Ⅱサムエル記14章

 Ⅱサムエル記14章から学びます。

 Ⅰ.ヨアブの計画(1-17)

 1~17節をご覧ください。まず7節までをお読みします。「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブサロムに向いていることを知った。ヨアブはテコアに人を遣わして、そこから知恵のある女を連れて来て、彼女に言った。「喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間喪に服している女のようになって、王のもとに行き、王にこのように話してください。」ヨアブは彼女の口にことばを与えた。テコアの女は、王に話したとき、地にひれ伏して礼をして言った。「お救いください。王様。」王は彼女に言った。「いったい、どうしたのか。」彼女は答えた。「実はこの私はやもめで、夫は亡くなりました。このはしためには二人の息子がおりましたが、二人が野原でけんかをして、だれも二人を仲裁する者がいなかったので、一人が相手を打ち殺してしまいました。すると、お聞きください、親族全体がこのはしために詰め寄って、『兄弟を打った者を引き渡せ。彼が殺した兄弟のいのちのために、彼を殺し、この家の世継ぎも消し去ろう』と言います。残された私の一つの火種を消して、夫の名だけではなく、残りの者までも、この地に残さないようにするのです。」

「王の心がアブサロムに向いている」とは、前回見たように、アムノンが殺されたことで王がアブサロムに敵意を向けているということです。ヨアブはそのことを知り、テコアに人を遣わします。何のためかというと、ダビデとアブサロムの関係を修復するためです。でも、どうしてヨアブはダビデとアブサロムの関係を修復しようと思ったのでしょうか。実はこの「王の心がアブサロムに向いていることを知った」とは、ただ敵意をいだいていることを知ったということではなく、ダビデがアブサロムとの和解を願いつつも、それができずにジレンマに陥っていることを知って、ということです。新改訳2017や口語訳ではそのように訳しています。ヨアブはそのことを知り、事態を打開する案を考えたのです。それがテコアに人を遣わすことでした。

テコアは、ベツレヘムとヘブロンの間にある町です。そこから知恵のある女を連れて来て、彼女にこう言いました。「喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間喪に服している女のようになって、王のもとに行き、王にこのように話してください。」(2-3)そして、彼女の口にことばを与えました。

当時のイスラエルでは、王が裁判官の役目も果たしていました。地方の裁判官が自分の懇願を聞き入れてくれないとき、王に直訴することができました。彼女の訴えの内容は、次のようなものでした。すなわち、自分は既に夫はなくなっているが、二人の息子が野原でけんかをし、一方が他方を殺してしまった。それで、親族の者が殺害した者を引き渡し、死刑にしなければならないというがいったいどうしたら良いかということです。そんなことをしたら残された自分の息子の火種が消え、家系までも残らなくなってしまいます。そのようなことがないようにしてほしいというのです。

それに対してダビデは何と言いましたか。8節から11節までをご覧ください。「王は女に言った。「家に帰りなさい。あなたのことで命令を出そう。」テコアの女は王に言った。「王様。刑罰は私と私の父の家に下り、王様と王位は罰を免れますように。」王は言った。「あなたに文句を言う者がいるなら、その人を、私のところに連れて来なさい。もう二度とあなたを煩わすことはなくなる。」彼女は言った。「どうか王様。あなたの神、主に心を留め、血の復讐をする者が殺すことを繰り返さず、私の息子を消し去らないようにしてください。」王は言った。「主は生きておられる。あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない。」」

ダビデは、このことで彼女の息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない、と宣言しました。もしこのことで文句を言う者がいるなら、その人を、自分のところに連れて来るように・・と。

テコアの女は、ダビデの口からこの言葉が出てくるのを待っていました。すなわち、「あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない」という言葉です。その言葉を元に彼女は、いよいよ本題に入ります。12~17節です。

