Ⅱサムエル記7章

今日は、Ⅱサムエル記7章からお話します。ここはとても重要な箇所です。というのは、ここには「ダビデ契約」について書かれてあるからです。旧約聖書には、罪によって失われた神の国を回復するために、キリスト、メシヤを送るということが予言されていますが、その中でも重要な予言が3つあります。一つはアブラハム契約と呼ばれるもので、これは創世記12章にありますが、アブラハムの子孫からキリストをこの世に送り、地上のすべての人を祝福するというものです。もう一つは、シナイ契約と呼ばれるもので、これはモーセの時代になってイスラエルが民族にまで成長したとき、主は彼らを律法によって聖別し、ご自身の民とすると約束してくださったものです。そしてもう一つがこのダビデ契約です。主はダビデと契約を結び、ダビデの家系から出るキリストによって、とこしえまでも続く神の国を立てると約束されました。7章13節に、「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」とあります。 きょうは、このダビデ契約からご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.預言者ナタン(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。3節までをお読みします。「王が自分の家に住んでいたときのことである。主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。王は預言者ナタンに言った。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」

ダビデは30歳で王となり、40年間イスラエルを治めました。ヘブロンで7年6カ月ユダを治め、エルサレムで33年間イスラエルとユダ全体を治めました。ダビデは王となるとエブス人を攻略してそこを攻め取り、それを「ダビデの町」と呼びました。これがエルサレムです。そして、そこを政治的、軍事的拠点としたのです。すると、ツロの王ヒラムがダビデのもとに使者と、杉材、木工、石工を送り、ダビデのために王宮を建てました。5章11節に記されてあります。万軍の主がダビデとともにおられたので、ダビデはますます大いなる者となりました。

そんなある日のことです。主が周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えてくださいましたが、彼は一つのことに気付きました。それは、自分は杉材の立派な家に住んでいるのに、神の箱は天幕に安置されたままになっているということです。確かに、天幕の内側は純金でできていて神の栄光に満ち溢れていましたが、外側はじゅごんの皮でできたみすぼらしいものでした。じゅごんというのは地中海に生息していたアザラシみたいな動物です。自分が住んでいる杉材の王宮と比べると、それはくらべものになりませんでした。

そこで彼は預言者ナタンに相談しました。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」(3)ナタンは宮廷に出入りする預言者でした。宮廷に出入りしていた預言者は、王の個人的な助言者でもありました。ナタンはダビデから相談されると、即座に答えて言いました。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」

どうですか、何だか力が湧いてくるようなことばじゃないですか。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられますから。」しかし、これは主のみこころにかなったものではありませんでした。あくまでもナタンの個人的な見解にすぎなかったのです。確かに、主がダビデとともにおられるというのは真理でしたが、ダビデが主のために家を建てるというのは間違いでした。彼はこれほど重要なことを、全く主に伺いも立てずに、個人的な判断で即答したのです。

それは、4~7節までのことばを見るとわかります。「その夜のことである。次のような種のことばがナタンにあった。『行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。わたしがイスラエルの子らのすべてと歩んだところどこででも、わたしが、わたしの民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」と、一度でも言ったことがあっただろうか。』」(4-7)

「その夜」とは、ナタンがダビデに告げた日の夜のことです。主はナタンを通してダビデに言われたことは、主は、エジプトからイスラエルの民を連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、幕屋にいて民を導いて来られたということ、そして、これまでどのイスラエルの部族にも、ご自身のために杉材の家を建てるように命じたことはなかったということです。つまり、ナタンが告げたことばは間違っていたということです。それは彼の思いにすぎず、主のみこころではなかったのです。

ナタンは預言者であり、とても善良で正しい人物でした。しかし、そのような人物でも自分の判断によってことばを発するなら、間違いを犯してしまうことがあります。善良で正しいだけでは人々を正しく導くことはできません。大切なのは主に祈り、主の導きを求めることです。これはナタンだけでなく、私たちに対する教訓でもあります。

Ⅱ.ダビデ契約(8-17)

次に、8~11節前半までをご覧ください。「今、わたしのしもべダビデにこう言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにいて、あなたの前であなたのすべての敵を絶ち滅ぼした。わたしは地の大いなる者たちの名に等しい、大いなる名をあなたに与えてきた。わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。』

