きょうはイザヤ書40章のみことばから、「見よ、あなたがたの神を」というタイトルでお話したいと思います。イザヤ書はこの40章から後半部分に入りました。ここからはイスラエルに対する回復と希望のメッセージが語られます。神に背いたイスラエルはバビロンによって滅ぼされ捕囚の民となりますが、神はそこから解放されるというメッセージを語られるのです。9節をご覧ください。 ここには、「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」とあります。
良い知らせとは何でしょうか。良い知らせとは、神がバビロンから解放してくださるいう知らせです。もう奴隷として縛られるとはありません。罪の奴隷として縛られるこがないのです。キリストが十字架にかかってあなたの罪を贖ってくださったので、あなたはもう罪に悩まなくてもいいのです。あなたは天国に行くことができます。神があなたを救ってくださいました。これが良い知らせです。あなたがこの神を見るなら、あなたは慰めを受けます。いったいこの方はどのような方なのでしょうか。
Ⅰ.力ある神(10-11)
まず第一に、この方は力ある神です。10節と11節をご覧ください。10節にはこうあります。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」
神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治められます。バビロンがどんなに力があっても私たちの主はもっと力ある方です。この力ある方が来られ、この世のすべての権力と支配を打ち破り、エルサレムで王としてご自分の民を治めてくださいます。そして、そのわざに応じて報いてくださるのです。この理不尽な世界がいつまでも続くのではありません。やがて王の王、主の主であられるイエス・キリストが来られ、この理不尽な世界を統べ治めてくださいます。その時主は、私たちのわざに応じて報いてくださいます。すなわち、耐え忍んで善を行い、栄光とほまれと朽ちぬものとを求める人には、永遠のいのちが与えられ、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人には、怒りと激しい憤りとが下るのです。忍耐をもって善を行い、最後まで主に従い通すなら、神が「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言って報いてくださるのです。ここに慰めと希望があります。
そればかりではありません。11節を見ると、「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」 とあります。主の御腕はすべてを統べ治める力強い御腕であるだけでなく、同時に子羊を引き寄せ、そのふところに抱き寄せてくださる優しい御腕でもあります。「私はあの人のようにパッ、パッっと聖書を開けない」、「あの人のように流暢に祈ることもできなければ、奉仕もできない。献金もできない。」という方がおられるでしょうか。大丈夫です。たとえあなたが子羊のように未熟であっても、どんなに小さな者であっても、主は羊飼いのように群れを養い、その御腕でふところに引き寄せてくださるからです。皆さん、牧者である主の御腕はどんなに太く、どんなに優しい腕なのでしょうか。私たちの人生には、失敗があり、失望もあり、望みがなくなってしまう時がありますが、そのような時でも「永遠の腕が下に」(申命記32:27)にあるのです。神はそのどん底にまで力強いみ腕を差し伸べ、その羊をふところに入れ、乳を飲ませる者を優しく導いてくださいます。
ヨハネの福音書10章11節を開いてください。ここには、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」とあります。皆さん、良い牧者は羊のためにいのちを捨ててくださいます。羊のためにいのちを捨てるような牧者がいるでしょうか。そのような牧者はこの方イエス・キリスト以外にはいません。私がどれほどフェレットを愛していても、死ぬことはできません。身代わりに死ぬなどということなどとんでもないことです。しかし、この方は違います。この方は羊のためにいのちを捨ててくださいます。ちりにすぎないような私たち人間のために、代わりに死んでくださるのです。それがイエス・キリストなのです。
ヘブル人への手紙13章20~21節も開いてみましょう。ここには「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」とあります。ここではイエス・キリストが永遠の羊の大牧者と言われています。この方は私たちのために死んでくださっただけでなく、その死からよみがえってくださいました。そして、今も生きて、天でとりなしていてくださるのです。これが私たちの主イエス・キリストです。
