エレミヤ5章20~31節「あなたはどうするつもりなのか」

きょうは、エレミヤ書5章の後半からお話します。タイトルは「あなたはどうするつもりなのか」です。前回は5章の前半のところから、義人はいない、一人もいない、ということをお話しました。1節には「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。」とあります。そこでエレミヤはエルサレムに行って必死に探し回るわけですが、そういう人は一人もいませんでした。それで主はさばきを宣告されました。それは15節にあるように、遠くの地から一つの国を来させて、彼らを食らうということです。それはバビロン軍のことです。バビロン軍がやって来て、いなごが穀物を食い尽くすように、エルサレムのすべてのものを食い尽くすと言われたのです。このような神のさばきの宣告に対して、結局、あなたがたはどうするつもりなのか、と問い掛けられているのです。

三つのことをお話します。第一のことは、どこまでも主を恐れないユダの民の姿です。彼らには強情で逆らう心がありました。それで彼らは神から離れて行きました。

第二のことは、その結果です。彼らの悪事は社会全体に及んでいきました。それは彼らの咎と罪のゆえです。社会の悪の根本的な原因はここにあります。

そして第三のことは、このようなことに対する神のさばきです。神は黙ってはおられません。必ずその悪を罰します。それに対して、あなたはどうするつもりなのかを、真剣に考えなければなりません。

Ⅰ.神を恐れない民(20-25)

まず、20~25節までをご覧ください。「20 ヤコブの家にこれを告げ、ユダに言い聞かせよ。21 さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。22 あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。23 しかしこの民には、強情で逆らう心があった。それで彼らは離れて行った。24 彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。25 あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

21節では、ユダの民を「愚かで思慮のない民よ」と呼び掛けられています。なぜこのように呼び掛けられているのでしょうか。22節にあるように、神を恐れていなかったからです。神の民である共同体が神を恐れない。本当の神がいらっしゃるのに恐れないのです。聖書には、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)とありますが、その一番大切な神を捨ててしまったわけです。それで「愚かで思慮のない民」になってしまいました。新共同訳では「心ない民」と訳されています。「愚かで、心ない民よ」。心に神様の導きを求めないということです。心は神様と結ばれる所です。エレミヤは4章4節で「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言いました。大切なのは肉体の割礼ではなく、心の割礼です。心が神様と結ばれるということなのに、その心が神と結ぶれることなくだめになっていたのです。23節のことばでいうなら、ここに「強情で逆らう心があった」とありますが、強情になってしまったわけです。出エジプト記にはよく「うなじのこわい民」ということばが出てきますが、それはこの強情であるということです。神に逆らい、神を無視して生きるようになってしまったのです。

その結果、どうなりましたか。21節には「彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。」とあります。詩篇135篇15~18節にはこうあります。「15 異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。16 口があっても語れず目があっても見えない。17 耳があっても聞こえずまたその口には息がない。18 これを造る者もこれに信頼する者もみなこれと同じ。」偶像を拝むことで偶像のようになってしまいます。目があっても見えず、耳があっても聞こえません。偶像に頼る者はみなこれと同じです。本当の神様のことばがわからなくなってしまいます。皆さんはどうでしょうか。そういうことはないでしょうか。

彼らがどれほど強情であっかが22節にあります。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。」どういうことでしょうか。創造主訳聖書には「わたしは海と陸を分け、それぞれの地域を定めた」とあります。神が天と地を創造されました。神はそこに海と陸の境界を設けられたわけです。被造物全体は、その神が定められた境界を越えることはできません。すべては神が定めた秩序と法則によって保たれているのです。どんなに波が荒れ狂っても勝てず、鳴りとどろいても越えることはできないのです。しかし、このユダの民はそうではありませんでした。彼らは簡単に超えていました。神が定めた教えに従うどころかそれを越えて、自分勝手な道に歩んでいたのです。
  

ヨハネ1章10~11節には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあります。「この方」と誰でしょうか。そうです、イエス・キリストのことです。イエス様はもとからこの世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この世はすべてイエス様によって造られたのですから、当然イエス様を受け入れるはずなのにそうではなかったのです。神に逆らい、創造主であるイエス様を受け入れませんでした。別のことばで言うと、境界を越えてしまったのです。それはユダの民だけではありません。私たちも同じです。

そればかりではありません。24節と25節をご覧ください。「彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

「初めの雨」と「後の雨」とは、下の欄外の説明にあるように「秋の雨」と「春の雨」のことです。「秋の雨」が「初めの雨」、「春の雨」が「後の雨」です。このようにイスラエルには年に2回雨季があります。この雨がイスラエルを潤し、豊かな収穫をもたらしてくれるわけですが、彼らには、神に対する恐れも感謝もありませんでした。その結果25節にあるように、この恵みの雨がとどめられてしまったのです。「これを追いやり」とか「良いものを拒んだ」とは、このことです。水道もない時代ですから干ばつになると食料も十分に用意することができませんでした。ですからそれはいのちの危険を意味していたのです。いったいどうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。


