サムエル記第一20章から学びます。サウルはダビデを殺そうとしたので、ダビデは、ラマのサムエルのところに行きました。ダビデがサムエルのところにいるということを聞いたサウルは、ダビデを捕らえようと使者たちを遣わしましたが、神の霊が彼らの上に臨み、彼らは預言しました。そんなことが三度続いたので、サウルは自らラマのサムエルのところに来ましたが、何と今度はサウル自身が預言し、一昼夜、裸のまま倒れているという有様でした。預言するとは、神のことばを預言することなので良いことですが、ここでは残念ながら神の裁きを示していました。サウルがダビデを殺そうとしていたので、神はご自身の霊をサウルに送って預言させ、ダビデを殺せないようにしたのです。今回は、その続きです。
Ⅰ.3本の矢のサイン(1-23)
まず、1~23節までをご覧ください。まず4節までをお読みします。
「1 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」2 ヨナタンは彼に言った。「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」3 ダビデはなおも誓って言った。「父上は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」4 ヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」
ダビデは、サウルが裸のまま地に倒れている間に、ラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て窮状を訴えました。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」
驚いたのは、ヨナタンです。彼は、父サウルからそのようなことを聞いていませんでした。もしそのようなことがあれば、サウルがヨナタンに話さないわけがありません。しかし、実際のところは、サウルはヨナタンとダビデの友情関係を知っていたので、ヨナタンが悲しまないように、何も話さないでダビデを殺そうしていたのです。それは死と隣り合わせのような状態でした。ダビデはここで、「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません」(3)と言っています。
するとヨナタンは、目が覚めたかのように、ダビデに言いました。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」(4)
そこでダビデはある提案をしました。5~8節にある内容です。
「5 ダビデはヨナタンに言った。「明日はちょうど新月祭で、私は王と一緒に食事の席に着かなければなりません。でも、私を行かせて、三日目の夕方まで、野に隠れさせてください。6 もし、父上が私のことをとがめたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえを献げることになっているからです』と。7 もし父上が『良し』とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。主に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして父上のところにまで、私を連れ出す必要があるでしょうか。」
それは、翌日から始まる新月祭りで、本当にサウルがダビデを殺そうとしているのかを確かめようというものでした。ダビデは、新月祭の祝いの席を無断で欠席するので、もしサウルがそれをとがめるなら、それはダビデに対して殺意を抱いているという証拠だというのです。
ダビデとヨナタンは、友情の契約関係を結んでいました。だからもしダビデに何らかの咎があれば、サウルよりもむしろヨナタンに自分を殺してほしいと言いました。ダビデは、それほど主の前で誓った契約に忠実に歩む人物でした。
そこでヨナタンは、もし父サウルがダビデに害を加えようとしていることがわかったら、必ず知らせると約束しました。9~11節です。
「9 ヨナタンは言った。「とんでもないことです。父があなたに害を加える決心をしていることが確かに分かったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が厳しい返事をなさったら、だれが私に知らせてくださいますか。」11 ヨナタンはダビデに言った。「野に出ましょう。」それで、二人は野に出た。
10節でダビデが言っていることは、伝えると言っても、どうやって伝えるのか、ということです。もしサウルが厳しい返事をしたら、だれが自分に知らせてくれるのか。もしかすると、その知らせを持ってくる使者もまた自分に対して厳しい態度をするのではないかと不安になったのです。
するとヨナタンはダビデに言いました。「野に出ましょう。」それで二人は野に出ました。どういうことでしょうか。ヨナタンは、二人きりで話が出来るように、また、リラックスして話が出来るようにダビデを町の外に誘ったのです。
12~16節までご覧ください。
「12 ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓います。明日かあさっての今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳に入れます。13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。14 もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、主の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。15 しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。主がダビデの敵を地の面から一人残らず断たれるときにも。」16 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。」
ヨナタンは、父サウルの意志を確かめ、もし父がダビデに対して殺意を抱いているなら、必ずダビデを逃がすようにすると約束します。もしそのことをダビデの耳に入れず、ダビデを無事に逃がさなかったら、主が自分を幾重にも罰せられるようにと言っています。そして、たとえ自分が死ぬようなことがあったとしても、自分の家には恵みを施してほしいと懇願しました。どういうことでしょうか。ヨナタンは、この時、ダビデこそ次の時代の王として選ばれた器であると信じていたのです。普通、王位がある人から他の人に移ると、新しく王になった者は、残された王の家族をみな殺します。王位を取り戻そうとして、自分に反逆する可能性があるからです。ですからヨナタンは、たとえ王位がダビデに移っても、「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください」とお願いしたのです。これは、後にサウルとヨナタンが死んでから、ヨナタンの子メフィボシェテによって実現します(Ⅱサムエル9章)。ヨナタンがダビデの家と契約を結んだのはそのためでしょう。
