Ⅱサムエル記22章

 Ⅱサムエル記22章に入ります。これは、ダビデの賛歌です。彼が晩年になり、自分の生涯をふりかえり、そこに主がおられたことを知り、主を讃美している歌です。この歌は、詩篇18篇とほとんど同じです。ここに書かれたものが原型で、それが礼拝用に一部修正されて詩篇18篇になったものと思われます。

 Ⅰ.祈りに答えてくださる主(1-7)

 まず、1~7節をご覧ください。「1 主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。2 彼は言った。「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、3 身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。4 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。5 死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。6 よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。7 私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」

これは、主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼が主に歌った賛歌です。

2~4節の中でダビデは、九つの神の性質を挙げ、それゆえに神を称えています。それは主は巌であり、砦、救い主、巌なる神、砦、救いの角、やぐら、逃れ場、そして救い主であるということです。特に注目していただきたいことは、これらの神の性質を挙げる前に、「わが巌」とか「わが砦」とあるように、必ず「わが」という語が付けられていることです。つまり彼は単に神がそのような方であると知っていたというだけでなく、自分の体験として知っていたということです。それほど身近な存在として感じていたのです。使徒パウロは2コリント1章10節でこのように語っています。「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」パウロも、自分の経験として、神は救い主であると知っていました。だから、これからも救い出してくださると信じることができ、この神に希望を置くことができたのです。私たちに必要なのは、私たちの神がどのような方であるかを体験として知ることです。そして、この方に身を避けることです。そのことによって神をもっと身近な存在として感じ、この神に望みを置くことができるようになります。

次にダビデは、答えられた祈りを思い起こして、神をたたえています。5~7節です。「5 死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。6 よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。7 私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」

ダビデは何度も絶望を経験してきました。ここにはそれを4つの言葉で表現しています。それは「死の波」、「滅びの激流」、「よみの綱」、「死の罠」です。つまり、死の恐怖におののくこともが何度もあったということです。しかし、その苦しみの中で彼が主を呼び求めると、主はその宮で彼の祈りを聞かれ、助け出してくださいました。

どんな信仰の偉人であっても、例外なしに信仰の試みに会います。皆さんはハドソン・テーラーという信仰の偉人を知っていますか?ハドソン・テーラーは、チャイナ・インランド・ミッション(中国奥地宣教教会)の創設者として知られています。また、自らも宣教師として中国に出かけ、そこで大きな働きをしました。そんなテーラーも、宣教活動のきびしさの中で挫折し、落ち込むことがありました。

毎日、罪と失敗におののきながら力不足を感じていました。「強い信仰を持つにはどうすればいいのだろうか」と考えていたとき、英国にいる友人のマッカーシーから手紙が届きました。彼は、テーラーが悲嘆に暮れていることも知らずに、こう書いて来ました。

「ハドソン、信仰を強めるためには、どうしたらよいのかと考えたことはないか。この間、祈っていて示されたことを分かち合おうと思う。我々は、信仰を強めようとして、つい頑張って努力しようとするが、そうではない。努力するのではなく、真実なお方に寄りかかること。これが信仰を強くする秘訣なんだ。」

神が友人の手紙を通して語ってくださったようでした。この手紙によって信仰の神髄に触れたテーラーは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(2テモテ2:13)というみことばを思い出し、再び信仰の高嶺に向かって登り始めることができたのです。

私たちも、今までに主が私たちの祈りに答えってくださったことを思い起こし、主に感謝し、主の御名をたたえましょう。それが将来を力強く生きる秘訣です。これまであなたを支えてくださった神は、これからもあなたを支え続けてくださいます。「ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。」のです。

 Ⅱ.ケルビムに乗って来られる主(8-16)

次に、8~16節までをご覧ください。「8 地は揺るぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。主が怒られたからだ。9 煙は鼻から立ち上り、その口から出る火は貪り食い、炭火は主から燃え上がった。10 主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。11 主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。12 主は、闇をご自分の周りで仮庵とされた。水の集まり、濃い雲を。13 御前の輝きから、炭火が燃え上がった。14 主は天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。15 主は矢を放って、彼らを散らし、稲妻を放って、かき乱された。16 こうして、海の底が現れ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒い息吹によって。」