主は続いてこう言われました。「万軍の主はこう言われる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにいて、あなたの前であなたのすべての敵を絶ち滅ぼした。」

どういうことでしょうか。主は一介の羊飼いにすぎなかったダビデを選び、イスラエルの王としたということです。そして、ダビデがどこに行っても、彼とともにいて、勝利を与えてくださいました。すべての敵を絶ち滅ぼしてくださったのです。そのようにして主は彼を、地の大いなる者たちの名に等しい名を与えてくださいました。

そればかりではありません。10節と11節前半には「わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。」とあります。

主はご自身の民のために一つの場所を定め、そこに住まわせてくださいました。どこですか?エルサレムです。ダビデの町エルサレム。それは彼らが敵の恐怖から守られ、安心して暮らすことができるようになるためです。士師の時代のように、周囲の敵に圧迫されて暮らすことがないようにするためです。

それはせかりではありません。ここで主はとても重要なことを告げられました。それが11節後半から17節までにあることです。「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」ナタンはこれらすべてのことばを、この幻のすべてを、そのままダビデに告げた。」

主はダビデのために一つの家を造る、と言われました。ダビデは主のために家(神殿)を建てようと考えていましたが、そうではなく、主がダビデのために一つの家を造られる、と言われたのです。それはどのような家でしょうか。それはとこしえまでも堅く立つ王国です。12~13節には、「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

とあります。

それは、ダビデの身から出る世継ぎの子が、ダビデの死後に、彼の王国を確立させるということです。ダビデの世継ぎ子とはだれでしょう。そうです、ソロモンです。ソロモンが主の御名のために一つの家を建て、主は彼の王国をとこしえまでも堅く立てるのです。しかし、それはソロモンだけでなく、ダビデの子孫として生まれ、永遠の神の国を建てられるメシヤ、キリストのことを預言していました。それはここに「彼の王国をとこしえまでも堅く立てる」とあることからもわかります。このことは16節にもあります。そこにはこのことが2回も繰り返して言われています。それは、この約束がダビデの息子ソロモンを超えて、来るべきメシヤのことを指していたからです。

預言者イザヤは、この方について次のように預言しました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6-7)イスラエルを治めるひとりの男の子が、ダビデの王座に着いて、その王国を治めますが、それは今より、とこしえまでです。それはやがて来られるメシヤ、救い主キリストのことだったのです。そして、この預言のとおり、主はこのダビデの家系から救い主を送ってくださいました。それが今から2000年前の最初のクリスマスです。主は、この王国を立てるために救いのみわざ、十字架と復活のみわざを成し遂げてくださいました。そして今、神の右に着座しておられます。そして神の家である教会のかしらとなってこの御国を治めておられます。そしてやがて主が再び地上に戻って来られるとき、この約束が完全に成就することになります。この方はダビデの座に着いて、とこしえに神の国を治めてくださるのです。

ところで、14節を見ると不思議なことが記されてあります。それは、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」ということです。これは父なる神と子なる神の麗しい親子関係が描かれています。しかし、もしこれがメシヤのことであるならば、彼が不義を行うなど考えられないことです。ましてや、神がむちをもって彼を懲らしめるなどあり得ません。勿論、これは第一義的にダビデの子ソロモンのことを指しているとすれば、ソロモンが罪を犯すことはあり得るし、その場合、神がソロモンを懲らしめることもあります。

ある人は、この「彼が不義(罪)を行ったとき」を「彼が罪を負うとき」のこと解釈し、これはイザヤ書53書にある、「彼は罪を負った」というメシヤの受難のことを指示していると考え、それで彼はむちを受けることをよしとされた、と言っています。

しかし、ここではそういうことではなく、ダビデの子ソロモンに焦点があてられていたため、ソロモンが罪を犯す可能性があったのでそのことが戒められているのです。ですから、並行箇所のⅠ歴代誌17章にはこのことに関する記述がないのです。ちょっと開いてみましょう。Ⅰ歴代誌17章10~15節です。ここには、Ⅱサムエル記に書いてあることとほとんど同じことが記されてあります。しかし、Ⅱサムエル記にあるこの記述が抜けているのです。どうしてか?Ⅱサムエル記7章ではダビデの直接の子であるソロモンに焦点を絞った内容になっているのに対して、このⅠ歴代誌17章は、メシヤであるイエスに焦点を絞った内容になっているからです。メシヤであるキリストが罪を犯すことなどあり得ないからです。

