きょうは、イザヤ書10章5節からのみことばからお話したいと思います。タイトルは「主にたよれ」です。前回は9章8節から10章4節までのところで北イスラエルに対して語られた主のことばを学びました。きょうのところはイスラエルではなく、アッシリヤに対して語られています。アッシリヤという国は、アラムとイスラエルの連合軍を打ち破り、南王国ユダにまで迫って来た国ですが、そのアッシリヤに対して語られているのです。
きょうは、このアッシリヤに対して語られた主のことばから、三つのことを学びたいと思います。まず第一のことは、高ぶってはいけないということです。斧が、それを使って切る人に向かって高ぶることができないように、あるいは、のこぎりが、それをひく人に向かっておごることができないように、神に向かって高ぶってはなりません。神の道具としての立場をわきまえ、それに徹していなければならないということです。第二のことは、高ぶる者に対する神のさばきです。第三のことは、だから主にたよれということです。
Ⅰ.高ぶらないで(5-15)
まず第一に、アッシリヤの高ぶりについて見ていきたいと思います。5節から15 節までをご覧ください。まず5節と6節です。「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるわたしの憤りのむち。わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。」
主はアッシリヤに向けて「ああ」という言葉を発しておられます。この「ああ」という言葉は、5章のところで何回も繰り返して出て来た言葉です。そこでは、神に背くイスラエルに対して「災いなるかな」と、災いを宣告するために使われましたが、それと同じ言葉がアッシリヤに対しても使われているのです。いったいアッシリヤは何が問題だったのでしょうか。それは彼らは単なる神の道具であるのにかかわらず、その立場を逸脱して思い上がったことです。ここには、「アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるわたしのむち。」とあります。ここでは「わたしの」という言葉が強調されています。つまり、アッシリヤは神の道具でしかなかったわけです。神に従わないイスラエルを懲らしめ、彼らを悔い改めるための道具です。それが「怒りの杖」であり、「憤りのむち」でした。神は神に従わないイスラエルを懲らしめるためにアッシリヤを用い、彼らによってイスラエルの民を襲い、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせました。それによってイスラエルが悔い改めるためです。そのための道具でしかなかったのです。なのにアッシリヤはあたかもそれを自分たちの手で成し遂げたかのように高ぶりました。自分たちの力で強大な国を作り上げたのだと勘違いしました。自分たちの立場を超えて思い上がってしまったのです。
7節をご覧ください。ここには彼らの高ぶりがどのようなものであったかが描かれています。「しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。」
「そうとは思わず」とは、自分たちが神の道具であるとは思わず、ということです。彼らの心にあったのは、滅ぼすことでした。もう懲らしめるというレベルではありません。それを越えていたのです。滅ぼそうとしたのです。イスラエルだけでなく多くの国々を滅ぼして、自分たちの属国にしようとしました。徹底的に滅ぼそうとしたのです。アッシリヤの残虐さは有名で、彼らは敵の目をえぐり取ったり、鼻を削いだり、耳を削いだり、あるいは舌にフックをかけて引っ張ったり、生きたまま穴に埋めたり、さらに生首を持って来てそれをやりで突き刺し、「アッシリヤに従わない者は皆、このようになる」とみせしめにするようなことをしました。それは彼らが自分たちの立場をわきまえず、自分たちが絶対者であるかのように思い込んでいたからです。
8節から11節にはこのようにあります。「なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか」と。」
これはどういうことかというと、これまでの戦いの大勝利がすべて自らの強さ、戦闘能力の高さ、占領政策の巧みさによるもので、万軍の主のご計画によるものではないと言っているのです。カルノというのはアラムの北にある町ですが、そこは前738年に滅ぼされました。次がカルケミシュです。そこは前717年に陥落しました。ハマテは前720年、アルパデは前740年、サマリヤは前722年、ダマスコは732年に落ちました。これまで戦った都市、国はみなそれぞれに守護神を持っていたけれども、どれもアッシリヤの攻撃から守ることができなかった。エルサレムの神も同様に、アッシリヤに抵抗できるはずがないと豪語しているのです。真の神を、人間が造り上げた偶像と同一視しているだけでなく、そのイスラエルの神、万軍の主がアッシリヤの手から守ることができないと高ぶっているわけです。