ここには、主がダビデの祈りに答えて自然界に介入され、敵を打ち破られた様子が記されてあります。8節には、「地がゆるぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。」とあります。主が怒られたからです。その主の怒りがどのようなものであったのかが、16節までずっと説明されています。

しかし、これは単に主が自然界に介入されダビデを救い出したというだけでなく、将来主が再臨される時に起こることを預言しているのです。たとえば、10節には「主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。」とあります。また、11節には「主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。」とあります。これも主が再臨される時のことです。というのは、黙示録19:11にもその時のことが預言されていますが、それと同じ内容となっているからです。黙示録19:11には「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。」とあります。この記述からキリストは白い馬に乗って来られると一般的に考えられていますが、これは文字通りの白い馬のことではなく、実はこのケルビムのことです。このケルビムについてはエゼキエル書1章にその姿が描写されていますが、その姿は人間のような姿をしていた、とあります。しかし、四つの顔と四つ翼を持っていたとあります(エゼキエル:5-6)。何とも言えない姿ですが、これがケルビムです。そういえば、イスラエルが幕屋を作るようにと神から示されたとき、契約の箱を覆う「宥めの蓋」の両端に、このケルビムを作るようにとありました。その二つのケルビムは両翼を上の方に広げ、向かい合うようにし、宥めの蓋の方を向くようにしました(出エジプト記25:17-22)。そこに神のことばであられるキリストがおられるからです。主はそのケルビムの間からご自身のことばを語られたのです。ですから、これらのケルビムはキリストに仕える天使なのです。そして、キリストはやがてこのケルビムの翼の上に自らを現わされるのです。

そしてキリストがケルビムに乗って再び来られるとき、神に敵対する者たちを厳しくさばかれるのです。それが13~16節にある描写です。「御前の輝きから、炭火が燃え上がった。主は天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。主は矢を放って、彼らを散らし、稲妻を放って、かき乱された。こうして、海の底が現れ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒い息吹によって。」

つまり、神が今までダビデのためになされた解放のみわざは、将来神がキリストを信じる者たちのためにしてくださる解放のわざの「型」となっているのです。神はダビデが死の苦しみにあった時そこに介入して彼を救い出されたように、この歴史に介入され、ご自身の民であるクリスチャンを完全に解放してくださるのです。新約の時代に生きている私たちは、過去から学び将来を確信するという特権が与えられています。キリストに信頼する者たちの勝利は保証されていることを覚え、キリストの再臨を確信して、信仰をもって今の時を生きていこうではありませんか。

 Ⅲ.義に報いてくださる方(17-25)

 次に、17~25節をご覧ください。「17 主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました。18 主は、力ある敵から私を救い出されました。私を憎む者どもからも。彼らは私より強かったのです。19 私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども、主は私の支えとなられました。20 主は私を広いところに連れ出し、私を助け出されました。主が私を喜びとされたからです。21 主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。22 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。23 主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。24 私は主に対して全き者。自分の咎から身を守ります。25 主は私の義にしたがって顧みてくださいました。御目の前の、私のきよさにしたがって。」

ここでダビデは、再び自分の時代に戻り、主がどのようにして自分を救ってくださったのかを語っています。まず主は、高い所から、御手を伸ばして捕らえ、大水から、彼を引き上げてくださいました。高い所とは、主がおられる天のことを指しています。そこから彼のいるところに下ってくださり、御手を差し伸べて彼を捕らえてくださったのです。

「大水」とは比喩的な表現で、数々の苦難を指しています。そのようにして主は、力ある敵から彼を救い出してくださったのです。そして、広いところへ連れ出し、彼を助け出されました。「広いところ」とは、安全な場所、安心できる場所のことです。そこへ連れ出してくださったのです。

これが、私たちの主イエスがなしてくださることです。ローマ8章31節で、「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。神が私たちの味方であるなら、だれも私たちをキリストにある神の愛から引き離すことはできません。主があなたのためにしてくださった数々の守りと救いのみわざを思い出し、ダビデの賛歌に合わせて主にほめ歌を歌いましょう。

