今日は、エレミヤ書3章6~18節までから「背信の子らよ、立ち返れ」というとタイトルでお話します。エレミヤは3章1節で、「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものとなったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。」と問いかけました。それに対する答えは、No , but Yesでした。神の律法ではNoです。しかし、神は律法を越えたお方です。律法では、他の男たちと姦通した妻を去らせ、彼女がほかの男のものとなったら、先の夫のもとに戻ることはできませんでした。汚れているとされたからです。しかし、神はそのように汚れた者でも、もう一度受け入れてくださるというのです。それは神が律法をないがしろにしているというのではなく、神ご自身がそれを処理してくださったからです。罪は罪として処理しなければなりませんが、その罪の処理を、罪を犯した本人ではなく、神の御子イエス・キリストの十字架で負わせてくださったのです。ですから、この御子を信じる者はそのすべての罪がきよめられ、全く罪を犯したことがない者とみなされるのです。すごいですね。これが神のあわれみです。ですから、もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものとなっても、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださるのです。受け入れてくださる。だから、「わたしに帰れ」と言われるのです。
今回はその続きです。神は、背信の子らに、立ち返れ、と呼び掛けておられます。12節に「背信のイスラエルよ、帰れ。」とあります。また、14節にも「背信の子らよ、立ち返れ」とあります。ここでのキーワードは「帰れ」です。どんなに罪に汚れていても、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださいます。神はいつまでも怒っておられる方ではありません。神は恵み深いのです。ですから、私たちは自分の咎を素直に認め、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。
きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、彼らが罪に陥った原因です。それは彼らが、歴史から何も学ばなかったからです。第二に、神に立ち返る理由ですね。それは、主は恵み深い方であられるからです。第三に、その結果です。罪を悔い改めて神に立ち返る者に、神は回復と祝福を与えてくださいます。
Ⅰ.歴史から学べ(6-10)
まず、イスラエルが神に背くようになった原因を見てみましょう。6~10節をご覧ください。「6 ヨシヤ王の時代に、主は私に言われた。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。7 わたしは思った。彼女がこれらすべてを行った後で、わたしに帰って来るだろうと。しかし、帰っては来なかった。そして裏切る女、妹のユダもこれを見た。8 背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も行って淫行を行ったのをわたしは見た。9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した。10 このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち返らず、ただ偽ってそうしただけだった-主のことば。」
「ヨシヤ王の時代」、これが、エレミヤ書が書かれた背景にあるものです。具体的には1章2節にありますが、「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことで」す。それはBC627年のことでした。その年にエレミヤは預言者として召命を受けるのです。ですから、この3章6節の出来事は、それから数年後のことです。おそらくBC625年頃のことでしょう。その時、主がエレミヤに言われました。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。」
この「イスラエル」とは、北王国イスラエルのことです。イスラエル王国はソロモン王の死後、北と南に分裂しました。北王国イスラエルと南王国ユダです。BC931年のことです。その北王国イスラエルはここで「背信の女」と呼ばれています。彼らはあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行いました。これは偶像礼拝のことです。霊的姦淫ですね。しかし主は、イスラエルが悪行の限りを尽くした後で、ご自身のもとに帰って来るだろうと思っていましたが、彼らは帰って来ませんでした。その結果どうなったでしょうか。8節にこうあります。「背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。」これはBC722年に起こったアッシリヤ捕囚と呼ばれている出来事です。北王国イスラエルはアッシリヤの攻撃を受けて滅び、捕囚の民として連れて行かれたのです。