  25節にその理由が記されてあります。それは「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」からです。神があなたに良いものを拒んでいるのではありません。あなたの咎がこれを追いやり、あなたの罪がこの良いものを拒んだのです。罪によって雨が降らなくなったということです。私たちは天気予報を見て「台風がもうすぐ来るぞ」とか、「今年の夏は暑くなりそうだ」と知りそれに備えるわけですが、でも、今年の夏は罪によって酷暑になるでしょうと聞くことは絶対にないと思います。でもここではそのように言われているわけです。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。

エレミヤの時代、天気がどうなるかは私たちよりも深刻でした。それで彼らは自分たちに豊穣をもたらすと信じられていた偶像に走ってしまいました。何ですか?「バアル」です。私たちは「バアル」と聞くとどこか遠い宗教のように感じますが、それは私たちにとっても身近なものなのです。というのは、バアル宗教が求めていたのは「豊かさ」であったからです。私たちも同じではないでしょうか。手段は違いますが、もしあなたが豊かさを求めて真の神よりも科学技術とか他のものを絶対的なものとして頼っているとしたら、それはバアルを信じている人たちと同じなのです。イスラエルは真の神を捨て、雨を降らせると信じられていたバアルを信じました。その結果、雨が降ったのではなく干ばつがやって来ました。雨の神、豊穣の神を信じていたのに干ばつがやって来たというのは何とも皮肉な話です。つまり、バアルには本当の力がないということです。世界を創られた方はただ一人、聖書の神様です。この神様がいのちの源であられます。いのちの源から反れて行くということは神から切り離されるということであって、結果的に民は飢えと渇きに襲われることになってしまいました。近年、毎年のように異常気象が起きるようになって異常が通常のようになっていますがその原因はどこにあるのかというと、聖書はここにあると言っています。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。人間の罪によってこの気象が壊れていると言っても過言ではないのです。

詩篇34篇9~10節にこうあります。「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」

主を恐れる者には何一つ欠けることはありません。もし良いものに欠けることがあるとしたら、それは私たちの罪がその良いものを拒んでいるからなのです。神は良い方ですから、良いものを与えてくださるのは当然なのです。天のお父さんは、私たちを祝福したいと願っておられます。でも、その祝福を私たちが自分の罪によって拒んでいることがあります。折角、お父さんとお母さんが子どもに良いものを与えたいと思っているのに、子どもの方で拒んでいるとしたら悲しい限りです。こんなに子どもを愛しているのに、こんなに子どもに与えたいのに、子どもの方で「いらない」と拒むのですから。「欲しくない」と言う。残念です。

Ⅱ.根本的な原因(26-28)

次に、26~28節をご覧ください。ここにユダの民の罪が列挙されています。「26 それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野鳥を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる。27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きで満ちている。だから、彼らは大いなる者となり、富む者となる。28 彼らは肥えてつややかになり、悪事において限りがない。孤児のために正しいさばきをして幸いを見させることをせず、貧しい人々の権利を擁護しない。」

ここにはユダの社会全体に悪が溢れている状態が描かれています。彼らの中には悪しき者たちがいて、鳥を捕まえるようにわなをかけて人を捕まえるような人たちがいました。つまり、社会的弱者を食い物にしていたわけです。彼らは弱者を食い物にして自分たちは太っていました。不正な手段で富を築き私腹を肥やしていたのです。単に霊的姦淫を犯して偶像礼拝に走っていたというだけでなく、それが社会全体にも大きな影響をもたらしていました。エレミヤはこのような状態を見てこう言っています。30節、「恐怖とおぞましいことがこの国に起こっている。」

いったいどうしてこのようなおぞましい社会になってしまったのでしょうか。それは南ユダだけでなく、今日の社会にも言えることです。おぞましい社会、おぞましい世界になってしまいました。いったいどうしてこのようになってしまったのでしょうか。それは社会ということよりも一人一人の罪に起因しているのです。その罪の最たるものが、神を神として崇めないということです。神を認めないし、感謝もささげません。そして神以外のものを神としているのです。神を恐れていません。ここに根本的な原因があります。これがこの社会におけるすべての悪の根本原因です。ここにスポットを当てずにいくら社会改革をしようとしてもできません。政治の力、経済の力、福祉の力、慈善活動によってそれをしようとしても限界があるし、究極的な解決にはなりません。見てください。どんなに政権が交代しても社会は変わりません。だからみんな失望するわけです。だれがやっても同じだとあきらめているのです。政党のアンケート調査がありますが、たとえば自民党がいいと回答した理由の第一は「他の政党よりよさそう」です。ただそれだけの理由です。みんな知っています。政治は社会を変えることができないということを。それは政治の問題ではなく、一人一人が抱えている罪の問題だからです。それは政治だけのことではありません。私たちが抱えるすべての問題にも言えることなのです。その根本的な原因が処理されなければ何の解決にもなりません。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのです。

