Ⅰ列王記3章

 今日は、列王記第一3章から学びます。

 Ⅰ.あなたに何を与えようか。願え(1-5)

 まず1~5節をご覧ください。「1 ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚の関係を結んだ。彼はファラオの娘をめとり、ダビデの町に連れて来て、自分の家と主の家、およびエルサレムの周りの城壁を築き終えるまで、そこにとどまらせた。2 当時はまだ、主の御名のために家が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえを献げていた。3 ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた。ただし、彼は高き所でいけにえを献げ、香をたいていた。4 王はいけにえを献げようとギブオンへ行った。そこが最も重要な高き所だったからである。ソロモンはそこの祭壇の上で千匹の全焼のささげ物を献げた。5 ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」」

ソロモンの治世は、エジプトの王ファラオの娘を妻とすることから始まりました。これは政略結婚です。異教の娘と結婚することについては、申命記7章3~4節で禁じられていました。その理由は、異教徒と結婚することによって惑わされ、まことの神から離れてしまうことになるからです。しかし、ソロモンはこうしたことには無頓着でした。結局彼は、最後は神から離れ、外国の神々を拝むようになってしまいます。しかし、ここでのポイントは彼が異教の娘と結婚したかどうかということではなく、このことがきっかけとなってエジプトと和平条約が結ばれたということ、そして、自分の家と主の家、城壁が築き上げられていったことです。

2節には「高き所でいけにえを献げていた」とありますが、この「高き所」とは偶像礼拝のことではありません。主なる神を礼拝していたところです。このときはまだ主を礼拝するための神殿がなかったので、民は高きところで主を礼拝していたのです。しかし、牛や羊ややぎを幕屋の祭壇においてささげなければなりませんでした(レビ17:2-3)。このような点では確かにソロモンは妥協したり、足りないところもありましたが、彼は父ダビデのように神を愛し、神とともに歩んでいました。そのように、たとえ不完全な状態でも主を愛していたソロモンに、主はご自分の恵みを施してくださいました。

それが4節にあることです。ソロモンはある日いけにえを献げるためにギブオンに行きました。ギブオンは、エルサレムから北東に12㎞にあるベニヤミンの地にある町です。そこが最も重要な高き所だったからです。そこでソロモンは、主の祭壇の上に千頭の全焼のいけにえを献げました。これはソロモンの神への愛と献身を表しています。

すると、その夜主がギブオンで夢のうちにソロモンに現れ、こう仰せられました。「あなたに何を与えようか。願え。」どういうことでしょうか。ソロモンは、信仰的には足りないところがありましたが、純粋に神を愛し、神とともに歩んでいたので、主はご自身を現わしてくださったのです。神の前に忠実に歩む者を、神は祝福してくださるのです。

Ⅱ.ソロモンの願い(6-15)

それに対して、ソロモンは何と答えたでしょうか。6節から15節までをご覧ください。9節までをお読みします。「6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。7 わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」

ソロモンが主に願ったのは、善悪を判断して神の民をさばくために、聞き分ける心を与えてほしいということでした。なぜでしょうか。なぜなら、自分がこのように王になることができたのは、父ダビデのゆえに与えられた神の恵みのゆえであるからです(6)。また、彼は小さな者にすぎず、出入りする術を知らなかったからです(7)。すなわち、彼は王としての自分の力量が不足しているということです。彼はそれことを認めていました。そして、そのうえ彼が治めようとしていた民は神の選びの民であり、しかもその数はあまりにも多くて、数えることができないほどなので、それほどの民をさばくためには、それなりの判断力が必要だと思ったからです(8)。すばらしいですね。彼は利己的な願いを脇に置き、神の民の祝福を優先させました。

それに対して主は、何と言われたでしょうか。10節から15節までをご覧ください。「10 これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」15 ソロモンが目を覚ますと、見よ、それは夢であった。彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げ、すべての家来たちのために祝宴を開いた。」

10節には、「これは主のみこころにかなった」とあります。そして、彼が自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、敵のいのちさえも願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、主は彼の願いを受け入れられ、彼に知恵と判断の心を与えると言われました。そればかりか、彼が願わなかったもの、富も誉れも与えると約束されました。さらに、もし彼が、ダビデが歩んだように、主の掟と命令を守って主の道に歩むなら、彼の日を長くしよう、と言われました。すなわち、長寿を全うするということです。つまり、ソロモンは主の御心にかなった祈りをすることができたので、主はそれを受け入れられたばかりか、それに加えて多くの祝福を与えてくださると約束されたのです。

ヨハネの手紙第一の中にこのような約束があります。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)何事でも神のみこころにかなう祈りをするなら、神は聞いてくださる。これこそ神に対する私たちが抱いている確信なのです。

先週の礼拝後に教会の総会が行われ、新年度の活動について話し合いが持たれました。その中で私は、教会の駐車場のために祈りましょうと提案すると、Kさんから、駐車場のためだけでなく礼拝堂のためにもお祈りした方が良いのではないでしょうかという提案がありました。私はそれを聞いて、それは神様のみこころだと思いました。英語の礼拝やキッズのミニストリーなどを考えると、今の場所はかなり狭くなりました。もっと広い場所が必要です。しかし、現状を考えると経済的にはかなり厳しく、会堂建設の話を出すのは難しいのではと思い、そこまでは提案しませんでした。せめて教会に来る人が安心して駐車できるスペースを確保出来たらと思ったのです。しかし、駐車場に限らず主のみこころを求めていくことは大切なことです。今すぐにということではありません。まずそのために祈ることから始めていこうと思ったのです。

私たちは、どちらかというと、現状を見て「できる」とか「できない」と判断しがちですが、大切なのはそれが神のみこころであるかどうかということです。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信なのです。