また、Iペテロ5章4節も開いてみましょう。ここには「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」とあります。大牧者とはイエス・キリストのことです。この方は再び現れてくださいます。イエス・キリストは死んで、よみがえられ、今も天でとりなしておられるだけでなく、やがて再びこの地上に戻って来られるのす。
これが私たちの大牧者であられるイエス・キリストです。この方の御腕がいつもあなたの下にあることを覚えてください。私たちは本当に愚かで迷いやすい子羊ですが、主はその子羊をふところに引き寄せ、その御腕に抱いて養ってくださるのです。これは本当に慰めではないでしょうか。
Ⅱ.創造主なる神(12-17)
第二に、主は創造者なる神です。12節から17節までをご覧ください。12節をお読みします。「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。」
だれもこの地球にある水の量を量ることなどできません。だれもこの巨大な宇宙を量ることなどできないのです。だれも地のちりを枡に盛って、山や丘をてんびんで量ることなとできません。しかし、神はその水を手のひらに、大宇宙を手の幅に収めることができます。地のちりを枡に盛って量ることがおできになるのです。なぜなら、主はこの天地を造られた創造者なる神だからです。
実際、この地球には約14億Km3の水があるそうです。14億Km3と言われてもピンときません。しかし、そのほとんどの97%が海水だそうです。海水といったらものすごい膨大な量でしょう。海は広いな大きいな♪♪それだけの水を量ることは不可能なです。しかし神はそのすべての水をかき集め、ご自身の手のひらに乗せることがおできになるのです。
またこの巨大な宇宙も、神の手の幅にすっぽりと入ります。手の幅というのは小指から親指までのことですが、その中にすっぽりと収まるのです。私は手は小さくて20㎝くらいしかありませんが、神の手の幅はものすごく大きいのです。この大宇宙さえもすっぽりと収めることができるのですから・・・。
たとえば、地球から太陽までの距離は約1億5千万㎞だと言われています。1億5千万㎞というのがどれだけの距離なのかピンとこないと思いますが、これは時速100㎞で車を運転して171年もかかる距離です。1日24時間、171年間全く休みなしで走り続けてやっと到着できるくらいの距離なのです。そんな太陽や地球もその手の中にすっぽりと入ってしまうのです。
そればかりではありません。その太陽が入っている天の川銀河と呼ばれている銀河がありますが、その銀河には約2000億個もの恒星があると言われていますが、その天の川銀河もこの手の中に収まってしまいます。この天の川銀河の大きさは直径で約10万光年だと言われています。1光年が1年間に進む光の速さですから、その光の速さをもってしても10万年もかかるとことになります。それほど大きいのです。まして、この宇宙全体となったらどれほどの大きいことでしょう。とてつもない大きさです。この宇宙の大きさを計算した人がいますが、その人の計算によると、この宇宙の大きさは半径で460億光年だそうです。宇宙の中心から端まで行くのに光のスピードをもってしても460億年もかかるのです。この宇宙がどれほど大きな広がりをもっているかは、もはや私たちの想像の域をはるかに超えているのです。しかしそれほど巨大な宇宙も、この神の御手の中にすっぽりと収まってしまうのです。 神はそれほど偉大でパワフルな方なのです。たとえあなたが抱いている問題がどんなに大きなものでも、この神の目から見たらちっぽけなものにすぎません。あなたの神はこの天地を造られた創造主なる神なのです。それがどれほど大きな問題であっても、この神にとって解決できない問題はありません。この方を信じて歩めるということは、どれほど力強いことでしょう。このことを知るなら、あなたは大きな慰めを受けることができるのです。
13節と14節をご覧ください。「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。」
この方は天地を造られた創造主なる神なのに、あたかも自分が神であるかのように、神に教えようとする人がいます。13節の「主の霊」とはこの創造者なる神の知恵、神のはかりごと、神の能力のことです。この神の知恵を量ろうとする人がいるわけです。そしてあたかも神の顧問(カウンセラー)であるかのように、「こうした方がいいんじゃないか」とか、「ああした方がいいに決まっている」と、いつの間にか神にアドバイスしていることがあるのです。祈りの中で、日々の生活の中で、いわゆる主客転倒ということが起こってしまうわけです。けれども神は絶対者であって、だれとも相談しなくても、一人で悟りを得ることができる方であり、正しい道と正しい知識と正しい知恵を持っておられます。私たちに必要なことはこの方に何かを教えようとすることではなく、この方を絶対者として認め、ひれ伏し、伏し拝むことなのです。