そうした彼らの高ぶった態度は、12節から14節までのところにも書かれてあります。「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。」「私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」
ここを注意して見ると、「私」という言葉が連発していることに気付きます。「私」「私」「私」、「自分」「自分」「自分」です。今ある繁栄は、今ある祝福は、今ある勝利は、すべて自分の力でやった、私の知恵によるもの、私が賢いから、私が強いから、私がすごいから、自分に能力があるから、というのです。自分の力を誇っているのです。しかし、それは滑稽なことです。あわれなことなのです。なぜなら、アッシリヤはただの道具でしかないからです。ただの道具でしかないのに、あたかもそれを自分の力でやったかのように思い込んでいるからです。彼らのそうした高ぶった思いをたとえるならば、次のようにまとめることでができるでしょう。15節です。
「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。」
斧やのこぎりは、あくまでも道具にすきせません。それなのに、それを使っている人を動かそうとしたり、指図するとしたら滑稽ではありませんか。斧が、もっと右に切れとか、もっと左だなんて言うとしたら、それを使う人はこう言うでしょう。「Oh, No.」それは滑稽です。なのにアッシリヤはそういうことをしていました。彼らはただの道具でしかなかったのに、あたかも自分の知恵、自分の力ですべてを動かしているように錯覚して、自分たちには能力があり、自分たちはすごいと思っていたのです。
そういうことが私たちにもあります。私たちもこのような高ぶってしまうことがあるのです。今あなたが享受しているもの、仕事、財産、家族、健康、あるいは、あなたの今の繁栄、それらのものはだれによってもたらされたものとお思いでしょうか?私は自分の手の力でやった、一生懸命に勉強していい学校に入り、それなりの会社に就職し、それなりの昇進をして、それなりの給料を得て、それなりの地位を得てきたんだという思いはないでしょうか。自分が頑張ったから、自分の知恵によって、賢さによって、能力によって出来たんだと思ってはいないでしょうか。アッシリヤも私たちと何ら変わらない罪人の集団であります。罪深い人間はいつもこのように考えるのです。自分の立場を忘れ、すぐに自分の力でやったと自分を誇ってしまいます。アッシリヤ同様、神の道具にすぎないということを忘れてはなりません。ただの道具なんです。イチローのバットを持てば、だれでもイチローのように打てるかというとそうではありません。最近はあまりぱっとしませんが、タイガーウッズのドライバーを持てばいくらでもとばせるかというとそうではありません。バットやドライバーはただの道具にすぎません。道具がすごいのではなく、その道具を使う人がすごいのです。ですから、道具が誇ってはなりません。誇るのではれば、私たちは主を誇るべきであります。第一コリント1章を開いてみましょう。26節から31節までをお読みします。
「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」
ここに「誇る者は主を誇れ」とあります。伝道の働きで成功したならば、ビジネスにおいて成功したならば、個人生活、家庭生活でうまくいったなら、それはすべて神様のお陰です。私たちは自分自身のことで何も誇るものはありません。一生懸命聖書を学んだから、神学校に行ったから、だから成功したんだとか、いい学校に入って、いい仕事に入ったから、資格があるから、だから高収入なのではありません。すべての祝福は主の恵みによるのです。主があなたに健康を与え、あなたに必要な能力を与え、あなたにチャンスを与え、あなたが活躍できる場を与えてくださったのです。私たちは主の御手によって使われるただの道具でしかありません。道具として用いられ、主の栄光を現すことができたのであれば、そのことを喜ぶべきです。こんな私を使ってくださったということを喜びとすべきなのです。主が用いられるならばイチローのバットでなくても、その辺のスポーツ用品店で売っているバットでも、十分ヒットが打つことができます。タイガーウッズのドライバーを使わなくても、完璧にショットを打つことができるのです。私たちが主の御手に握られるならば、私たちがどんなにみすぼらしい道具であっても、いかようにも使っていただき、驚くべき働きを担うことが許されるのです。ですから、主に用いられたければ、自分が神の道具であるという自覚を持たなければなりません。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりです。
カール・ヒルティーという人が、こういう言葉を残しています。「人間の力の秘密は、神の道具であるという性質にある。なぜなら、すべての永続的な真実の力は神のものであって、人間のものではないからである。」
私たちには限界があります。しかし、時に私たちは自分の能力の限界を超えて驚くべきことを成さしめていただくことがあります。それは間違いなく神の恵みによるのであって、私のような者でも、そのように使っていただけるからなのです。それは自分から出たことではなく、神から出たことが明らかにされるためです。それはひとえに神の働きでしかないということが現されるためです。
イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われました。イエス様が私たちのまことのぶどうの木で、私たちはただの枝にすぎません。枝自体が実を結ぶことはできません。イエス様につながって初めて実を結ぶことができるのです。そのことを忘れてはなりません。
Ⅱ.高ぶる者は罰せられる(16-19)
しかし、アッシリヤは高ぶってしまいました。自分たちの道具としての立場をわきまえずに、不遜にも神に反逆して高ぶりました。そんなアッシリヤに対して神のさばきが下されます。16節から19節までをご覧ください。「それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのおどろといばらを一日のうちになめ尽くす。主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。それは病人がやせ衰えるようになる。その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。」
ここに書かれてある一つ一つのことは、文字通りアッシリヤに起こりました。 17節の「イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのおどろといばらを一日のうちになめ尽くす。」というのは、アッシリヤがエルサレムを包囲した時の出来事です。アッシリヤは既に北イスラエルを滅ぼして、その勢いは南ユダにまで迫っていました。アッシリヤはセナケリブという王が、またラブシャケという将軍が不遜な言葉をはきます。イスラエルの神をあからさまにののしるわけです。さきほど読んだように、他の国と同じようにエルサレムも侵略し、他の国々の神をことごとく打ち倒してきたように、イスラエルの神も自分たちの手でみな滅ぼし尽くしてやると豪語したのです。そこで苦境に立たせられたヒゼキヤ王は主の前にひざまずき、そして心から祈るのです。すると驚くべきことが起こりました。「イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となって燃え上がり、そのおどろといばらを一日のうちになめ尽くたのです。「おどろといばら」とはアッシリヤのことです。これを一日のうちになめ尽くしたのです。エルサレムを取り囲む十八万五千人のアッシリヤ軍が、主の使いによって一夜のうちに滅んだわけです。18節の「美しい林も、果樹園」というのもアッシリヤのことです。19節の「林の木の残り」というのもアッシリヤのことです。それが数えるほどになるのです。一夜のうちに大打撃を受けたのです。イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となって燃え上がり、一日のうちになめ尽くしました。当時世界最強と言われた軍隊が日本の四国ほどの面積もない小さなユダに滅ぼされて敗走しました。その後、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰ると、そこで息子に暗殺されてしまいます。そして、その息子によって率いられたアッシリヤは弱体化してやせ衰え、ついにはバビロンに破れ、完全に滅んでいくことになるのです。あれだけ勝ち誇ったかのように豪語していたアッシリヤは、完全に滅ぼされたのです。
それは神のさはぎです。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになります。ですから、あなたは、神の力強い御手の下にへりくだらなければなりません。神が、ちょうど良い時に、あなたを高くしてくださるためです。
Ⅲ.ただ主にたよれ(20–34)
ですから第三のことは、主にたよれということです。20節をご覧ください。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。」
「その日」というのは、イザヤ書のキーワードの一つです。それはアッシリヤがエルサレムの回りで倒れた日のことだけではありません。確かにエルサレムの町の住民がこの主の御業を見て神に立ち返る人もいますが、そのことだけではないのです。これは世の終わりの日のことも指しています。具体的には、世の終わりにおける最後の7年間の患難時代のことです。それは神の怒りが注がれるさばきの日のこともあります。詳しくは黙示録6章から19章に描かれている内容のことであります。
その日になると、どんなことが起こるのでしょうか?イスラエルの残りの者は、もう再び、自分を打つ者にはたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよるようになります。「自分を打つ者」とはアッシリヤのことです。アッシリヤとか、アラムといった周辺諸国にたよることはしません。イスラエルの聖なる方にたよるようになるのです。