17節をご覧ください。
「17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。」
ヨナタンとダビデには、このような堅い結束がありました。友としての愛がありました。ここには、「ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していた」(17)とあります。それは、サウルとの敵対関係によって、反故にされることはありませんでした。これはちょうど、イエス様と私たちの関係と同じです。イエス様は弟子たちにこう言われました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:13-14)イエス様は、私たちを「友」と呼んでくださいました。そして、その友のためにいのちを捨ててくださったのです。私たちがいかに大きな失敗をしようとも、失敗して罪を犯してしまっても、主の愛にとどまるなら、主の愛に立ち戻るならば、主は決して私たちを見放すことはなく、いつまでも愛してくださるのです。ここに友としての愛があります。ヨナタンもそのような愛をもってダビデを愛していました。
18~23節をご覧ください。
「ヨナタンはダビデに言った。「明日は新月祭です。あなたの席が空くので、あなたがいないことが分かるでしょう。19 三日目に、日が暮れてから、あの事件の日に隠れた場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。20 私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。21 私が子どもを遣わして、『行って、矢を見つけて来い』と言い、もし子どもに『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い』と言ったら、出て来てください。主は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。22 しかし、私が少年に『それ、矢はおまえの向こう側だ』と言ったら、行ってください。主があなたを去らせるのです。23 私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたの間の永遠の証人です。」
ヨナタンはダビデに言いました。明日は新月祭なので、ダビデの席が空いていれば、そのことにサウルが気付くでしょう。そのときサウルがどのような態度を取るのか。もしサウルがダビデを殺そうとしていることがわかったら、そのことをダビデに知らせるというのです。そのしるしは何ですか。3本の矢です。ヨナタンが父サウルの意図を確かめた後で、3本の矢をサインとして射るというのです。その矢が連れて来た子どもたちよりも手前に落ちたら、それは安心して出て来て良いというサインです。けれども、もしその矢が子どもたちよりも向こうに落ちたら、危険であるというサインになります。ヨナタンは、「私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたの間の永遠の証人です。」(23)と言いました。もしどちらかが契約を破ったら、主の罰を受けても当然です、という意味です。
ヨナタンは、ダビデが真実で、愛に富んだ人物であることを信じていました。彼は、自分の王位を失うことがあっても、ダビデを信頼したのです。もしヨナタンがそれほどにダビデを信頼したのであれば、私たちがダビデの子であるイエス様に全幅の信頼を置くのは当然ではないでしょうか。イエス様はいのちをかけて私たちを愛してくださいました。この方に信頼し、従い続けましょう。
Ⅱ.サウルの怒り(24-34)
次に、24~34節までをご覧ください。
「24 ダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。25 王は、いつものように自分の席、つまり壁寄りの席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの席は空いていた。26 しかし、その日、サウルは何も言わなかった。「思わぬことが起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう」と思ったからであった。27 しかし、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデの席は空いていた。サウルは息子のヨナタンに言った。「どうしてエッサイの子は、昨日も今日も食事に来なかったのか。」28 ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。29 『どうか、私を行かせてください。氏族の祝宴がその町であります。長兄が命じているのです。今、あなたのご好意を得ているなら、どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください』と言ったのです。それで彼は王の食卓に来ていないのです。」30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。」
いよいよ新月祭になって、サウル王は食事の席に着きました。向かい側にヨナタン、アブネルはサウルの横の席、ダビデの席は空いていました。しかし、サウルはダビデの席が空席であることをあまり気にしませんでした。思わぬことが起こって身を汚したのだろうと思ったからです。この食事は儀式的なものであり、身を清めでからでないと食べることができませんでした。ですから、サウルはダビデが身を汚したのだろうと思ったのです。
ところが、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデは姿を現わしませんでした。それでサウルかそのことをヨナタンに尋ねると、ダビデがベツレヘムに行かせてほしいと自分にしきりに頼んだのでそれを許可したと答えました。
するとサウルはカンカンに怒りました。それはヨナタンのせいでダビデを殺す機会を失ってしまったからです。サウルは息子ヨナタンを汚い言葉で罵倒しました。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」サウルは、自分の家から王位が離れて、ダビデの家に行くではないかと心配したのです。
しかし、そんなことおかまいなしに、ヨナタンは率直に自分の思いを父サウルにぶつけます。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」