15節から17節までも見てみましょう。「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。」
この「国々」とは、イスラエルの国ではない異邦人の国々のことです。イスラエルの神を神としないで偶像を拝んでいる国々のことです。それは手おけの一しずくにすぎません。はかりの上のごみのようなものです。手おけとはバケツのことです。主にとって国々はバケツの一しずくにすぎず、天秤(はかり)の上についている埃(ほこり:ゴミ)のようなものにすぎまないのです。そんなものはふっと吹いたら、どこかに吹っ飛んでしまいます。
「見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。」 主は島々も、細かいちりのようにみなされます。レバノンとはレバノン杉のことです。高級で立派なレバノン杉がどんなにあっても、たきぎにするには、足りません。また、どれほどの数の動物を全焼のいけにえとしてささげても、足りません。すべての国々も、主の前には無に等しく、全く無力にすぎないのです。なぜならこの方は天地を創造された神だからです。この方があなたの神であり、あなたを救ってくださったのです。
Ⅲ.比類なき神(18-26)
第三に、この方は比類なき神です。18節から26節までをご覧ください。まず18節から20節までのところには、次のようにあります。「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。」
いったいあなたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのでしょうか。愚かにも人間は鋳物に金をかぶせ、銀の飾りを作って、いかにもそれが神々しい神であるかのようにします。樹齢何百年という太い杉の木にしめ縄をして、それを神として拝みます。家内安全、無病息災、商売繁盛と書かれた紙きれが自分を守ってくれると思って大切に持っています。しかし、それはただの紙切れであり、ただの木や石であり、ただの金属にすぎません。それらのものは人間が作ったものにすぎず、人間に支えられていなければ立っていることができないものです。そんなものに私たちを造られたまことの神をなぞらえたり、比べたりすることはできません。
21節、22節をご覧ください。ここには、「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。」とあります。この地がどのようにして置かれ、この天がどのように引き延ばされたかをご存知でしょうか。それは主が地をおおう天蓋の上に住まわれ、主が天を薄絹のように引き延ばされたのです。
この「天蓋」という言葉ですが、これはヘブル語で「フッグ」という言葉です。これは「円」を意味する言葉なので「天蓋」と訳したのだと思いますが、口語訳では「地球」と訳されています。英語ではこれを「circle」(NIV)と訳しています。これと同じ言葉が箴言8章27節に使われています。そこではちゃんと「円」と訳しています。「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。」この「円」ということばです。つまり、地球は円いということです。
この箇所(イザヤ40:22)からあの有名なクリストファー・コロンブスは、地球は円いと言いました。当時、地球が円いとは信じられていませんでした。地球は平らだと信じられていたのです。しかし、地球は円いのです。聖書は科学の教科書ではありませんが、科学の記述においても間違ってはいません。今からはるか2700年も前に、イザヤはちゃんと地球は円いということを聖霊によって語っていたのです。その天蓋の上に主は住んでおられるのです。その神の目から見たら、地の住民はまるでいなごのようです。いなごにも満たないかもしれませんね。いなごは見ればわかりますが、天蓋からこの地を見ても、地の住民を見ることはできないでしょう。私たちの存在というのはそれほど小さなものなのです。
また、ここには「主は天を薄絹のように延べ」とあります。この「延べ」という言葉は42章5節にも使われていますが、そこでは「天を造り出し、これを引き延べ」とあります。神さまは天を造られて、それを引き延ばされました。昔から宇宙は永遠に変わらないと信じられていましたが、この聖書の記述をみるとそうではなく、宇宙は引き延ばされたことがわかります。膨張したのです。どうやって膨張したのかはわかりません。ベルギーの司祭で天文学者のジョルジュ・ルメートルという人は、これを「宇宙の原始的原子(primeval atom) の“爆発”」すなわち、ビッグバンによって膨張したと提唱しました。それ以来、宇宙はビッグバンによって始まったと信じられるようになりましたが、必ずしもそうではありません。確かなことは神が引き延ばされたということであって、それがどのようにして引き延ばされたのかはわからないのです。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれるのです。
