗り合わせていたらいったいどんな行動を取っていたかと思うと恐ろしくなります。おそらく、だれよりも早く逃げていたのではないかと思います。これは危ない、早く逃げないと、我先に救命胴衣を身に着け、海の中に飛び込んだのではないかと思うのです。この話を食事の時に家内にしたら、「想像できる」と言われました。本当に自分は卑しい人間だなぁと改めて思わされましたが、そんなもののためにイエス様は十字架で死んでくださったのです。それによって愛がわかりました。自分のいのちを捨てるなんて到底できないと思うような者ですが、そんな者のためにイエス様が十字架で死んでくださったことを思うと本当に感謝なことであり、この「人がその友のためにいのちを捨てるということ、これより大きな愛はだれも持っていません。」というみことばを何とか実践したいと思うようになります。

ですから、自分の友のためにいのちを捨てるというのは、その愛で愛された者として、自分さえよければいいというような自己本位な生き方でなく、ほかの人のために自分を差し出すような生き方に変えていただくことなのです。それは自分の生活について何も考えてはいけないということではありません。自分さえよければほかの人のことなどどうでもよいと考えるエゴイズムとはちょうど反対に、ほかの人のために自分をささげ、その人の益のために生きる生き方をしていくということが、ここで勧められていることなのです。

この戒めを行うなら、あなたはイエスの友です。ちょっと待ってください。私たちは行いによって救われたのではありません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって救われたのではありませんか。それなのに、「わたしが命じることを行うなら」と、行いが強調されているのはおかしいんじゃないですか。いいえ、おかしくありません。なぜなら、神の愛を知り、キリストが私のために死んでくださったということを体験したなら、むしろ、そのようにせずにはいられなくなるからです。だから、13節に「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあるのです。これはイエス様のことを指していると言いましたが、だからイエス様はご自分のいちのを捨ててくださったのです。そのことがわかったら、むしろ、喜んで自分をささげたいと思うようになるでしょう。

ヨハネは、そのことをⅠヨハネ3:16でこのように言っています。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

ここに「ですから」とありますが、それはこのことです。キリストの愛が分からない人にはできません。愛がわかったのだから、そしてその愛を受け入れたのだから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てることができます。

イエス様は何と言われましたか。イエス様は、「わたしにとどまりなさい」と言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしがあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(15:4)それは、イエスにとどまることによって可能になることなのです。イエスにとどまるなら、多くの実を結ぶことができるからです。その実とは何ですか。その一つが、御霊の実でした。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といったキリストのご性質のことです。だから、キリストにとどまるなら、キリストが私たちの中に働いて愛の人になれるように助けてくださるのです。

しかし、それは自動的にもたらされるものではありません。イエス様を信じたら今日から愛の人になりました、ということにはなりません。愛は成長し続けていくものだからです。つまり、私たちはイエス様の戒めに従うことが求められるということです。確かに私たちはキリストを信じる信仰によって救われましたが、そのようにして救われたのであれば、そこには必ず行いが伴うということです。Ⅰヨハネ3:17-18には、「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」とあります。愛とは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって表されるものであり、私たちがそれを実践することによって全うされるのです。

だから、聖書には「こうしなさい」と命令形で書かれてあるのです。どうしてこのように命令形で書かれてあるのかというと、私たちの意志に向かって語りかけているからです。私たちの気分とか感情に訴えているわけではありません。私たちはどちらかというと「こうしなさい」と言われるのが嫌で、極端に避けようとします。何にも縛られたくありません。自分の好きなように生きていきたいのです。でも、聖書は「こうしたらどうでしょうか」とか、「こうするのが望ましい」というような言い方をしていません。「こうしなさい」と命じているのです。それは、私たちの感情とか気分に訴えているからではなく、意志に訴えでいるからです。感情とか気分というのはいつも変わります。今まで気持ちいいと思っていたら、急に不愉快に思うこともあります。だから、感情や気分を働かせるのではなく、意志を働かせなければなりません。気分が乗っても乗らなくても意志を働かせるなら、神の聖霊が助けてくださいます。神様が聖書を通して「互いに愛し合いなさい」と言われたら、「いやだ、あの人だけは無理です。馬が合わないんです。気分が乗りません」じゃなくて、「はい、愛します」と素直に従うことが肝心です。そうすれば、後で気分が乗ってきますから。その時は気分が乗らなくても、聖書のことばに従って行動するなら、祝福されるのです。