「女は言った。「このはしために、一言、王様に申し上げさせてください。」王は言った。「言いなさい。」女は言った。「あなた様はどうして、神の民に対してこのようなことを計られたのですか。王様は、先のようなことを語って、ご自分を咎ある者としておられます。王様は追放された者を戻しておられません。私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。しかし、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます。今、私が、このことを王様に話しに参りましたのも、人々が私を脅したからです。このはしためは、こう思いました。『王に申し上げよう。王は、このはしための願いをかなえてくださるかもしれない。王は聞き入れて、私と私の息子を神のゆずりの地から消し去ろうとする者の手から、このはしためをきっと助け出してくださるから。』このはしためは、『王様のことばは私の慰めとなるに違いない』と思いました。王様は、神の使いのように、善と悪を聞き分けられるからです。あなた様の神、主が、あなたとともにおられますように。」」

彼女の訴えは、もし殺人者の息子を赦すというなら、追放されたままになっているアブサロムも赦すべきではないかということでした。というのは、人のいのちは水のようなものだからです。ここに「私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです」とは、このことです。人のいのちは、地面にこぼれ落ちたらもう集めることができない水のようにはかないものであるということです。遅らせると手遅れになってしまいます。取り返すことができなくなってしまいます。だから、手遅れになる前にアブサロムを赦すべきです。なぜなら、ダビデもそうでしたが、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように計画しておられるからです。ダビデ王に神の使いのように、善と悪とを聞き分ける能力が備わっているので、きっとこのことを理解してくださるはずです。事実、ダビデ王は自分のためにあわれみの判断を下されました。自分は王の判断力を信じたので、王から慰めのことばを得るためにこうしてやって来たのですと。すなわち、テコアの女は、そのあわれみの判決を自分自身にも適用するようにと迫ったのです。

このように知っていることと、それを実践することとは、別の問題です。聖書の真理を理解していることと、それを自分の生活に適用することとは、別の問題なのです。神の愛を理解したからといっても、それを自分の生活に適用できるかというとそうではありません。私たちはただ聖書を理解するだけでなく、それを自分の生活に適用しなければならないのです。神の愛と赦しを受け取り、その神の愛に生きなければなりません。神は私たちを愛し、そのすべての罪を赦してくださいました。もう過去の罪に悩む必要はありません。トラウマに捉われなくてもいいのです。私たちに必要なのは、この神の愛と赦しの約束に堅く立つことです。キリストにある新しい人生を歩むことなのです。

 Ⅱ.ダビデの赦し(18-22)

するとダビデは、この女の背後にヨアブの入れ知恵があったことを見抜いて、彼女にこう言いました。18~19節前半をご覧ください。「王は女に答えて言った。「私が尋ねることに、隠さずに答えなさい。」女は言った。「王様、どうぞお尋ねください。」王は言った。「これはすべて、ヨアブの指図によるのであろう。」」

すると女は答えて言いました。19節後半~20節です。「「王様、あなたのたましいは生きておられます。王様が言われることから、だれも右にも左にもそれることはできません。確かに王様の家来ヨアブが私に命じ、あの方がこのはしための口に、これらすべてのことばを授けたのです。王様の家来ヨアブは、事の成り行きを変えるために、このことをしたのです。あなた様には、神の使いの知恵のような知恵があり、地上のすべてのことをご存じですから。」」

 そこでダビデはヨアブを呼び寄せて言いました。そして、彼の言葉を受け入れます。21~22節をご覧ください。「よろしい。その願いを聞き入れた。行って、若者アブサロムを連れ戻しなさい。ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福のことばを述べて言った。「今日、このしもべがご好意を受けていることが分かりました。王様。王が、このしもべの願いを聞き入れてくださったのですから。」」

ヨアブは地にひれ伏し、王に礼をして、祝福のことばを述べました。彼はアブサロムの帰還があたかもダビデにとっての利益ではなく、自分にとっての利益であるかのように喜びました。元々これはダビデの心がアブサロムに向かっているのを見たヨアブが、自分に出来ることとして考えたことでした。そう思いながらもダビデがなかなか実践に移せないでいるのを見て、テコアの女を用いて解決を図ろうとしたのです。それを今、自分のことかのように喜びました。こうしたヨアブの心構えには、家来として大いに学ぶものがあります。