それと同じようなことがこの世の終わりにも起こります。イスラエルはかつて自分を打つ者にたよっていたわけです。それは具体的には反キリストです。聖書には反キリストのことがいろいろな呼び名で表されていますが、その一つの名が「アッシリヤ」なんです。この世の終わりにはかつてイスラエルを打ったアッシリヤのような存在が現れます。それが反キリストです。彼は彗星のごとくヨーロッパにリーダーとして現れると、だれもが成し得なかった和平を中東にもたらし、パレスチナ問題を一気に解決するのです。エルサレムにある今の嘆きの壁はもともと神殿があった場所ですが、そこに神殿が再建されます。すると皆が「この方こそ来るべきメシヤだ」と言います。今のユダヤ人たちに聞いてみてください。メシヤが来られるときどんなことが起こるのか・・・と。すると彼らはこう言います。メシヤが来られる時には、我々の神殿を再建してくださると。再建してくれる人こそ我々のメシヤであると思っているで、そこに神殿が建つのを見ると、この方こそメシヤだと信じてしまうわけです。
ところが、7年間のちょうど真ん中である3年半が経つと、状況がガラッと変わります。今までメシヤだと思っていた人物が豹変して本性を現わすのです。半キリストのことを黙示録には「獣」と表現されていますが、まさに「獣」のようにユダヤ人たちを食い尽くすようなことをするのです。不遜にも自分が再建した聖なる所に立って、自分を拝めと言うのです。その結果、騙されたと思ったユダヤ人は必死に逃げようとするのですが、反キリストは彼らを追い回し、弾圧して、虐殺するのです。あのヒトラーがユダヤ人たちを虐殺した時よりももっと酷いことを、もっと恐ろしいことをします。ですから、そこで数多くのユダヤ人が殺されるのです。その時イスラエルの残りの者たちは目が覚めて、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる神に立ち返るようになるのです。21節から23節に書いてあるようなことになるわけです。
「残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行おうとしておられるからだ。」
その中でイスラエルの残りの者が、まことの神、本当の救い主であるイエス・キリストに立ち返ってくるわけです。そうして、イスラエルはすべて救われるというあの聖書の約束が実現するのです。
「主よ。いつまでですか」と、イザヤはイスラエルのかたくなさを嘆きながらも叫びました。その答えがこれです。この時までなんです。この時になったら、かたくなだった民の心がようやく砕かれて、神に立ち返って来る日がやって来ます。
それゆえに、万軍の神、主は、こう仰せられます。24節から27節です。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」
ここにアッシリヤを恐れるなとありますが、これはイザヤの時代には文字通りとらえるべきです。しかし、これを遠い未来でみるならば、この「アッシリヤ」というのが反キリストのことなんです。しかし、ここでは文字通りのアッシリヤという国です。それを恐れるてはなりません。オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを上げ、杖を海にかざして、エジプトにしたように、主が彼らを滅ぼされるからです。杖を海にかざして、エジプトにしたようにというのは、イスラエルがエジプトを出て行く際、エジプトが執拗にも追いかけてきた時、モーセが紅海の上に手をかざすと、それが真っ二つに分かれた出来事のことです。それで彼らはその分かれた道を通して救われました。そのようにアッシリヤからの大いなる勝利がもたらされ、奴隷状態からも解放されるのです。そのようにしてアッシリヤからも、反キリストからも、主はご自分の民を守ってくださいます。
主はそのような方なのです。過去のイスラエルの歴史において、オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、杖をエジプトにかざして、エジプトにしたように、ご自分の民を守ってくださいます。また、遠い未来においても、やがて現れるであろうアッシリヤ、獣、反キリストに対しても驚くべき御業をもって救い出してくださいます。それが私たちの主です。万軍の神なのです。
であれば、私たちはいったい何を脅える必要があるでしょうか?自分の過去の歴史において、あのときも、このときも、驚くべき御業をもって助けてくれた主は、今、あなたの目の前にどんな問題があっても必ず助け出してくださるのです。あなたが不安になっていることは何ですか?あなたが思い煩っていることは何でしょう?あなたが心配して夜も眠れないでいることは何ですか?あなたが勝手にあきらめていることは何ですか?その支払いがどれだけだというのでしょう?その病がどれほどのものだというのでしょうか?それがどれほどのものでも、地獄と等しいほど大きな問題ではありません。主はあなたを地獄の滅びから救い出してくださいました。その主はあなたの人生に責任をもって臨んでくださいます。あなたの人生の重荷をその肩から取り除かれ、あなたがこの世を力強く歩むことができるように助けてくださいます。
ですから、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよろうではありませんか。そのあなたの真実な心が、あなたの信仰が、あなたを救うのです。