それは、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。たとえば、部屋の片づけなどにしてもそうです。気分が乗らないからやらないでいると、いつまでたってもできません。しかし、よしやろう!と決めて行動するとだんだん気分が乗ってきます。そして、あれもしよう、これもしようということになります。止められない、止まらない、です。勉強だってそうです。気分が乗らないからやらないというと、いつまでも手につきません。しかし、よしやろう!と決めて始めると、意外と楽しいものです。たぶん。信仰生活もそうでしょ。気分が乗らないから聖書を読まないというと、いつまでも読むことができません。でも、気分と関係なく、神の国とその義とを第一に求めるなら、これらのものはすべて、それに加えて与えられるのです。出来る人と出来ない人の違いはそこにあります。それは能力の差ではなく、やるかやらないかという行動力の差です。気分というのは私たちの意志について来るものですから。だから、気分が乗っても、乗らなくても、やってみることです。そうすれば、後で気分がついてきますから。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」この戒めを守るなら、あなたもイエスの友なのです。

Ⅱ.父から聞いたことを知らせたからです(15)

第二のことは、イエス様はなぜ弟子たちを友と呼ばれたのかということです。それは、父から聞いたことをすべて、彼らに知らせたからです。15節をご覧ください。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」

イエス様は、「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。もう「しもべ」とは呼びません。しもべは、主人がすることを知らないからです。「しもべ」とは何ですか。「しもべ」とは「奴隷」のことです。奴隷は、主人が何をするのか知りません。主人が言われることをただやるだけです。なぜそれをしなければならないのかとか、なぜそのように言っているのかとか、どのように考えているのかなどということを知りません。しかし、「友」は違います。友は常に親しく交わる仲間であり、自分の心の内を何でも話します。自分が考えていることだけでなく、自分の夢や目標など、将来のことに至るまで何でも話すのです。友がそれを聞いてくれることを知っているからです。信頼できる友であればあるほど、自分の心の思いを洗いざらい話すことができます。親に話せないことでも友達には話せるでしょう。友達はそれを聞いて理解してくれるからです。それが本当の友です。イエス様は弟子たちを「友」と呼ばれました。なぜなら、イエスは、父から聞いたことをすべて、彼らに知らせたからです。すごいですね。イエス様は弟子たちに何でも話されました。なぜ?「友」だからです。皆さんは、そういう友達がいますか。自分のことを何でも話せる人、そういう人がいたら、どんなにすばらしいことでしょう。イエス様は私たちを、「友」と呼んでくださいました。そのような親しい間柄に入れてくださったのです。

ヤコブ2:23には、「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。』」とあります。アブラハムは「神の友」と呼ばれました。どういう点で彼は神の友と呼ばれたのでしょうか。それは、神がアブラハムに隠し事をされなかったという点においてです。神はご自分が考えておられることを、包み隠さずすべて彼に告げました。

それは創世記18章に書いてある出来事です。あるとき、3人の御使いがアブラハムの天幕を訪れます。それは、彼の妻サラに来年の今ごろ男の子が生まれているということを告げるためでしたが、もう一つの目的がありました。それは、ソドムとゴモラという町を滅ぼすかどうか調査するためでした。3人の御使いがソドムの方に向かったとき、アブラハムは彼らを見送りに、一緒に行くと、その中の一人、この方は主ご自身でしたが、こう考えられました。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)神は、ご自分が成そうとしいたことを、アブラハムに隠しませんでした。ソドムとゴモラの町を滅ぼしに行くんだと告げたのです。

するとアブラハムは、そこに自分の甥のロトが住んでいたのを知っていたので、必死に執り成しました。

「その町に50人の正しい人がいるかもしれません。それでもあなたは彼らを滅ぼされるのですか。その50人の正しい人のために、その町をお赦しにならないのですか。」

「もし正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町をすべて赦そう。」

「もしかすると、50人に5人不足しているかもしれません。その5人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのですか。」

「いや滅ぼさない。もしそこに45人を見つけたら。」

「もしかすると、そこに見つかるのは40人かもしれません。」

「そうはしない。その40人のゆえに。」

そう言って、10人まで来たとき、主は「滅ぼすまい。その10人のゆえに」と言って、アブラハムの祈りを聞いてくださいました。

結局、10人もいなかったので、その町は滅ぼされてしまいました。それほどひどい町だったのです。しかし、アブラハムの必死の祈りを聞かれた神は、ロトに、この町から出て行くようにと言って救い出されました。