 かくして、アブサロムはエルサレムに戻されることになります。23~24節をご覧ください。「ヨアブはすぐゲシュルに出かけて行き、アブサロムをエルサレムに連れて来た。王は言った。「あれは自分の家に行ってもらおう。私の顔を見ることはならぬ。」アブサロムは自分の家に行き、王の顔を見ることはなかった。」

 ヨアブは王の決定を大いに喜び、直ちにゲシュルに行ってアブサロムをエルサレムに連れて来ました。しかしダビデは、アブサロムにエルサレムへの帰還を許しただけで、自分と面会することまでは許しませんでした。アブサロムは自分の家に引きこもったままで、王の顔を見ることができなかったのです。どうしてでしょうか。

 ダビデは、心の中では彼を赦していなかったからです。いや、赦すべきではないと思っていたのでしょう。そんなに簡単に赦しては王としての面子が立たないと思ったのかもしれません。しかしダビデは自分がバテ・シェバとの姦淫という罪を言い表わしたとき、神がその罪を赦してくださったので、神との交わりを回復することができたはずです。それなのに彼はアブサロムを赦すことができませんでした。もっと厳しくすべきだと考えたのです。こうしたダビデの態度には一貫性がありません。彼は厳しく対処しなければならないときに優柔不断な態度を見せ、赦しの心が必要な時には厳しい態度で接しました。なんともちぐはぐです。それがまた大きな問題を引き起こす火種となります。

 使徒パウロはこう言っています。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:31)

私たちは、キリストによって罪を赦された者です。神が罪を知らない方を私たちのために罪とされたのは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。大切なのは、私たちも赦された者、神と和解させられた者であるということを覚えることです。あたかも自分が義であるかのように錯覚し、他の人をさばくことがあるとしたら、それは神のみこころではありません。神が私たちに願っておられることは、私たちが赦されたように、私たちも互いに許し合うことなのです。

Ⅲ.ダビデとアブサロムの和解(25-33)

最後に25~33節をご覧ください。27節までをお読みします。「さて、イスラエルのどこにも、アブサロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった。彼は毎年、年の終わりに、頭が重いので髪の毛を刈っていたが、刈るときに髪の毛を量ると、王の秤で二百シェケルもあった。アブサロムに、三人の息子と一人の娘が生まれた。その娘の名はタマルといって美しい女であった。」

アブサロムは、かつてサウルがそうであったように、容姿がすぐれていました。彼は後にダビデから王位を奪おうとしますが、容姿も民の心をつかむのに役立ったことでしょう。髪の毛は200シェケルもありました。これは約2.8キログラムです。彼には3人の息子と一人娘がいました。その娘には「タマル」という名が付けられました。アムノンによって犯された美しい妹と同じ名です。よほど妹のことを愛し、彼女のことが忘れられなかったのでしょう。

ここにはアブサロムの肉体的な美しさが記されてありますが、その信仰や知恵に関する言及は一つもありません。肉体的な美しさもまた神からの賜物ですが、多くの場合、それが高慢となって自分の身に滅びを招くことになります。アブサロムもその長い髪が破滅の一因となりました。この後のところで、彼は逃亡する際に、頭を樫の木に引っ掛け、宙づりになったところを、ヨアブによって殺されたことが記されてあります。(Ⅱサムエル18:9~15)。

Ⅰペテロ3章3~4節に「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」とありますが、私たちは自分の外見ではなく、心の中の人柄を誇る者でありたいと思います。