しかし、たとえソロモンが罪を犯すことがあっても、サウルのように恵みが取り去られることはありません。これはとこしえの契約だからです。そのことが15~16節でこのように言われています。「しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(15-16)

すばらしい約束ですね。サウルからは恵みが取り去られましたが、ソロモンからは取り去られることはありません。確かにソロモンも罪を犯しました。サウルのように恵みが取り去られることはないのです。サウルとソロモンの罪を比較すると、サウルよりもソロモンの方がはるかに大きな罪を犯しました。サウルは、預言者サムエルに「待て」と言われたのに、民が自分から離れ去ってしまうのではないかと恐れて、サムエルが到着する前に、サムエルに代わって自分で主に全焼のいけにえをささげてしまいました(Ⅰサムエル13:8-9)。また、アマレクとの戦いにおいてこれを討ち、そのすべてのものを聖絶するようにと明治ら楡田にもかかわらず、肥えた羊とか牛とかのうち最も良いものを惜しんで聖絶しまぜんでした。ただ、つまらない値打ちのものないものだけを聖絶しました(15:7-9)。そのことをサムエルから指摘されると彼は、「いや、自分はちゃんと聖絶しましたよ」と答えるも、その後ろから「モー」と鳴く牛の声が聞こえるというありさまでした。でも、ソロモンの罪と比べたらかわいいものですよ。ソロモンは何をしたんですか?ソロモンは1000人の妻と多くのそばめを持ち、彼女たちが持ち込んだ偶像の神を拝んだのですから。それは赦されないことでしょう。もちろん、罪に大きいも小さいもありませんが、でも、サロモンが犯した罪はサウルのそれに比べたらはるかに大きなものでした。それなのに彼は、サウルのように王座を奪われることはありませんでした。なぜなら、これが永遠の契約に基づいていたからです。これが神の愛です。神の愛は無条件の愛なのです。私たちがどのようなものであるかは全く関係ありません。私たちがどんなに罪深い者であっても、神の御前にへりくだり、自分の罪を悔い改めて、神の救い、イエス・キリストを信じるなら、どんなものでも救われるのです。そして、どんなことがあっても見捨てることはありません。ヨハネ10:29で、イエスはこのように言われました。「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:29)

私は、福島で牧会していたとき10年間刑務所の教誨師をしていました。教誨師というのは毎月1回刑務所に行き、聖書からイエス様についてお話するのですが、そこに出席している人はみんな乾いた砂が水を吸収するように話を聞きますか。そこで、あのミッションバラバのビデオを見せたことがありました。ミッションバラバというのは、元ヤクザが悔い改めてイエス様を信じ、親分はイエス様!と証しするようになった人たちです。

それを見た一人のヤクザが、「先生。自分もヤクザだけど、こいつらはちょっと甘いです」というのです。一度信じた親分を裏切るなんて中途半端なヤクザだ。俺はヤクザを続けながらイエス様を信じます。それでもいいですか?」と言われたのです。「ヤクザを続けながらイエス様を信じるというのは難しいんじゃないかと思い、「ちょっと難しいと思いますよ。イエス様を信じたら、ヤクザができなくなると思います。でも、やってみてください」と勧めたら、もう一人のヤクザとイエス様を信じたのです。

そして出所後、一人は神戸に、もう一人は群馬県高崎の家に戻ったのですが、一年前に連絡があり、久しぶりにこられたんですね。25年ぶりの再会でした。それはちょうどこの方の奥さんが癌で闘病していて、余命いくばくかというときでした。あの時のように「いつくしみ深き」を賛美して、聖書からお祈りをしました。もう涙、涙です。隣にティッシュを置いてその時間ずっと鼻をかんでいました。

それからひと月くらいして奥様がなくなるのですが、こんなメールをくれました。 「先生。今日、医師から時間の問題です、と言われました。俺みたいな渡世人が祈ってもイエスは聞く耳持たないと思いますので、先生、自分も妻を愛し、そしてイエスを愛しました。自分の祈りが届きますように、先生、祈ってください。お願いします。わが愛しい妻。そしてわが愛するイエス・キリスト。十字架の愛を心より永遠に。」