それにしても神は、ご自分が成そうとしていたことを、アブラハムに隠しませんでした。なぜでしょうか?それは、彼が「神の友」と呼ばれたからです。

同じようにイエス様はここで、弟子たちを「友」と呼ばれました。それは、ご自分が成そうとしておられることを彼らに隠さなかったからです。すべて彼らに知らせました。

それは私たちも同じです。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。なぜなら、イエスは、父から聞いたことをすべて、私たちに知らせくださったからです。それが聖書です。聖書は神のことばです。聖書には、神のみこころが示されています。神はどのようなお方なのか、私たちを救うために何をしてくださったのか、私たちが救われて神の国に入れていただくためにはどうしたら良いのか、その神の国に向かって、私たちはこの地上でどのように歩むべきなのか、この世に終わりにはどんなことが起こるのか、といったことのすべてが書き記されてあるのです。イエス様はそれをすべて私たちに知らせてくださいました。それは、私たちが「神の友」、「イエスの友」だからです。もはやしもべではありません。ご自分の友として、父から聞いたことをすべて、隠すことなく私たちに話してくださいました。すごいでしょ。これはクリスチャンの特権です。友でなければ知ることはできません。友だからこそ何でも聞くことができ、話すことができます。このような特権は、この世のどんなものとも比べることができません。そして、このような特権が与えられている私たちは、この関係を大切にしなければなりません。つまり、友の話を聞き、友に話を聞いてもらうという関係です。これが祈りとみことばです。ディボーションです。その時間を大切にしたいですね。そして、決して裏切ることのない永遠の神、主イエスに信頼して、日々歩ませていただきたいと思うのです。

Ⅲ.わたしがあなたがたを選び、任命したのです (16-17)

第三のことは、私たちはどのようにしてイエス様の友となったのでしょうか。それは、私たちがイエス様を選んだからではありません。イエス様があなたを選び、任命してくださったからです。16節と17節をご覧ください。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」

イエス様には12人の弟子たちがいましたが、その弟子たちはどのようにして選ばれましたか。ここには、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」とあります。彼らがイエス様を選んだのではなく、イエス様が彼らを選び、彼らを任命しました。

たとえば、マタイ4:18には、シモンとその兄弟アンデレが弟子として召された時のことが記されてありますが、彼らがそのようになったのは、イエス様に選ばれたからです。彼らは漁師で、ガリラヤ湖で漁をしていました。イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、二人が、湖で網を打っているのをご覧になられ、「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」(マタイ4:18)と言われたのです。それで、彼らはすぐに網を捨ててイエスに従いました。

さらにそこから進んで行くと、別の二人の兄弟で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがいて、弟子として召されました。彼らは父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っていましたが、それをご覧になられたイエス様が彼らを呼ばれたので、彼らはイエスに従うことができました。

取税人マタイの場合はどうでしたか。同じです。マタイが収税所に座っていたのを見たイエスは、「わたしについて来なさい。」と言われたので、彼はイエスに従いました。すべてイエス様が先に選び、弟子として任命してくださったのです。イニシアチブはイエス様にありました。イエス様が「わたしについて来ない」と言われたので、彼らはそれに従うことができたのです。

それは、私たちにも言えることです。私たちは自分で選んでイエス様を信じたかのように錯覚していますが、実際にはそうではなく、イエス様がそのように選んでくださったので今ここにいるのです。

先日、同盟の牧師たち、宣教師たちが共に集まってチームワークミーティングを持ちました。今年は、コロナウイルスの関係でズームでのミーティングとなりましたが、そこで奉仕してくださったのは、神戸改革派神学校校長の吉田隆先生でした。先生は、仙台で18年間奉仕されたこともあってか、とても親しみを感じました。

先生は、その中でご自分が救いに導かれたことをお話ししてくださいましたが、何と先生はごみ箱に捨てられたトラクトで救われたのです。高校3年生の時でした。校門で配られていたんでしょうね。それを見る人はあまりいません。仕方なく受け取って、それを教室のごみ箱にポンポン捨てるのですが、それを拾って読まれたのです。まだ教会にも行ったことがありませんでした。しかし、そのトラクトを見て、神様を信じて生きることのすばらしさ、その世界観に感動して信仰に導かれたのです。まさに、イエス様が「道端の石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができると」と言われた通りです。