あなたはこのことを知らないのでしょうか。聞いていないのでしょうか。地の基がどのようにして置かれたのかを。どのようにして天が薄絹のように引き延ばされたのかを。それはこの天地を創造された神なのです。木や石で造られた偶像がしたのではありません。それらのものは人間が作ったただの木や石であって、人間が支えていなければ倒れてしまうほどもろいものです。そんなものは、この創造者なる神になぞらえることなどできません。比べることなどできないのです。
もちろん、君主たちもそうです。地のさばきつかさでも同じです。23節には、「君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。」とあります。この世のどんな王たちや支配者たちでも、どんな政治的指導者であっても、この方と比べることはできません。超大国アメリカ大統領をもってしても、新しく指導者が変わった中国の習国家主席であっても、日本の総理大臣をもってしても、無に等しいのです。全く比べることができません。 昨年(2012年)の世界の大富豪ランキングによると第一位が3年連続でメキシコの実業家でした。5.6兆円の資産があるそうです。2位がアメリカのビル・ゲイツですが、彼も4.8兆円の資産を持っています。しかし、彼らがどんなに資産を持っていても、この方の前には無に等しいのです。全然比べものになりません。そんなものは暴風がわらを散らすように散らされるだけなのです。この方は他の何にも、だれとも比べることができない比類のない神なのです。
ですから、あなたはこの方を見なければなりません。この方を見るなら、あなたは慰めを受けることができます。26節をご一緒に読んでみましょう。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」
この方は天地を創造された方であって、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる方です。一つももれるものはありません。この天にどれほどの万象が、星々があるでしょうか。エレミヤ33章22節によると、「天の万象は数えきれず、海の砂は量れない・・」とあります。昔は星の数は数千だろうと思われていましたが、実際は数千どこではありません。数え切れないほどあるのです。現代では、10の26乗もの数の星が存在していることがわかっています。10の26乗というのは、100×1億×1億です。まさに天文学的な数字です。それは地球にある砂の数に相当すると言われています。それほど多くの星々が存在しているのです。主はその星々一つ一つの名をもって呼ばれます。神はそれほど精力に満ち、力強い方なのです。この方があなたの信じている神です。
であれば、あなたはいったい何を恐れる必要があるでしょうか。何にも恐れることはありません。あなたにはこの偉大な神がついているからです。あなたがしなければならないことはあなたが抱えている問題を見て怯えることではなく、あなたの神を見ることです。目を高く上げて、だれがこれらを創造したのかを見なければなりません。そして、その方がちりにも劣るほどの小さな私たちに目を留めてくださり、心を注いで、罪の中から救ってくださったことを覚え、この方にすべてをおゆだねすることなのです。問題を人間的に解決するのではなく、信仰をもって神を見上げること、それが解決であり、そこから真の慰めが与えられるのです。
第二次世界大戦の初期、イギリス国籍の船一隻が重要な任務を遂行するため、アメリカに向かって出港しました。いかに数多くの敵船を避けてアメリカに向かうかと心配していた船長に向かって、その任務を命じた人はこう言いました。「君が危険な目に会いそうになったら、この暗号を使って無線を打ちたまえ。連絡が行くだろう。」 船長はその言葉を信じて、危険な航海を続けました。すると突然、目の前に敵の船が現れました。それで指示された通りに暗号を打ちました。すると、このような返事が返って来たのです。「すべて把握している。こちらも敵の船を監視している。しかし、君たちの船も見守っていることを忘れるな。」その返事をもらった船長は勇気百倍になり、航海を続けることができました。船がサンフランシスコ港に入ったとき、船長はその後ろから大きな船がついて来ているのを発見しました。それは潜水艦でした。見えないところで潜水艦が小さな船を見守っていたのでした。船長のそばで勇気づけてくれていた「恐れるな。我々がそばで見守っている」というメッセージのおかげで、偉大な任務を無事に遂行することができたのです。
私たちの人生はまさにこの船の航海のようです。いろいろな危険や困難が待ち伏せています。しかし、そこにどんなに大きな危険があっても、あなたを愛し、あなたを守ってくださる創造主なる神がともにいてくださいます。これこそ真の慰めではないでしょうか。どうかこの方を見上げてください。そうすれば、どんな危険があっても、あなたは人生の航海を遂行することができるのです。