きょうはイザヤ書40章前半の箇所から、神の慰めのメッセージをお話ししたいと思います。イザヤ書はここから後半部分に入りますが、これまでとは内容がガラッと変わります。前半はイスラエルに対する神のさばきが語られていましたが、ここからは慰めと希望が語られます。そしてこれまではイザヤが生きていた時代、すなわちヒゼキヤがユダの王であった時代を背景に語られていましたが、ここからは、イザヤの時代よりも100年も先に起こる出来事、すなわち、バビロンという国から解放されることが背景に語られます。紀元前586年にエルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされ捕囚の民となりますが、やがてペルシャの王クロスが登場し、ユダの民を解放するわけです。その時代のことが背景に語られているわけです。それがあまりにも具体的に書かれてあるので、これはイザヤが書いたのではなくずっと後になってから別の人によって書かれ、編集されたのではないかという人たちがいます。自由主義神学者(リベラル)とか、高等批評家と呼ばれている人たちです。このような人たちは聖書をそうやって分析することが高等だと思っているのですが、それは高等でも何でもありません。ただ聖書が神のことばだと信じられないだけです。全知全能の神は100年先のことはおろか世の終わりのことに至るまですべてのことを知っておられるだけでなく、それらのことを書き記すことがおできになるのです。それを信じることができるなら何の問題もありません。聖書は到底人間が書いたものではなく、神の霊、聖霊に動かされた人たちが書いた神の言葉だからです。ですから、100年先のことであろうと、何年先のことであうと正確に告げることができるのです。これが聖書と一般の書物の一番大きな違いです。聖書が神のことばであるゆえんはここにあります。
Ⅰ.慰めよ 慰めよ(1-2)
まず1節と2節をご覧ください。「1慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
1章から39章までは「懲らしめよ 懲らしめよ」だったのが、ここから「慰めよ 慰めよ」になります。懲らしめの後には慰めがきます。主はいつまでも怒っておられる方ではありません。ちょうど親がその子を懲らしめた後にギュッと抱きしめるように、神はあなたを抱きしめてくださいます。あなたのすべての罪は贖われました。前半ではその罪に対するさばきのメッセージが語られましたが、すべての罪が贖われた今は、慰めのメッセージが語られるのです。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。」主は優しく語ってくださいます。あなたの罪のことで、神はあなたを責めたりはなさいません。なぜなら、神はあなたのために十字架にかかってくださったからです。あなたの代わりに罰を受けて、罪を処罰してくださいました。もう罪に悩む必要はありません。いつまでも悲しんでいなくてもいいのです。主イエスが私たちのすべての罪の罰を受けてくださったので、罪のことでそう悩む必要はないのです。あなたに必要なことはただ悔い改めて、神の救いの御業を信じるだけです。あなたの罪に対する神の怒りはキリストによって取り去られたからです。あなたの罪のことで神はもう怒ってはおられません。優しく語りかけてくださいます。
「その労苦は終わり、その咎は償われた。」これが、神があなたに語ってくださることです。その労苦は終わり、その咎は償われました。この「労苦」と訳されている言葉は「戦争」とも訳される言葉です。毎日戦争のように過ごしておられるでしょうか。それらの戦いが終わる日がやってきます。労苦が終わる日、戦いが終わる日がやってくるのです。その時、その咎は完全に償われます。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けるのです。「二倍のもの」とは何でしょうか。注解書を見ると、この「二倍」という言葉は「折り重ねる」という意味だとあります。貿易証人が、一度支払いが終わったら顧客のドアに半分に折られた明細書をピンで留めて、これが「倍」と呼ばれたのです。つまり、折り重ねた状態のことを指しているのです。それは半分ともう半分がちょうど対応するように、罪と罪の支払う報酬の釣り合いが取れていることを表しています。その罪に対する償いが十分に成されたことを意味しているのです。コロサイ2章14節には、「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」とありますが、まさに私たちを責め立てていたその債務証書が無効にされたのです。その負債は完全に支払われました。それは十字架に釘付けにされたのです。イエスさまは十字架で死なれる時「テテレスタイ」と叫ばれました。意味は「完了した」です。もう完了したのです。あなたの罪に対する負債は完済しました。あなたはもう罪に悩む必要はありません。キリストがあなたの代わりに罰を受けてくださったので、あなたの罪の代価は支払われたのです。あなたの罪は赦されています。これはグッド・ニュースではないでしょうか。これが慰めのメッセージです。
さきほど、これはバビロン捕囚からの解放がその背景にあるとお話しましたがその背景で言うならば、バビロンでの70年にわたる捕囚の状態から解放されて自由にされることの宣言です。ちょうど牢獄につながれていた者が、その服役の期間が終わって、看守から、「さあ出てもいいぞ。お前の刑期は満了した。その咎は償われた」と言われるような情景です。この刑に服している者の生涯というのは、どんなに望みのない、不自由で、孤独な、寂しい生涯であったことかと思います。その時、看守から「お前の罪はもう問われないから出てもいいぞ」と言って、牢獄の扉を開けてもらえたとしたら、その時の喜びようは、その時の心はどんなでしょう。それがただ償われただけではなく、そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けるのです。
今ちょどNHKで「いつか陽のあたる場所で」というドラマが放映されていますが、これはその牢獄から解放された二人の女性の深い友情を描いた物語です。一方は愛した男のために犯罪に手を染め7年の実刑を受けて服役しました。もう一方は家庭内暴力から息子の命を守るために夫を殺して5年間服役しました。その二人が刑期を終えて釈放されるのです。二人は刑務所で知り合い、深い絆で結ばれましたが、家族に見捨てられ、過去を隠しながらも、お互いに励まし合って下町で懸命に生きようとするわけですが、どんなに罪を償っても過去を背負って生きることは楽なことではありません。その後の彼らの人生に暗い影を落とすのです。
しかし、神はそのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けると約束してくださいました。ただ赦してくださったというだけではないのです。そのすべての罪に引き替えに、二倍のものを受けました。あなたの罪は完全に償われたのです。イエス・キリストがあなたのために十字架にかかって罰を受けてくださったので、あなたの咎は償われました。もう罪に悩む必要はありません。その労苦は終わり、その咎は償われました。なんと慰めに満ちた言葉でしょうか。