するとサウルは、槍を投げつけてヨナタンを撃ち殺そうとしました。それでヨナタンは、父サウルがダビデを殺そうとしていることを知りました。ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がると、新月祭の二日目の食事を取りませんでした。サウルがダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからです。
ヨナタンは、自分がどんなに厳しい状況に追い込まれようとも、神のしもべダビデの側に付きました。神のしもべの側に付き、その人を支援することは、大きな祝福をもたらします。一時的に不利な状況になり、それがいかに危険で犠牲が伴うように見えても、最終的には必ず神の祝福を受けることになります。
昨年の夏に、那須のぞみ教会に来会した香港チームのイングリッド姉から、香港の自由のために祈ってほしいというメールがありました。ご存知のように、中国は先の全人代で国家安全法制の導入を決定したことで、この法が香港市民の権利や言論の自由、宗教の自由に大きな制限を与えると危機感から、反対しているわけですが、その中でイングリッド姉はこう言っています。
「主よ。トンネルの中の私たちはトンネルの中で過ごしていて、向こうの光が見えないでいます。我らをパウロみたいに主の力を信じ、『夜は深まり、昼が近づきました』の景色が見えるように助けてください。歴史の中でどんなに邪悪な政権でも最後まで暴れたことはありません。荒淫(こういん)で道徳がない紂王(ちゅうおう)、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)をした、始皇帝、アッシリア、バビロン、ローマ、ナチスなど、そして権力に依存する無数の平凡な悪者は、どんなことを企て図っても、主は必ず彼らをあざけり、憤りをもって彼らに語るであろう。ですから、私たちは主に祈りを捧げます。私たちや平和を求める人たちを助けてください。私たちが光の兵器、知恵や勇気をもって困難の中でも忍耐をもって、神様を待ち望むことができるように。」
あなたはどうですか。あなたは、神を恐れ、神を信じる人たちとともに歩んでいるでしょうか。表面的で一時的な雰囲気に呑みこまれないように、いつも主と主のことばに信頼しましょう。
Ⅲ.ダビデとヨナタンの別れ(35~42)
最後に、35~42節までを見て終わりたいと思います。
「35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。36 そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。37 子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」38 ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。39 子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。40 ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。41 子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。42 ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。」
翌朝、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行きました。父サウルの意志を伝えるためです。伝える方法は、3本の矢のサインでした。自分の放つ矢が、子どもより手前に落ちたら大丈夫。向こうに落ちたら、サウルがダビデを殺そうとしているというサインでした。ヨナタンが放った矢は、その子の向こう側に落ちました。そして、叫びました。「矢は、おまえよりも、もっと向こうではないか。」「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」それは、ダビデに早く逃げるようにというメッセージでした。子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけが、その意味を分かっていました。
ヨナタンがその場から子どもを立ち去らせると、ダビデは南側から出て来て、地にひれ伏し、三度礼をしました。二人は口づけし、抱き合って、泣きました。ダビデはいっそう激しく泣きました。この別離は、ふたりにとって非常に辛いものでした。もしかすると、もう会えないかもしれません。そう思うとより一層悲しみがこみ上げて来たのでしょう。
最後にヨナタンはダビデにこう言いました。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」(42)どういうことでしょうか。
ヨナタンはここで、決してダビデを裏切らないという約束をします。それは彼らだけのことではなく、彼らの子孫におけるまでの永遠の誓いです。ダビデは、自分が王になっても、ヨナタンの家系を抹消しないと約束しました。そしてダビデはこれを最後まで守ります。
これが神様との契約です。私たちは言葉や約束が軽く扱われる時代に住んでいます。約束は破るためにある・・とか。そのため、聖書に書かれてある約束についても、その重さをなかなか理解することができないのです。しかし、聖書の約束は非常に重いものがあります。神の約束は永遠に破棄されることはありません。キリストの血によって結ばれた神との契約は、どんなことがあっても破られることはないのです。私たちの状況によってコロコロと変わるものではないのです。
私の好きな聖書の言葉に、「永遠の腕が下に。」という言葉があります。申命記33:27です。「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。」
神は、イスラエルを助けるために雲に乗って来られます。彼らの下には永遠の腕があり、支えられていました。それは私たちも同じです。私たちはキリストの血によって神と永遠の契約を結びました。どんなに自分がだめでも、私たちの下にはいつもこの永遠の腕があるのです。この永遠の腕によって守られているのです。それは何かあって破られるようなものではありません。私たちが何か間違いを犯したからと無効になってしまうようなものではないのです。これは永遠の契約です。イエス様はこう言われました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(ヨハネ10:28)
私たちの下にはこの永遠の腕があることを覚えて、大きな慰めと励ましを受けながら、神の国とその義を求めてこの世に出てまいりましょう。