あれから1年近くになりますが、先週、また二人で来られたのです。また3人で讃美歌を歌い、聖書からお話をして、お祈りをしました。一緒に讃美歌を歌ったり、お祈りをしながら感じたことは、彼らがどういう人たちであろうとも、イエス様はこういう人たちを愛しておられるだろうなぁということです。というのは、Ⅰテモテ1章15節に「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」とあるからです。イエス様は罪びとを救うために来られたのです。そして、この方を信じるなら永遠のいのちをいただき、どんなことがあっても最後までイエス様が守ってくださるということです。

私たちもこの無条件の愛を受けたのです。どんなことがあっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。私たちはこの神の愛によって、神の恵みを受けたのです。

Ⅲ.ダビデの感謝の祈り(18-29)

最後に18~29節までをご覧ください。まず21節までをお読みします。「ダビデ王は主の前に出て、座して言った。「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。ダビデはこの上、何を加えて、あなたに申し上げることができるでしょうか。神である主よ、あなたはこのしもべをよくご存じです。あなたは、ご自分のみことばのゆえに、そしてみこころのままに、この大いなることのすべてを行い、あなたのしもべに知らせてくださいました。」

ダビデは、主のために神殿を建てたいと願っていましたが、主の答えは、ダビデが主のために家を建てるのではなく、主がダビデのために家を建てるということでした。主の約束を聞いたダビデは、主の御前に座して祈りました。

彼はまず、「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。」と言っています。

ダビデは、取るに足りない小さな者を選び、ここまで導いてくださるとは何ということかと驚きを隠せません。その上、はるか先のことまで告げてくださいました。このはるか先のこととは、とこしえまでの約束、メシヤの約束、神の国の約束のことです。主はそのことまで告げてくださったのです。「主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。」とは、「自分にはそのような祝福を受ける資格はない」という意味です。そして彼は、「この上、何を加えて、あなたに申し上げることができるでしょうか。」と言っています。非常に言葉巧みな人であったダビデが、今、言葉を失っているのです。人はあまりにもすばらしいことが行なわれたときに言葉を失いますが、そのような状態になっているのです。

これは私たちクリスチャンにも言えることです。エペソ人への手紙2章1~5節にはこう

あります。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」

私たちは、罪過と罪との中に死んでいた者です。自分で自分のことがわからない、自分が何をしているのかさえもよく分かっていませんでした。まさに、マルコの福音書5章に出てくるあのゲラサ人の男のようでした。彼は悪霊につかれ、墓場に住み着いていて、夜も昼も墓場や山で叫び続けていました。石で自分のからだを傷つけていたのです。もはやだれも、鎖をもってしても押さえることができませんでした。

しかし、そんな者を神は愛してくださいました。そして、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださったのです。それはまさに神の愛によるものです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。

私たちももう一度、自分がどのようなところから救われたのかを思い起こしましょう。神はこのような者を選び、贖い、神の子としての特権を与えてくださったことを思う時、ダビデのような感謝が溢れてくるのではないでしょうか。

私の恩師の一人に尾山令仁という先生がおられますが、この方は94歳にして現役で牧師をしておられます。神学書など、信仰に関する書物を200冊以上書いておられる方で、日本を代表する神学者のおひとりです。創造主訳聖書も刊行されました。驚くべきことは、90歳近くになってから厚木での開拓伝道に出られたことです。今も現役の牧師として仕えておられるのです。

この尾山先生が昨年ユーチューブ配信を始められました。その名も「93歳るんるんおじいちゃんねる」です。日本最高齢のユーチューバーと言われています。それは、クリスチャンの街を作りたい、クリスチャンの学校もできる、クリスチャンの病院もできる。ありとあらゆるものが備わったそういう愛の共同体を作りたいというお考えからのようです。そういうものを作ることによって日本を変えていきたいと思っているのです。この尾山先生が動画の中でイエス様の十字架について語るとき、涙ぐむシーンがあるんですね。イエス様が十字架で死なれたのは私の罪のためだったんだと。尾山先生のすばらしはいところはここだと思うんですね。日本を代表する神学者であることは間違いないですが、その尾山先生が、イエス様はこんな汚れた者のために死んでくださったという感激がいつも心にあるのです。