問題はそれを見ていた南王国ユダです。ここでは南王国ユダが、北王国イスラエルの妹として描かれています。その妹のユダが、姉のイスラエルがたどった歩みを見ても、悔い改めることをしませんでした。8節には「しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も淫行を行った」とあります。この「恐れもせず」とは、神様を恐れもしなかった、ということです。神様を恐れない者は罪を止めることをしません。9節には、「彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した」とあります。すなわちユダはイスラエルと同じように、偶像礼拝を行ったのです。ですから10節で彼らは「裏切る女」と呼ばれているのです。姉の北王国イスラエルは「背信の女」でしたが、妹の南王国ユダは「裏切る女」です。背信の女もひどいですが、「裏切る女」もひどいです。いや、背信よりも裏切りの方がひどいでしょう。なぜなら「背信」とは神に背を向けることですが、「裏切り」とは顔と顔を合わせていながら、なおかつ背信行為をすることだからです。それが10節で言われていることです。彼らは「このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち帰らず、ただ偽ってそうしただけだった」のです。どういうことかというと、彼らは一応エルサレムの神殿で礼拝をしていましたが、それはただの形だけのものであって、心からのものではなかったということです。一応エルサレムの神殿に身を置いていましたが、そこに身を置きながら、同時に偶像を拝んでいたのです。それはちょうどクリスチャンが一応教会には来てはいるけれど、そこに心が全く伴っていないようなものです。教会には来るけれどもそれは極めて形式的であり、儀式的なものであって、心は全く別のところにあるようなものです。何とかその時間をやり過ごせばいい、とりあえず教会に通うといった感じです。心のすべてをもって主に立ち返るのではなく、ただ偽ってそうしているだけだったのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが歴史から何も学ばなかったことです。妹のユダは、姉のイスラエルがたどった道を見て、神に背くとどうなるかを学ぶべきでした。というのは、7節に「妹のユダもこれを見た」とありますが、彼らは姉の北王国イスラエルが主に背いた結果どうなったのかを見ていたからです。北王国イスラエルは神に背いた結果、アッシリヤによって滅ぼされ、捕囚の民として連行されました。BC722年のことです。あれから100年が経っていました。それは南ユダにとって大きな警告となるはずだったのに、学ぶべき教訓がたくさんあったにもかかわらず、彼らは何も学ばなかったのです。それどころか、妹のユダもまた偶像礼拝にふけり、聖なる目的のために与えられた約束の地を汚してしまいました。確かにヨシヤ王の時代(BC640~609年)、一時的なリバイバルが起こりましたが、それさえも表面的な宗教改革であって、内面的な悔い改めには至らなかったのです。その結果、彼らもまた離縁状を渡されることになります。それがBC587年のバビロン捕囚です。
それは南ユダだけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも過去の歴史から学ぶべきです。「人が歴史から学んだことがあるとすれば、それは、人は歴史から何も学ばないということである」と言った人がいますが、その通りだと思います。私たちは過去の歴史から学ぼうとしません。
たとえば、今オミクロン株でコロナウイルス感染が爆発的に拡大していますが、これは今に始まったことではなく、これまでの歴史の中でも何回も繰り返されてきていることです。たとえば、100年前に「スペイン風邪」が流行し、世界中で多くの死者を出しました。今回のコロナウイルスでも本当に多くの方が亡くなっておりますが、このことはいったい私たちに何を教えているのでしょうか。それはこうしたパンでミックに対する最大の備えは、すべてを治めておられる創造主なる神を恐れて生きるということです。もちろん、こうした疫病に対する治療法などの研究も重要です。しかし、こうした疫病に対して私たちができることは限られているのです。そのことを認め、私たちの知恵を越えたところで支配しておられる創造主を恐れることが求められているのです。しかし人類は、それとは逆に神を無視し人間の力、科学の力だけで乗り越えようとしています。歴史から学ぼうとしないのです。
歴代誌第二7章13~15節には何とあるでしょうか。「13 わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、14 わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」
ここに、「わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには」どうすればよいかが記されてあります。そのときには、「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」とあります。歴史から教えられることは、このような疫病が起こったときには、主の民が自らへりくだり、祈りをささげ、主の顔を慕い求めてその悪い道から立ち返ることです。そうすれば、主は親しく天から聞いて、私たちの罪を赦し、この地を癒してくださいます。これが主の約束です。これが歴史の中で教えていることです。ワクチンも大切でしょう。でもそれ以上に大切なのは、主の前にへりくだり、悔い改めて主に立ち返ることです。そうすれば、主は天から聞いて、この地を癒してくださいます。この歴史から学ぶべきです。
南王国ユダは、北王国イスラエルの失敗から学ぶべきでした。その悪いお手本から、それを半面教師として学ぶ必要があったのです。でも彼らは学びませんでした。こうした経験から学ぶことは大きいことです。それだけのことを自分で体験しようと思ったら、かなり高くつくことになります。しかし、他の人の経験や、他の人の失敗から学ぶなら、そうした代償を払う必要はありません。私たちはそれを歴史の先人たちや聖書から学ぶことができるのです。これはありがたいことです。にもかかわらず、そこから学ぼうとしなかったら残念です。もし南ユダが北イスラエルから学んでいたら、偶像礼拝をして、堕落して、神から捨てられる必要など全くなかったでしょう。それなのに、彼らは学びませんでした。それが彼らの問題だったのです。
Ⅱ.背信のイスラエルよ、帰れ(11-13)