ソロモンはなぜそのような祈りをすることができたのでしょうか。いったいどうしたらソロモンのように神のみこころにかなった祈りをすることができるのでしょうか。その鍵は、3節と10節にあると思います。

3節には、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた。ただし、彼は高き所でいけにえを献げ、香をたいていた。」とあります。また15節には「ソロモンが目を覚ますと、見よ、それは夢であった。彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げ、すべての家来たちのために祝宴を開いた。」とあります。

これを見ると、ソロモンが霊的に強められ、主への献身度が高められたことがわかります。3節の時点で彼は、確かに主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいましたが、まだ高き所でいけにえを献げていました。しかし、彼が夢によってご自身のみこころを示されると、エルサレムの、主の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げました。主の契約の箱とは、主の臨在の象徴です。エルサレムの主の家で、主の前で礼拝をささげたのです。つまり、彼は主を愛し、主の前で主を礼拝する中で信仰が強められ、献身度が高められていったのです。そのような中で主は彼にご自身のみこころを示されたのです。

先日、近藤先生が、月に1度の礼拝でのメッセージのご奉仕のために準備している中で、主が先生に触れてくださり励ましとなっていると話されましたが、それは本当だと思います。私自身、礼拝や祈祷会のためにメッセージを準備する中で主が触れてくださり、深く教えられています。毎週の礼拝ではそのような中から神のことばが語られるのです。聖霊がお一人お一人の心に触れてくださるのは当然のことです。確かに、一人で聖書を読んだり祈ったりする中でも主は語ってくださいますが、であれば、そのような人たちが集まって心を一つにして礼拝する中で、主がご自身のみこころを示してくださるのは当然のことではないでしょうか。

ですから、私たちが神のみこころを知り、みこころにかなった祈りをするためには、ソロモンのように主を愛し、心を尽くして主を礼拝することが求められるのです。そうすれば主は私たちにご自身の思いを示してくださり、御心にかなった祈りができるようになるのです。

Ⅲ.ソロモンのさばき(16-28)

最後に、16~28節をご覧ください。「16 そのころ、二人の遊女が王のところに来て、その前に立った。17 その一人が言った。「わが君、お願いがございます。実は、私とこの女とは同じ家に住んでいますが、私はこの女と一緒に家にいるとき、子を産みました。18 私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。19 ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。20 この女は夜中に起きて、このはしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って自分の懐に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせました。21 朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きると、どうでしょう、その子は死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、なんとまあ、その子は私が産んだ子ではありませんでした。」22 すると、もう一人の女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」女たちは王の前で言い合った。23 そこで王は言った。「一人は『生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、また、もう一人は『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」24 王が「剣をここに持って来なさい」と言ったので、剣が王の前に差し出された。25 王は言った。「生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。」26 すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。27 そこで王は宣告を下して言った。「生きている子を初めのほうの女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である。」28 全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」

そのような時、二人の遊女が彼のところにやって来ました。ある問題についてさばいてほしいと思ったからです。その問題とは、二人は同じ家に住んでいて、それぞれ三日の差で子を産みましたが、片方の女が夜の間に自分の子の上に伏したために死んでしまったのです。するとその女が、死んだ子をまだ生きている自分の子と取り替えたというのです。これは判断を下すのが非常に難解な事件でした。今の時代のようにD.N.A.鑑定ができればすぐに明らかになりますが、そのようなものが無い時代です。しかも、彼らの他にだれも証人がいませんでした。こうした物的証拠がない中で、ソロモンは正義のさばきを行わなければならなかったのです。これは、ソロモンの知恵がどれほどすばらしいものであったのかを証明するために書かれたものです。いったい彼はどのようにしてこの難題を解決したのでしょうか。

ソロモンは、「剣をここに持って来なさい」と命じると、生きている子どもを剣で二つに切り分け、それぞれの女が半分ずつ取るように命じました。すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思い、その子をもう一方に女に与えてくださいとお願いしました。決してその子を殺さないでくださいと。しかしもう一方の女は、それを自分のものにも、他の女のものにもしないで、断ち切ってくださいと言いました。

するとソロモンは、その生きている子を初めのほうの女に与えるようにと言いました。決してその子を殺してはならないと。彼女がその子の母親だからです。つまり、ソロモンは母性本能と人間としての情を理解して、この難解な問題を解決したのです。本当の母親ならば、自分の手から子どもがいなくなることよりも、子どもの命を大事にするでしょう。この本能を利用してどちらが本当の母親なのかを見極めたのです。これは非常に知恵ある、公正な判断でした。

このさばきを見た全イスラエルは、王を恐れました。なぜなら、神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからです。これは、ソロモンの王国が確立したことを意味しています。ヤコブ1章5節に「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。私たちに必要なのはこの神の知恵です。

私たちの教会では、毎週日曜日に3つの教会で4回の礼拝が行われていますが、私はそのいずれの週報も書いています。週報の中のお知らせや報告などを書くのは簡単かと思いますが、そうでもありません。書いてみるとわかりますが、ことば使いや伝え方、タイミングを間違えると大変なことになります。本当に小さなことですが、教会全体に与える影響は大きいのです。教会はいつも変化していますから、それに応じて一人一人に配慮し、丁寧に書かなければなりません。ですから、全体の状況を的確に把握してないと書けないのです。それを毎週4枚描き続けるのは簡単なことではありません。そのためには知恵が必要です。上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

私たちには、この知恵が必要なのです。もし知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めましょう。そうすれば与えられます。あなたは何を願っていますか。それが主のみこころにかなった願いであるなら、主は聞いてくださいます。主のみこころにかなった祈りと願いをするために、ますます主を愛し、心から主に従い、愛する兄弟姉妹とともに、主の前で主に礼拝をささげましょう。