Ⅱ.荒野で呼ばわる者の声(3-5)
第二のことは、そのようにして神はあなたを罪の縄目から解放してくださったのですから、その道を整えなさいということです。3節から5節までをご覧ください。「3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。5 このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」
この道とは主が通られる道のことです。バビロンから解放してくださった主が、あなたを罪の縄目から解放してくださった主が、今、道を通って神の都エルサレムに帰って来られます。その道を整えるようにというのです。実際、その国の王様が旅をする時にはその行く先々に先遣隊を遣わして、道を整えました。道を広く、大きくし、まっすぐに、平らにしました。すべての谷は埋められ、すべての山や丘を低くしてならしました。 かつて私が福島に住んでいた時、国体が開かれたことがありましたが、その時には街中の道路がきれいに整備されました。道幅が広げられ、まっすぐに舗装されました。そこを天皇陛下が通るからです。たった1回しか通らないその道のために何年も前から工事が行われ、立派な道を作りました。ここでは天皇陛下よりもはるかに偉大な方が、全く比べものにもならない王の王、主であられるイエス・キリストが来られるのですから、その道を整えるようにと言われているのです。
あなたの道は整えられているでしょうか。谷底のように心が沈んではいないでしょうか。劣等感、自己憐憫、罪悪感、敗北感といった谷は埋められなければなりません。また、山や丘のような高くはなっていませんか。プライドや傲慢といった山や丘があれば削られて低くされなければなりません。障害物は取り除かれ、でこぼこ道は平らに整えなければならないのです。
ところで、この3節のみことばは新約聖書にも引用されているみことばですが、新約聖書をみると、この「荒野に呼ばわる者の声」とはバプテスマのヨハネのことを指していたのがわかります。彼はキリストが来られる半年前に現れ、メシヤがいつ来てもいいように準備するようにと、悔い改めのメッセージを語りました。彼はらくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べるといういかにも旧約聖書の預言者のような生活をしていたので、もしかすると彼はあの偉大な預言者エリヤの再来ではないかとか、あるいは、その力強いメッセージに、もしかすると、この方がキリストではあるまいかと思われていました。そのヨハネが「あなたはだれですか」と群衆から尋ねられたとき、次のように答えました。
「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)
ヨハネは、自分はエリヤでも、キリストでもない、ただの荒野の声だと言いました。主の道を整えるように、荒野で呼ばわる声だと言ったのです。これがヨハネのミニストリーでした。そして、それは私たちのミニストリーでもあります。私たちのミニストリーは声になることです。声は見えません。まさに私たちは見えない声に徹して、ヨハネのようにイエス・キリストを宣べ伝えなければならないのです。ヨハネが自分のところに来る人々をイエスのもとに導いたように、自分のところに来る人をイエスのもとに導かなければならないのです。
イエスさまは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と言われました。バプテスマのヨハネは、女から生まれた者の中で一番偉大な人でした。あのアブラハムよりも、あのモーセよりも、あのエリヤよりも、もっと偉大な者でした。なぜ彼はそんなに偉大な者だと言われたのでしょうか?それは彼が「声」になったからです。派手なことをするのではなく、自分のことを見せるのでもない。ただイエスのことを分かち合う声になったので、彼は偉大な者、すぐれた者と言われたのです。
あなたもすぐれた者になれます。ヨハネのように、荒野の声となってください。荒野の声となって人々の心を整えるなら、あなたもイエスさまからすぐれた者と呼ばれるようになるのです。今から2000年前に来られた主イエスは再び来られると言われました。その主が再び来られる前に私たちは荒野の声となって、その道を整えるように叫ばなければなりません。主が再び来られる前に、すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くされ、でこぼこ道は平らにされ、まっすぐにするように伝えなければなりません。そのようにしてイエスを迎えるなら慰めを受けるからです。ほんとうの慰めはこのイエスを心に迎えることにあります。そのとき私たちは雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。このようにして、いつまでも主とともにいることになるのです。「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)これが本当の慰めの言葉です。そのキリストが再び来られる時のために心を整えるように、私たちは荒野の声にならなければならないのです。
Ⅲ.神のことばは永遠に立つ(6-8)
慰めのメッセージの第三のことは、神のことばは永遠に立つということです。6節から8節までをご覧ください。「6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。」
ここにもう一つの声が出てきます。それは「呼ばわれ」と言う者の声です。この声がだれの声なのかははっきりわかりません。だれか第三者の声なのか、それとも神ご自身の声なのかはっきりしていなからです。ただはっきりしていることは、その声に対してイザヤが「何と呼ばわりましょう」と答えたら、次のような声があったことです。
「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
すべての人は草のようであるということです。また、花のようでもあるということです。草のようであるというのは枯れるということ、また、花のようであるというのはしぼむということです。朝に生え出でて栄えたかと思ったら、夕べにはしおれて枯れてしまいます。人はみなこの草や花のようだというのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って鏡をよく見てください。よく見ると、いつの間にか白髪が増えたなぁとか、しみやしわが増えたなぁと気づくと思います。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきた。あたんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせてきた、しぼんできたということに気づきます。だれだれさんはどこどこの大学を出て、教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、70年か80年で私たちの人生は終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。