次に、11~13節をご覧ください。ここには悔い改めの招きと、その理由が語られています。「主は私に言われた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。12 行って、次のことばを北の方に叫べ。『背信の女イスラエルよ、帰れ。-主のことば- わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。-主のことば- わたしは、いつまでも恨みはしない。13 ただ、あなたはあなたの咎を認めよ。あなたはあなたの神、主に背いて、青々と茂るあらゆる木の下で、他国の男と勝手なまねをし、わたしの声に聞き従わなかった。-主のことば。」
主はエレミヤに言われました。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。」別に北王国イスラエルが正しかったということではありません。南王国ユダよりも正しかったということで、あくまでも彼らは「背信の女」であることには変わりはありません。ただユダよりも罪が軽かったのです。なぜなら、ユダにはイスラエルという反面教師がいたのに、そこから学ばなかったからです。イスラエルにはそれがありませんでした。ただそれだけのことです。北王国イスラエルも悪かったのです。
それで主はエレミヤに、「行って、北の方に叫べ」と言われました。「背信のイスラエルよ、帰れ。」と。「帰れ」ということばは、この書におけるキーワードの一つです。それは裏切りという罪を悔い改めて、もう一度神に立ち返れということです。つまり、偶像礼拝を止めて、主のみを神として崇めて生きるように、ということです。そうすれば、主は赦してくださいます。ここには「わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。」とあります。「顔を伏せはしない」は、新改訳第三版では「しからない」、新共同訳では「怒りの顔を向けない」と訳しています。口語訳でも「怒りの顔をあなたがたに向けない」と訳しています。つまり、主はいつまでも怒っていないのです。たとえイスラエルが「背信の女」と呼ばれても、たとえ離縁状を渡して追い出した妻であっても、「帰れ」と言われるのです。それは、主は恵み深いからです。主は不正や罪を見逃さずに怒られる方ですが、いつまでも怒り続けることはしません。あなたが自分の咎を素直に認めて主に立ち返るなら、主はあなたの背きの咎を赦してくださるのです。
あの放蕩息子は、父親から財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩して、財産を湯水のように使い果たすと、食べることにも困り果て、ついには豚の食べるいなご豆でお腹を満たしたいほどになりましたが、その時彼ははっと我に返るのです。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行ってこう言おう。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:17-19)
こうして彼が立ち上がり、父のもとへ向かうと、父親は彼を見付け、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけしました。「よく帰って来た」と。そればかりではありません。父親は急いで一番良い着物を持って来て着せると、手に指輪をはめ、足に履き物をはかせました。そして肥えた子牛を引いて来て屠り、お祝いしたのです。父親はどれほどうれしかったことか。その喜びが溢れています。
人間の父親でさえ、こんなにも愛しているのに、父である神の愛が、これよりも劣ると思いますか。私たちに対する神の愛は、海のように深く、空のように高いのです。ここには「わたしは恵み深いから」とあります。主は恵み深いのです。いつまでも怒ってはおられません。ただ、あなたはあなたの咎を認めなければなりません。悔い改めて、神に立ち帰らなければならないのです。神が用意してくださったひとり子イエス・キリストを信じなければならなりません。これが、神が用意してくださった救いの道です。もしあなたが主の御声に従い、主に立ち返るなら、主はあなたの背きを癒し、豊かな恵みを注いでくださるのです。
Ⅲ.悔い改める者にもたらされる恵み(14-18)
第三に、悔い改める者にもたらされる神の恵みがどほど大きなものであるのかを見て終わりたいと思います。14~18節をご覧ください。「14 背信の子らよ、立ち返れ──主のことば──。わたしが、あなたがたの夫であるからだ。わたしはあなたがたを、町から一人、氏族から二人選び取り、シオンに連れて来る。15 また、あなたがたに、わたしの心にかなう牧者たちを与える。彼らは知識と判断力をもってあなたがたを育てるだろう。16 あなたがたが地に増えて多くの子を生むとき、その日には──主のことば──人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。彼らがそれを思い出すことも、調べることもなく、それが再び作られることもない。17 そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。18 その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来る。」
14節には、主がイスラエルに向かって「背信の子らよ、立ち返れ」と言われますが、ここにその理由が記されてあります。それは「わたしが、あなたがたの夫であるからだ。」この聖句には、ことばの遊びというか、偶像の神バアルに対する明白な挑戦が見られます。というのは、この「夫」と訳されている言葉は、ヘブル語で「バアル」という言葉なんです。ここで主は、神として権威を持っているまことの夫は誰なのか、それは「バアル」ではなくこのわたしであると強調しているのです。