大学に入ることができたら教会に行ってみようと仙台にやって来られた先生は、教会を探すために小高い丘の上に登りました。今のようにスマホがない時代です。丘の上からなら十字架が見えるのではないかと思いました。しかし、どこにも見当たりませんでした。どうやって探そうかと思っていたとき、電信柱に1枚のチラシが貼ってあるのを見つけました。そこには、「新しい人生」と書いてありました。教会の特別伝道集会のチラシだったんですね。どこにあるのかなあと思って行ってみたら、細い路地の奥にある小さな民家でした。それは宣教師のお宅だったんです。でも十字架が無かったので大丈夫だろうかと心配になりました。しかも、その教会の名前が「改革派」でしょ。当時革新派とか、何とか派いう学生運動が盛んで、ヘルメットをかぶってやっていたので、そういうのに巻き込まれたら大変なことになるなと不安になりました。

しかし、日曜日にその教会に行ってみると、そこには20~30人の人たちが集まっていて、みんな喜んで歓迎してくれました。そして、教会に十字架がないのは、台風が来たときに取れてしまったからだということを聞いて安心しました。教会では、若い学生が来たということでキリスト教の基本を徹底的に教え込まされたそうです。一方、大学のクラスにクリスチャンの方がいて、その方が国際ナビゲーターという超教派の宣教団体で活動していることを知り、大学生伝道に没頭していきました。大学を卒業後も豆腐屋でアルバイトをしながら、大学生伝道に専念したほどです。

その先生が、どうして改革派の牧師になったのか。それは、神の国の働きはどの働きもゴールは一つであることに気付かされたからでした。それは、神の国です。それなら改革派の牧師になろうと思ったのです。どんな働きをしても大きな神の国の働きに仕えるのであれば、自分が導かれた教派で仕えようと思われたのです。自覚的に自分で決めてその教会に来たという人はほとんどありません。たまたまそこにあったからとか、だれか知り合いに誘われてそこに導かれたわけです。であれば、自分が導かれた教会や教派を大切にすることが、神の導きを大切にすることではないかと示されたのです。プラス、同時にどの教会も大事にしなければならないという思いも与えられました。

これは大切なことだと思います。私たちは自分の意思で教会に来たと思いこんでいますが、まあ、そういう面もありますけれども、しかし、自分で来たというよりも、実はそのように導かれたのです。あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選び、あなたを任命したのです。エペソ1:3-4をご覧ください。ここには、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」とあります。何と私たちは世界の基の置かれる前から、キリストにあって選ばれていたのです。それはあなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがキリストの名によって父に求めるものは何でも、父が与えてくださるようになるためです。この「実」とは、救いの実のことです。イエス様を信じて救われる人たちのことです。私たちが行って実を結び、その実がいつまでも残るようにと、主は私たちを選び、任命してくださったのです。

この時からキリスト教はどのようになりましたか。この後で、イエス様は弟子たちに約束を与えます。それは、使徒1:8にあるように、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」という約束です。すると、弟子たちは聖霊を受け、エルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、及び地の果てまでキリストの証人となりました。多くの人たちがイエス様を信じ神の国に入れられました。そして、その実が残りました。今も残っています。私たちはその実です。これは彼らの力によるものではありません。これは聖霊の力、祈りの力でした。だからここに、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあるのです。多くの人が救われ、その実が残るのは神のみこころです。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。ですから、私たちが行って実を結び、その実が残るようになるのは主のみこころであり、そのために祈って、聖霊に満たされなければならないのです。

そのために必要なことは何でしょうか。互いに愛し合うことです。これがキリストの戒めです。この戒めを守るなら、私たちはキリストの友と呼ばれます。それは降って湧いたかのような話ではありません。永遠の昔から、世界の基の置かれる前から、キリストにあって選ばれていたことでした。そんな永遠の愛を受けて私たちは選ばれ、キリストの友と呼ばれたのです。それは、私たちが行って実を結び、その実が残るためでした。これが私たちに与えられている使命です。私たちはこのために存在しているのです。ですから、このために祈りましょう。イエス様はあなたを友と呼んでくださいました。私たちにはそのようなすばらしい特権が与えられているのです。そのことを感謝して、私たちも行って、実を結ぶ者とさせていただきましょう。