21節~のところをご覧ください。ダビデは、「主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。」と言っています。また22節では「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。」と言っています。23節では「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。」と言っています。24節では「私は主に対して全き者」とまで言っています。それゆえに主は、彼を顧みてくださったというのです。

どういうことでしょうか。ご存知のように、彼は数々の罪を犯しました。バテ・シェバとの姦淫やウリヤの殺害などはその最たるものです。それはダビデだけではなく、すべての人に言えることです。すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず・・・(ローマ:23)とあるように、イエス様以外だれも自分が全き者であると言える人はいません。それなのに彼はここで自分は主の道を守り、神に対して悪を行わなかったと言っているのです。そして、その義に従って、主は自分に報いてくださったというのです。

これは彼が全く罪を犯さなかった完全な人であったということではありません。ダビデはもちろん、その生涯の中で数々の罪を犯しました。失敗も多くしました。けれどもそうした個々の罪や失敗ではなく、全生涯を通じて彼はいつも主に喜ばれる歩みを目指し、義と聖を追い求め、罪と悪から身を守ろうとしました。主を愛していたからです。そのことが、「私の義」という言葉に現われているのです。ですから、罪を犯したとき彼は熱心に悔い改めたのです。

これは私たちにも言えることです。ダビデのように生涯主を愛し、主に喜ばれる生活を求めて生きる人には、その義にしたがって顧みてくださいます。確かに私たちは不完全な者で、日々罪を犯す者ですが、その罪を悔い改め、その全生涯の中で主に喜ばれる歩を目指し、義と聖を追い求め、罪と悪から遠ざかるなら、主はその義に報いて顧みてくださるのです。

Ⅳ.すべて主に身を避ける者の盾(26-31)

次に、26~31節までをご覧ください。「26 あなたは、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き方。27 清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方。28 苦しむ民を、あなたは救われますが、御目を高ぶる者に向け、これを低くされます。29 主よ、まことにあなたは私のともしび。主は私の闇を照らされます。30 あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。31 神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。」

神が人間にどのような報いを与えてくださるかは、人間が神に対してどのような態度を取るかによって決まります。それが、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き、清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方」という聖句の意味です。

ダビテは神をさまざまなものにたとえて御名をほめたたえています。29節には「主よ、まことにあなたは私のともしびで、主は私の闇を照らされます。」とあります。主は「ともしび」であられます。私たちに方向性を示し、歩むべき道を示してくださる方なのです。

また、30節には「あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。」とあります。「防塞」とか「城壁」とは戦いをイメージしていることばですが、さまざまな苦難や困難と解釈することができます。つまり、主は私たちに防塞を突き破り、城壁を跳び越える力を与えてくださるということです。私たちは神の力によってさまざまな困難に勝利することができるのです。

また、主は、すべて主に身を避ける者の盾です。31節に「神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。」とあります。どのようにして主に身を避けるのでしょうか。完全で、純粋な主のことばに信頼して、です。それは主ご自身が完全で、純粋であることを表しています。

私たちの人生には、自分の力だけではどうすることもできないような試練がやってきます。そのような時に必要なのは信仰によって超自然的な力を受け、それを武器として戦うことです。その武器とは、エペソ6章にある神が備えておられる武具のことですが、中でも御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。神のことばは純粋であり、すべて主に身を避ける者の盾なのです。日々、主のことばである聖書を読み、祈りと信仰によって主からの語りかけに従順に歩むなら、自分の思いをはるかに超えた主の力に満たされることができます。

Ⅴ.神は力強い砦(32-46)