奇しくも、今週は受難週です。イエス様が私たちのために十字架で死なれたことを思い、悔い改めと感謝をささげるときです。グッドフライデー。なにゆえ、死ぬことがグッドなのか。もともとは「ゴッズ・フライデー(God’s Friday)」とされていたのが次第に変化したのではないかという説や、グッドにはホーリー(holy=聖なる)の意味が含まれていることから、聖金曜日という意味でグッドフライデーと呼ばれるようになったのではないかともいわれています。しかし、そればかりでなく、イエス・キリストはすべての人々の罪を背負い、人々の身代わりとなって死を迎えたとされ、つまりこの金曜日は、救い主キリストが死によって人類への愛を示し、祝福を捧げた日でもあるとのこと。さらに死から3日目、キリストは『復活』することになりますが、これは、新しい生命の誕生を意味するものです。ですから、キリストが死を迎えた金曜日は、『復活』を導いた良き日と解釈されるとのことから、この日が悲しみの日ではなく『良い金曜日』と呼ばれるようになったのではないかともいわれています。

いずれにせよ、イエス様はこんなに罪深くちっぽけな者のために死んでくださったということを思うと、ここでダビデが言っているように、それは、本当に感謝ではないでしょうか。

それゆえ、ダビデの祈りは賛美に変わります。22~24節をご覧ください。「それゆえ、申し上げます。神、主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。また、地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょうか。御使いたちが行って、その民を御民として贖い、御名を置き、大いなる恐るべきことをあなたの国のために、あなたの民の前で彼らのために行われました。あなたは、彼らをご自分のためにエジプトから、異邦の民とその神々から贖い出されたのです。そして、あなたの民イスラエルを、ご自分のために、とこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ、あなたは彼らの神となられました。」

この賛美は圧倒的な力をもって私たちに迫ってきます。22節では、「主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。」と告白しています。ダビデは、主がこれまでにイスラエルにしてくださったことを思い起こし、イスラエルの神こそ比類なきお方であると告白し、その神をほめたたえたのです。

次に、ダビデは、神が地上の民族の中から特にイスラエルを選び、その民をエジプトから救い出し、その上にご自身の名を置かれたことを覚えて、その神を賛美しています(23)。そして、神がイスラエルを選ばれたのは、永遠に彼らを立て、彼らの神となるためであった、と言っています(24)。

それは私たちも同じです。私たちもまた、地上の諸民族の中から選ばれ、キリストを信じて神の民とされた者です。私たちはイエス・キリストを通してこのイスラエルの神を「天の父」と呼べるようになりました。このお方は、永遠に私たちの神なのです。何という恵みでしょうか。ダビデがこの神を心から賛美したように、私たちもイエス・キリストを通して、この神に感謝と賛美をささげようではありませんか。

最後に、25~29節をご覧ください。ダビデはこう言っています。「今、神である主よ。あなたが、このしもべとその家についてお語りになったことばを、とこしえまでも保ち、お語りになったとおりに行ってください。こうして、あなたの御名がとこしえまでも大いなるものとなり、『万軍の主はイスラエルを治める神』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立ちますように。イスラエルの神、万軍の主よ。あなたはこのしもべの耳を開き、『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。今、神、主よ、あなたこそ神です。あなたのおことばは、まことです。あなたはこのしもべに、この良いことを約束してくださいました。今、どうか、あなたのしもべの家を祝福して、御前にとこしえに続くようにしてください。神である主よ、あなたがお語りになったからです。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家がとこしえに祝福されますように。」

ダビデは、イスラエルの神、万軍の主が、彼のために家を建てると約束されたことを思い起こし、それが成就するようにと祈っています。27節には、「それゆえ、このしもべは、あなたに祈る勇気を得たのです」と言っています。なにゆえ、ダビデは祈る勇気を得たのでしょうか。「それゆえ」です。27節の『』にある主のことばを受けてのことです。「わたしがあなたのために一つの家を建てる」と言われたからです。つまり、ダビデの祈りは、主のみことばと約束に基づくものだったのです。それが主の御前に祈る勇気となったのです。私たちも主のみことばの約束に基づいて祈らなければなりません。主のみことばは真実であり、必ず成就します。そう堅く信じて、神の祝福を大胆に祈り求めましょう。信仰による祈りには力があるのです。