最後に、28~33節をご覧ください。「アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった。アブサロムは、ヨアブを王のところに送ろうとして、ヨアブのもとに人を遣わしたが、彼は来ようとしなかった。アブサロムはもう一度、人を遣わしたが、ヨアブは来ようとしなかった。アブサロムは家来たちに言った。「見よ。ヨアブの畑は私の畑のそばにあり、そこには大麦が植えてある。行って、それに火をつけよ。」アブサロムの家来たちは畑に火をつけた。ヨアブは立ち上がり、アブサロムの家に来て、彼に言った。「なぜ、あなたの家来たちは私の畑に火をつけたのですか。」アブサロムはヨアブに答えた。「ほら、私はあなたのところに人を遣わし、ここに来るように言ったではないか。私はあなたを王のもとに遣わし、『なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでした』と言ってもらいたかったのだ。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」ヨアブは王のところに行き、王に告げた。王はアブサロムを呼び寄せた。アブサロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。」

アブサロムは2年間エルサレムに住んでいましたが、王の顔を見ることはありませんでした。それで彼は王へのとりなしを頼もうとして、ヨアブのところに人を遣わしましたが、ヨアブは来ようとしませんでした。何度遣わしても来ようとしなかったので、業を煮やしたアブサロムは非常手段に訴えました。自分の家来たちに、ヨアブの畑の大麦に火をつけさせたのです。驚いて駆けつけたヨアブが、なぜ自分の畑に火をつけたのかと言うと、アブサロムは言いました。何度もあなたのところに人を遣わして、ここに来るようにと言ったにもかかわらず、来なかったからだと。これでは何のためにゲシュルから戻って来たのかわからない。王の顔を拝したい。もし自分に咎があるなら、王に殺されても構わないと。つまり、はっきりしてほしいということです。ヨアブがこのことをダビデに告げると、ダビデはアブサロムを呼び寄せました。そして、アブサロムがダビデのところに来ると、アブサロムはダビデの前でひれ伏して礼をし、ダビデはアブサロムに口づけしました。つまり、アブサロムを赦し和解したのです。実にあの事件、あの事件とは、アブサロムが兄弟アムノンを殺害してゲシュルの地に逃亡したという出来事ですが、あれから5年後のことです。

しかし、この和解は真実なものではありませんでした。というのは、次の章を見るとわかりますが、アブサロムはダビデから王位を奪おうとする工作を始めるからです。彼はイスラエルの民の心を自分に向けさせようとします。いったいなぜアブサロムは和解できなかったのでしょうか。それは、ダビデがアブサロムを蔑ろにしたからです。彼をゲシュルから連れ戻したのに彼と会おうともしませんでした。そのため彼はいったい何のために戻って来たのかわからなかったし、そのことでヨアブがきちんとした対応を取らなかったので、ヨアブの畑に火をつけたほどです。表面上は和解したかのようでも、実際にはアブサロムの中に苦々しい思いが残っていたのです。

ここから私は、親に対するパウロの勧めを思い出します。エペソ6章4節には、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。「怒らせない」とは、子どもを自由気ままに育てること、甘やかすこと、子どもに媚びることではありません。「怒らせる」(パロルギゾー)とは、文字通りの意味では、「何かによって怒らせる、挑発する」という意味です。英語訳ではirritateしない(いらいらさせない)となっています。コロサイ3章21節に、同じ命令の理由として、「気落ちさせないためです」と説明しています。つまり、「子どもをおこらせてはいけません」というのは、子どもたちが何らかの理由で「気落ちする」ことが無いように配慮することなのです。ダビデはアブサロムと会おうとしなかったことで彼を怒らせました。また、主の教育と訓戒によって育てることもしませんでした。彼はアブサロムに5年間も自分に会えなくするという、過度の懲らしめを与えてしまったのです。そのことで彼を気落ちさせてしまいました。

私たちはそのようなことがないように気をつけなければなりません。それは親子関係ばかりでなく、夫婦関係やすべての家族関係、また、教会や職場の人たちとの関係、さらには地域社会の人たちとの関係においても言えることです。言っていることとやっていることが違う一貫しない態度や不当な言動は、周りの人々にフラストレーションを与えることになります。子どもたちを怒らせてはなりません。そのためにはまず私たちが神のことばによって整えられ、みことばに従って生きることが求められます。そこに聖霊が働いてくださるからです。神の聖霊によって、私たちが神のしもべとしてふさわしく整えられるように祈りましょう。