次に32~46節までをご覧ください。「32主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神のほかに、だれが岩でしょうか。33 神は私の力強い砦。私の道を全きものとされます。34 主は、私の足を雌鹿のようにし、高い所に立たせてくださいます。35 戦いのために私の手を鍛え、腕が青銅の弓も引けるようにされます。36 あなたは御救いの盾を私に下さいます。あなたの謙遜は私を大きくします。37 あなたは私の歩みを広げられ、私のくるぶしはゆるみません。38 私は、敵を追ってこれを根絶やしにし、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。39 私が彼らを絶ち滅ぼし、打ち砕いたので、彼らは立てず、私の足もとに倒れました。40 あなたは、戦いのために私に力を帯びさせ、向かい立つ者を、私のもとにひれ伏させました。41 あなたは、敵が、私を憎む者どもが私に背を見せるようにされました。私は彼らを滅ぼしました。42 彼らが主に目を留めても、救う者はなく、答えもありませんでした。43 地のちりのように、私は彼らを打ち砕き、道の泥のように、粉々に砕いて踏みつけました。44 あなたは、民の争いから私を助け出し、国々のかしらとして保たれました。私の知らなかった民が私に仕えます。45 異国の人々は私にへつらい、耳で聞くとすぐ、私に聞き従います。46 異国の人々は打ちしおれ、砦から震えて出て来ます。」

このような神がほかにいるでしょうか。私たちの神のほかに、だれが岩でしょうか。主は力強い砦です。私たちの道を全きものに、まっすぐにしてくださいます。主は、私たちの足を雌鹿のようにし、高いところに立たせてくださいます。「雌鹿のように」とは、崖をぴょんぴょん飛び跳ねて、高い所に登っていく様を表しています。それは戦いに勝利するための資質でもあります。35節の「戦いのために私の手を鍛え」とありますが、それも同じです。それによって青銅の弓も引けるようになります。

ダビデが御救いの盾をいただいたのは、主の恵みによるものでした。36節にある「あなたの謙遜は私を大きくします」と言っているのはそのことです。主は人の姿を取ってこの地に下ってくださるほど謙遜であられたので、ダビデは救いを受けることができました。

37節には「あなたは私の歩を広げられ」とありますが、これは大またで歩けるようになったという意味です。つまり、自由に行動できるようになったということです。

私たちも主イエスの謙遜を思い起こしましょう。キリストは神であられる方なのに神としてのあり方を捨てることはできないとは考えないで、自分を卑しくし、しもべの姿をとられ、自らを低くして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。その謙遜のゆえに、私たちは救いを受けることができたのです。何という恵みでしょうか。

そればかりではありません。37~43節には、ダビデは敵を追ってこれを根絶やしにし、彼らを打ち砕いたので、彼らは立てず、ダビデの足もとに倒れました。これは主が戦いのためにダビテを強くし、ダビデに立ち向かう者たちを、彼の足もとにひれ伏させてくださったからです。その結果、敵は道の泥のように踏みつけられるだけでした。

また44~46節には、ダビデが異国の国々をも治める権威を得たことが記されてあります。これらのことはすべて主の恵みによってなされたことでした。

Ⅵ.ほむべきかな、わが岩(47-51)

最後に47~51節を見て終わります。「47主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。48 この神は私のために、復讐する方。諸国の民を私のもとに下らせる方。49 神は、敵から私を携え出される方。あなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から私を救い出してくださいます。50 それゆえ、主よ、私は国々の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います。51 主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとその裔に、とこしえに恵みを施されます。」」

最後にダビデは、「主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神」と力一杯主をほめたたえています。私たちの主は死んだ神ではありません。生きておられる神です。生きていて、私たちを敵の手から救い出してくださる方なのです。

それゆえ、ダビデは国々の間で主をほめたたえています。主の御名をほめ歌うのです。私たちも同じです。私たちの主は生きておられます。生きていて、私たちを不法を行う者から救い出してくださいます。主こそ、わが神、わが岩、わが救いの岩です。それゆえ、私たちも国々の間で主をほめたたえるのです。

主は、預言者ナタンを通してダビデに与えた契約を守り、とこしえに恵みを施される方です。ダビデは、「主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」と言っています。そのダビデのすえとして誕生するのが、主イエスです。

私たちの信じる神は、契約を守ってくださる方です。なんと素晴らしいことでしょうか。それゆえ、ダビデのように、私たちも主にほめ歌を歌おうではありませんか。