そして14節後半において、「わたしはあなたがたを、一つの町から一人、一つの氏族から二人選び取って、シオンの丘に、契約の箱が置かれている聖所に連れて来る」と言っておられます。これは文字通り一人、二人ということではなく、わずかながらも、ということです。わずかながらも、神に立ち帰ろうとする人たちがいて、その人たちをシオンに連れて来るというのです。これはイスラエルの「残りの者」のことです(イザヤ10:22,28:5)。神はイスラエルを完全に滅ぼすことはなさいません。わずかながらも残りの者を備えてくださり、そこから回復されるのです。滅び去って当然の民の中に「残りの者」を残し、その一人をもって新たなる救いの歴史の出発点とされるのです。これは、彼らの時代的に見るなら、アッシリヤとかバビロン捕囚からの解放のことですが、それはこれから起こることの預言でもあります。すなわち、イエス・キリストが再びこの世に戻って来られるときにもたらされる救いの完成のことです。それは16節に「その日」とありますし、17節にも「そのとき」とあります。また18節にも「その日」とあることからわかります。この「その日」とか「そのとき」というのは、世の終わりの終末預言のキーワードです。すなわち、エレミヤはここで、単にイスラエルがアッシリヤやバビロン捕囚から解放されて戻って来た人たちによってイスラエルの新たな救いの歴史の1ページを始めていくということを語っているだけでなく、はるか遠い未来にイエス・キリストが再びこの世に戻って来られるとき、主はその残りの者を通してイスラエルの民に完全な解放をもたらしてくださることを預言していたのです。
そのときどんなことが起こるのでしょうか。16節には「その日には、主のことば。人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。」とあります。また17節には「そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。」とあります。
これはどういうことかというと、そのとき、イエス・キリストは王の王、主の主として、エルサレムに御座を設けられるので、エルサレムは「主の御座」と呼ばれ、そこでイエス・キリストが治めてくださるということです。ですから、もう主の契約の箱は必要ありません。主の契約の箱には十戒が刻まれた2枚の石の板が収められていましたが、それは神の臨在の象徴でした。でも、それはもう必要ないのです。なぜなら、主イエス・キリストがそこにおられるからです。神がそこに臨在しておられるのです。本物があればその模型は必要ありません。主の契約の箱は、いわばイエス・キリストの影のようなものでした。本人が目の前にいるので、もはや影は必要ないのです。本人が目の前にいるのに、いつまでもその人の写真を大事に扱う人はいません。目の前に本人がいれば、それで十分なのです。たとえば、皆さんに夫がいて、その夫のことをとても愛しているとします。だから、その夫の写真を肌身離さず持っているわけですが、その夫が家に帰ってきらどうしますか。夫には知らんふりして、その写真に必死に語り掛けるようなことをするでしょうか。あなたのダーリンがあなたのそばにいるのに、ダーリンの写真に向かって「ハ~イ、ダーリン」なんて言いません。本物がいるからです。本物がいなければ写真に語り掛けるということもあるでしょうが、本物がいればそれで十分なのです。主の契約の箱は、主イエス・キリストの影のようなものでした。ですからイエス・キリストがいる今、もう契約の箱は必要ないのです。契約の箱について語ることも、それが心に上ってくることもありません。イエス様がそこにおられるからです。
そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民がこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはしません。その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともども、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来るのです。「北の国から」とは北海道のことではありません。それはイスラエルの北の国のことで、アッシリヤとかバビロンのことを指しています。それは先ほども申し上げたように、彼らの時代から見ればアッシリヤとかバビロン捕囚から解放のことですが、遠い未来のことで言うなら、イスラエルが世界の果てから集められるということであり、やがてイエス・キリストが再臨されるとき、私たちを含むすべての民、万国の民がこの御座、エルサレムに集められ、二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない、ということです。
いつかそういう時がやって来ます。それはそう遠くないように感じます。そのときには一切の罪が取り除かれ、また、罪によって腐敗した世界が回復されるのです。そういう時がやって来ます。すばらしい約束です。これこそ真の希望です。この世にあってはコロナのような問題や戦争の不安、病気の苦しみ、人間関係のトラブル、経済の苦しみなど心が休まりません。けれども、そうした中にあってイエス・キリストが来られあなたの心を治めてくださるとき、そうした不安や恐れから解放され、神の臨在と平和の中を生きることができるのです。そのために私たちに求められているのは何でしょうか。13節、「ただ、あなたが自分の咎を認めよ」です。ただ、あなたの咎を認め、悔い改めて主に立ち返るなら、あなたもこのような恵みを受けるのです。もう宗教的な儀式とか、プログラムとか、奉仕とか、活動に頼らなくてもいいのです。ただ、あなたはあなたの咎を認めるだけでいいのです。あなたが神に立ち立ち返るなら、あなたは主イエスの御支配を受け、さながら天国のような人生を歩むことができるのです。私たちにはこのようなすばらしい約束が与えられているのですから、主の招きに応答して、ただ、あなたの咎を認めて、主に立ち返りましょう。主の驚くべき恵みが、あなたにも豊かに注がれますように。