祗園精舎の鐘の声、(ぎおんしょうじゃのかねのこえ)、 諸行無常の響きあり(しょぎょうむじょうのひびきあり)。 娑羅双樹の花の色、(しゃらそうじゅのはなのいろ)、 盛者必衰の理をあらは(わ)す。(じょうしゃひっすいのことわりをあらわす)。 おごれる人も久しからず、(おごれるひともひさしからず) 唯春の夜の夢のごとし。(ただはるのよのゆめのごとし) たけき者も遂にはほろびぬ、(たけきものもついにはほろびぬ) 偏に風の前の塵に同じ。(ひとえにかぜのまえのちりにおなじ)
祇園精舎の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。そう詠ったのです。実に人間は虚しい存在なのです。
こんなこと言われて全然慰めになりません、という人もいるかもしれませんが、実はこれが慰めなのです。この現実をしっかりと見つめ、それを額面通り受け止めるなら、それが慰めになるのです。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれません。決して受け入れたくないでしょう。しかし、これが事実なのです。事実を事実として受け止められれば慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだ。いつまでも咲き誇っているわけではない。しぼんでいきます。やがて死んでいくのです。それは明日かもしれない。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれません。人生はそんなに長くありません。草花のようにすぐにしぼんでいく者なのです。その事実を受け入れて、その先にあるものを希望として生きていくなら、慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、その人は慰めを受けることができるのです。
多くの人たちは草や花であるのに、いつまでもゴージャスな花を咲かせようと躍起になっています。健康を保とうと、美しさを保とうとあれやこれやとやって疲れ果てています。しかし、このことを受け止めることができれば、もうこの一時的な地上のために躍起にならなくてもよくなります。そんなに時間やお金や労力をかけなくてもいいのです。もちろん、健康を管理することは大切なことです。美に関心を払わないで汚い格好をして一日過ごせと言っているのではありません。そういうことに気を配ることも大切なことですが、そうした目に見えるものばかりに気がとらわれていると、まるでそこにすべてのものがあるかのように思い込んでいると、慰められなくなってしまうのです。
皆さんは、「エントロピーの法則」というのを聞かれたことがあるでしょうか。これは熱力学の第二の法則という宇宙の法則のことです。これは簡単にいうと、形あるものは崩れるというものです。これはこの宇宙には始まりがあったことを示唆しています。始まりがあってすべてが劣化していく、退化していくというものです。これは物理がわからなくてもだれにでもわかることです。形あるものはやがて崩れていきます。新しい車もいつまでも新しいままではありません。やがて中古車になります。新築した家もやがて古びていきます。これは避けられない事実なのです。これをエントロピーの法則というのですが、進化論を否定する時に用いられる法則でもあります。進化論はこのエントロピーの法則に反しています。なぜなら退化するのではなく進化すると考えているからです。しかし、すべてものは進化するのではなく退化するのです。
詩篇102篇25節から28節を開いてみましょう。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」
これらのものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美も、失われる時がやってくるのです。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生のすべてをかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないのです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがありません。この方に信頼すれば慰められるのです。
イザヤ書で言われていることはこのことです。8節をお読みします。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」皆さん、神のことばは永遠に立つのです。これこそ信頼するのに値するものです。これを見つめ、これに生きるなら、あなたは決して失望することはないのです。
主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)これはいつまでも変わらない神の約束のことばです。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなったとしても、神は約束をたがえることはなさいません。その語られたことばの通りに、あなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはないのではないでしょうか。
パウロはこう言いました。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちの魂は天の御国で永遠に生き続けます。しかもイエス・キリストが再び来られる時には永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえり、いつまでも主とともにいるようになるのてす。これが慰めのことばです。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられています。その御霊によって私たちは、やがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができるのです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです(同4:16-17)。
慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして、目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わらない神の約束のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいのです。これが真の慰めのメッセージなのです。