Ⅲ.あなたはどうするつもりか(29-31)

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて神に立ち返れということです。29~31節をご覧ください。「29 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。30 荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」

こうした状況に対して主はどうされるでしょうか。29節には、主は必ず罰せられるとあります。神様はこの状況を把握していないのではありません。見て見ぬふりをしているのではないのです。神様はこのような状況を十分知っておられ、それに対して必ずさばきをなさいます。黙認するということは絶対にありません。水に流すとか、帳消しにするといったことはなさらないのです。なぜなら神は正義の神だからです。聖なる方です。罪を放置するなどできません。必ず罰せられるのです。

30節と31節は、神様の驚きを表しています。荒廃とおぞましいことがこの国に起こっています。預言者たちは偽りの預言をし、神に仕えるはずの祭司は自分勝手に治めているばかりか、神の民であるユダはそれを喜んでいるのです。このことに神は驚かれ、嘆いておられるのです。こうした彼らの罪、咎には、必ず神の審判がくだることになります。結局、あなたはどうするつもりなのか、と神はチャレンジしておられるのです。

でも、どうぞこのことを覚えておいてください。神様がこのようにチャレンジをされるということは、その前に悔い改めのチャンスがあるということです。そのチャンスを与えておられるのです。今ならまだ間に合います。今ならまだやり直せます。あなたにも神のあわれみが注がれているのです。あなたもやり直すことができる。あなたには罪の赦しが提供されているのです。罪の滅びから免れる道が用意してあるのです。その道とは何でしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

イエスのことばを聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、さばきに会うことはありません。永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っているのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。

「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。

『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」皆さん、これが、クリスチャンが抱く希望です。

あなたはどうでしょうか。このような希望があるでしょうか。どんなに恐ろしい神の審判があっても、私は神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているという確信があるでしょうか。イエス・キリストを信じるなら、だれも、また何も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」それは神の民ユダの人たちだけでなく、あなたにも問いかけられていることなのです。神のさばきに会うことがないように、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストに立ち返ってください。そういう人はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。また、そのような人の人生を神が祝福し、初めの雨と後の雨をもって潤し、豊かな収穫をもたらしてくださると、聖書は約束しているのです。

あなたの過去には取り返しがつかないこともあるでしょう。人から絶対に許さないと言われたこともあるかもしれない。自分でも自分を赦せないと思うこともあるでしょう。でも、全然関係ありません。神には赦せない罪など一つもないからです。もう罪悪感や罪責感に(さいな)まれることもありません。人を責める必要もなければ、人に責められる必要もありません。イエス・キリストがあなたの代わりに罰を負って十字架で死んでくださったからです。罰せられるべきあなたの代わりに罰せられたので、あなたには罪の赦しが提供されているのです。

教会では、通信でも聖書を学ぶことができるように、「聖書通信講座」を行っています。羽鳥順二先生が書かれた「初めて聖書を開く人のための12のステップ」という本をテキストに、自分で読んで回答用紙に記入して送ってもらうと、こちらで添削して送り返すというシステムになっています。

最近、M刑務所に入所している一人の男性から問い合わせがあり、学びが始まりました。その中に少しですけれど、ご自分のことを教えてくださいました。「私は、今現在、M刑務所に服役して17年目になります。刑期は無期懲役で、年齢は今年57歳になります。聖書を学ぶきっかけは、同囚の方の勧めもあり、刑務所を訪問された牧師さんに紹介されたのが始まりです。私自身はもともと、聖書に興味を持っておりましたが、社会で生活している時は学ぶ時間がなく、今の受刑生活の中で学んでいる次第です。少しでも聖書、神様、イエス様を理解し、知ることが出来るようになればいいと思っておりますし、神様の教えに導かれるように歩めればと思います。」

私はこの方が何をされたのかは知りません。しかし、無期懲役として服役して17年目になられるということで、どれほどの悲しみを背負っておられるかと思います。しかし、その中にあっても救いがあります。主イエスを信じるなら、あなたもあなたの家族も救われます。それが本当の救いではないでしょうか。そういう意味でこの方は無期懲役の刑を受けておられますが、主イエスにあって神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。ハレルヤ!

神のさばきは確実に及んできます。でもそれは神の本意ではありません。神の本意は、あなたが罪を悔い改めて神に立ち返り、神のさばきから免れることです。今は恵みの時、今は救いの日です。あなたには神のあわれみが注がれています。その神の慈愛が、あなたを悔い改めに導くのです。

あなたはどうするつもりなのか。この神のチャレンジに、今のうちに応答してください。神の赦しと神の救いを受け取ってください。そうすれば、あなたは神のさばきに会うことはありません。必ずバビロンがどこからかやって来ます。想像もつかないような破壊と喪失がもたらされます。でもイエス様を信じる者は救われます。それを決断するのはいつですか。今でしょ。今がその時なのです。